「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

『歴史歳時記豆知識』19・遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』

2016-12-30 16:54:51 | 歴史研究
『歴史歳時記豆知識』19・遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。現在では中国側において派遣された遣唐使の墓が発見されたりしている。海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。・貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)・太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在しない。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。・12回説:藤家禮之助・20回説:東野治之、王勇・他に14回、15回、16回、18回説がある。日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)の隋の滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ崩御・薨去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の言葉を伝える役目を果たせずに帰国した(争った相手については『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王とする)。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを暗示している。詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、唐側も突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
コメント

「京都古社寺探訪」

2016-04-29 04:09:42 | 歴史研究
「古社寺探訪」実相院・京都市左京区岩倉にある仏教寺院。宗派は単立(元天台宗寺門派)、開基は、静基、本尊は不動明王(鎌倉時代作の木像)。門跡寺院の1つである。岩倉実相院門跡とも呼ばれる。鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基僧正により開基された。当初は現在の京都市北区紫野にあったが、応仁の乱を逃れるため現在地に移転したとされる。室町時代末期までに多くの伽藍等が戦火で焼失し、江戸時代初期に足利義昭の孫義尋が入寺。母古市胤子が後陽成天皇の後宮となった関係で皇室と将軍徳川家光より援助を受けて実相院を再建した。門跡寺院であり、代々の住職は天皇家と繋がりのある人物が務めた。本堂は東山天皇の中宮、承秋門院の女院御所を移築したものであり、四脚門・車寄せも御所より移築されたものである。老朽化が進み主な建物は多数のつっかい棒が施されてようやく倒壊を免れているのが現状であり、修理のための資金集めが課題となっている。幕末には岩倉具視も一時ここに住んでおり、当時の密談の記録などが残されている。庭園は池泉回遊式庭園と枯山水の石庭の2つがある。前者の池にはモリアオガエルが生息している。新緑、紅葉の頃とも見所となっており、特に部屋の黒い床に木々が反射する光景は「床緑」「床紅葉」と呼ばれ知られている。
コメント

「古社寺探訪」北野天満宮

2016-03-27 05:29:14 | 歴史研究

「古社寺探訪」北野天満宮・京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社。通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。祭神・主祭神菅原道真公・相殿神・中将殿・吉祥女を祀る。延喜三年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後二十年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶五年(942年)、右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり、五年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。その後室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する。天正十五年(1587年)境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。
コメント

『戦後日本史の記憶と記録』② 昭和20年(1945)「玉音放送」

2016-03-24 04:34:29 | 歴史研究
『戦後日本史の記憶と記録』②
昭和20年(1945)「玉音放送」
●8月15日・正午日本全国に向け ポツダム宣言を受諾し、玉音放送が流されて太平洋戦争の終結を見た。「玉音放送」と言えば過去の映像に見る皇居前に兵士や一般国民が平伏す光景である。人々の表情は落胆と疲弊しきった日本人の顔から窺い知れる。
冒頭に「朕は帝国政府にして米英支蘇四国に対して其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」と日本政府は四各国にポツダム宣言を受諾した旨を発言された。次に印象深い言葉に「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の国民に天皇が敗北を詫び、戦争の終結を告げるものであった。
日本の国民に取って、「現人神」天皇の言葉と肉声を聞くのが誰もが初めてのことだった。
ポツダム宣言を受諾によって終戦迎えるにあたり、天皇の終結宣言がなければ日本国内の収拾がつかないことは誰も周知するところであった。玉音放送の前日8月14日、日本側は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が天皇のご聖断・判断を仰ぎ、「ポツダム宣言」の受諾を決定した。「ポツダム宣言受諾」の意味するものは日本が降伏を意味するもある。
御前会議の後、詔書案の作成に取り掛かり、閣議に掛けられ若干の修正を加えられ文言が確定し、昭和天皇によって裁可された。この「ポツダム宣言受諾」を中立国スイスなどの駐在公使館を通じて連合国側に伝えられた。
○この玉音放送の作成については、当時の混乱の中、反対派の反乱や阻止の動きの危機を掻い潜りながら秘密裏に進められた。「玉音」は昭和天皇が詔書を朗読しレコード盤に録音するもので、その文言については内閣書記官長迫水久常が大まかに作成し、大東亜省顧問安岡正篤
編修して完成を見た。その日の内に条文の文言の裁可があった。陸軍の反乱を危惧する陸軍大臣が改訂を求めてきた。若干の修正の後に録音の作業に掛かり、早速、宮中で録音のする旨を日本放送協会に通達、録音班8名、協会幹部3人、録音機2組など、宮中大臣や侍従長ら見守る中、録音が行われた。
◇鈴木貫太郎(1868~1948)・海軍軍人、政治家、大阪府生まれ海軍大学校卒業後日清戦争で水雷隊長として、日露戦争では駆逐隊司令で、日本海海戦に参加、その後、海軍次官、艦隊司令長官を歴任2・26事件には反乱軍に襲われ負傷を負った。
1940年に枢密院で副議長、戦争末期の1945年(昭和20年4月)、「国体維持」のために、戦争終結を望む宮中グループに押されて、78歳の高齢で首相に就任した。戦争終結に尽力をつくした。
※「玉音放送」については国家最大の危機に際し、混乱している中、詳細に正確にその記録を知ることは難しい。諸説、異説が出る中、戦後日本の終結に奔走をした人々の苦悩がうかがい知れる。自身はその光景も体験もなく親から教わって「玉音放送」の印象を持っている。父親はインパール作戦で復員もしておらず、母親はどんな思いで聞き知ったかは聞いたことがないので、テレビの画面で知り当時の人々がどんな思いで終戦を迎えたかは思いは察するに余りある。

コメント

『古事記が語る古代の世界』③  全34回  三、伊邪那岐・伊邪那美の国生み

2016-03-13 04:49:14 | 歴史研究

『古事記が語る古代の世界』③  全34回


 三、伊邪那岐・伊邪那美の国生み

伊邪那(いざなぎ)岐(ぎ)・伊邪那(いざなみ)美(び)の国生み

「是に天つ神諸の命以ち、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神に詔りたまはく、『是のただよへる国を修理め成せ』とのりたまひ」
天つ神一同の言葉で、伊邪那岐命(イザナギ命)・伊邪那美命(イザナミ命)二柱の神は「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」との指示で、神聖な矛を授けて委任された。
天地開闢の前項で天上界、高天原は神々の出現で開けて行く中、地上界、葦津中国は混とんとして、漂い未だまだ固まらず、天つ神の委託受けイザナギノ命・イザナミノ命は授けられた矛を持って、天地間に架かった梯子に立ち、その先を下に降ろしかき回した。
潮をごろごろとかき回し引き上げた、矛(ほこ)のしたり落ちる潮水から積り重なって島となったのが、淤能碁呂島(おのごろしま)であった。
二神はその島に降り立ち、神聖な柱を立てた。そして広い御殿を建てて、イザナキノ命がイザナミの命に“汝が身は如何にか成れる”と尋ねた。
イザナキノ命の体とイザナミノ命の体の成り合わない所を合わせることによって、国土を生み出そうと思うと問いかけイザナミノ命も同意し「交合」することになった。
イザナキノ命は神聖な柱を廻って出合った所で「交合」をすることにした。
男神イザナキノ命はイザナミノ命に向かって「お前は右回りを、私は左回りで」と提案し、最初に生まれた子は、不具の子、水蛭子を産んだ。この子を葦の船に乗せて流して棄てた。次に生んだ淡路島を産んだ。しかしこの淡路島は御子の数に入れなかった。

