「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「河内史跡巡り」壺井寺・河内西国観音七番札所・平安時代法禅寺

2017-09-11 11:11:49 | 温故知新
「河内史跡巡り」壺井寺・河内西国観音七番札所・平安時代法禅寺という立派な寺院が建立されていたのが、兵乱のため堂塔すべてを焼失、その後に再建されたのがこの壺井寺です。いまの本堂は明治二十年に再建されたのですが、これは、布忍の大林寺近くにあった永興寺の建物が当寺に運ばれ、そのまま移築されたものと伝えられています。永興寺はもとの名を布忍寺といい、七堂伽藍の大寺だったのですが、兵火にかかるなどして衰退、明治六年に廃寺となりました。現在、壺井寺本堂は、その永興寺の名残をとどめる建造物としては唯一のものです。また本堂としては珍しく寄せ棟造りで、そのことからもともとは観音堂であったと考えられています。さらにその中にかつて祀られていたのが、いま大林寺に安置されている十一面観音像だということです。当寺にはまた、避雷観音と称される本体一九・九センチの小さな聖観世音菩薩立像が、白鳳時代の貴重な銅像として、本堂の厨子に大切に祀られています。
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「奈良古社寺巡り」、氷室神社・祭神・闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命

2017-09-11 10:30:20 | 温故知新

「奈良古社寺巡り」、氷室神社・祭神・闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命
奈良県奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される[2]。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩根社)、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。春日造の一ノ鳥居が、登大路に面する[2]。鳥居を入ると両側に石灯籠が立ち並び、右手に手水舎、左手に境内社の祓戸社がある[。右手の石灯籠、手水舎の背後には、鏡池と枝垂れ桜がある。正面石段を登ると表門(四脚門)と東西廊がある。
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「近畿三十六不動巡り」聖護院・京都府京都市左京区聖護院中

2017-09-11 10:28:06 | 温故知新
「近畿三十六不動巡り」聖護院・京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山の寺院。聖護院門跡とも称する。山号はなし。開基は増誉、本尊は不動明王である。日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。明治五年(1872年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、昭和二十一年(1946年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。明治まで三十七代を数える門主のうち、二十五代は皇室より、十二代は摂家より門跡となった。江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝四年(1676年)に、現在の場所に戻った。

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『江戸泰平の群像』27・井上 政重

2017-09-11 10:25:40 | 温故知新
『江戸泰平の群像』27・井上 政重(いのうえ まさしげ)(1585~1661)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。下総国高岡藩初代藩主。江戸幕府大目付。天正13年(1585年)、徳川家康の家臣・井上清秀の四男として遠江国で生まれる。寛永4年(1627年)12月29日、従五位下・筑後守に叙任。同9年(1632年)12月17日、江戸幕府の大目付(当時は総目付という名称)となる。幕府のキリシタン禁教政策の中心人物であったが、自身も元キリシタンであったとされる。下屋敷が文京区小日向にあり、キリシタンを幽閉する施設として使用された。脇に切支丹坂と呼ばれる坂が残る。寛永15年(1638年)に起きた島原の乱には上使として九州に赴いた。寛永17年(1640年)6月12日、1万石を領し大名に列し下総高岡藩の藩祖となる。同20年(1643年)5月23日、3千石を加えられる。正保元年(1644年)12月16日、大目付として宮城和甫と共に、諸大名に正保国絵図・正保郷帳の作成を命じた。万治元年(1658年)閏12月8日、職を辞す。嫡男・政次は早世したため、政次の嫡男である政清に万治3年(1660年)7月9日、家督を譲って隠居し幽山と号した。万治4年(1661年)2月27日、死去。享年77。

