「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)滋賀県長浜市の竹生島にある神社。式内社で、旧社格は県社。社名は「竹生島神社(

2016-10-08 04:00:38 | 滋賀古社寺探訪

「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)滋賀県長浜市の竹生島にある神社。式内社で、旧社格は県社。社名は「竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)」とも。祭神は次の三柱である。市杵島比売命 - 弁才天。宇賀福神 (うがふくじん。龍神でもある)浅井比売命 (あざいひめのみこと) 産土神。社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。天智天皇による志賀宮(近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる。神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。また、天平三年(731年)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったといわれるほか、行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『帝王編年記』天平神護元年(765年)の記事によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられたという。『日本三代実録』元慶三年(879年)には「筑夫嶋神社」の記載があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国浅井郡 都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列した。平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった[2]。現在も「日本三大弁才天」の1つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。慶長七年(1602年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい[2]、現在の本殿や宝厳寺の唐門が残っている。明治に入り、明治新政府は神仏分離令を出した。これに基づき大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、『延喜式神名帳』に見える「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れて寺院と神社の両方が並存することとなった。明治七年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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「滋賀古社寺探訪」水観寺・園城寺(三井寺)五別所の一つです。

2016-08-21 04:28:29 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」水観寺・園城寺(三井寺)五別所の一つです。別所とは、平安時代以降、広く衆生を救済するため本境内の周辺に設けられた円城寺の別院で、当寺のほかに微妙寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺があり、総称して「円城寺五別所」と呼ばれている。昭和五十九年(一九八四)、本堂が滋賀県指定有形文化財に指定され、全面解体修理されることとなり、現在の場所へ移築された。
当寺の歴史は深く、長久元年(一〇二八)、明尊大僧正の開基と伝えられ、中世最盛期には築垣を周囲に回し東西に総門を構える大伽藍でした。明尊大僧正は小野道風の孫に当たり、顕密の奥旨を究め、円城寺長吏、天台座主を務められ、本朝唯一の八宗総博士に任じられた平安仏教界を代表する高僧である。創建当初、ご本尊には十一面観音を祀っていましたが、文禄四年(一五九五)、豊臣秀吉による円城寺闕所の際に失われたようで、江戸時代以降は薬師堂の薬師如来をご本尊として現在に至っています。本尊薬師如来は、一切衆生を病気、災難から救済する仏さまとして、今も近隣の人々の信仰をあつめています。円城寺は、一般的には三井寺の名で親しまれている。三井寺には絶えることのない霊泉が境内にあり、その霊泉が天智・天武・持統の三帝の産湯に使われて「みい御井の寺」と呼ばれるようになり、さらに中興の祖である智証大師円珍が三部灌頂の法水として用いたので、「三井寺」になったと言われている。三井寺の広い境内には数多くの堂宇が存在し、壮大な伽藍を形成しており、また、観音堂は西国観音霊場の第十四番札所であり、参詣の人の跡が絶えことがない。
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「滋賀古社寺探訪」金剛輪寺・

2016-08-03 04:11:44 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」金剛輪寺・滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。本尊は聖観音、開基は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の一つに数えられる。琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平九年(737年)または天平十三年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。その後、平安時代前期の嘉承年間(848 - 851年)には天台宗の僧・円仁によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。本堂の須弥壇金具には弘安十一年(1288年)の銘があるが、これは前身本堂のもので、現存する本堂は南北朝時代の再興とみられる。天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
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滋賀古社寺探訪」延暦寺

2016-07-31 04:17:47 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」延暦寺・滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成六年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁十四年(823年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。最澄は俗名を三津首広野といい、天平神護二年(766年)、近江国滋賀郡に生まれた(生年は767年説もある)。十五歳の宝亀十一年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。二十歳の延暦四年(786年)、奈良の東大寺で受戒し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」を研究した。


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「滋賀古社寺探訪」立木山寺”新西国20番札所

2016-07-30 04:13:03 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番である。正式の寺号は「安養寺」(あんようじ)といい厄除けの寺院として知られる。「立木観音」の通称でも知られており地元では「立木さん」とも呼ばれる。寺伝によれば、815年(弘仁六年)、空海(弘法大師)がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光り輝く霊木を見つけた。ところが川の流れが速く、渡れないでいるところに白鹿が現れ、大師を背に乗せ対岸まで導いてくれた。白鹿はたちまち観世音菩薩に姿を変え、虚空に消え去ったという。この奇跡に感服した弘法大師は霊木に五尺三寸の観世音菩薩像を彫刻し、それを本尊としてこの寺を建てたという。この時、空海が厄年の四二歳であったとされるため、広く厄除けの霊験あらたかな観音像として信仰されることとなった。当寺は現在浄土宗に属するが、空海開基の伝承をもつことから、創建当初は真言密教系の寺院であったと推定される。
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「滋賀古社寺探訪」百済寺

