「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「古社寺探訪」宝山寺

2019-01-12 07:26:10 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」宝山寺・奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天を聖天堂に祀っている。生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。その当時は都史陀山 大聖無動寺という名であったという。江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山と思われる。江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)が敷設されるほどだった。麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると約千段あり西日本有数の規模を誇る。歓喜天を祭り、現在でも年間300万人の参拝客を集めるとされる。
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「古社寺探訪」御上神社

2019-01-11 07:32:58 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」御上神社・滋賀県は三上山とJR東海道本線野洲駅、新幹線と並行して走る国道からすぐ見える御上神社は『古事記』に「近つ淡海の御上祝がもち斎く天之御影神」と記されている。御神体は近江富士の三上山である。旧官幣中社。祭神は天津彦根命の御子である国土開拓の祖と言える天之御影命を祀る。創建は孝霊天皇の御世に三上山山頂に出現した三上の祖が祀ったのが始まりという。後の山上よりこの地に移し社殿を造立し祀ったと伝えられている。古くから我が国の鍛冶に祖神として崇敬され、浄火守護の神、日本第二忌火神として崇められてきた。『三代実録』には貞観元年(869)正四位に叙され、同十七年には従三位に叙せられた。武士の崇敬多く源頼朝が建久元年(1190)足利尊氏が建久三年に、豊臣秀吉が天正一四年(1686)にそれぞれ社領を寄進している。本殿は鎌倉時代の入母屋造り。神仏習合の影響か仏堂に融合した神社建築の国宝である。
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「古社寺探訪」大覚寺

2019-01-09 07:42:43 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」大覚寺・京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから三十数年後の貞観十八年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた。
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「古社寺探訪」松尾大社

2019-01-08 07:04:47 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」松尾大社・京都府京都市西京区嵐山宮町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。京都市西部、四条通西端に位置し、祭神は大山咋神 、中津島姫命 。『延喜式』神名帳において「松尾神社二座」と見えるように、松尾大社の祭神は古くから二柱とされている。この地方に住んでいた住民が松尾山の神霊を守護神として祀ったのが起源とされる。その後五世紀頃にこの地に移り住んだ渡来氏族の秦氏が一族の総氏神として信仰した。大宝元年(701)文武天皇の勅命により、秦忌寸都理が現在地に社殿を創建したのが始まりという。祭神の大山咋神を祀る日吉大社東本宮。『古事記』によると、松尾・日吉には大山咋神が鎮座するという。祭神二柱のうち大山咋神は、『古事記』『先代旧事本紀』において、大年神と天知迦流美豆比売の間の子であると記される。この松尾大社の背後に「亀の井」による湧き出る霊泉を以て酒造りをすると腐らない伝説に、中世以降、酒造家から醸造祖神として信仰を集めている。
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「古社寺探訪」矢田寺

2019-01-07 07:12:26 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」矢田寺・奈良県大和郡山市にある高野山真言宗の寺院。山号は矢田山。正式の寺号を金剛山寺(こんごうせんじ)という。別名「あじさい寺」とも呼ばれ、境内には約10,000株、約60種のアジサイが植えられている。 さらに矢田寺大門坊では、古くより容眞御流(ようしんごりゅう)華道の家元として、華道研究も盛んに行われている。寺伝によれば天武天皇の勅願により天武天皇八年(679年)に智通が開基。七堂伽藍四十八坊を造営、十一面観音菩薩と吉祥天を安置したという。その後の戦乱などにより多くを焼失し、現在は矢田寺北僧坊・矢田寺大門坊・矢田寺念仏院・矢田寺南僧坊の4つの僧坊を総称して矢田寺と呼ばれている。矢田寺の名は万葉の昔からの地名が矢田の里であったことに由来する。「矢田のお地蔵さん」で親しまれている矢田寺(矢田山・金剛山寺)は、 城下町・郡山より西へ3.5キロ、矢田丘陵の中心矢田山の中腹にあり、 日本最古の延命地蔵菩薩を安置しています。今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ…後の天武天皇)が、 壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年、智通僧上に勅せられ、 七堂伽欄48カ所坊を造営されたのが当山の開基です。当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていましたが、 弘仁年間に、満米上人により地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えてきました。
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「古社寺探訪」能福寺”