※語訳解釈・イザナキノ命とイザナミノ命の結婚の儀式は「神聖な柱」を廻った所で「交合」する、神聖な行事であることを強調するために「神聖な柱」の設定にしたのであろう。
それも試行錯誤の末に結合に至った。この天上界と地上界の違い、未だ地上の世界は混沌として、定まらず、男女の神は地上創造に励むのである。
オノゴロ島については淡路島と本州の間の友が島を指しているのだろうと思われている。
国生みの基点となった、オノゴロ島、淡路島のついては日本列島の中心として、大和への交通の要所などが考えられるのではと思われる。
蛭子については農耕では蛭の吸血と容姿が忌み嫌われて捨てたのではないかと思われる。

●淡路島の次に●伊予之二(いよのふた)名島(なしま)(四国)を産んだ。この島は「面四つ有り」伊豫国を愛比売エヒメ(愛媛)、讃岐国を飯依比(いひよりひ)古(こ)(香川)、粟国を大都比売(おほけつひめ)(徳島)、土佐国を建依(たけより)別(わけ)(高知)を産んだ。
次に●隠岐の島、隠伎の三子の島、天忍許(あめのおしこ)呂(ろ)別(わけ)を産んだ。
次に筑紫(つくし)嶋(しま)を生んだ。この島(九州)も四面をもって形を成す、●筑紫国を白日別(シロヒワケ)、豊国を豊日別(トヨヒワケ)、肥国を建(たけ)日向(ひむか)日豊(ひとよ)久士比(くじひ)泥(ね)別(わけ)、熊曽国を建(けん)日(ひ)別(わけ)、の九州を生んだ。
次に●壱岐国を生んだ。名を天比(あめひ)登(と)都柱(とばしら)と言う。次に津島(対馬)を生み名は天狭手依比売(あめのさでよちひめ)と言う。
次に●佐渡島を生み、次に生んだ島は本州、名を大倭(やまと)豊(とよ)秋(あき)津島(つしま)と言う。

※説話解釈・淡路島、四国についいては、伊予之二名島は四国の総称であった。
現在にある四国四県は表記されている。隠岐島、九州についいては、九国に分類されていないが、神話の世界には筑紫は筑前,筑後の別れる前の一国名で筑紫は九州を代表される重要な所であった。
豊国は豊前、豊後の別れる前の所として明記、肥国は肥前、肥後の前の総称で、佐賀県、長崎県、宮崎県の日向は国としての存在されていない所であった。壱岐島、対馬、佐渡島、最後に本州となっていて、その順に不思議はないわけでもないが、北海道、屋久島、種子島、奄美、沖縄などには認識も範疇になかったもので、畿内から九州にかけての『古事記』の視野と勢力範囲だったのかもしれない。
こう言った国、嶋の地形背景は朝鮮半島や大陸に向けた交易、交流に重点された形跡ではないだろうか。
こう言ったイザナキノ命・イザナミノ命の国生みは、仏教の世界観の須弥山(しゅみせん)の構図に似ている。高い須弥山の中心に山あって、九山八海囲まれ四方の海上に北倶盧州(ほっくるしゅう)、南閻(なんえん)浮州(ぶしゅう)、東勝(とうしょう)身州(みしゅう)、西牛(さいご)貨(け)州の島が海に浮いていのに似ている。

コメント

『古事記が語る古代の世界』②  全34回 二、天地開闢  

2016-03-12 05:32:12 | 歴史研究

『古事記が語る古代の世界』②  全34回


二、天地開闢  
天地開闢  
『古事記』の序文として、編纂者の臣安萬侶の『古事記』を作成し天皇に奏上するにあたりその経緯を書き記してある。    正五位上勲五等太朝臣安万侶
冒頭の天地開闢の天地創造の描写は神秘的で、まるで宇宙創造の場面に似通って、中国の影響の発想かも知れない。
「臣安万侶言さく、夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無く、誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分れて参神造化の首と作り、陰陽期に開けて、二霊羣品の祖と為れり。」と語り始める・・・・・・・・・・
そもそも宇宙の初めで混沌として、固まらず生成力も形も現れなかった頃、名も無く動きもなく、誰もその形も知る者は無かった。しかし初めて天地が分れ、そこから天(あまの)御中主(みなかくし)神(かみ)・高(たか)御産(む)巣(す)日(ひ)神(かみ)・神産(かむむ)巣(す)日(ひ)神(かみ)の三神が万物の創造の初めとなった。みな独神(一人神)すぐに身を隠した。
次に現れた神は宇摩志阿斯訶備比遅(うますあしびこじの)神(かみ)・天之(あめの)常(とこ)立(たち)神(かみ)の二神が現れすぐに身を隠した。
別天つ神(五神)
●天御中主神・・・・・・・・・・『古事記』で最も現れた、高天原の中心神          
●高御産巣日神・・・・・・・・・別天つ神で二番目に現れた神、皇室系の神、       
●神産巣日神・・・・・・・・・・別天つ神で三番目に登場する神 出雲系の神       
●宇摩志阿斯訶備比遅神・・・・ 別天つ神で四番目に現れる神、生命を表す神       
●天之常立神・・・・・・・・・・別天つ神で四番目に現れる神              
次に現れた神々は
その後陰と陽が分れると。独り神二神と夫婦神の五組の神が現れた。
始めに国之常立神・豊雲野神の二神が現れ、直ぐに身を隠した。次に宇比地迹神・妹湏比遅迹神・角杖神・妹活杖神・意富斗能地神・大斗之弁神・於母陀流神・妹大斗乃弁神・伊邪那岐・伊邪那美の二神が万物の生みのだす祖神となった
神世七代
●国之(くにの)常(とこ)立(たち)神(かみ)・・・・・・・・・・・・万物の生命力、生長力を神格化された男神   
●豊(とよ)雲(くも)野(の)神(かみ)・・・・・・・・・・   原野を形成される神格化された神       
●宇比地迹(うひじにの)神(かみ)・・・・・・・・・・・ 泥土を神格化された神・男神         
●湏比遅迹(すひじにのかみ)神(かみ)・・・・・・・・・   宇比地迹神と夫婦神、女神          
●角(つの)杖(ぐひの)神(かみ)・・・・・・・・・・・・・ 成長力が神格化された男神          
●妹(いも)活(かつ)杖(ぐひの)神(かみ) ・・・・・・・・・・角杖神と夫婦神、  女神          
●意富斗(いhと)能(のう)地神(ぢかみ)・・・・・・・・・・ 性器を神格化された神、男神         
●大斗之(おおとの)弁(ぢの)神(かみ)・・・・・・・・・・・・意富斗能地神とは夫婦神、女神        
●於母陀流(おもだるの)神(かみ)・・・・・・・・・・・・容貌をたたえる神、愛の誘いを神格化した男神 
●阿夜訶(あやか)志(し)古泥(こねn)神(かみ)・・・・・・・・・・於母陀流神と夫婦神、女神          
●伊邪那(いざな)岐(ぎ)神(かみ)・・・・・・・・・・  国生みを命じられた神、男神         
●伊邪那美神・・・・・・・・・・・・伊邪那岐神と夫婦神、 女神         