2016-07-29 04:10:22 | 滋賀古社寺探訪
 「滋賀古社寺探訪」百済寺・山号は釈迦山「古東三山」で最も南にあって、金剛輪寺、西明寺と並んでいる。百済寺は推古天皇御世(606年)聖徳太子の御願で創建され、寺伝に似れば高句麗の僧、恵慈と共にここに訪れた際、山中に不思議な光る物が見え、近寄って見ると霊木の杉であった。根が付いたままに観音像を刻むと像を中心に堂を建立した。御堂は百済の龍雲寺を模したと言い、近江最古の由来を誇る。比叡山の延暦寺が開かれると、百済寺も天台宗の寺院となった。湖東の小比叡山と称され、鎌倉時代には天台別院と呼ばれ、周辺を含め一山寺坊千を数え、千三百人の僧が居たと言われている。その後、六角氏の内紛に巻き込まれ、また織田信長の比叡山焼打ちに一山が灰と化した。その後天海の高弟亮産によって再建された。

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「滋賀古社寺探訪」多賀大社

2016-07-29 04:05:05 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」多賀大社・滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。祭神は 伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。式内社で、旧社格は官幣大社。当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。和銅五年(西暦712年)『古事記』の一部には「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と当社の記載がある。『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮を淡路の洲に構りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第五次遣隋使・第一次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。藤原忠平らによって延長五年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。 「二座」とあるため、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命二柱が祀られていたと分かる。なお、摂社で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭の三柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。
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「滋賀古社寺探訪」御上神社

2016-07-25 04:09:07 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」御上神社・滋賀県は三上山とJR東海道本線野洲駅、新幹線と並行して走る国道からすぐ見える御上神社は『古事記』に「近つ淡海の御上祝がもち斎く天之御影神」と記されている。御神体は近江富士の三上山である。旧官幣中社。祭神は天津彦根命の御子である国土開拓の祖と言える天之御影命を祀る。創建は孝霊天皇の御世に三上山山頂に出現した三上の祖が祀ったのが始まりという。後の山上よりこの地に移し社殿を造立し祀ったと伝えられている。古くから我が国の鍛冶に祖神として崇敬され、浄火守護の神、日本第二忌火神として崇められてきた。『三代実録』には貞観元年(869)正四位に叙され、同十七年には従三位に叙せられた。武士の崇敬多く源頼朝が建久元年(1190)足利尊氏が建久三年に、豊臣秀吉が天正一四年(1686)にそれぞれ社領を寄進している。本殿は鎌倉時代の入母屋造り。神仏習合の影響か仏堂に融合した神社建築の国宝である。

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滋賀古社寺探訪」」長浜八幡宮・

2016-07-24 04:19:34 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」」長浜八幡宮・JR長浜駅から東に森が見えてくる。鳥居、拝殿、本殿が南北に並ぶ神社が長濱八幡宮である。古くは坂田八幡宮、将軍山新放生寺八幡宮と称した。祭神は誉田別命・息長足姫命・足仲彦命で応神天皇と神功皇后と仲哀天皇八幡神が祀られている。源義家が延久元年(1069)に三条天皇勅願を受けて石清水八幡宮より勧請し祀り、以来庄内十一郷の産土神社として地元の崇敬を受けている。朝廷や武将の崇敬深く足利義政が社殿造営し、三重の塔を建立、太刀、神馬を奉納した。湖北の浅井氏も社領、太刀、神馬を奉納したが、元亀・天正の戦乱に焼失した。その後天正二年(1573)に長浜城主になった秀吉に再建に務めた。この長浜天満宮も神仏習合で境内の横に寺院があって盛時には社領三千石、一山七三坊と伝えて栄えた。
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「京都古社寺探訪」三千院

