「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「和歌山古社寺探訪」 慈尊院・空海の母阿刀氏の建てた庵と言う、高野山は女人禁制

2016-08-19 04:26:13 | 和歌山古社寺探訪
「和歌山古社寺探訪」 慈尊院・空海の母阿刀氏の建てた庵と言う、高野山は女人禁制のため空海に会うことが出来ないので母に会う為に付に九度、この庵に足を運んだのに因み「九度山」の地名が付いたという、母の信仰していた弥勒菩薩を供養の為に本尊とした寺院を建立、弥勒の別名慈尊を寺名を「慈尊院」と称し本尊の弥勒菩薩は秘仏二十一年に一度開帳される。また高野山の経典、帳簿等管理する「高野政所」として堂塔も多宝塔など高野山の表玄関として、白河上皇、鳥羽上皇の御所、藤原道長や公家の宿所としての格式を有していた。境内の上に丹生官省符神社(荘園の公文書を管理発行)があって明治の神仏分離令の前は寺社一体の霊地、聖地で信仰を集め、官としての役所的な役割も有ったのではと思われる。
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「和歌山古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・日前神宮・国懸神宮・祭神日前大神・国懸大神

2016-08-16 04:09:03 | 和歌山古社寺探訪
「和歌山古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・日前神宮・国懸神宮・祭神日前大神・国懸大神
和歌山県和歌山市秋月365・式内社・旧官幣大社
神社の近くで場所を聞くと「にちぜんさん」と教えてくれた。
紀伊国一ノ宮は二社で左に日前神社、右に国懸神社になっている。
日前神宮の祭神は日前大神、日像鏡を神体とする。相殿には思兼神・石凝(いしころ)姥(とめの)命(みこと)、右の国懸神社は主祭神国懸大神、相殿日矛鏡を御神体とし玉祖命・明立天御影命・鈿女命で御神体の鏡は伊勢神宮の神宝の八咫鏡の同等のものとされる。
八咫鏡が伊勢神宮の神体とされていたので、日前宮・国懸宮は重要な神として皇祖神に準じた扱いを受けてきた。
朝廷は神階を送らない特別な神宮とされてきた。『日本書紀』には天照大神の岩戸隠れの際の、石凝姥命が八咫鏡の鋳造した鏡を日前宮に祀られている。
神武天皇の東征後、紀伊国造家の祖神である、天道根命が八咫鏡に先立って鋳造された鏡であると言うことで日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前神宮の神体に、日矛鏡を日懸神宮の神体にした。
創建鎮座については、もとは名草郡毛見郷浜宮にあったものを垂仁天皇に御世に現在地に遷座されたと言う。
もう一つの一ノ宮伊太祁神社は現在地にあった所、紀伊国の国譲りで、今の伊太祁神社後に遷座をしたと記されている。朱鳥元年(686)国懸神社に奉幣したと伝えらえている。『延喜式神名帳』には紀伊国一宮とされた。
持統年間に紀伊大神奉幣と見え、嘉祥三年には「左馬助従五位下紀朝臣貞守を遣わし紀伊国日前、国懸大神社に向かわしむ」と記す。
中世には熊野詣での途中で参拝されたと言う記録が残されている。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めで社領は没収され、その際に社殿が取り壊され境内は荒廃した。江戸時代には紀州徳川藩主により再興された。
★御神体が日矛鏡・日像鏡の御神体について《即ち石凝を以て冶工として 天香山の金を採りて、日矛をつくらしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽(あまの)鞴(はぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即と紀伊国に所坐す日前神なり》日前・国懸神宮の社伝では、日矛とは矛であはなく日矛鏡と言う名のかがみである。三種の神器の一つである八咫鏡に先立って造られた「日像鏡」と「日矛鏡」の次に作ったのが、八咫鏡であると言う内容である。
現在まで日像鏡と日矛鏡は天照大神の前霊として日像鏡は日前神宮、日矛鏡は国懸神宮の御神体として奉斎されると伝わる。
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「和歌山古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・丹生都比売神社・丹生都比売神

