「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「近畿三十六不動巡り」ながらの国分寺・大阪の北区は長柄の国分寺で名が通ってい

2016-12-08 04:34:54 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」ながらの国分寺・大阪の北区は長柄の国分寺で名が通っている。真言宗国分寺派として本尊は薬師如来である。また摂津国国分寺としての歴史は古く、新西国観音札所、大阪十三仏札所、摂津八十八カ寺札所、近畿三十六不動札所、西国薬師札所と近畿の巡拝の寺として五つの寺院の名刹に入っている寺は国分寺と四天王寺くらいなものである。それほど古く由緒がる、国分寺の名は聖武天皇が諸国に配布した一国に一寺の国分寺なのであるが、創建はそれより古く、斉明朝に遡る飛鳥時代難波の宮に遷都し亡くなった、孝徳天皇の菩提を弔うために入唐し帰国した道昭に命じて長柄豊崎宮跡に長柄寺と称して建立して、その後聖武天皇の国分寺配布の摂津の国分寺とした。その後時の十四天皇の勅願道場として、加護もあって栄えたが夏の陣で焼失し、享保三年に再建されるが、明治の廃仏毀釈で寺領は大きく縮減され、昭和二〇年の大阪大空襲での戦災に一宇も残さず焼失した。往時の寺宝、寺院共になくし当時の面影もないが、諸国より厚い信仰で再建され、堂塔に昭和金堂、金光明院護摩堂など整備されて所狭い境内には諸堂、諸仏が安置され下町の人々の祈願祈りが伝わってくる。
寺務所の快い対応に話が弾むものである。また四十年余り前の万博覧会の折にガスの工事の大爆発の百人以上の犠牲者の慰霊の堂もあって、この寺は地元と共にあり続けた庶民の寺と窺えるものである。
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「近畿三十六不動巡り」 法楽寺(田辺のお不動さん)・この辺りでは随一の境内と伽藍である、

2016-12-05 04:39:46 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」 法楽寺(田辺のお不動さん)・この辺りでは随一の境内と伽藍である、山門をくぐると三重塔が見える。十五年位前に訪れたときには建設中だったが、実に立派な塔があってその奥の大きな本堂に本尊に不動明王が祀られている。境内の大きな楠も目を引く本堂の裏手にコミニュケションのホールなどあって、色々と信仰の人々との寺との関わりに工夫されている。法楽寺の創建は治承二年(1178)紫金山、院号を小松院と称し「たなべのお不動さん」本尊は不動明王で真言宗泉涌寺派大本山、近畿三十六不動札所、大阪十三仏札所、摂津八十八箇所札所となっている。地域では田辺のお不動と親しまれ八百年の法灯を守り続けている寺伝に記されている。開山は平家の棟梁平清盛の嫡男、小松内大臣平重盛公、治承二年(1178)の創設と言われている。仏教に深く帰依していた重盛は、平治の乱にも源氏、平氏のわけ隔てなく菩提を弔ったと言う。その後寺勢は大いに栄えたが戦国の乱世で荘厳殿堂が悉く堂塔は焼き尽くされ、江戸の中期の天正十三年(1585)洪禅普摂律師が河内の野中寺より晋山、大和の大宇陀より人夫を拝し建立、松山藩織田家の殿舎を譲り受け、再建された。また松山藩の縁の慈雲尊者も法楽寺の僧に従って出家したもので、わが国の「梵字」「日本の釈迦」と仰がれたのもこの寺の縁によるものである。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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「近畿三十六不動巡り」報恩院は大阪市中央区にある真言宗醍醐派の仏教寺院