※説話解釈・『古事記に』に最初に登場するのが、上記の特別な神・別天つ神が五柱・神世七代の神々は大きな働きはないが、天地開闢とそれぞれの役割が記されている。伊邪那岐・伊邪那美の古事記の創世主の登場の前段の前振りかも知れない。
五神と七神は五・七の吉数と中国からの影響と思われ、それぞれ役割、趣も違い、名前についての由来については定かではなく、古事記に出てくる神々の名が難解な文字が使用されていることについては理由が分らないが、今から一三〇〇年前にすでにこのような漢字が使われていたことについては多くの謎が残る。
この様な難解な漢字が古代日本に神々に命名された所以は、由来にも未解明な部分が多く、前講に述べた、音訓併用分で構成されている。
神世七代の最後に登場した夫婦神、伊邪那岐・伊邪那美が『古事記』の世界を形成して行くことになる。
後にイザナミとイザナキの神生みの神のとの関連性は記されていないが、天地創生には夫婦神と神の形容や森羅万象を表す神々の前章として記されているのかも知れない。

コメント

『古事記が語る古代の世界』①  全34回 一、はじめに

2016-03-11 04:32:32 | 歴史研究

序文
日本人の古代や起源を解くにあたり、「記紀」を無くして語ることはできない。
特に『古事記』の「奇想天外」な神話の世界に、一つ一つ古代の謎を鍵が秘められている。驚天動地(きょうてんどうち)の説話の展開にも古代史実への暗示がある。
何より、人情味あふれる喜怒哀楽(きどあいらく)が、歌の数々に込められた古代の人々の思いを窺い知れる。
また『古事記』に盛り込まれた歌詞に、秘められた人間の性が持つ、普遍の憎愛が、歴史を刻む思いがする。
また『古事記』が献上されて千三百年、今、改めて『古事記』を解き読むことで、古代社会の情景や心情、時代の趨勢と背景を、徐々に解き明かされて行くと思われる。
今後の発掘と記述の検証によって未知の古代世界を切り開き、謎を解き明かす時が来るだろう。
『古事記』を読み解きは、知識力以上に理解力を必要とし、想像力も欠かすことはできない。それ以上に古代への深い想いと情熱をもって古代に思いめぐらせば、自ずと『古事記』を通じて日本の起源と古代の謎が開かれて行くのではなだろうか。
『古事記』は現存する日本最古の史書とされ、二十九年間の舎人・稗田阿礼らの誦習と四カ月の編纂、 全三巻で構成され、和銅五年(712年)に太安万侶(おおのやすまろ)によって編纂された。編算に当たって「帝紀」「旧辞」(参考資料)にされて作られた。
『古事記』には天地開闢から推古天皇まで時代までの間を叙述されている。
古事記研究には多方面から研究され、中でも本居宣長の研究は古事記究明に貢献され、その後の国学に与えた影響は大きい。
よく「記紀」は対比させ、『日本書記』は漢文様式で『古事記』は日本語の音を主体に表記されている。『古事記』と『日本書記』の筋書きの内容も異なり、同時代に編纂され作成された、二史書はどうして後世に伝えたか、伝えなければならなかったか、疑問は残る。
古事記研究には四大国学者の研究によって少しずつ今日のような形に解明されていった。
『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。『古事記』の存在を証明する物証もなく、従って古くより古事記偽書説がながれ、最古の写本が室町時代のものとされ、懐疑的な論議がなされたが、近年、昭和五十四年(1979)太安万侶(おおのやすまろ)の墓が発見され、昨今その墓が「太安万侶の墓」と確定された。その事によって「古事記」と「太安万侶」の編纂と実在性が明らかになって行くのである。
近年難波に宮跡発掘で七世紀中頃の、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が発見され、万葉仮名は七世紀末とされているが、これらの発見で二、三十年遡ることになる。
万葉仮名は漢字一字を一音にあてて表記したもので、その後太安万侶の『古事記』編算で一句の中に音と訓を交えている、言ってみれば日本語、漢字の「併用表記」と言えるのではないかと思われる。
そう言った点、稗田阿礼(ひえだのあれ)の記憶している記憶されている『古事記』の事柄に太安万侶の苦心が窺われる。
『古事記』の写本は主として「伊勢本系統」と卜部本系統の別れ、最古の初本は真福寺古事記三帖(国宝)である。奥書の祖本は上下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本で、道果本で真福寺本に近いとされ、その他は卜部本系統とされている。
これら室町時代、南北朝時代の写本となっている。
その後近世になって下記の国学者らによる『古事記』の研究が盛んになって行き、新たな『古事記』の再評価に繋がって行った。
荷田春満(かだのあずままろ)(1669~1736)伏見大社の神職に生まれ、徳川吉信宗に国学の学校の創設を嘆願した。賀茂真淵(1697~1769)賀茂新宮の禰宜(ねぎ)の家に生まれ、荷田春満に入門し、田安家の和学の御用となった。本居宣長(1730~1801)伊勢の商家に生まれ、医者を続けながら「記紀」を研究しながら「古事記」前四十四巻を著した。平田(ひらた)篤(あつ)胤(たね)(1776~1843)出羽秋田藩士の子。脱藩し宣長に師事し、後に復古神道に貢献し神道の基礎を確立した。
上記の学者らによって、「記紀」で『日本書記』のテキスト、参考文献でなかった『古事記』を『日本書記』以上に重要性を世に知らしめた。
近年津田左右吉、折口信夫などの学者によって、新たな『古事記』に対する新説が生まれ、様々な評価もなされて行き、今から1300年前に記された「記紀」に思いを巡らせ議論が重ねられ、古代の謎を解く鍵と深い推測が生まれつつある。

『古事記』は上巻・中巻・下巻に別れている。
上巻は天地開闢から鵜(う)葦(ふき)草不合(あへずの)命(みこと)まで日向三代まで。
中巻は神武天皇から応神天皇まで。
下巻は仁徳天皇から推古天皇までの三巻に別けられている。