2016-08-15 04:21:59 | 和歌山古社寺探訪


「和歌山古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・丹生都比売(にうつひめ)神社(じんじゃ)・丹生都比売(にうつひめ)神(かみ)
和歌山県伊都かつらぎ町上天野230・式内社・旧官幣大社
この神社に訪れて感銘を受けたのは、かつらぎ町はまるで桃源郷のような場所にあることで、紀ノ川から急な道を上り詰めた所に盆地が広がる。そして優美な社殿が迎えてくれる。
全国に一八〇社ある丹生都比売神社の総本社である。
別称天野神社、祭神は丹生都比売大神・高野御子大神・大食津比売大神・市杵島比売大神の四柱である。
この神社は高野山の北西にあって、高野山とは関わりが深く、空海が金剛峯寺を建立にあたって、神社が神領を寄進したと言い伝えがあって、高野山御入口にあって、当社の背後の尾根上には高野山への参道である「高野山町石道」が通っており、高野参りの前に、まず当社に参拝をして高野にゆく習わしがあった。習わしであった。
祭神は四所明神と言われ、第一殿は丹生都比売大神、第二殿は高野御子大神、第四殿は大食津比売大神、第四殿は市杵島比売大神である。
丹生都比売大神についてその性質は二説に別けられる。
一つに水神と見るもので、貴志川・有田川・丹生川・鞆淵川の流域と神域が重なる。もう一つに社名にある丹生の「丹」すなわち朱色は朱砂、朱色の水銀の採掘に携わる人々によって祀られたとする説である。また丹生都比売神はイザナギとイザナミの御子神であるとしている。
同じ神の稚日女尊と同一神とも言われている。
またこの神が高野山創建に関わった説話に「空海への土地譲り」伝説がある。高野山金剛峯山寺の建立に当り、地主神による当社から神領を譲ったと言う話による古記録として『金剛峯寺建立修行縁起』がる。
弘仁七年(817)、空海は「南山の犬飼」と言う二匹の犬を連れて猟師に大和から宇智郡から紀伊国境まで案内され、後に山民の山へ導かれたと言う。以上の説話は『今昔物語集』にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神の化身と言われている。
『丹生祝氏本系帳』には丹生氏が元狩人の神の生贄ために二頭の犬を連れて狩をした伝承があり、この説話が高野山開設に取り入れられたと言う。空海の死後弟子たちによって当社の神領が高野山の寺領になって行った。当社が国史での初見は『日本三代実録』貞観元年(859)従四位下勲八等の神階が授与された記録がある。『延喜式神名帳』紀伊国伊都郡に「紀伊国神名帳」には天神として「正一位勲八等、丹生津比咩大神」と記載あり、高野山開設後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として、高野山の鎮守となっている。平安時代かの二座から四座になったとみられる。仁平元年(1151)文書に「第三神宮」とある。正応六年(1293)天野四所明神の三大神号蟻通神が神託見え、第三殿に「蟻通神」が祀られた。 祭神の追加については時代は前後するが『高野春秋』によれば承元二年(1208)北条政子の援助で行勝上人と天野祝により気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵比売神が勧請された。
これによって高野山荘園に当社が勧請され、各地に丹生神社が誕生していった。また神仏習合の影響で当社の境内には多くの仏教伽藍、諸堂が建立されていった。やがて山岳修行の修験者の拠点にもなって行った。この様子は「弘法大師・丹生高野両明神象」に当社の境内も描かれている。その後公家、武家から多くの崇敬を受け、紀伊国一ノ宮を称するようになっていった。紀伊国には古くより日前宮・日懸宮は一宮として存在していたが、「一宮」の呼称自体はなく、他の社で一宮を称したのは伊太祁曽神社がある。
中世に多くの社領を受けていたが天正検地で没収された。近世には増々神仏習合で高野山学侶領から二〇二石の分与をされたが、明治の神仏分離令によって、丹生都比売神社は高野山から独立をした。
★この社の祭神について丹生都比売神はイザナギとイザナミの間に生まれた御子とされる一方、古代豪族の丹生氏の祖神と考えられ、地域的に見て貴志川・丹生川・有田川など水に携わる氏族であり、朱、丹生氏の氏名に関係する水銀を採取する氏族だったのだろう。また高野御子大神は狩場明神の別名で先住氏族の、地主神として考えらえないことはなく、両神は類似した地域氏族だったのかも知れない。他の二神は意図的に北条政子らの執権者が勧請した神々で直接的に丹生都比売神社と関連性は薄いと考えられる。
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「和歌山古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神)