2016-12-04 05:15:50 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」報恩院は大阪市中央区にある真言宗醍醐派の仏教寺院。山号は高津山。不動明王境内・諸堂奉祀の神仏[編集]北向不動尊・阿閦如来・弘法大師・鎮宅霊符尊・神変大菩薩・鉄焼地蔵尊・秋葉大権現・魔を伏して苦難を救う 願なれば 不動の誓、高津北向不動尊である。近畿三十六不動尊霊場第5番札所・おおさか十三仏霊場第11番札所・摂津国八十八箇所霊場第21番札所・開基良遍(寛文年間 1661年~1672年)寺歴は良遍上人が大阪の上町台地の佳き地を選び、現世利益の不動明王の世相にあった北向不動明王を造立したことが、始まりと伝えられている。北向不動明王と同時期に植えられたという樟は、相生の樟として有名で、戦前までは、繁茂していたという。太平洋戦争による大阪大空襲で、北向不動尊を残して灰燼に帰した。被災後 わずか数日が立ったぐらいから、住職・壇信徒により焼跡整理が始まった。その後、諸堂の再建がなった。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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「近畿三十六不動巡り」智積院・京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。寺号を根来寺という

2016-12-01 04:22:44 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」智積院・京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。寺号を根来寺という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、三歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という二つの寺が関係している。智積院は、もともと紀州根来山・大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治五年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延六年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正十三年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長六年(1601年)、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。
★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ。

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「近畿三十六不動巡り」明王院・滋賀県大津市葛川坊村町にある天台宗の寺院。山は北嶺山(安曇山とも)。本尊は千手観音。近畿三十六不動尊二十七番

2016-11-30 04:14:59 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」明王院・滋賀県大津市葛川坊村町にある天台宗の寺院。山は北嶺山(安曇山とも)。本尊は千手観音。近畿三十六不動尊二十七番。開基(創立者)は相応和尚(そうおうかしょう)である。地名を冠して葛川明王院(かつらがわみょうおういん)と称されることが多く、息障明王院(そくしょうみょうおういん)、葛川息障明王院、葛川寺などとも称される(宗教法人としての名称は「明王院」)。大津市北郊の深い山中に位置する天台修験の道場である。開基の相応は回峰行の創始者とされている。大津市域北端の葛川(かつらがわ)地区にあり、JR堅田駅からバスで45分ほどかかる深い山中である。葛川地区は1,000m級の山々が連なる比良山系の西側、安曇川(あどがわ)に沿った南北に細長い地区であり、安曇川に沿って、京都と北近江・若狭方面を結ぶ若狭街道(鯖街道とも)が通じる。街道沿いに八つの集落が南北に列なり、明王院がある坊村の集落は地区の中ほどに位置する。『葛川縁起』(鎌倉時代前期成立)や相応の伝記『天台南山無動寺建立和尚伝』等によれば、明王院は、貞観元年(859年)に相応和尚(831 - 918、建立大師)が開いた修行道場という。相応は天台座主を務めた円仁(慈覚大師)の弟子で、はじめ比叡山東塔の南に位置する無動寺谷に住したが、修行に適した静寂の地を求めて当地に移ったという。現在、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像は相応の時代まではさかのぼらず、平安時代・院政期(12世紀)の作とされる。現存する本堂は江戸時代の建築だが、保存修理工事の結果、平安末期に建立された前身堂の部材が一部転用されていることが判明した。境内発掘調査の結果等から、平安末期には現状に近い寺観が整っていたと推定される。『梁塵秘抄』には葛川への参詣道について歌った今様が収められており、平安末期には山林修行地としての葛川が著名だったことがわかる。年代の確かなものとしては、九条兼実の日記『玉葉』治承五年(1181年)6月18日条に、「今日より法眼が葛川に参籠した」とする記述が初出とされている。★歴史が綴る伝統文化を未来に語る継ぐ。



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「近畿三十六不動巡り」龍泉寺・奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院

