「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「西国観音巡り」観音正寺・滋賀県近江八幡市安土町石寺にある仏教寺院。本尊は千手観音

2016-12-18 05:10:09 | 西国観音三十三所巡り
。西国三十三所第32番札所である。琵琶湖の東岸、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂近くに位置する。伝承によれば、推古天皇13年(605年)、聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるという。聖徳太子はこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより一寺を建立したという。その人魚は、前世が漁師であり、殺生を業としていたために人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。寺にはその人魚のミイラと称するものが伝えられていたが、平成5年(1993年)火災で焼失した。実際に創建時期については不明であるが、少なくても11世紀(平安時代)には既に存在していた。また、元弘3年(1333年)に足利高氏(後の尊氏)に攻められた六波羅探題北条仲時が後伏見・花園両院及び光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に両院や天皇の宿舎に充てられたとする伝承がある。観音正寺が位置する繖山には、室町時代以来近江国南半部を支配した佐々木六角氏の居城である観音寺城があり、寺は佐々木六角氏の庇護を得て栄えた。戦国時代中期に六角氏によって観音寺城が改修された際に、観音正寺は山麓に移転させられたとする説がある。観音寺城は永禄11年(1568年)、織田信長の軍勢に攻められて落城。数年後には佐々木六角氏所縁の観音正寺も焼き討ちに遭い、全焼した。再興されたのは慶長年間(1596年 - 1615年)のことである。観音正寺の本堂は平成5年(1993年)に失火で焼失した。交通の不便な山中にある寺院のため、消火活動もままならず、重要文化財に指定されていた本尊千手観音立像も焼失した。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものである。新たに造立された本尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。旧本尊が1メートル足らずの立像であったのに対し、像高3.56メートル、光背を含めた総高6.3メートルの巨大な坐像である。像はインドから輸入した23トンもの白檀を素材に作られている。白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺の住職が、20数回インドを訪れ、たび重なる交渉の後、特例措置として日本への輸出が認められたものであるという。  
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『西国観音回り」華厳寺・岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。

2016-12-17 05:03:46 | 西国観音三十三所巡り
『西国観音回り」華厳寺・岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山(たにぐみさん)。 本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。 西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院で桜、紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である『寺門高僧記』所収の「行尊伝」及び「覚忠伝」では、第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である[1]。建武元年 1334年足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。江戸時代には薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀上人によって再興された。仁王門 - 宝暦年間に再建・本堂 - 1879年本尊は十一面観世音菩薩、脇侍として不動明王像と毘沙門天像。堂内右手に納経所、地下に「戒壇巡り」があり、正面向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」と称する、笈摺堂 - 本堂背後にある小堂。当寺には花山法皇が禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したとされる。満願堂 - 本堂から裏手に進み、笈摺堂、子安観音堂を出て、階段を三十三段上った先に建つ堂。本尊は十一面観世音菩薩。周囲には「満願」の文字の刻まれた狸の石造が並ぶ。巡礼者はここで納め札を納める。
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「西国観音三十三所巡り」青岸渡寺”西国1番札所“和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。西国三十三所第一番札所。

2016-10-12 04:14:36 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」青岸渡寺”西国1番札所“和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。西国三十三所第一番札所。山号は那智山。本尊は如意輪観世音菩薩。本堂および宝篋印塔は国の重要文化財。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年平成十六年七月登録)の一部。熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社についても創建の時期等については判然としない。伝承では仁徳天皇の時代(四世紀)、天竺(インド)から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。後に推古天皇の勅願寺となり、六世紀末 – 七世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたという。以上はあくまでも伝承であるが、那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われる。中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社とともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点であった。明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の二つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興した。寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「西国観音三十三所巡り」粉河寺“西国3番札所”・天台宗系の粉河観音宗総本山の粉河寺は西国観音三番札所、本尊は千所観音菩薩