2016-08-06 04:21:56 | 和歌山古社寺探訪
「和歌山古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神)
和歌山県和歌山市伊太祈曽558・式内社・旧官幣中社
祭神は五十猛(いたけるの)命(みこと)・脇宮大屋都比売(おおやつひめの)命(みこと)(妹神)・脇宮都麻津比売(とまつひめの)命(みこと)(妹)で何れもスサノヲの子神である。
創建についての初見は『続日本紀』の文武天皇の大宝二年(702)に「是日分、遷伊太祁曽、大屋津比売、都麻都比売三神社」記されている。
古くは日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇十六年に日前宮と国懸宮がその地に祀られることで、いわば土地を明け渡した。両社は互いに、同じような内容を伝えている。
その際に現地点の近くの「亥の杜」に遷座をした。和銅六年(713)現地に遷座をした。『延喜式神名帳』には名神大社に列し、紀伊国一ノ宮とされた。
神階は嘉祥三年(850)従五位下、貞観元年(859)従四位上に叙され、その後、延喜六年(906)正四位上に叙せられた。
名神大社として、月次、相嘗、新嘗の官幣を預かる。
天正年間に豊臣秀吉の根来攻めで社領は没収されたが、秀長の時代になって所領は回復され社殿も建立された。
★『日本書紀』には三神が木種を分布し、天降っては韓地に植えず、筑紫から始め国内全部を青山に播植したと伝える。
五十猛命は『古事記』では大屋毗古、『日本書記』には五十猛命と呼ばれている。
父神スサノオと共に多くの樹木を新羅に降臨したが、日本に渡り植林をした。また五十猛神は大国主命を助けている、因幡の白兎を助けた大国主命は八上比売と結婚をしたが兄弟神の嫉妬らいろんな仕打ちに遭い、母神に助けられたりしたが、最後に追い詰められた時に、大木の蔭に隠れる。
矢で射られて殺されそうになった時に木の股から五十猛神の許に逃れる。
抓津姫神は日本神話に登場する女神で父スサノヲ神、兄に五十猛神で五十猛神と共に全国の山々に木々の種をまき、紀伊国に戻って住んだと言う。


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「滋賀古社寺探訪」永源寺・

2016-07-27 04:14:32 | 和歌山古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」永源寺・滋賀県は東近江市にある臨済宗永源寺派本尊は世継観世音菩薩の本山は、八風街道は八日市から三重県の千草を結んでいる愛知川沿い街道の対岸にある。昔この道は山賊が横行する鈴鹿峠を避け、桑名、近江の物流の幹線道路で行きかう近江商人の源流の道であった。青々と水をたたえている愛知川に永源寺は紅葉の名所である。開基は南北朝時代の康安元年(1361)近江守護佐々木六角が名僧の誉れも高い寂室元光禅師に帰依し、招請し伽藍を建立したことに始まる。寂室は中国に渡り、帰国後は各地を巡業し、七一歳で佐々木六角と出会った。愛知川の流れと嶮しい山々に厳しい修行でこの地で生涯、在野で貫いた。永源寺の地名は、永は六角の法名崇永の名を因み、源は近江源氏の源に因み、永源寺と寺名が由来する。三度の焼失に戦国時代には衰退するが、江戸時代には中興の祖一糸文守(仏頂国師)が住持し、後水尾天皇や東福門院、彦根藩に保護を受けて再興した。
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「史跡探訪」称念寺(新田義貞の墓所)