2016-11-28 04:21:16 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」龍泉寺・奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院で、同派の大本山である。山号は大峯山。吉野の竹林院、桜本坊、喜蔵院、東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の一つ。本尊は弥勒菩薩。近畿三十六不動尊霊場第三十一番札所。龍泉寺の境内には、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水が流れていて、修験者たちから「清めの水」とされ、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として著名である。洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている[1]。洞川地区の中心的寺院として龍王講社を組織し、多くの参詣講を組織しているなど、大峯山山上ヶ岳への登拝の出発点となっている。毎年10月に、八大龍王堂大祭が行われる。伝承によれば、 700年頃、大峰山で修行していた役小角が、この地に泉を発見し、「龍の口」と名づけて、その側に小堂を建て、八大龍王を祀ったのが起源とされる。龍泉寺ができてから二百年ほど後、寺から1kmほど上流にある「蟷螂の岩屋」に雌雄の大蛇が住みつき、人々を襲ったため、修験者たちが訪れなくなり、寺も衰退した。そこで、当山派修験道の祖とされる聖宝が、真言の力で大蛇を退治し、寺を再興したとされる。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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「近畿三十六不動巡り」京善寺「くわず不動」・近鉄南大阪線川堀口駅下車十分で住吉区は桑津に着く、桑津神社と道を隔て「くわず不動」

2016-11-25 04:24:47 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」京善寺「くわず不動」・近鉄南大阪線川堀口駅下車十分で住吉区は桑津に着く、桑津神社と道を隔て「くわず不動」と地元の信仰は絶えないが、寺伝に拠れば昔は「金剛院」と言われ厄除け祈願道場として栄えていた、今の境内より広く竹林と常緑樹が多い繁り、小高い丘に本堂があって、善如龍王を祀り農民百姓の豊作を祈願し特に雨乞い祈願と「身代わり厄除け不動」人の絶え間なく近郷の百姓の参拝に多いに栄えたと言う。所が元和元年の大坂夏の陣で戦場所となって、武士達が集合した大きな井戸が三箇所並び当時が偲ばれるが、この辺りも戦場となって寺の堂塔は焼失、衰退して行った。その後、承和二年(1653)信者の富井部氏の霊夢に不動明王が現れて、寺の再興を告げられ、紀州の観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を建立、興教大師作の不動明王を祀ったのが「くわず不動」の始まりと言う。その後吉野より「役行者」の等身像を勧進し行者の道場にもなった。紀州根来寺の不動明王と同木、同作、(興行大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。真言宗御室派、近畿三十六不動札所、摂津八十八箇所札所となっている。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「近畿三十六不動巡り」瀧谷不動明王寺は大阪府富田林市にある真言宗智山派の仏教寺院。日本三不動のひとつ

2016-11-24 04:15:16 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」瀧谷不動明王寺は大阪府富田林市にある真言宗智山派の仏教寺院。日本三不動のひとつ。山号は瀧谷山。正式な寺号は明王寺。一般には山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動、滝谷不動尊と言う。また、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。寺伝によれば、821年(弘仁十二年)に空海が龍泉寺に参籠したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子の像を刻み、それら三体の仏像を祀るために諸堂が造営されたことを起源とするという。造営当初は今より、約1km離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。南北朝時代になると楠木正成が嶽山に築城し、守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬した。1360年(正平十五年)に足利義詮が獄山城・金胎寺城を攻め、そのときの兵火で諸堂が焼失した。伝承によれば、このときに不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子は滝の下に移されて焼失を免れた。その後、盲目の老僧が現れて、瀧谷不動明王寺の不動明王の霊験を人々に説いて、二間四面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は晴眼になり、姿を消したという。この盲目の老僧は、弘法大師の化身であるとも、また、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多い。1462年(寛正三年)に畠山政長と畠山義就との間で獄山において合戦があり、そのときの兵火で再び焼失。慶長年間(1596年~1615年)に三度目の再興が行われて、現在に至っている。毎日祈祷がつとめられており、本堂では厄除けや商売繁盛など様々な願いの成就を祈願する護摩祈祷を受けることができる。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

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「近畿三十六不動巡り」四天王寺亀井不動。近畿三十六不動第一番札所。四天王寺亀井不動は四天王寺の中心の六時堂の南に亀井堂