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「平安京物語」54“後三年の役”「前九年の役」が沈静

2017-09-11 10:20:14 | 温故知新
「平安京物語」54“後三年の役”「前九年の役」が沈静してから二十一年ご陸奥では再び不穏な動きが現れたのが永保三年(1083)の「後三年の役」である。
前九年の役も、後三年の役も紛争は複雑な人間関係から成り立ち主従と氏族内の関係に官職の任命と複雑に状況が変わる。出羽国の清原氏に対して、陸奥国の安倍氏の巨大な豪族の勢力図、後三年の役の変動を要約すれば清原氏嫡流真衡の養子成衡の婚儀に際し、真衡の傲慢な態度に激高した一族の吉彦秀武が挙兵した。これに異母弟家衡、家衡の異父兄の藤原清衡の親族が呼応した。背景は嫡流に地位強化にあって、一族の不満を買ったらしい。
家衡については前九年の変の後で武貞は安倍一門の藤原経清(敗戦後処刑)の妻を自らの妻としていた。この女の連れ子が武貞の養子となって清原清衡を名乗った。その後武貞と女との間に家衡が生まれた。この家衡こそ清原氏と安倍氏の惣領の血を引いた家衡である。
武貞の死後、清原氏の惣領を継いだのは真衡であったが継嗣に恵まれなかった。そこで真衡は海道小太郎(一説に平繁盛の子安忠)なる人物を養子に迎えた。これが成衡である。
ここに清原氏は桓武平家と縁戚関係を結んだことになった。
更に真衡は源氏との関係の構築を目論み永保三年(1083)常陸国から源頼義の娘の女性を迎えて成衡の嫁とした。この出自に関して頼義平国香の流れの平宗基の娘と一夜を共にして生まれた娘とされ、清原氏にとって常陸平氏、河内源氏の惣領の血を引く系統が生まれたことになる。一方、これに対して家衡は清原氏、安倍氏の血を引く家衡は清原氏から一歩嫡流から外れることになった。そんな折に起きた聖衡の婚礼で清原氏の長老的存在の吉彦秀武に祝いの席での無礼で婚礼の席に砂金をぶち撒いて帰ってしまった。これに怒った真衡は吉彦に軍を差し向けた。
一方吉彦は同じく真衡と不仲であった家衡に密使を送って連携することを申し入れ、これを知った真衡は戦いを起こし家均と藤原清衡討とうとした。二人は一旦戦いを避け退却し本拠地に帰って行った。真衡は戦わずして退却させたのに勢いに乗って吉彦を討つ用意の最中、源頼義の嫡男が源義家が陸奥守を拝命し赴任し歓迎の宴席で争いは中断した。
その後好機を見ては家衡と清衡は出羽に攻め入ったが、その内陸奥守の源義家が真衡に加勢したために、家衡、清衡は降伏をした。
しかし真衡が移動中に急死したために、その後は義家二人に真衡の所領、奥六郷を三郡づつ分け与えた。所がその配分を不服として家衡は清衡の館を攻めて妻子一族は殺され清衡は生き延びた。再び清衡は義家に救援を求め対抗した。
清衡と義家軍は家衡に攻め入ってこれを破った。
この陸奥での清原氏、安倍氏両氏入り乱れた戦いで、最後に勝利したのは清衡であった。
この戦い後清衡は旧清原氏の領地をすべて手に入れることになって、清衡は実父である藤原経清に復し奥州藤原氏となり、清原氏は消滅をした。
★清原家衡(?~1087)陸奥の武将、武貞の子、母は安倍頼時の女、四郎と称した。木原氏の同族争いに端を発した後三年の役では、当初異父兄の清衡と結び、真衡(さねひら)の病死後は、陸奥守義家の支援を受けて清衡と戦った。出羽国の沼柵の戦いで勝利を収めたが、その後叔父武衡の援助で金沢柵に戦い翌年攻略され斬殺された。
★源義家(1039~1106)河内源氏。父は頼義、母は平直方の女、石清水八幡で元服し、八幡太郎と号す。前九年の役で父頼義に従って参戦し、乱の平定の功のよって出羽守になる、後三年の役に介入。義家の調停に反抗した豪族清原家衡・武衡を討ち清衡を助けたが、朝廷の停戦命令に従わず、この合戦は私的な戦いと見なされ恩賞もなかった。その後摂関家に近従したが弟の義綱と対立した反面比叡山の悪僧の取締に活躍した。嫡男義(よし)視(ちか)が九州で乱行で不祥事の最中死去した。
★藤原清衡(1056~1128)陸奥の武将、奥州藤原氏初代。父は陸奥権守藤原経(つね)清(きよ)、母は奥六郡の俘囚長安倍頼時の女。前九年の役で父は殺され、母は清原武貞に再婚をしたために、清原一族として成長した。後三年の役で真衡・家衡(異父母兄弟)が死んだ結果、清原一族の唯一の後継者になり、奥六郡・山北三郡を領有。その後「俘囚之上頭」の地位に付き南奥州にも勢力を伸ばし,白河院や摂関家と結び本姓藤原に改姓をした。
★清原真衡(?~1083)陸奥の武将、武貞の子、父と同様出羽国の奥六郡に勢力を拡大
し清原氏の最盛期を迎える。しかし独裁支配を行なった為に弟の清衡・家衡らの同属の反発を受けて、後三年の役では真衡側には不利だった。義家の支援を受けるが陣中で病死をした。
※陸奥地方の覇権(はけん)を廻り、複雑な家督争いに、俘囚の民の中に土着をした清原氏、安倍氏は平氏、源氏の血脈を我氏族に入れ込まんとして、その威光と正統性を主張する手法に、家督争いに奔走(ほんそう)して来たが、都より源義家の陸奥守の軍門に下ったが、その陸奥を平定した源義家も京の朝廷からはその功を認められず、単なる私戦と決めつけられ再三の論功(ろんこう)行賞(こうしょう)は得られず、受領功過定は退けられた。また新たな官職にもつけず、その後十年間に渡って受領功過定を請求し続けた。結果、坂東から参集した武士たちには私有財から払わなければならず、これが返って河内源氏の鎌倉幕府への基盤作りの基礎を成したと言う。この清衡の勝利によって奥州藤原の基礎が築かれた。