2016-07-23 04:24:57 | 滋賀古社寺探訪
「京都古社寺探訪」三千院・京都は大原三千院は京都の北の大原に有って、寺伝に由れば延暦七年(788)伝教大師は比叡山に根本中道を創建のおり、東塔南谷の梨の大樹の下に一堂を立てたのが始まりという。貞観二年清和天皇の勅を受けて最澄自刻の薬師如来を本尊として、一念三千院、円融院と称した。その後堀河天皇の皇子最雲法親王が住持したのが最初の門跡として、以来、皇族の住持する寺となった。日本三門跡の一寺で五個室門跡にも数えられている。貞永元年(1232)本坊を焼失して以来、寺院は洛中を転々として、東小坂に始まって、西の京、東山白川などを経て、北山紫野に落ち着くが応仁の乱で焼失。大原政所を仮御殿として、御所の近くの河原町御車小路に本殿を構える。明治の神仏分離令によって大原に移った。三千院が大原にあって「三千院」と号した。往生極楽院は杉木立のなかの入母屋造りの御堂で、安置される丈六の本尊阿弥陀如来と脇侍の観音、勢至菩薩は国宝で堂内は船底天井という構造による。両脇侍は蓮台にやや前かがみに正座した「大和坐り」が特徴である。苔むした境内の庭園、有清園と呼ばれる石段を上がれば奥の院までの道の紫陽花は必見である。
 

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「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)

2016-07-23 04:22:44 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)滋賀県長浜市の竹生島にある神社。式内社で、旧社格は県社。社名は「竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)」とも。祭神は次の三柱である。市杵島比売命 - 弁才天。宇賀福神 (うがふくじん。龍神でもある)浅井比売命 (あざいひめのみこと) 産土神。社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。天智天皇による志賀宮(近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる。神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。また、天平三年(731年)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったといわれるほか、行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『帝王編年記』天平神護元年(765年)の記事によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられたという。『日本三代実録』元慶三年(879年)には「筑夫嶋神社」の記載があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国浅井郡 都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列した。平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった[2]。現在も「日本三大弁才天」の1つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。慶長七年(1602年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい[2]、現在の本殿や宝厳寺の唐門が残っている。明治に入り、明治新政府は神仏分離令を出した。これに基づき大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、『延喜式神名帳』に見える「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れて寺院と神社の両方が並存することとなった。明治七年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。
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「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)

2016-07-23 04:19:25 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)滋賀県長浜市の竹生島にある神社。式内社で、旧社格は県社。社名は「竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)」とも。祭神は次の三柱である。市杵島比売命 - 弁才天。宇賀福神 (うがふくじん。龍神でもある)浅井比売命 (あざいひめのみこと) 産土神。社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。天智天皇による志賀宮(近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる。神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。また、天平三年(731年)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったといわれるほか、行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『帝王編年記』天平神護元年(765年)の記事によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられたという。『日本三代実録』元慶三年(879年)には「筑夫嶋神社」の記載があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国浅井郡 都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列した。平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった[2]。現在も「日本三大弁才天」の1つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。慶長七年(1602年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい[2]、現在の本殿や宝厳寺の唐門が残っている。明治に入り、明治新政府は神仏分離令を出した。これに基づき大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、『延喜式神名帳』に見える「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れて寺院と神社の両方が並存することとなった。明治七年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。
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「滋賀古社寺探訪」円満院・

2016-07-21 04:31:29 | 滋賀古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」円満院・旧字体:圓滿院、新旧混用:圓満院)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台宗系の単立寺院(元天台宗寺門派)。門跡寺院。近畿三十六不動尊第二十五番。円満院では自らを圓満院門跡(えんまんいん もんぜき)と表すことも多い。水子供養の寺として「日本水子供養霊場会総霊廟所」を自称する。寺内には本堂や宸殿のほか、宿坊・三密殿と大津絵美術館を併設している。寛和三年(987年)に村上天皇の皇子悟円法親王により創建されたと伝わるが、平安時代中期の参議・藤原資房の日記『春記』には、園城寺の明尊が長久元年(1040年)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に新しい寺を創建し「圓滿院」と命名したという消息が記されている[1]。入母屋造、杮葺。当初は元和五年(1619年)に二代将軍徳川秀忠と御台所江姫の五女・和子(東福門院)が後水尾天皇に入内した際に禁裏に造営されたものと伝わる。その後正保四年(1647年)になって和子所生の明正天皇によりこれが円満院に下賜されて同地に移築されたもので、明治三十五年(1902年)には国の重要文化財に指定された。間取りは南北2列の計6室からなり、北西に位置する一の間には後水尾天皇が座ったと伝わる御座もある。各室には狩野派による障壁画が描かれていたが、今日見られるものは複製で、原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されて
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「滋賀古社寺探訪」明王院・