2016-07-26 04:17:10 | 和歌山古社寺探訪
「史跡探訪」称念寺(新田義貞の墓所)は、福井県坂井市(旧坂井郡丸岡町)にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。この寺は、室町時代につくられた縁起によれば、721年(養老五年)泰澄によって開かれたと伝えられ、1290年(正応三年)他阿真教によって時宗に改められたという。新田義貞が延元三年・暦応元年(1338年)に越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所があり、近世に江戸幕府や福井藩から保護を受けた。近くにあった末寺の光明院は倉を経営していた[1]。また三国港から日本海を通じて交易を行っていた。そのため越後国府中(新潟県上越市)に同名の寺もできた(当初「応称寺」と言ったが、すぐ同じ名に改めた)。高田城下に移転した。室町時代には、後花園天皇や室町幕府八代将軍足利義満の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。それらは文書として当寺に残されている[2]。門前に一時期明智光秀が住み、そこから仕官して出世していったという。その時の妻とのエピソードに因んで、松尾芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでいる。
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『戦後日本の あの日あの時』127「漫画ブーム」

2016-07-26 04:11:00 | 和歌山古社寺探訪
『戦後日本の あの日あの時』127「漫画ブーム」
●昭和31年(1956)第二次世界大戦後に飛躍的に発達した漫画は。戦前の漫画とは系譜的に断絶している。戦前の漫画が戦後に引き継がれた例は少ない。活字も含め赤本や月刊誌はまだまだ高価のもので庶民には手の届かないものであった。1953年ころから貸本屋が普及し、貸本と共に漫画も成長する。ここにおいて手塚治虫は赤本漫画に於いて、まとまったストリーを展開する方法を展開し確立する。また若手が手作りの一点ものを貸本屋に売って、漫画が紙芝居と並んで、子供文化の中心となる。絵物語中心から月刊誌が1951年頃から漫画に軸足を移すことになる。赤本や芝居から転身し、貸本からデビューした(水木しげるや白土三平)など様々である。この頃、紙芝居屋は全国に5万人を数えたが、週間単位でテレビの普及で「少年サンデー」などの子供向けの週刊誌が登場する。「少年漫画」「漫画王」「少年クラブ」「リボン」などがあった。当初、漫画は子供が買える価格ではなく、経営的に安定しない。赤本、貸本で物語ものとしてロボットもの「鉄腕アトム」因果もの「ゲゲゲの鬼太郎」、戦前のチャンバラ物の名残で復活した「赤胴鈴之助」「月光仮面」「少年探偵団」「鉄人28号」などが人気作品となった。また柔道を取り扱った「いがくりくん」剣道を扱った「木刀くん」などがあった。近年「サザエさん」「ドラえもん」などテレビの連載物も人気を博した。一方週刊漫画の人気が過熱するが、貸本漫画の大手出版による「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」などが相次いで創刊され、1969年には貸本漫画は終焉を迎えた。漫画が普及する一方、「悪書追放運動」が起こり、漫画は悪書として「焚書」として反対運動も起きた。戦後漫画の先頭を切る手塚治虫はテレビ進出に模索し、海外輸出前提のテレビアニメを始める。これに前後し「少年マガジン」月刊誌「なかよし」から週刊「少女フレンド」、これに続いて週刊「マーガレット」と続いた。