2016-10-11 04:09:23 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」粉河寺“西国3番札所”・天台宗系の粉河観音宗総本山の粉河寺は西国観音三番札所、本尊は千所観音菩薩。伝承によれば宝亀元年(770)大伴孔子古によるとされている。「粉河縁起」には二つの説があって一つ目は千手観音の由来する紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を結んだ。それが粉河寺の始まりと云う説とある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねてきて、今晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、七日かけて千手観音菩薩を刻んだ。八日目に孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は猟師の仕事を辞め殺生をやめて観音を信仰するようになった。二つ目は千手観音の霊験説話で、河内国の長者左大夫の娘は重い病で明日をも知れない命、そこの現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷した所、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと差し出した財宝に童行者は受け取らず、娘の小太刀の紐だけ受け取り「私は紀伊国那賀郡に居ります」言って立ち去った。長者が那賀郡に尋ね小さな庵に千手観音像と娘の小太刀の紐だけが残され、長者は観音の化身と知ってその場で出家し、孔子古と共に粉河寺を祀り繁栄をさせた。この説話に拠ってか平安時代には朝廷や貴族の信仰の加護で大いに栄えたという。天正時代には豊臣秀吉の根来攻めで、あおりを受けて全山伽藍の全てが焼失した。その後江戸時代になって再建された。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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「西国観音三十三所巡り」頂法寺”(六角堂)西国一八番札所“京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院

2016-10-10 04:03:31 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」頂法寺”(六角堂)西国一八番札所“京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。正式の寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。これらの縁起が伝える創建伝承は大略以下のとおりである。敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。天治二年(1125年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、明治十年(1877年)に再建されたものである。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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「西国観音三十三所巡り」長命寺・滋賀県近江八幡市にある寺院。山号は姨綺耶山。西国三十三所第三十一番札所。天台宗系単立。

2016-10-09 04:09:34 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」長命寺・滋賀県近江八幡市にある寺院。山号は姨綺耶山。西国三十三所第三十一番札所。天台宗系単立。聖徳太子の開基と伝える。琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る八〇〇段余の長い階段で知られる。伝承によれば、第十二代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は三百歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)「奥島庄司土師宿禰助正解文」という文書である。長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正十三年(1516年)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。長命寺山の麓の船着場は安土への水路(長命寺川)の入口にもあたり、交通の要衝でもあった。長命寺本堂へは、湖岸から「八百八段」と呼ばれる石段の参道があり、登りには約二十分を要するが、現在は本堂近くまで自動車道も整備されている。石段下の右には穀屋寺、左には日吉神社がある。穀屋寺は、かつて寺領から上がる米を納めたところである。石段途中に冠木門があるのみで、山門はない。石段の途中左手に妙覚院と真静院、さらに上ると右手に禅林院、金乗院があるが、元禄五年(1692年)の記録によると、当時は上述の四か院を含め十九の子院が存在した[2]。石段を登りきったところが本堂の縁下である。南に面した境内には本堂のほか、右方に三重塔と護摩堂、左方に三仏堂、護法権現社、鐘楼、やや離れて太郎坊権現社がある。主要堂宇は屋根を瓦葺きでなく檜皮葺きまたはこけら葺きとしており、独特の境内風景を形成している。本堂裏の「六所権現影向石」をはじめ、境内各所に巨岩が露出しており、かつての巨石信仰の名残と考えられている。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる
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「西国観音三十三所巡り」善峯寺・“京都府京都市西京区大原野にある寺院。山号は西山。西国三十三所第二十番札所。善