2016-11-23 04:19:39 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」四天王寺亀井不動。近畿三十六不動第一番札所。四天王寺亀井不動は四天王寺の中心の六時堂の南に亀井堂がある。亀井堂は地下に大きな石亀の水盤があって、その口から清水が湧き出ている。この水に回向を済ませた経木を流し習わしである。亀井不動は亀井堂のすぐ横にある。お不動様身の丈四・五十CMほど小さな石像である。参詣者が絶え間なく水をかけるのでにで乾く間もなく苔がびっしりと生えている。毎月二十八日には不動尊の供養が行われる
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「近畿三十六不動巡り」四天王寺亀井不動。近畿三十六不動第一番札所。四天王寺亀井不動は四天王寺の中心の六時堂の南に亀井堂

2016-11-23 04:19:39 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」四天王寺亀井不動。近畿三十六不動第一番札所。四天王寺亀井不動は四天王寺の中心の六時堂の南に亀井堂がある。亀井堂は地下に大きな石亀の水盤があって、その口から清水が湧き出ている。この水に回向を済ませた経木を流し習わしである。亀井不動は亀井堂のすぐ横にある。お不動様身の丈四・五十CMほど小さな石像である。参詣者が絶え間なく水をかけるのでにで乾く間もなく苔がびっしりと生えている。毎月二十八日には不動尊の供養が行われる
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「近畿三十六不動巡り」七宝瀧寺・大阪府泉佐野市の犬鳴山の山中にある真言宗犬鳴派の寺院

2016-11-08 04:11:35 | 近畿三十六不動

「近畿三十六不動巡り」七宝瀧寺・大阪府泉佐野市の犬鳴山の山中にある真言宗犬鳴派の寺院。山号は犬鳴山(いぬなきさん)。本尊は倶利伽羅不動明王。 661年、役小角によって大峰山山上ヶ岳の6年前に開山したと伝わり、元山上と呼ばれている。古くは犬鳴山を含む和泉山系全体を「葛城」と呼び、その中でも犬鳴山は西の行場、東の行場を持つ葛城二十八宿修験道の根本道場である。「宇多天皇の御代、紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝瀧寺の僧となって愛犬を供養した。 このことを聞いた天皇は、いたく感動し、七宝瀧寺に『山号を「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜った」と伝えられている。(義犬伝説)本尊から数分歩くと滝の前に出る。行者の滝である。 飛鳥時代の661年(斉明天皇七)開山の役行者が集合した場所のひとつと伝わっている。 山中には他にも6つ、合計7つの滝があり、平安時代初期に大干ばつに見舞われたときに雨乞いを祈願して雨が降り、それを知った淳和天皇(じゅんなてんのう)が「七宝瀧寺」と名付けたという。近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。南北朝期に六坊が創建され、室町期には二十坊の坊舎を有し、本堂の修復も行われて隆盛を迎えた。しかし豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎を焼き払われ、田畑山林も没収され、一時は廃絶同然となった。のち岸和田城主より寺領五石の寄進を受け、ほぼ今日見られるまでに復興したものである。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「河内史跡巡り」大黒寺・河内西国観音八番札所・羽曳野市の、地名も大黒(おぐろ)というところにある曹洞宗の寺。千三百五十年前、役行者が金剛山で修行中に大黒天が出現