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『戦後日本の あの日あの時』125「日ソ漁業条約調印」

2016-07-24 04:29:26 | 和歌山古社寺探訪
『戦後日本の あの日あの時』125「日ソ漁業条約調印」
●昭和31年(1956)5月14日に日ソ漁業条約調印をした。4月29日より河野一郎農相は日ソ漁業交渉を開始し、5月14日に調印の運びとなった。戦後日本を占領した連合国は日本漁船の遠洋漁業を禁止し、日本の独立した、1952年に解禁された。日本とアメリカとカナダは漁業条約を締結し、太平洋の北東部の海域でのサケマス魚が復活した。次にソ連との漁業交渉は開始し、北方領土問題を巡る難航したが、日本の河野一郎農相とソ連のブガーニン首相と漁業交渉した。1956年5月15日に日ソ漁業協定が調印された。当時日ソ間には国交回復が出来ていなかったので、10月19日の国交回復に繋がった。1957年にはベーリング海などの旧北太平洋の海域での操業が再開された。日本から再び多くの船団を出港し、漁獲高や収益率が悪い沿岸・近海漁業に苦しんできた北日本の漁民は息を吹き返した。ところが戦前と逆転した新生北洋漁業は厳しい漁獲割り当てに悩まされ、ソ連の国境警備隊やアメリカ沿岸警備隊に拿捕される事件が多発し、特にソ連による拿捕は日本人漁民の拘束期間が長引き、船体は違反操業による没収処分を受けた。数年ごとに開催される日ソ間の漁業協定更新交渉は操業許可や水域や魚類を巡って難航した。時には無定期間が発生し、北洋漁業に大きく阻害された。1976年米ソは了解を12カイリから、200カイリに拡大、日本の漁業の乱獲と決めつけ回遊魚であるサケマスについて母船国主義を主張し資源保護の名目を打ち出して200カイリが国際ルールとして定着していった。米ソ両国は日本に対して入漁料の支払いを求めたが、オホーツク海の禁漁での全面禁漁が続いて、1988年アメリカは200カイリ内での操業不可能になったために、母船式サケマス漁は終結した。※連日ソ連近海での漁業は拿捕、連行、船体没収のニュースが伝えられた。


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史跡探訪」二条城・

2016-07-23 04:31:34 | 和歌山古社寺探訪
「史跡探訪」二条城・二条城は1603年(慶長8年)徳川幕府将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際に宿泊所として造営、3代将軍家光が、後水尾天皇の行幸に合わせて、1626年(寛永3年)に改修したもので、絵画・彫刻・建築に桃山から江戸への移り変わりを見ることが出来る。

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「浪速今昔百景」太平寺「十三まいり」・摂州 護国山 大阪十三仏十三番札所。北山不動。  

2016-07-21 04:41:28 | 和歌山古社寺探訪
「浪速今昔百景」太平寺「十三まいり」・摂州 護国山 大阪十三仏十三番札所。北山不動。  
 地下鉄谷町線谷九駅から八分、都心の谷町筋の通利に面し、赤いのぼりの旗が有って大きく「十三まいり」と書いてあって「十三仏まいり」とは江戸の「七五三」に対して大坂、京都で盛んに行なわれた行事で、十三歳になった男女が「虚空蔵菩薩」の縁日三月十三日、四月十三日にお参りすると福徳と知恵を授かるという。
「大阪歳時記」には(十三日に因み十三歳になる子供が夕陽ガ丘の「太平寺」と言う曹洞宗のお寺に智慧を授けてもらうためにお参りをしたものらしい。
こんな会話がつい最近まで浪速に町商人の日常に有った風景である。その願いの本尊は本堂に虚空蔵菩薩が祀られている。
本来この世の現世を、地上を受け持つ虚空蔵菩薩、地下の世界を地蔵菩薩が人々の苦悩を救う役割分担として受け持った仏様であるが、京都も「十三まいり」は盛んでかの蕪村も娘を嵯峨の法輪寺に虚空蔵菩薩に「十三まいり」をしている句がある。この寺の創建はもともと四天王寺の寺域に有って中には堂塔を外されて真言宗の龍翔寺になり、加賀の曹洞宗の超山和尚が幕府に願い出て再建したものである。元禄の頃皇室、大名の加護で栄え北側の北山不動が大いに参詣で栄えた。境内には「針塚」「筆塚」「茶筅塚」があって、北山不動が往時を偲ばせている。
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「浪速今昔百景」摂津国一ノ宮・住吉大社・祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命