※「記紀」は『古事記』と『日本書記』は並び称される史書であるが、『日本書記』は国史として『古事記』は天皇家の史書として趣は異なった史書として編纂された。
国史には『日本書記』『続日本紀』『続日本後紀』『日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』があるが『古事記』には国書としての扱いを受けていないが、近年『古事記』の重要性が日々高まりを見せている。「記紀」の重要性は互いにその欠落を補う形で対比されている面も否めない。





コメント

近江王朝の系譜の謎

2016-03-10 04:50:13 | 歴史研究
 近江王朝の系譜の謎

「顕宗天皇」弘計尊・来目稚子尊・父は市辺之忍歯王(履中天皇の皇子)、母は蟻臣夷媛、皇后難波小野王、没年三十八歳、在位三年間、皇宮近飛鳥八釣宮、陵墓傍丘南陵(奈良県香芝市北今市、弟顕宗天皇は双子と言われ、播磨に身分を隠していた時に、牛飼い、馬飼いの業を因み、子笥、大笥と名前であると言う。
説話に依れば、皇位継承で互いに譲り合った話で有名で、父王が雄略天皇に殺された話を知って、兄弟は直ちに逃亡し「古事記」に依れば播磨国の志自牟の家に働いていた。「日本書記」では丹波国に行き余謝郡に行き、後で播磨国明石郡の縮見屯倉の首の忍海部,造細目に仕えたとする。
古事記の説話に「置目老媼」天皇が父王の市辺王の遺骨を探しておられた時に、近江に住む卑しい老婆が「王子様のお骨の埋めた所を私は知っている、歯も知ることが出来ます」父王の特徴は羽が三つに分かれ大きい歯だった。
そして骨を捜し掘り起こし、蚊屋野東の山に御陵を造った。その後父王の骨を河内の近飛鳥宮に持って上がられ、教えてくれた老女にお召しになり「置目老媼」と名付けて大切にされたと言う。
「猪飼の老人」父王が逃亡の折りに、召し上がり物を奪い去った猪飼の老人を捜し,都に連れてきて飛鳥川の河原切り殺し、一族の者を膝の切る刑に処した。以後猪飼の子孫は都では足が真っ直ぐに立てない逸話があったそうだ。
「雄略天皇陵破壊」父王を殺した雄略天皇を恨み、御魂にまで報復をしょうと思われたが兄王(意祁命)の忠告で人を指し向けずに、私自ら自分の手で壊してきましょう。天皇は承知した。兄王は河内国の丹比に行き、雄略天皇陵を少し掘り起こして帰られた
。天皇は余りに早く帰られたので、どの様にされたか聞いた所、「御陵の傍らを少し掘り起こしました」父王を殺した前天皇は仇ですが、我ら叔父であります。
もし全部壊したとしたら、後世の人は非難するでしょう。少しではあるが父王の恨みを晴らしたと告げて、天皇をたしなめられた。
その後、天皇が三八歳の若さで崩御、兄王の意富祁命が即位された。
「日本書紀」には任那・高麗との通交の記事が残されている。阿閉臣事代が、命を受け任那に使いを出した。
この時月の神が憑いて「皇祖、高皇産霊は天地を造りなった巧がある。献上すれば、慶福が得られるであろう」山城国の歌荒樔田を奉じ、壱岐の県主の祖先が押見宿禰がお祠り仕えた。
この年に、紀伊磐宿禰が、任那から高麗へ行き交い、官府を整えて自ら神聖と名乗った。任那の佐魯、那奇他甲背らが計り、百済の臣を殺し帯山城を築き東道を守った。勢い盛んで打ち破って言った。
こうして父王の無念を晴らし、助けたものには恩賞を与えられた。

「仁賢天皇」億計尊・大脚、父は市辺之忍歯王、母は蟻臣夷媛、皇后春日娘皇女、没年50歳、在位11年間、陵墓埴生坂本陵(藤井寺市青山)、皇宮石上広高宮。
天皇は石上広高宮にあって和珥氏系の女性と結婚関係が有ったとされている。その一人に雄略天皇と
珥臣深目の娘との間にできた春日大娘皇女である。雄略の童女君と一夜的妻がいて、それが仁堅天皇の皇后の正統化にさせ、更に継体天皇の皇后になった。ワニ氏系の天皇である。
「古事記」には簡単な記述のみ述べられている。手白香皇女の生母の血筋を引くもの重く見る考えがあって、もう一人の妃も和珥氏に出自する女姓で春日山田皇女をもうけ、継体の皇子安閑の妃となった。宣化天皇の妃も仁堅天皇の娘の橘仲皇女であった。
そうして継体天皇の血脈の継承を複線を打ち出すことによって、継体以降の連続性を強調する思惑があったようである。仁堅天皇には皇女が多く、皇子は一人、それも実在は疑問視されている。
「日本書紀」には「日鷹吉高麗に使わす」記述が残されている。
日鷹吉士を遣わして高麗に送り、巧手者を召された。その残された女の嘆きと泣き声と物語を書き綴ったもの、があって再び高麗から帰ってきた様子を書き、高麗の渡来人を奉じ、その子孫が倭国山辺郡の額田の皮工高麗の子孫と記されているが、その内容に意味不明なとこがあって判読しにくいものがある。

「武烈天皇」小泊瀬稚鷦鰞尊、父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女、皇后春日娘子、没年18年、皇宮泊瀬列城宮、陵墓傍丘磐坏丘北陵(奈良県香芝市今泉)
母は雄略天皇が和珥深目の娘を娶って産んだ女性なので、ワニ氏系の天皇といえる。
「日本書記」には“影媛と鮪”の説話には、武烈天皇には御子がなく、臣下の平群真鳥臣の勢力の台頭が見られる。
仁賢天皇の崩御後、欲しいままに天皇を欺くように節度をわきまえなかった。物部角鹿火大連の女の影媛を娶ろうとされ、仲人を命じて影媛の家に赴き約束された。影媛は真鳥大臣の子に鮪に犯されていたので、大子に発覚すること怖れて、表面的には造ろう、命に反し裏で影媛は通じ、偽り続けた。無礼な親子についに太子は怒られた。
大伴金村連の命じて、兵を集め討つことを計画された。
大伴連は数千の兵を率いて、逃げ道を塞ぎ、奈良山に殺した。影媛はその有様を見て気を失った。大伴連は太子に進言し、平群真鳥を討つ事を提案し相談した。
大伴連は兵を率いて、真鳥の館を取り囲み焼き払った。その責めは一族にまで及んだ。全てが終わった後、大伴連は太子の徳を讃えて、即位を奉じた。
その恩賞か大伴金村連は大連とした。
”武烈の暴虐“の説話に武烈天皇の暴虐は人民の評判は芳しくなったようである。
春日郎子を皇后として立てたその年に、妊婦の腹を割き、胎児を見た。翌年には人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。翌年には人の頭の髪を抜いて樹の上に登らせて、木を切り倒して落とし殺し面白がった。
こんな武烈天皇の愚行を百済の王を例えに出して、百済の未多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王である。
その後、武列天皇の残虐な愚行が記載されている。
人を池の堤の桶に入れて、外に流れるのを三つの刃の矛で刺し殺して、喜んだ。
詔して、「国政を伝えるかなめは、自分の子を跡継ぎに立てることが重要である。自分には後継ぎがない。何を持って名を伝えようか。」と継嗣に恵まれなかった天皇の嘆きが伝わる。
ある年には、女を裸にして、平板の上に座らせて、馬を引き出して面前で交尾をさせた。女性の陰部を調べ、うるおっている物は殺し、うるおっていない者は、官婢として召しあげた。思うつくままに、贅を尽くし暖衣をまとい、百姓の凍えることを意に介せず、美食を口にして民の上を忘れた。ふしだらな騒ぎを欲しいままに、酒と女に溺れた天皇は列城宮にて崩御した。
*天皇の残虐性は継嗣のいなかった事と、嗜める者もない孤独さを伝え、自暴自棄の用紙が窺えるものである。「日本書紀」の編纂者は、皇祖を恥じる事無く、赤裸々に武烈天皇を書き記している。