2016-10-08 04:06:46 | 西国観音三十三所巡り

「西国観音三十三所巡り」善峯寺・“京都府京都市西京区大原野にある寺院。山号は西山。西国三十三所第二十番札所。善峰観音宗。桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、比叡山を一望できる。寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元二年(1029年)、源信の弟子にあたる源算が創建したという。その後、長元七年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。境内は京都市域の西南端近く、釈迦岳の支峰の善峯に位置し、山腹一帯に多くの堂宇が建つ。バス停留所から山道を数分登ったところに山門が東向きに建ち、石段を上った正面に観音堂(本堂)が建つ。山門、観音堂は元禄五年(1692年)、山内最古の建物である多宝塔は元和七年(1621年)の建立。他の諸堂宇も大部分は江戸時代、桂昌院の援助で整備されたものである。観音堂の左手には寺宝館文殊堂が建つ。観音堂右手の石段を上った一画には鐘楼、護摩堂、経堂、多宝塔(重要文化財)、開山堂、遊龍の松(天然記念物)、桂昌院廟、十三仏堂などがある。そこからさらに上ったところに釈迦堂、阿弥陀堂があり、境内のもっとも奥には薬師堂(奥の院)、青蓮院宮廟などがある。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「西国観音三十三所巡り」穴太寺・”西国21番札所“亀山市は摂丹街道の、のどかな田園風景の中に、古風で重厚な伽藍が突如視界に入る。

2016-10-07 04:15:23 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」穴太寺・”西国21番札所“亀山市は摂丹街道の、のどかな田園風景の中に、古風で重厚な伽藍が突如視界に入る。丹波路の古刹「穴太寺」で西国三十三カ所二十一番札所である。正式は菩提山穴太寺である、地域のひとびとからは「あなおさん」と親しまれ、文武天皇の勅願で左大弁は大伴古麻呂が本尊薬師如来を安置して創建された。札所の本尊は聖観音菩薩である。この聖観音像は応和二年(962)丹波国郡司宇治宮成が京都の仏師に造らせたが、その像を廻る不思議な説話集「今昔物語集」が由縁を伝えている。宮成は仏師に観音像の出来の良さに大切にしていた名馬を与えたが、その名馬が惜しくなり家臣に命じ仏師を矢で射って殺させた。帰った宮成は、観音像の胸に矢が突きさって射るのを見て京都の仏師に使いを向け確かめると、仏師も馬も無事だった。宮成は改心、後日夢枕に観音が立ち、「傷の治癒をするため穴太寺の薬師如来に連れて行け」のお告げに穴太寺に治めたと言う。その伽藍も応仁の乱で戦禍に逢い焼失、再建後も明智光秀の丹波平定に焼失した。今日の荘厳な伽藍は江戸期の再建によるものである。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「西国観音三十三所巡り」勝尾寺・西国23番札所“大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院。西国三十三所の第二十三番札所。開山は開成、本尊は十一面千手観世音菩薩

2016-10-06 04:15:00 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」勝尾寺・西国23番札所“大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院。西国三十三所の第二十三番札所。開山は開成、本尊は十一面千手観世音菩薩である。伝承によれば、勝尾寺の草創経緯は次のとおりである。神亀四年(727年)、 藤原致房の子の善仲、善算の兄弟はこの地に草庵を築き、仏道修行に励んでいた。それから約四十年後の天平神護元年(765年)、光仁天皇の皇子である開成が二人に師事して仏門に入った。宝亀八年(777年)、開成は念願であった大般若経六百巻の書写を終え、勝尾寺の前身である弥勒寺を創建した。そして、数年後の宝亀十一年(780年)、妙観が本尊の十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝えられる。開成の僧としての事績については正史に記載がなく不明な点も多いが、北摂地域の山間部には当寺以外にも高槻市の神峯山寺など、開成の開基または中興とされる寺院が点在している。勝尾寺は平安時代以降、山岳信仰の拠点として栄え、天皇など貴人の参詣も多かった。元慶四年(880年)、当時の住職行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、「勝王寺」の寺号を賜るが、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたという。『日本三代実録』は、元慶四年、清和天皇死去についての記事で、同天皇が「勝尾山」に参詣したことを述べており、これが勝尾寺の文献上の初見である。元暦元年(1184年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一ノ谷の戦いのあおりで焼失。文治四年(1188年)、源頼朝の命により、熊谷直実・梶原景時によって再建された。承元四年(1210年)には晩年の、讃岐国流罪から戻った法然が当寺に滞在している。
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「西国観音三十三所巡り」播州清水寺・西国10番札所“兵庫県加東市平木・本尊十一面観音菩薩・西国二十五番札所・創建は推古三十五年