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『歴史の時々変遷』(全361回)288“赤穂事件”

2017-09-11 10:11:52 | 温故知新
『歴史の時々変遷』(全361回)288“赤穂事件”
「赤穂事件」、元禄14年3月14日(1701年)の江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。18世紀初頭の江戸時代元禄期に起きた事件で、江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介に斬りつけたとして切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭に代わり、家臣の大石内蔵助以下47人が吉良を討ったものである。この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある[1]。本事件を元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)と呼ぶ本もあるが[2]、専門家の書いた本では全て「赤穂事件」で統一されているので、本稿では「赤穂事件」と表記する。また赤穂事件を扱った創作物では、前述のように本事件を忠臣蔵と呼ぶ事が多いが、講談では本事件を赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである。(ただし先行作にも使用例あり)。このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある[6]。この事件は元禄14年3月14日 (旧暦) 、浅野内匠頭が、江戸城松之大廊下で、吉良上野介に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は、何らかの「遺恨」が原因との事だが詳細は不明である。事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は激怒。幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じた。それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったためこの事件は「喧嘩」として扱われず、吉良には咎めがなかったのである。しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[8]。一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった[9] 。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開いている(江戸会議、山科会議)。しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた (神文返し)。その後、大石は宣言通り江戸に下り(大石東下り)、吉良を討ち取る為に深川で会議を開いた(深川会議)。そして元禄15年12月14日 (旧暦) 、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている。寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。赤穂事件が起こるとその是非をめぐって儒学者たちの間で論争が巻き起こった。主な論点は赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事で、これは浪士達の吉良邸討ち入りが主君の為の「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている。この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為、これが問題になったのである。この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり、論争は幕末まで続いた。主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った赤穂浪士四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった武士道を彼らが体現したからである。赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が歌舞伎、人形浄瑠璃、講談、戯作などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は忠臣蔵ものと呼ばれる事になる。事件の発端となる、松之大廊下の刃傷を説明するために、まずそれまでの経緯を説明する。江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家であった。吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた。一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。朝廷からの使者には天皇の使者である勅使と上皇の使者である院使がいるのだが、事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである。朝廷からの使者達は3月11日に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。事件は、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こった。3月14日巳の下刻(午前11時半過ぎ)、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う)で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるとされるが詳細は不明である。 切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)である。吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上[17]を傷つけた。小さ刀は吉良の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた。 そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた。すぐさま、浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、柳之の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた。吉良の傷は外科の第一人者である栗崎道有により数針縫いあわせられている。浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下の陸奥一関藩主田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。浅野を乗せた駕籠は江戸城の平[から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた。なお以上で述べた刃傷事件の概要は主に『梶川与惣兵衛筆記』によっているが、『多門伝八郎覚書』の記述とは様々な差異がある。しかし『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明しているので、基本的には『梶川与惣兵衛筆記』を信じるべきで『多門伝八郎覚書』に依存する場合は充分な史料批判が必要である。刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった。浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう。万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた。当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした。切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎 ・大久保権左衛門であり、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた。 遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された。浅野内匠頭の正室の阿久里は、浅野の切腹を受けて3月14日夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め、翌15日明け方に麻布今井町の屋敷に移った。一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。

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