「継体天皇」大男迹王・彦太尊、父は彦主人王、母は振媛、皇后手白髪郎女、后妃尾張目子媛。没年82年、在位25年、皇宮樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余王穂宮、陵墓三嶋藍野陵(茨木市太田)
皇孫の中でも、最も特異な継承で皇位を引き継いだ天皇と言えよう。
万世一系の皇孫に有って傍系といって、よいほどの「古事記」には「品太天皇」五世之孫して、「日本書記」には応神天皇の五世孫、母方は垂仁天皇の八世孫で、父の名は彦主人王、母の名は振媛と記されている。
振媛について「日本書紀」には振媛の容姿端麗でたいそう美人の噂を聞き、使を遣わして越前国坂井の三国に迎え、召しいれて妃とされたと言う。 その後継体天皇の父王が亡くなられたので母方の高向(越前国坂井郡高向)の帰り親の面倒を見ながら育てたいと越前に帰られたという。
五代の前の祖先が天皇といったもので、遠祖を立てなくても、大和王朝の近親の皇子、王が存在して居ただろうが、皇位を継承御子が途絶える事が考えられるであろうか、五代前の地方の皇族を継承させなければ成らない、深い理由が有ったのかも知れない。
「古事記」では継体天皇の出自については「近淡海国」〔近江国〕「近江国高島郡」で生まれ、幼少期母と「越前三国」に行きそこで育った。
大和、河内から遠く離れた所に居る皇系の存在も不自然に思われる。
「日本書紀」には大伴金村大連などの重臣が集まって協議がされた。「今後継ぎが居ない、と憂い・・・・仲哀天皇の五世の孫、倭彦王が丹波国の桑田郡に居られる。試みに兵士を遣わしお迎えしてはどうか」と言った。所が、計画通り迎えに行った所、兵士を見て望見して恐れをなして、山中に遁走し行方不明となった。
また重臣が集まって協議が行なわれ、男大迹王は性格の良い情け深く、皇位を継ぐに相応しいお方で、お勧めして皇統を栄えさせよう」物部角鹿火大連、許勢男人大臣らは皆他に見当たらないと賛同し、再度迎えに行くことが決定した。
連らが、君命を受けて節の旗を持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。兵士らが囲い守り、容疑いかめしく先払いをしながら到着すると、男大迹天皇は、ゆったりと床几にかけて侍従を整列させて、既に天子としての風格をそなえられていた。
天皇は河内国交野郡葛葉の宮につかれた。重臣は天子のみしるしの鏡、剣を立ては拝礼をしたが、天皇は「国を治めることは大事なことだ、自分としては天子としての才能はない。力不足である。良く考えて賢者を選んで欲しい」と辞退されたと言う。
大伴大連らは口を揃えて「国を治められる適任者です。どうか国の為に、多数の者の願を聞いてください」重臣ら世を治めるには、確かな皇太子が必要と后妃を進めた。
先々代の仁賢天皇の皇女である手白髪命を進め、娶られた。やがて生まれた皇子が天国排開広庭尊(欽命天皇)である。前王統の入り婿的な立場で血脈は引き継がれる。
元からの妃、尾張連草香の娘を目子媛と言う。二人の皇子を生み皆天下を治められた。
安閑天皇と宣化天皇である。
こうして葛葉(大阪枚方市)で即位したのちに、山城筒城〔京都府京田辺市〕に次ぎに弟国(京都府長岡京市・向日市)と遷都され、磐余穂宮〔奈良県桜井市〕に宮を置かれたときには二十年を経過していた。
* 一般的には継体天皇の天皇継承には王朝交代と見るのは自然と誰もが思い、皇位継承の血脈の大前提に、応神天皇、垂仁天皇の血脈を持って皇統の正当性に説得性を求めた。推測として近江、越前の大豪族が中央の王朝を倒し,大和に居を構えるに年数を要した。
一地方の豪族に妥協案に前王統の血を引く者の配偶者で后妃で、皇子の皇位を持って大和入りが可能になったのかも知れない。
もう一つに継体天皇擁立に大和の豪族、重臣らの積極的な働き掛けも王朝交代の説に考慮しなければならない。

「任那四県の割譲」 継体天皇時代の朝鮮半島との交渉はどうなったのか、穂積臣押山を百済に遣わし、筑紫国の馬四十四匹賜った。
百済が使いを送り、任那の四県を欲しいと願った。穂積臣は奉じて「この四県はは百済と連なり、日本から遠く離れて国の様子がわかりにくい、このまま切り離した方が後世の安全の為に良いのでは」と大伴大連も同調した。
難波館に行き、百済の使に勅を伝えようとする時に妻が諌めて「住吉神は海の彼方は金銀の国である、百済、新羅、高麗は応神天皇が胎内に居られる時からお授けになった」こう言った流れに大伴大連は百済から「賄賂」を貰っている噂が流れた。
*大伴連が百済の任那四県を欲しい要求に取り成しをした形で、古代でも「賄賂」の風習があったのかも知れない。
「磐井の反乱」毛野臣が兵六万を率いて任那に行き、新羅の破られた南加羅を回復し、任那に合わせようとした。この時に筑紫国の国造の磐井が秘かに謀反を企て隙を窺っていた。
新羅はこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように進めた。そこで磐井は肥前、肥後、豊前、豊後などを押さえて軍が職務を果たせないように、外には海路を遮断し、高麗、任那、百済、新羅の貢物を船を欺き奪い、内には任那の毛野軍をさえぎり、混乱させた。
そこでこの乱を鎮める重臣が適任者を探したが、物部の角鹿火より他に居ないと、天皇に進言すると「それが良いと」物部角鹿火が派遣された。大将軍物部角鹿火と敵の首領磐井との激しい戦いでついに角鹿火は磐井を破り、反乱を鎮圧した。
天皇が病に犯されて八十二歳で崩御、在位二十五年で藍野陵に葬られた。