2016-10-05 04:18:57 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」播州清水寺・西国10番札所“兵庫県加東市平木・本尊十一面観音菩薩・西国二十五番札所・創建は推古三十五年(627)推古天皇の勅願によってインド僧の法道仙人が根本中道を建立、上人自ら一刀三礼として刻んだ秘仏十一面観音と脇侍の毘沙門天、吉祥天の像を安置し、鎮護国家と豊作を祈願した。その後、行基がこの地を訪れ、聖武天皇の命により緒尊を刻み、大講堂を建立して刻み安置した。寛治五年(1091)平清盛の母祇園女御が当寺に帰依し、観音霊像に帰依して大宝塔を建立し、次いで後白河法皇が常夜灯を池ノ二位は薬師堂を、頼朝は阿弥陀堂を寄進、建立をしたという。寺名については法道は標高552Mの御岳山山頂にあって水の確保に苦労したために、法道が水神に祈りを捧げた所、霊水が湧き出したと言う。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「西国観音三十三所巡り」西国観音札所第四番札所、施福寺は金剛葛城山系の槙尾山(約500M)の山頂近くにあって、西国観音巡拝で難所の所

2016-10-04 04:17:26 | 西国観音三十三所巡り

「西国観音三十三所巡り」西国観音札所第四番札所、施福寺は金剛葛城山系の槙尾山(約500M)の山頂近くにあって、西国観音巡拝で難所の所、駐車場から寺院まで四,五キロはあるのでは、健脚でも三〇分は掛かり、四十五分で施福寺に辿り着けた。施福寺は天台宗、本尊は十一面千手観音菩薩、この寺院の創建は古くは葛城修験系の寺院として創建、欽明天皇時代に播磨国加古郡の行満上人が創建したと伝えられる。千手観音についてこのような説話が残されている。宝亀二年(771)槙尾山寺に住んでいた摂津国の僧、法海のもとに、風体の悪い修行僧が現れ、夏の期間だけ、この寺で過ごさせてくれと頼んだ。その修行僧は熱心に行に励んだ。やがて辞去する際に。客僧は帰りの旅費を乞うた、それは寺僧は断った。客僧は怒りだし「この寺にはこの寺は見かけばかりで真の修行者はいない。やがて滅ぶだろう」と言って去った。驚いた寺僧は後を追って行くと、遥か海上を沈みもせず歩く修行僧を見て、観音の化身と知って千手観音菩薩を刻んだという。その他役行者・行基・空海、などの伝説が残されている。南北朝時代には戦火を受け衰退したが德川家の援助で復興がなされた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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「西国観音三十三所巡り」松尾寺・京都府舞鶴市にある真言宗醍醐派の寺院。西国三十三所第29番札所

2016-10-03 04:07:11 | 西国観音三十三所巡り

「西国観音三十三所巡り」松尾寺・京都府舞鶴市にある真言宗醍醐派の寺院。西国三十三所第29番札所。舞鶴市と福井県大飯郡高浜町との境にある青葉山の山腹に位置する。毎年5月8日に行われる仏舞は有名。本尊は馬頭観世音菩薩坐像。寺伝によれば、中国から渡来した威光上人が慶雲五年(708年)ここに草庵を結び馬頭観音像を安置したのが創始とされている。本尊馬頭観音坐像は秘仏である。西国巡礼の中興の祖とされる花山法皇の一千年忌を記念し、2008年から2010年にかけて西国三十三所の全札所寺院において「結縁開帳」が行われた。松尾寺本尊の「結縁開帳」は2008年10月1日から2009年10月23日まで行われたが、これは前回の開帳(1931年)以来、77年ぶりのことであった。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「西国観音三十三所巡り」書写山圓教寺”西国27番札所“姫路市書写2963・山麓からロープウエイで標高371M山上に上がると荘厳な伽藍が見える。