2016-07-11 04:42:40 | 滋賀古社寺探訪
滋賀県大津市葛川坊村町にある天台宗の寺院。山は北嶺山(安曇山とも)。本尊は千手観音。近畿三十六不動尊二十七番。開基(創立者)は相応和尚(そうおうかしょう)である。地名を冠して葛川明王院(かつらがわみょうおういん)と称されることが多く、息障明王院(そくしょうみょうおういん)、葛川息障明王院、葛川寺などとも称される(宗教法人としての名称は「明王院」)。大津市北郊の深い山中に位置する天台修験の道場である。開基の相応は回峰行の創始者とされている。大津市域北端の葛川(かつらがわ)地区にあり、JR堅田駅からバスで45分ほどかかる深い山中である。葛川地区は1,000m級の山々が連なる比良山系の西側、安曇川(あどがわ)に沿った南北に細長い地区であり、安曇川に沿って、京都と北近江・若狭方面を結ぶ若狭街道(鯖街道とも)が通じる。街道沿いに八つの集落が南北に列なり、明王院がある坊村の集落は地区の中ほどに位置する。『葛川縁起』(鎌倉時代前期成立)や相応の伝記『天台南山無動寺建立和尚伝』等によれば、明王院は、貞観元年(859年)に相応和尚(831 - 918、建立大師)が開いた修行道場という。相応は天台座主を務めた円仁(慈覚大師)の弟子で、はじめ比叡山東塔の南に位置する無動寺谷に住したが、修行に適した静寂の地を求めて当地に移ったという。現在、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像は相応の時代まではさかのぼらず、平安時代・院政期(12世紀)の作とされる。現存する本堂は江戸時代の建築だが、保存修理工事の結果、平安末期に建立された前身堂の部材が一部転用されていることが判明した。境内発掘調査の結果等から、平安末期には現状に近い寺観が整っていたと推定される。『梁塵秘抄』には葛川への参詣道について歌った今様が収められており、平安末期には山林修行地としての葛川が著名だったことがわかる。年代の確かなものとしては、九条兼実の日記『玉葉』治承五年(1181年)6月18日条に、「今日より法眼が葛川に参籠した」とする記述が初出とされている。
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『古代史群像の標榜』(全58回) 二十、元明天皇と平城京への道

2016-06-30 04:18:22 | 滋賀古社寺探訪
『古代史群像の標榜』(全58回)
二十、元明天皇と平城京への道

慶(けい)雲(うん)四年(707)文武の葬儀が終わって、気運は平城京に向けられた。
この頃武蔵国の秩父に和銅が献上されて、これを祝って和銅と改められた。和銅の産出は精錬の入らない使い勝手の良い純度の良い自然銅である。
和銅(わどう)改元(かいげん)は元明と不比等とによって進められる平城遷都に向けての銭貨「和同開珎(わどうかいちん)」の発行である。
貨幣については実際に流通していたかは疑問であるが、貨幣への認識はあったのか、勿論庶民にはその認識はなかったろうが、朝廷の中枢などは粟田真人の唐からの帰国によって周知していただろう。
和銅元年(708)平城京への遷都の詔が出された。その後の八年間は遷都に明け暮れていたと言われ、現在のような整地されていなく、平城山から延びる丘陵があって、その間に南から入り組んだ谷合があったらしい。平城京遷都への建設は地ならしから始まり、大極殿、内裏、東院など主要な建造物が建てられていった。『続日本紀』に依れば和銅三年に平城に遷都をする。
平城京の規模様子は南北に九条の通りがあって、北の中央に平城宮、その中央の門、朱雀門があって南に下り羅(ら)城門(じょうもん)の左右にそれぞれ四坊の筋があって、東北に外京に東宮に東大寺や興福寺などの寺院が置かれ、外京を除き東西4,3KM・南北4、8KMと言う規模の中に約10万人の人が住んでいた。
新都造営と政情不安が伝えられ、多くの民の労役が徴用されたようである。
この平城今日においては女帝が目立つことになる。藤原京においては持統天皇の主導もとに行われたが、平城京は元明女帝が積極的に進められた。
皇位継承者に血筋に適合した者が居ない場合、また候補がいても天武系の持統の長子の草壁が早世し、文武も天皇の地位に就くが病弱で亡くなって、次の首皇子の継承までの間の中継ぎの天皇に止む無く祖母の元明が成っても仕方のない所で、天皇家の主流を成す者の継承を優先した観がある。
707年に文武が病死した翌月、元明は即位をした。例によって皇位に就いた正統性とその理由を「宣命」形にして「地祇(ちぎ)天神(てんじん)のしずめし神の天皇の勅命、臣、公民のもろもろの聞こえる宣による・・・」と謳っている。
本来なら当時九歳の首皇子が文武の皇子として継ぐべき所、皇継から外れた祖母の皇位に継ぐに当たり廻りの者に気を使ったものである。
元明天皇のように天皇系の嫡子でないものの即位は一応特異な例と言える。しかも女帝であるが八年後の715年に娘の氷高皇女の皇位を譲り、個々に二代続いて女帝が誕生し、本格的男子の皇位までの「仲(なかつ)天皇(すめらぎのみこと)」としての皇位である。
氷高皇女が即位をして三十六歳で元正天皇となった。それでも文武天皇の嫡男の皇太子首皇子は幼く、それまでは元正は政務を執らなければならなかった。
元正天皇の即位時には首皇子は十五歳であったが、祖母の老女帝元明にはまだまだ不安があって、首皇子を
立太子させた。異母姉の持統は孫の文武天皇の譲位をさせるのに、五年間後見人の様な立場であったが、今自分も同じように首皇子の後見人の様な立場で見守らなければならかった。
持統の子の草壁皇子にしても、元明の文武皇子も病弱であった。何故なら生物学的にも近親結婚は病弱な子どもが生まれやすいらしい。
元正天皇の重職の布陣も随分と様変わりをして、左大臣の石上麻呂が亡くなって、代わりに臣下の筆頭は右大臣に不比等が成り、次男の房前が三十七歳で参議に就任、着々と藤原景が朝廷の重職に就くようになって来た。
元明と不比等の二人三脚も、710年の平城京遷都の五年後に元明は没した。
一方不比等は藤原家の基礎を築き、興福寺を建立の完成前の養老四年(720)に没した。その影響力は大きく文武の妃に娘の宮子を嫁がせ、聖武天皇には光明子を嫁がせて朝廷への盤石(ばんじゃく)な影響力を有して功績を残した。