2016-07-16 04:39:21 | 和歌山古社寺探訪
「浪速今昔百景」摂津国一ノ宮・住吉大社・祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89・大和国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社・住吉大社と言えば下関の住吉大社・博多の住吉神社の「日本三大住吉』として賛否者も多く、中でも摂津の国一ノ宮住吉大社は全国二千三百社の総本社である。主祭神は海の神として住吉三神に神功皇后の息長足姫命を合わせて四柱・第一本宮・底筒男命。第二本宮・中筒男命・第三本宮・表筒男命が祀られている。
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「古代史群像の標榜」三十六、入唐八家らの求法の旅

2016-07-16 04:35:48 | 和歌山古社寺探訪
三十六、入唐八家らの求法の旅

最澄・空海より更に深める、求法の道。円仁と円珍の入唐の旅は大陸文化、宗教の探究に有った。
円仁は延暦十二年(793)下野国生まれ、比叡山に登り最澄に師事した天台僧で日本初めての大師諡号を受けた僧である。
円仁が延暦寺に弟子入りした時には最澄は桓武天皇の庇護を失い、空海から密教経典を借りて写し低迷の頃、最澄の後をついで天台教学を深めるべく志を立てていた頃、承和元年(834)実に三十年ぶりに遣唐使が派遣されることになった。
大使藤原常嗣、副大使小野篂と言う陣容、発表された。
遣唐使として難波を出帆、しかしこの年、翌年と逆風で失敗、三度目で渡海で成功した。
円仁から遅れる事十九年、円珍四十三歳、入唐は請益僧と言う資格である。唐への入国はまず国情を経てからで大宰府に来る唐人から情報を得ていた。
承和の遣唐使も延暦の遣唐使も長安を目指し、朝賀に参列している。入唐に関してそう簡単には果たせないが仏教界だけは例外で入唐八家と言われ最澄、空海、常暁、円行、円仁、円珍、宗叡はそれぞれ貴重な経典などを持ち帰り、朝廷にその目録を提出している。
承和の遣唐使には真言請益僧の円行、三輪留学僧常晩の空海の弟子、円仁、天台留学僧の円載ともに最澄の弟子、そして法相請益僧の戒明らと従僧である。
まだまだ入唐に志した僧は真言僧の真然や真済などが居たが唐に着かず対馬などに漂着をした。
最澄、空海らの船団も四船の内二船は海の藻屑と消えていて、如何に大陸に渡ることは至難の業と窺い知れる。
承和の遣唐使の場合、第三船に乗船した船頭以下140人余りは、舵は折れ、人溺れ、波に漂い、生き残った者は疲労困憊、口もきけず惨憺たる有様で、真然と真済位なものであったと言う。
この記録を見ても如何に渡航は危険が伴うかを窺い知れ、真言僧二人の乗った渡航は縁起が悪く「真言僧の絶対に乗せてはならない」と言う命令を下し真言教団は取り消すように懇願をしたと言う。こうして真言、天台僧は求法の道を先争って旅立っていった。
求法の唐での記録をきめ細やかに当時の様子を記述が円仁の「入唐求法巡礼記」が良く伝えていて紀行の貴重な記録である。実はこの巡礼記日本より海外での方が理解されていると言う。
またこの『入唐求法巡礼記』は複雑な行程と当時の政治理由で前に進めなかった円仁の忍耐強い意志を持って帰国した物語である。かいつまんで述べると円仁は請益僧だから遣唐使と共に帰国をしなければならない条件付き渡航であった。
また渡航には三回目で成功した。また入唐しても許可が出ない限る身動きが取れない。危険を冒して渡航しても入唐後、唐王朝が許可をしないので、機会を待って足止め喰う。
揚州府に到着をすると天台僧の憧れの聖地天台山を目指したが、時の揚州監督の李徳裕は管轄外なので勅許が下るまで不可能との返事、長安との文書のやり取りに日数がかかるので気が気でなかった。
中国の国民性か役所気質で円仁の出した許可もなかなか進まず、目的の天台山には登れず、他の一行真言僧の円行の長安入京は許された。
天台山巡礼への夢を絶たれた円仁の真骨頂で、一旦間を置き新羅人に身を置いたが見破られ遣唐使船に乗せられたが逆風に遮られ、出航に失敗、文登県清寧郷赤山村で滞在をした。
滞在の中ひたすら機会を待ち、幾度も巡礼許可願いを出しても下りず、通行願しか出してくれなかったが、即位した天子武宗から巡礼許可が出たが、この許可を出した武宗こそ、その五年後の仏教弾圧を加え行く先々で円仁は阻まれるのである。
円仁は目的の天台山より五台山に行く教示を得て五台山から、長安に入れて感動の一瞬であった。長安では金剛界、胎蔵界、蘇悉地の三大法を各寺院を転居しながら会得し、中国の著名な僧やインド僧まで知り合うことが出来た。
円仁は一定の成果を得て帰国を決意したが時期が悪かった。武宗の仏教への締め付けが厳しくなって、行動は制限され還俗をさせられた。その内直ちに出国命令が出され、赤山まで戻って帰国の機会を待って十年ぶりに帰国が出来たのである。
この円仁の後に続くものに円珍がいる、円珍は最澄の直弟子ではなく二代座主義真の弟子で、入唐を志し文徳天皇の勅許を得て、円珍は円仁より遅れる事十九年、円仁が帰国する前年の仁寿三年(853)に新羅の交易船に便乗し出航し、唐の福州に着いた。
その後、開元寺へ赴き天台山に上がった。さらに天台山に、そこから越州は開元寺に戻り、長安の青龍寺に、そこで法全に受法し書写、多くの経典を持ち帰り天安二年に(858)帰国をした。帰国後は清和天皇に御覧に供した。
その後円珍は天台座主として二十年余り勤めて多くの門弟を育て、円仁派、円珍派の対立を生む人脈が生じた。