「安閑天皇」匂大兄尊・広国押武金日尊、父は継体天皇、母は春日山田郎女、没年八十歳、陵墓古市高屋丘陵(羽曳野市古市)
安閑天皇は即位前は勾大兄皇子と呼ばれ「勾」は大和高市の地名である。生まれ育ったのは母の出身地の尾張と見られ、「大兄」と名乗った皇子は多いが、勾大兄皇子は継体天皇の崩御の前に皇位に就けたと言う。実際は数年間は二朝並立状態だと見なす説も多い。
安閑、宣化は継体天皇が即位前で、尾張の后妃目子媛の生まれた皇子。欽明は天皇は仁賢天皇の皇女の手白髪郎女の生まれた皇子。安閑、宣化のほうが大和豪族の血脈からすれば、筋が通っている。
また継体天皇が八十二歳で崩御、安閑天皇の没年が七十歳、在位五年で年齢的に無理があるが、十七歳で生まれたことになる。
安閑天皇即位後、暗殺説もある。大和王朝内に二派があって、次の宣化天皇も五年の在位を考えればそれもうなずける。

「宣化天皇」檜隅高田皇子・武小広国押盾尊、父は継体天皇、母は尾張目子媛、没年七三歳、在位5年、皇宮檜隅廬入野宮、陵墓身狭花鳥坂上陵〔奈良県柏原市鳥屋町〕
宣化天皇は即位前は「檜隅高田皇子」と呼ばれ安閑天皇同様、尾張連の出身で生まれ育ったのは、尾張と言われている。
宣化は仁賢の皇女の橘仲皇女を娶り、石姫を産ませている。石姫は欽明天皇の后妃となって、後の敏達天皇を生んでいて、後々の皇継に繫がってゆく、また宣化の末裔には皇族が残されている。継体の皇子の内一番深く、前々皇系に結びついているのが、万世一系の理に適う一筋の糸であった。宣化天皇には即位と共に、蘇我稲目の起用である。

「欽明天皇」天国排開広庭尊、父は継体天皇、母は手白髪郎女、后妃蘇我堅塩媛・蘇我子姉、没年63歳、在位33年間、皇宮磯城島金刺宮、陵墓橧隅坂合陵(奈良県明日香村)
欽明天皇の「嫡子」と記される。安閑、宣化天皇の尾張連の出身と違って、仁賢天皇の皇女、手白髪皇女の血を引いていることの強調にある。母方を通して、雄略天皇の血も引いているのである。
もう一つ特記される点は、未来の王権を脅かすであろう、大物豪族の起用と血縁関係の構築で、蘇我一族の台頭をきっかけとなる后妃の関係である。欽明天皇の六人の后妃に内、異母兄宣化の娘、三人の石姫らと二人は蘇我稲目の娘の堅塩媛、小姉君、もう一人はワニ系の女性である。
ここから用明、崇峻、推古の三人の天皇を輩出するのである。蘇我氏に取り天皇家と婚姻関係を結ぶことによって、確固たる基盤を築く思惑と、飛鳥時代への大きな布石となった。
「日本書紀」によると百済の聖明王より、欽明天皇に仏像に経典が送られてきた。重臣の内、蘇我稲目だけが賛成し、仏像を稲目に渡した。以後日本は仏教導入を通して紛糾し波乱が生まれるのであった。
大伴金村の失脚は蘇我の台頭と同時に、ふとした発言から大伴金村は失脚し時代の趨勢を物語、廃仏派の物部氏と蘇我氏の対立で、物部氏は失脚してゆくのである。
外交では新羅謀略の戒め、任那を廻り、新羅が偽装し、一方任那は日本に復興の要請と、百済が絡み複雑に事態は変わってゆき、任那の復興の計画の最中、百済が高句麗に攻略され、防御に日本に救援要請が求められる。その内に任那が滅亡し朝鮮半島は混乱は、次ぎの飛鳥王朝時代の天皇に引き継がれてゆく。
                 了
コメント

河内王朝継承の謎

2016-03-08 04:30:07 | 歴史研究
河内王朝継承の謎
応神天皇(誉田別尊)父王仲哀天皇の第四子で母は神功皇后である。皇宮は軽島豊明宮で天下を治められた。在位41年、没年111歳、巨大な誉田山古墳に葬られた。
神功皇后が新羅を征伐した年、遠征先の筑紫の蚊田で生まれたとされる。応神天皇に関しては神功皇后の編で述べているが、麛坂王、忍熊王の反乱の制圧で王朝交代したと推測される。
戦前には皇室の万世一系が国是であったので王権の後退は公表はできなかったので研究者の自由な立場から、「古事記」に「日本書紀」に出てくる神話の時代から神武天皇、欠史八代を経て、三輪王朝の時代より実在の可能性を検証しつつ、なぞらえる根拠の事項はないかと模索されてきた。
後継争いが単なる兄弟の王族内の争いは別にして、神功皇后と応神天皇のように、ヤマトに帰還すると先帝の兄皇子二人が軍を挙げ待ちうけている事変については、身内争いでない旧勢力と新興勢力の戦いと位置づけだれるであろう。
その後に於いては継体天皇の不自然な皇位継承は歴然とした別の系統の王朝交代と思われている。
八幡宮の祭神は応神天皇である。八幡神が歴史の登場するのは「続日本紀」記事に伊勢神宮と奈良大神神社と並んで八幡が記載されている。
日本の神社12万余社の内、4万社余りが八幡宮の総本社が宇佐に祭られている宇佐八幡宮である。
この九州は神功皇后の九州の征伐と新羅派遣の基地の関係化関わりの深さを窺える。その後神仏習合の影響を受け「南無八幡台菩薩」として日本国中広まって行った。また源氏の守護神として義家は「八幡太郎」として武勇の祈念神仏である。
また祭神には応神天皇、神功皇后,比売大神の三神で、仁徳天皇、仲哀天皇、玉依姫が入れ替わる。
「日本書紀」には九州、新羅からの帰還の際の浪速の津で荒ぶる神の障害に、天照大神のお告げや、住吉神、底筒男神、中筒男神、上筒男神お告げがあって、大和の兄王の香坂王、忍熊王の反乱に祖神の加護を表し皇孫の正統性を強調する。

