「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)139“足利義持” 足利義持(1386~1428)室町幕府4代将軍。

2016-12-21 04:27:34 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)139“足利義持”
足利義持(1386~1428)室町幕府4代将軍。応永元年(1394)から19年間在職。父は3代将軍義満。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。六代将軍義教の同母兄。1394年に将軍となるが、実権は依然として父義満が掌握していた上に、義満が、義持の同母弟義嗣を溺愛した為に、その地位も危うかった。1408年義満が死去すると、幕府はこれまでの北山第から新たな三条坊門第に移し、朝廷から義満に送られた太上天皇の尊称を辞退したうえ、朝貢形式を屈辱的として明との勘合貿易を中断した。また、関東管領上杉禅秀の乱に加担したのを理由に義嗣を殺すなど、義持の政治は義満の否定に始まったと言える。その一方で義持政権期は管領斯波義将、畠山満家らの補佐を得て室町時代で最も安定した時期でもあった。1423年、将軍職を子の義量に譲り、出家したが、義量が2年後に死ぬと、その後も政務を担当した。晩年は護持僧満済を政治顧問とした。
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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)115“光厳天皇” 光厳天皇(1313~1364)鎌倉末期天皇。元徳三年(1331)

2016-11-28 04:24:18 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)115“光厳天皇”
光厳天皇(1313~1364)鎌倉末期天皇。元徳三年(1331)から二年間在位。名は量仁。父は後伏見天皇、母は広義門院寧子。嘉暦元年(1326)立太子。1331年討幕の為に京都を脱出した後醍醐天皇に代わって、鎌倉幕府の要請によって践祚。幕府滅亡後は後醍醐天皇によっては廃された。しかし、建武親政に離反した足利尊氏の求めに応じて、1336年朝敵の名を免れるために院宣を与え、同年足利尊氏は入京すると弟の光明天皇を践祚させて院政を開始した。これが南北朝両朝分立の端緒となった。光厳院政は子の崇光天皇の即位後も継続された。正平一統によって崇光天皇は廃止され、院政は停止。その後、光厳院は光明・崇光院らと共に南朝に拉致され、河内東条。大和賀名生、河内金剛寺を転々とした。この間賀名生で出家。1357年に京に帰り、崇光流の所領の維持を命じたのち、丹波国山国荘し、同所で死去した。★史跡が教える先人の葛藤と情景に学ぶ教訓。
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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)114“阿野廉子” 阿野廉子(1301~1359)後醍醐天皇の寵愛の女房

2016-11-27 04:55:32 | 鎌倉室町の群像

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)114“阿野廉子”
阿野廉子(1301~1359)後醍醐天皇の寵愛の女房。後村上天皇、祥子・惟子・皇太子となった恒良・成良親王両親王の3男2女の生母。女房号は新待賢門院。阿野公康の女。中宮禧子の内侍で後醍醐天皇の寵愛を受ける。元弘元年(1331)従三位に叙せられ、後醍醐の乳母の夫、洞院公賢の養女となり、その後見を得ている。後醍醐の隠岐流罪には、廉子と二人の女房と近臣二人が共にした。建武新政権で廉子の地位は高く、第一の護良親王に次ぐ恩賞が与えられた。「太平記」や北畠顕家の諫奏にも、廉子を的として女房の内奏の害と言われている。卓越した政治的手腕発揮。後醍醐の亡き後南朝の支柱となって、所領安堵など具体的施策を行った。「新葉和歌集」などの和歌がある。墓所は河内の観心寺にある。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)113”賢俊“ 賢俊(1299~1357)南北朝時代の真言僧。権大納言の日野俊光の子

2016-11-26 04:24:10 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)113”賢俊“
賢俊(1299~1357)南北朝時代の真言僧。権大納言の日野俊光の子。醍醐寺宝池院賢助の弟子。菩提寺大僧正ともいう。元応二年(1320)新熊野において僧になる。1336年醍醐寺座主・東寺一長者、1340年東寺一長者(二度目)、武家護持僧となり、足利尊氏・直義が、利生塔に籠めた東寺部舎利塔の奉請に臨む。1346年公家護持僧となる。1336年九州に敗走する尊氏に光厳上皇の院宣を届けて以来、尊氏との関係が深くなり、1338年六条八幡宮、篠原八幡宮、三条坊八幡宮の各別当に就任、また直義より持仏堂別当、さらに足利義詮から北条政子・源実朝の法華堂別当に任じられたほか、足利市の為に多くの修法を行った。その修法記録は、賢俊自筆の「賢俊僧正日記」などに醍醐寺に伝わる。延文二年七月一六日に没、とき洞院公賢は「公家武家権勢無比」と称した。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)112“細川頼之”細川頼之(1329~1392)南北朝の武将。幕府管領