2016-11-05 05:10:39 | 近畿三十六不動


「河内史跡巡り」大黒寺・河内西国観音八番札所・羽曳野市の、地名も大黒(おぐろ)というところにある曹洞宗の寺。千三百五十年前、役行者が金剛山で修行中に大黒天が出現し、そのおつげにより、桜の木で大黒天を作り、小堂に安置したのが寺の始まりといわれています。修験道場の寺であったのが、空海によって真言宗となり、その後、大乗寺二九代・密山道顕大和尚により禅宗の寺となりました。以来今日まで、河内西国巡拝はもとより、縁起のいい日本最古の大黒さまの寺として親しまれています。本堂、七福堂、釈迦堂、弘法堂、地蔵堂、三面堂、法堂が建ち並ぶ広い境内には大黒さまをはじめ、諸願成就の仏さまや珍しい所蔵品がいっぱいです。山門を入ってすぐにある七福堂には、毘沙門天、恵比寿天、弁財天、大黒天、布袋尚尊、寿老仙人、福禄寿の七福神が祀られており、三面堂では、大黒さまの真言をとなえながらひとまわり、健康、長寿を祈願します。本堂には役行者が千三百五十年前、正月甲子の日に作ったと伝えられる大黒天尊像の本尊をはじめ約千年前に作られた脇仏、役行者像と弘法大師座像などが安置されています。以前、釈迦堂に祀られていた聖観世音菩薩は、現在新しく建立された法堂に安置。この像は白鳳時代の作といわれています。ほかに「なにごともすずなりかなうねがいごと」の大きな石の打ち出の小槌や役行者の健脚にあやかる石、康煕参年(一六六四)の紀年銘のある大きな中国梵鐘などがあります。またバラエティゆたかな大黒さまが一堂に会した大黒ギャラリー?も訪れた人の目をなごませてくれるでしょう。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「近畿三十六不動巡り」青蓮院・京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡とも称する

2016-11-03 05:09:27 | 近畿三十六不動
「近畿三十六不動巡り」青蓮院・京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡とも称する。山号はなし。開基は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主は、旧東伏見宮家の東伏見慈晃。青蓮院は、三千院(梶井門跡)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王(天皇の皇子や伏見宮家などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動の一つ「青不動」のある寺としても知られる。三千院、妙法院などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房(小寺院)がその起源とされている。青蓮院は比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源であり、門跡寺院となって山下に移ったのは平安時代末期の行玄大僧正の時である。久安六年(1150年)、鳥羽上皇の后・美福門院は青蓮院を祈願所とした。また、上皇の第七皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。山下へ移転した当初は三条白川にあったが、河川の氾濫を避け、鎌倉時代に高台の現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある花園天皇陵は「十楽院上陵」と称されている。歴代門主のうち、三代の慈鎮和尚慈円は歴史書『愚管抄』の著者として著名である。慈円は関白藤原忠通の子で、歌人としても知られ、天台座主を四度務めている。また、十七代門主の尊円法親王は伏見天皇の第六皇子で、名筆家として知られる。尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流である。室町時代には後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円が門主を務めた。また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けている。江戸時代の天明八年(1788年)、天明の大火で内裏が焼失した折、青蓮院は後桜町上皇の仮御所となった。このため、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡に指定されている。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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「近畿三十六不動巡り」宝山寺・奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天とも呼ばれる

2016-10-22 04:21:35 | 近畿三十六不動

「近畿三十六不動巡り」宝山寺・奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天を聖天堂に祀っている。生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。その当時は都史陀山 大聖無動寺という名であったという。江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山と思われる。江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。1918年には日本最初のケーブルカー、生駒鋼索鉄道(現、近鉄生駒鋼索線)が敷設されるほどだった。麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると約千段あり西日本有数の規模を誇る。歓喜天を祭り、現在でも年間300万人の参拝客を集めるとされる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「神仏霊場巡り」車折神社/京福嵐山電鉄に乗って車折神社駅で下車

2016-10-22 04:15:06 | 近畿三十六不動
「神仏霊場巡り」車折神社(くるまざきじんじゃ)京福嵐山電鉄に乗って車折神社駅で下車、賑やかで建て詰まった細い道を行くと緑に包まれた神社が車折神社である。祭神は清原頼業公で天武天皇の皇子、舎人親王に連なる清原氏の菩提寺の宝珠院の境内で清原真人頼業の墓所の有った所と伝えられている。「車折」の名については、後嵯峨天皇が大堰川行幸の際この前に突然。牛車の轅(牛車の前に突き出た二本の棒)が折れために、その社号を贈られたという。その後に亀山天皇が嵐山行幸の際、社殿の前で牛車が停まり、牛が一歩も動かないので、共の者が怪しんで、始めてこの社がることを知り、天皇の牛車から下りて「車折明神」の神号と正一位の神階を与えられた。境内には「天宇受売命」を祀る芸能神社があって、芸能人や上達を祈願の神として、芸能人の奉納した朱塗りの玉垣がある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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