「古事記」にはホムタワケ命(応神天皇)軽島の明宮で天下を治めた。ホムダノマワカノ王の女と結婚された。多くの妃26柱の御子が産まれこれらの中からオホサザキノ命が王位を継承された。応神天皇の、和風諡号はホムダワケでワケで河内王朝の始祖としての位置付けに后妃の生んだ多くの皇子、皇女を詳細に記されている。
応神天皇は後継でオホヤマモリノ命とオホサザキノ命を尋ねて「お前達は年下の子と年上の子とどちらがかわいいか」問われた。そこでオホヤマモリノ命は「年上の子のほうが可愛いく思われます」と答えた。
オホサザキノ命は「年上の子は成人しておりますので、気にかかることはないが、年下の子は成人していないので可愛く思われる」と答えると、「オホサザキノよお前の言ったことは私と同じだ」「オホヤマモリノに山と海部を管理し、オホサザキノに私の統治する国の政治をしなさい。ウヂノワキイラツコには皇位を継ぎなさい」と命じられた。
三人の異母兄弟のうちヤカハエヒメ(丸邇臣出身)の生んだ皇子が皇位を指名された。
* ヤカハエヒメハワニ氏の女で、奈良市の北部一帯を拠点とした大豪族である。ワニ氏が天皇を迎えての大宴会での「歌」が宇治から葛野、近江にかけて有したワニ氏の様子が分かると言う。

応神天皇が日向国から召された美しく麗しいカミナガヒメを難波津に着いたのを見て、大雀命(オホサザキノ)感動されタケウチノ宿禰に頼み、天皇に「私に下さるように」取り成しを求めた。天皇に許しを請うとカミナガヒメを皇子に与えられた。
*この辺りの記述は女を与えられた話は応神天皇と仁徳天皇の同一人物ではないかと言う説の根拠の一つして考えられる。

「百済の朝貢」説話に応神天皇の御代に、海部、山守部、伊勢部を定めた。また剣池を作った。また新羅の人々が渡来した。タケウシウチノ宿禰はこれらの人々を率いて、渡の堤池として百済池を作った。
百済の国王の照古王は、牡馬,牝馬一頭づつをアチキシの託し献上してきた。天皇は照古王に太刀、大鏡を献上した。
* このアチキシは阿直史等の祖先である。
この頃百済との交流があった。「渡」は百済を指す。百済池か奈良北葛城郡付近。

「大山守命の反逆」説話に応神天皇が崩御された後になって、大雀命(オホサザキノ命)が天皇の指示に従って天下をウヂノワキイラツコに譲られた。
しかし皇子のオホヤマモリノ命は皇位を自分が継ぎたいと思い弟皇子のウヂノワキイラツコ命を殺害しょうと秘かに軍勢の準備をした。
大雀命はその兄王が軍勢を準備の知って使者を出し弟ウヂノワキイラツコ命に告げた。弟王は直ちに伏兵を宇治川の岸辺に置き、その山の手に絹の幕を張りめぐらし、幔幕を上げて仮宮に見せかけた。
弟王に見せかけた替玉を御座所が良く見えるように飾り、船に仕掛けを兄王が川を渡るときに船に潜んでいた弟王は船を傾かせ、兄王を滑らせて川の中に落とし、川辺で潜んでいた弟王の軍勢が一斉に攻撃し、兄王は川に流されて訶和羅埼まで流れ着いて沈んだ。大山守命の死骸は那良山に葬った。
この謀反以後、大雀命とウヂノワキイラツコが互いに皇位を譲り合いをしている内に崩御されオホサザキノ命が皇位ついた。仁徳紀には自殺したとされている。

「日本書記」応神天皇(ホムタノスメラギ)は仲哀天皇の第四子で母は気長足姫尊という。母神宮皇后(オキナガタラシヒメ)新羅を討たれた年、筑紫の蚊田で生まれた。
「武内宿禰兄弟説話」には武内宿禰と弟の甘美内宿禰の争うがあって、弟は兄を欺こうと「天皇に讒言して「武内宿禰が天下をねらう野心があります」天皇は武内宿禰を殺すことに命じた。
武内宿禰は嘆いて「手前は元より二心がない・・」武内宿禰に似た臣下の壱岐の真根子と言う者が身代わりに死に、秘かに筑紫に逃れ、船で南海を回り、紀伊の港に帰り、朝廷にたどり着き、罪のないことを弁明した。
天皇は神祇に祈り「探湯」をさせられた。結果、武内宿禰が勝った。
*「探湯」は熱湯に手を入れ、ただれた者を邪とする。
「弓月君、阿直岐、王仁」説話に百済王は縫衣工女を奏上した。来米衣縫の祖先である。弓月君が百済からやってきて奏上して「私は自国の一二〇県の人民を率いてやって来たが、新羅人が邪魔をして加羅国に留まっています」葛城襲津彦を遣わしたが、三年経っても帰ってこなかった。
百済王は阿直岐を遣わして良馬二匹を奉じた。平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わして「襲津彦が帰ってこない、お前立ちが行き新羅を討ちなさい」と命じられ、木菟宿禰らは兵を率いて新羅の国境に臨み、新羅の王は恐れその罪に服した。そこで弓月の民を率いて襲津彦とともに帰ってきた。
*この説話は古事記に出てくる百済の朝貢に似ている事項である。百済国との交流が盛んに有ったのか。

「兄媛の嘆き」説話に天皇が難波の大隈宮に居られた時、妃の兄妃媛が西方を望み嘆かれた。兄媛は吉備臣の祖先の御友別の妹で故郷を懐かしみ父母に会わせて欲しいと天皇に願い出た所、天皇は許しを出された。
その後天皇は淡路島に狩りをされ、吉備にから小豆島で遊ばれ、葦守宮移り住んだ。吉備の御友別が食事で天皇をもてなしをした、それで吉備国を割いてその子供たちに治めさせた。川島県に稲速別に、これが下道臣の祖先である。
上道臣、香屋臣の祖先である。次ぎに三野県を弟彦に、三野臣の祖先である。その他にも天皇から賜った者が吉備国の元となった。

「武庫の船火事」説話に船の老朽化で全国から五百の船が献上された。武庫の港に集められたが、新羅の使者が武庫に泊まって、そこから出火延焼で多数の船が焼けた。新羅王は驚き、工匠を奉じた。これが猪名部の祖先である。

「仁徳天皇」
「古事記」第16代天皇、仁徳天皇はただ一人の「聖帝」と記され、父応神天皇で母はホムダマカワカ王の女、ナカヒメノ命で名は大雀命という。
大雀命は高津宮で天下を治めた。母は葛城之眦古の女の石之日売命を皇后として、生まれた皇子は、オオエノイザホワケ命、スミノエノナカツ王、タジヒノミズハアwケノ命のオオエノイザホワクゴノスクネ命の4人、髪長比売妃から生まれた御子は2人、八田若郎女妃から生まれた御子は生まれず、宇遅能若郎女妃からも生まれず、御子は会わせて6人である。