2016-10-01 04:08:19 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」書写山圓教寺”西国27番札所“姫路市書写2963・山麓からロープウエイで標高371M山上に上がると荘厳な伽藍が見える。比叡山延暦寺・鳥取は大山寺と共に「天台宗三大道場」と言われ「西の比叡山」と並び称されるのが書写山圓教寺である。開山は性空上人が弟子に命じて、崖に生えていた桜の霊木に如意輪観音像を刻み、それを本尊として建てた摩尼殿が本堂である。更に奥に進むと円教寺の伽藍の中心地である「三之堂」、「大講堂」「食堂」「常行堂」の伽藍がコの字型に配置されている。何れも室町時代の建造物で国の重文、山岳信仰の聖地ならでのたたずまいである。性空がこの山に入山したのは、西暦966年とされ山深い書写山のやって来て庵を結び、一途に「法華経」を読誦して修行を重ねた。やがてその名声は都の花山法王に届き、深く性空に帰依した法王は「圓教寺」の称号を与えた。また勅願寺の待遇を得て大いに寺勢は拡大し栄えて行った。また武蔵坊弁慶もこの地に参集した所縁の地でもある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。
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「西国観音三十三所巡り」一乗寺”西国二十六番札所“兵庫県加西市にある天台宗の寺院。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩

2016-09-30 04:20:35 | 西国観音三十三所巡り
「西国観音三十三所巡り」一乗寺”西国二十六番札所“兵庫県加西市にある天台宗の寺院。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩である。寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基は法道仙人とされる。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔である。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。一乗寺の開基とされる法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀~8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである。創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っているが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されている。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永五年(1628年)に建てられたものである。山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆が立つ。その左方には宝物館と本坊の地蔵院がある。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まったところに見子大明神の社がある。境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)がある。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つ。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登ったところに法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つ。

※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

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「西国観音三十三所巡り」宝厳寺”西国33番札所“・滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。

2016-09-29 04:18:12 | 西国観音三十三所巡り

「西国観音三十三所巡り」宝厳寺”西国33番札所“・滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。山号を巌金山(がんこんさん)と称する。本尊は弁才天(観音堂本尊は千手観音)、開基は行基とされる。西国三十三所観音霊場の第三十番札所である。観音霊場であるとともに、弁才天信仰の聖地でもあり、日本三大弁才天の1つにも数えられている。琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島に位置する。竹生島は周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルほどの小島で、島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている。島には宝厳寺と都久夫須麻神社の他にはみやげ物店が数軒あるだけで、文字通り信仰の島である。現在は宝厳寺と都久夫須麻神社という「寺」と「神社」に分かれているが、このように区別されるようになったのは、明治時代初期の神仏分離令以降のことであり、竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として都久夫須麻神社の名があり、祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。浅井姫命は、浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神ともいわれるが、平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになったようである。近世には宝厳寺は観音と弁才天の霊場として栄える一方で、都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化し、寺と神社の区別はなくなっていた。宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。行基は出身地の河内国を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平十年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。当初は本業寺(ほんごうじ)、のちに竹生島大神宮寺と称し[1]、東大寺の支配下にあったが、平安時代前期、10世紀頃から近江国の他の多くの寺院同様、比叡山延暦寺の傘下に入り、天台寺院となった。以降、島は天台宗の僧の修行の場となった。また、平安時代末期頃からは観音と弁才天信仰の島として栄えた。中世以降、貞永元年(1232年)、享徳3年(1454年)、永禄元年(1558年)などに大火があったが、その都度復興している。永禄元年の大火後、慶長7年-8年(1602-1603年)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて伽藍を復興している。この際復興されたのが唐門、渡廊、観音堂、ならびに弁才天社(現・都久夫須麻神社本殿)である。唐門は豊国廟(京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟)の唐門(極楽門ともいい、元は大坂城の極楽橋の唐破風造部分であった可能性が指摘されている)を移築したものであり、都久夫須麻神社本殿は豊国廟あるいは伏見城の日暮御殿を移築したものとされる。明治の神仏分離の際、時の政府は弁才天社を平安時代の『延喜式』に見える「都久夫須麻神社」という社名に変更することを強要し、仏教寺院としての宝厳寺は廃寺の危機を迎えるが、寺側は、弁才天は仏教の仏であると主張して譲らなかった。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。
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