2019-01-06 09:46:37 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」能福寺”新西国二三番札所“兵庫県神戸市兵庫区にある天台宗の仏教寺院である。山号は宝積山(ほうしゃくざん)。本尊は秘仏・薬師如来。寺伝では805年(延暦二四年)に最澄(伝教大師)により能福護国密寺として創建されたとされており、日本最初の密教教化霊場と称する。平清盛所縁の寺としても知られており、1180年(治承四年)には福原京遷都計画にともなって平家一門の祈願寺に定められたことで、大伽藍が建設され大いに栄えた。その後、1341年(興国二年/暦応四年)に兵火で七堂伽藍全てを焼失したが、1599年(慶長三年)に長盛法印が再興したという伝がある。
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古社寺探訪」天龍寺・

2019-01-05 15:53:56 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」天龍寺・京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町・臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約四世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 -1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元三年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応二年/延元四年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永四年(1345年)に行われた。天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院一五〇か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文三年(1358年)、貞治六年(1367年)、応安六年(1373年)、康暦二年(1380年)、文安四年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化十二年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。
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「古社寺探訪」霊山寺

2019-01-05 15:53:31 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」霊山寺・奈良市中町は矢田丘陵を背に富雄川沿いの山間の古刹である。真言宗大本山で本尊は薬師如来である。開基には行基と菩提僊那と言う説と壬申の乱に加担したことで右大臣を小野富人が隠居して薬師如来を祀ったことにある説である。富人は薬草湯屋を造り、人々の病を治療したことから、鼻高仙人と呼ばれ、その仙人が聖武天皇の夢枕に現れ「皇女の病は登美山の薬師如来を祈念すれば治る」と告げた。そこで行基を遣わせて、病が平癒した。天平六年(734)行基に命じて伽藍を建立させたという。インド僧菩提僊那がインドの霊鷲山に似ていたことから霊山寺と言う名を付けた。鎌倉時代には北条時頼の庇護を受け、宗派は興福寺の末寺として、後に真言宗に属した。江戸時代には幕府の御朱印寺となって栄えたが神仏分離令後は衰退をした。弘安時代に棟上された本堂は「国宝」、文和五年(1356)に建立の

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「古社寺探訪」大報恩寺

2019-01-05 15:53:10 | 古社寺探訪
「古社寺探訪」大報恩寺・”新西国16番札所“京都市上京区にある真言宗智山派の寺院。山号は瑞応山。千本釈迦堂と通称される。おかめの物語や、十二月の風物詩である大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として、護持された。鎌倉時代初期の承久三年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫である。比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代の勧進状によれば、猫間中納言と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』二二八段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264 - 1275年。本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている。倶舎・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許された。この本堂は応仁文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので洛中最古の建造物で国宝となっている。大報恩寺には近隣の北野天神(北野天満宮)門前にあった「北野経王堂」の遺物も保管されている。足利義満は明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者を悼んで、乱の翌年の明徳三年(1392年)、法華経一万部を読誦する北野万部経会を創始。応永八年(1401年)に経王堂を建立した。経王堂は明治初年の神仏分離によって破却されたが、経蔵に伝来した一切経、傅大士(ふだいし)及二童子像、だ太鼓縁などは大報恩寺に保管されている。
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「古社寺探訪」水無瀬神宮

2019-01-05 07:54:47 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」水無瀬神宮・大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無宮。祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。創建は後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立された。承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240年)、水無瀬信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。明応3年(1494年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無宮の神号を奉じた。境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。江戸時代まで仏式で祀られていたが、明治時代に神式に改められ、水無宮に改称した。後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。明治6年(1873年)に官幣中社に、昭和14年(1939年)に官幣大社に列格し、水無瀬神宮と改称された。
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「古社寺探訪」金峯山寺

2019-01-04 07:59:09 | 古社寺探訪

「古社寺探訪」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称であった。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、七世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平六年(894年)、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。両部曼荼羅密教末法思想浄土信仰金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇、藤原道長、藤原師通、白河上皇などがいる。このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している。金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営された。修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派の聖護院である。一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗の傘下に置かれることとなった。明治維新に入り修験道信仰は多大な打撃をこうむった。1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年全国各地で行われてきた神仏習合の信仰は廃止され、寺院は廃寺になるか、神社に変更し生き延びるほかなかった。1872年(明治五年)には追い討ちをかけた形で修験道廃止令が発布され、1874年(明治七年)には金峯山寺自体も廃寺に追い込まれた。僧侶・修験道者らの嘆願により、1886年(明治十九年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が図られ、金峯山寺は寺院として復興存続が果たせた。ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され現在に至っている。太平洋戦争後の1948年(昭和二十三年)に、天台宗から分派独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和二十七年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっている。
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