★円仁(794~864)天台僧、下野国都賀郡(つがぐん)生まれ、父は都賀郡の三(み)鴨(かも)駅長首(えきちょうおび)麻呂(まろ)・地元の大慈寺の広智に師事し、天台宗に触れる。広智に伴われ比叡山に上がり、以後最澄のもとに修行する。最澄の東国巡(とうごくじゅん)錫(しゃく)の同行、上野国で最澄に伝法灌頂を受け、故郷の下野国の大慈寺で円頓菩薩戒を授けられた。
その後延暦寺で菩薩大戒を受け教授師となった後に天台宗の布教に尽力した。承和二年(835)請(しょう)益(えき)僧(そう)として渡航する。後世に貴重な記録『入唐求法巡礼行記』が残されている。
★円珍(814~891)天台僧、讃岐国那珂郡(なかぐん)、父は宅也、母は空海の姪にあたる佐伯氏、叔父の仁徳に従って延暦寺に上がり、義(ぎ)真(しん)に師事し、得度し籠山12年間、若くして真言学頭になる。
853年に新羅商人の帰国船に便乗し出帆し福州に到着したのち、開眼寺から台(たい)洲(しゅう)の天台山に行き更に長安の青龍寺では、法全より受法し、多くの経典などを書写し、帰国後右大臣に召されて謁見し清和天皇に御覧に供した。その後園城寺の別当になり、天台座主になった。