★元正天皇(680~748)女性天皇、在位九年間、父は草壁皇子、母は元明天皇、文武天皇・吉備内親王姉、二品から一品に叙せられる。首皇子は幼少の為に元明天皇から即位をした。藤原不比等から長屋王が首班になって重要な政策を実施「三世一身法」などを施行。元明在世中は元明が実権を握り、没した三年後は「聖武天皇」(首皇子)に譲位し中継ぎの役を果たした。
★藤原宮子(?~754)文武天皇の夫人、不比等の娘、大宝元年(701)に首皇子(聖武天皇)を生んだ。聖武天皇が即位すると母宮子を尊び大夫人とする勅令が出された。ところが長屋王らの指摘によって撤回され,皇太夫人に、この事件で長屋王は失脚をした。
長年宮子は病の為に聖武天皇に会えず天平九年に玄昉の看護により会えたと伝える。
◆平城京、八世紀の古代都城。京域の大半は現在の奈良市にあり、西南の一部は大和郡山市に含まれる。藤原京から遷都の動きはすでに文武天皇の時に在り、慶雲四年(707)には諸王臣に五位以上の者に遷都の事を論じさせた。
翌年に元正天皇は遷都の詔を出し、「四禽図に叶い、三山、鎮を作す」と指摘されている。藤原京から平城京への発起と思いの要因は粟田真人や遣唐使が間近に見聞した長安の大明宮含元殿をわが国にも取り入れたい思いもあった。平城京に作られた大極殿は含元殿が類似している点にある。
京域は朱雀門と羅生門を結ぶ朱雀大路を中心に、東が左京、西が右京で、それぞれ東西の方向を大路には中央の羅生門を左右に一坊から順に外に向かって増え外京は別に増えて行く、南北に大路があるが南北には一条から九条に、条里制に基づくもので、坊と坪と里と条里制は班田図によって表現される。
平城京の人口は10万人位と予測され、もともと京内に居住し官職を持っている上級官人、地方から赴任してくる官人、京外に住み生活必需品の供給する人、人口十万人の首都平城京は当時としては大変な賑わいであったろう。
◆和同開珎*日本最古の銭貨。本朝十二銭の最初の銭貨。銀銭と銅銭がある。和銅元年(708)発行の。銭文「和銅」には年号、調和を表わす吉祥句(きちじょうく)の両方の意味が含まれている。律令国家が重点をおいた銅銭で、高い法定価値を付与して支払に用い、銭貨発行の収入を得た。
銀銭は、和同開珎の発行以前に存在をしていた地金(じかね)の銀の貨幣機能を銅銭に受け継がせようとするための媒介物として発行された。
このため銅銭が流通する存在意義は減少し、銀銭禁止令が出された。現在にある記念硬貨的色彩と銭貨発行による収入源も見込めたが貨幣としての流通は程遠いものがある。

※この頃の藤原京から平城京への人物上の大きな動きと詳細な記述はなく、二官八省など律令国家ついて述べられている。皇位継承に首皇子への引き継ぎに元明・元正女帝思いが遷都と「和同開珎」の発行で機運を高めるための意図が窺える。


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