2016-11-25 04:34:59 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)112“細川頼之”
細川頼之(1329~1392)南北朝の武将。幕府管領。細川頼春の子。右馬頭、武蔵守。父頼春とともに足利尊氏に属し、文和元年(1352)父の討ち死に後に阿波守護を継ぐ、四国・畿内で南朝方と戦い、中国大将として足利直冬党を討ち、1362年将軍義詮に追放された前執事で従兄の細川清氏を讃岐で迎え撃ち滅ぼした。1367年上洛し、義詮の遺命によって幼少の将軍義満を助けて管領として幕府政治をつかさどり、将軍の権威教化、公家領・寺社領の保護、五山の綱紀粛正に務めるとともに、南朝方に対しては、1369年楠木正義を味方に誘うなど和戦両様の作を用いた。一方で一族の子弟を要職に起用し守護大名細川氏の権力基盤を強化した。こうした頼之の幕政運営に対して、斯波義将、土岐頼康らの有力大名は反感を募らせて1379年挙兵、頼之は義満から管領を解任され、剃髪して常久と号し、一族・家臣とともに讃岐に退いた。養継子頼元は翌々年赦されて上洛したが、頼之は四国に留まって分国の経営に務め、1389年義満の厳島参詣に船舶100艘余りを調達し、讃岐の宇多津で義満と対面した。1390年義満から備後守護に任じられて山名時熈の乱を討ち、1391年上洛して管領の頼元を助けて再び幕政に参画した。明徳の乱の鎮定に当たったが、翌年病死した。篤実な人柄で、和歌、蓮歌、詩文などを好み京都の多くの寺院を建立している。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)112“細川頼之”細川頼之(1329~1392)南北朝の武将。幕府管領

2016-11-25 04:34:59 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)112“細川頼之”
細川頼之(1329~1392)南北朝の武将。幕府管領。細川頼春の子。右馬頭、武蔵守。父頼春とともに足利尊氏に属し、文和元年(1352)父の討ち死に後に阿波守護を継ぐ、四国・畿内で南朝方と戦い、中国大将として足利直冬党を討ち、1362年将軍義詮に追放された前執事で従兄の細川清氏を讃岐で迎え撃ち滅ぼした。1367年上洛し、義詮の遺命によって幼少の将軍義満を助けて管領として幕府政治をつかさどり、将軍の権威教化、公家領・寺社領の保護、五山の綱紀粛正に務めるとともに、南朝方に対しては、1369年楠木正義を味方に誘うなど和戦両様の作を用いた。一方で一族の子弟を要職に起用し守護大名細川氏の権力基盤を強化した。こうした頼之の幕政運営に対して、斯波義将、土岐頼康らの有力大名は反感を募らせて1379年挙兵、頼之は義満から管領を解任され、剃髪して常久と号し、一族・家臣とともに讃岐に退いた。養継子頼元は翌々年赦されて上洛したが、頼之は四国に留まって分国の経営に務め、1389年義満の厳島参詣に船舶100艘余りを調達し、讃岐の宇多津で義満と対面した。1390年義満から備後守護に任じられて山名時熈の乱を討ち、1391年上洛して管領の頼元を助けて再び幕政に参画した。明徳の乱の鎮定に当たったが、翌年病死した。篤実な人柄で、和歌、蓮歌、詩文などを好み京都の多くの寺院を建立している。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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『鎌倉・室町の群像伝』106“小田治久“ 小田治久(1283~1352)鎌倉末期から南北朝の武士。

2016-11-19 04:29:19 | 鎌倉室町の群像
『鎌倉・室町の群像伝』106“小田治久“
小田治久(1283~1352)鎌倉末期から南北朝の武士。常陸の国筑波郡の領主。初名高知。父は貞宗。宮内権少輔、常陸守護。元弘の変で流刑となった後醍醐天皇の側近藤原藤房を南野荘藤沢において預かったのが縁となり、建武政権で重用され、後醍醐天皇から諱である尊治の一字を与えられて改名。建武政権の崩壊後も南朝方として戦い、1388年には北畠親房を本拠城小田城に迎い入れた。高師冬の北朝軍と良く戦ってが、1341年に降伏し、以後北朝方となって、関・大宝城の親房軍を攻めた。臨済宗の複庵宗己を高岡に招いて猶予としたり、真言密教地蔵院流の法泉寺祐尊をほごするなど、文化振興にも支援をした。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
★歴史が語る人類の過去と未来の道しるべ。
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