※求法入唐の僧の往来は平安末期から鎌倉に掛け続出し、禅宗の栄西や東大寺再建の重源などの高僧が入唐し、又逆に中国からの渡来僧も頻繁に来朝するようになった。
それに伴って芸術・美術などの工芸技術から中国の多彩な文化ももたらしたことは確かである。こう言った文化交流は仏教に通じる交流から端を発した。その意味で日本仏教のさらなる発展に寄与した功績は大きい。

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「和歌山古社寺探訪」道成寺”

2016-07-14 04:10:03 | 和歌山古社寺探訪


「和歌山古社寺探訪」道成寺”新西国5番札所“・和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所である。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる。大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から八世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。1985年に着手した、本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である。寺に残る仏像群は、大半が平安時代初期から中期のもので、この頃は寺勢さかんであったと推定される。現存する本堂は正平十二年(1357年)頃の竣工であるが、寺はその後衰微し、天正十六年(1588年)の文書によれば、当時は本堂と鎮守社が残るのみであった。明暦元年(1655年)、藩主徳川頼宣の援助で本堂の屋根葺き替え等の修理が行われ、仁王門、三重塔などの諸堂塔は近世を通じて徐々に整備されていったものである
新西国5番札所“・和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所である。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる。大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から八世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。1985年に着手した、本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である。寺に残る仏像群は、大半が平安時代初期から中期のもので、この頃は寺勢さかんであったと推定される。現存する本堂は正平十二年(1357年)頃の竣工であるが、寺はその後衰微し、天正十六年(1588年)の文書によれば、当時は本堂と鎮守社が残るのみであった。明暦元年(1655年)、藩主徳川頼宣の援助で本堂の屋根葺き替え等の修理が行われ、仁王門、三重塔などの諸堂塔は近世を通じて徐々に整備されていったものである
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「浪速今昔百景」天神の森・

2016-07-13 04:11:53 | 和歌山古社寺探訪

「浪速今昔百景」天神の森・天下茶屋跡から東に行くと天神ノ森「天満宮」がる。祭神は「菅原道真公」末社に天照大神、猿田彦命、稲荷大明神、祠には白雪龍神、白髭竜王、白龍大明神が境内に祀られている。菅原道真公は筑紫へ流された時に、途中住吉明神に参拝中、この地にて休まれたと言う。また茶人の千利休の師武野紹鴎が茶室を構えた所で「紹鴎の森」とも呼ばれ、大きな石碑も建っている。豊臣秀吉も淀殿の解任の折りには、安産祈願をしたと言う。

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「和歌山古社寺探訪」熊野本宮・

2016-07-11 04:38:18 | 和歌山古社寺探訪
「和歌山古社寺探訪」熊野本宮・旧官幣大社・平安時代の「蟻の熊野詣」熊野本宮は京より遥か遠い往復一カ月を要する神仏習合の聖地、修験道の霊地である。熊野三山は本宮・速玉・那智大社化の形成されている。紀伊半島から西側に南下し、田辺から入る中辺路(筆者も少し歩いた)高野山からの小辺路、大峰山からの行者道、伊勢からの伊勢路を古代の人々は熊野に目指した。祭神は中央本殿(第三殿、証誠殿)には家都美御子大神(素盞鳴尊・本地は阿弥陀如来)相殿の第一殿(西側前)熊野牟須美神(伊奘冉尊・本地は千手観音)事解男神、第二殿(中御前)には、御子速玉之男(本地は薬師)・伊奘諾尊を祀る。第四殿には天照大神(本地は十一面観音)を祀る。以上を上四殿と言う。後第五殿から第十二殿までを中・下に各四社を祀り合わせ熊野十二社権と言う。鎌倉時代には時宗の開祖一遍上人が参篭し阿弥陀仏を感得したという。所が熊野本宮大社は明治二十二年(1889)熊野川の洪水で社は流され、現在の地に移築された。熊野川と支流の合流の中州にあった場所は今は「大斎原(おおゆはら)」として大切に守られている。熊野速玉大社、熊野那智大社に比べ本宮は古式蒼然として鎮座し霊気が漂う気がする。
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