「聖帝の御世」説話に渡来した秦氏を使い、茨田堤、茨田の屯倉造り、丸迹池、依網池を造り、難波の堀江を掘って、治水をし、小橋江を掘り、住吉の津を定め開発を進められえた。高い所にたって「民の釜戸に煙が上がっていないの見て」貧しいこと知って三年間租税を免除された。それ故に宮殿は荒れ果て、雨漏り修理されず、しのがれた。
3年後国見に立たれた、国中煙が立ち昇り、民に課税された。讃えて天皇の御世というのであう。
*丸迹池は富田林付近と奈良池田町辺り。依網池は大阪東住吉区か松原市辺り。茨田堤は寝屋川辺りと、大阪鶴見にも茨田横堤の地名がある。

「皇后の嫉妬と吉備の黒日売」説話で皇后石之日売命は、嫉妬されることが多かった。天皇が召される妃たちは宮殿にも入れなかった。天皇は吉備の海部直の娘の名は黒日売が、その容貌が美しくので天皇はお召しになりなったが。
皇后の嫉妬の深いことを怖れて、国元の吉備に逃げ帰ってしまった。天皇はその思慕に、淡路島に行った折には島伝いに吉備にお着きになって、食事のおもてなしを受けられた。
その後、皇后は酒宴の御綱柏を採りに紀伊国に行かれた折に、天皇は八田若郎女を結婚され皇后と嫉妬で色々問題が有った様で「聖帝」と言われた天皇も女性には積極的であったようである。
* 応神天皇の「日本書紀」「の記載で兄媛の嘆き」の説話と吉備の女で共通する箇所があって、天皇の恋慕を描いた所は応神天皇と同一視される由縁である。

「日本書記」で仁徳天皇の皇位に就かれる経緯については、ほぼ同じ様な筋書きで描かれている。
「民の竃に煙」説話は民の暮らしを天皇の心配りの人徳を説いて「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから人民は根本である。」と人民と君との苦しみや富は共有することを強調され、名君であることを知らしめた。
「池堤の構築」説話も古事記とほぼ同様、治水工事の模様を詳細に描かれ、神の占いや「人身御供」が出てくる。新羅人の朝貢が有って、そしてこの工事に使われた、高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉じた。
この年に高麗国の客をもてなされ、軍臣百寮を集めて高麗の奉じた盾、的を試して、多くのものが射通することが出来なかった。ただ的臣の祖先の盾人宿禰だけが鉄の盾を射抜いた。
その後治水工事は、宇治の栗隅県、河内一円に堤を掘った。
上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦の四箇所の原を潤し、四万項余りの田が得られた。
*この工事は治水もが、新田開発も有ったのだろう。この頃に新羅、高麗国の交流と朝貢があったと伝えている、古事記では渡来した秦氏を使い工事が進められたと記されている。日本書記では朝貢の「鉄」が出てくるので、盾、的と描かれているが、工事用の土木用具も含まれてはいないだろうか。
新羅の朝貢、前回より六年なかったので促した所、新羅人は恐れ入って貢物を届けた。調布の絹千四百六十匹、その他の品物合わせ八〇艘であった。

「皇后と不仲と八田皇女の立后」説話は「八田皇女を召しいれ妃としたい」と、皇后は承知されず。
皇后が遠出された時に宮中に中に入れられ、その後八田皇女の妃にすることを強行し、不仲になって行き、皇后磐之媛命は筒城宮で亡くなられた。
皇后を奈良山に葬られた。三年後八田皇女が皇后に立てられた。


「鷹甘部の定め」の説話、紀角宿禰を百済に遣わして、始めて国郡の境の使い分け方や郷土の産物を記録する為に行った。そのとき百済王の王族酒君の無礼があったので、紀角宿禰が百済王を責めた。百済王は恐れ入って鉄の鎖で縛り、襲津彦に従わせて進上した。
「新羅・蝦夷との紛争」の説話、新羅が朝貢しなかった。上毛野君の祖先竹葉瀬を遣わして、貢物を奉じないことを問われた。その途中で白鹿を獲た。帰って天皇に奉じた。しばらくして竹葉瀬弟を田道を遣わされた。「もし新羅が抵抗したら兵を挙げ討て」新羅人は毎日挑戦をしてきた。その後蝦夷もが叛いた、田道を遣わして討たせた。蝦夷の為に破られ伊峙の水門(石巻)が死んだ。その後蝦夷が襲ってきて、人民を脅かすので、田道の墓を掘った。
中から大蛇が出てきて蝦夷に食い付いて、蛇の毒で多の蝦夷が死んだ。
その後五年後、呉国・高麗国が朝貢した。
天皇が崩御、百舌鳥野陵(堺し大仙町)葬られた。

「履中天皇」「記紀」には父は仁徳天皇、大兄去来穂別尊で母は磐之媛尊、皇后幡日之若郎女、皇妃黒媛、皇宮磐余稚桜宮、在位六年、陵墓は百舌鳥耳原南陵(堺市石津ケ丘)拠点は大和、河内の住吉、丹比で即位してからは,羽田矢代宿禰の娘黒媛を廻り、弟住吉仲皇子と軋轢が生じ、皇子は臣下に助けられ大和は石上神社に難を逃れる。弟の瑞歯別皇子〔反正天皇〕の救援で、住吉仲皇子の下臣に殺させる。謀反に加わった、阿雲連濱子、倭直吾子籠を罰し、天皇を救った者など、蘇我満智、物部伊莒弗、平群木菟、円大使主、ら四人を国政を参画させた。仁徳天皇の没後後継を廻り兄弟の後継争いが次々と表面化していった。

「反正天皇」記紀に父は仁徳天皇、多遅比瑞歯別尊、母は磐之媛、皇后津野媛、皇宮丹比柴籬宮、在位5年、42年、陵墓百舌鳥耳原北陵(堺市北三国ヶ丘)、
「充恭天皇」雄朝津間稚子宿禰尊、母は磐之媛、皇后忍坂大中姫、皇宮遠飛鳥宮、陵墓恵我長野北陵(大阪府藤井寺市国府)反正天皇に関しては記述、資料が少なく実在性の薄い天皇とされている。説話には名前のあるように多遅比瑞歯別尊に入れられている「歯」が生まれたとき既に生えていて長さ一寸、幅二分、上下が整い、身長が9尺2寸半、淡路島で誕生し宮都は丹比柴籬宮ちされ、葛城一族の影響が多かったと見られる。

「充恭天皇」記紀に依れば父仁徳天皇、母は磐之媛命、皇后忍坂大中姫命、在位42年間、皇居遠飛鳥宮、陵墓恵我長野北陵(藤井寺市国府)依れば葛城地方の影響のあった天皇で、病弱の為、皇位の継承を軍臣たちからの要請を固辞した。後継の皇子中でも評判は芳しくなかったようだが在位42年間の政治の手腕は評価され、治世の事績もも氏族の姓の乱れを甘樫丘での「深湯瓮」を据えて釜の中に手を入れさせて,臣下の名乗る氏姓の真偽に判定した「盟神深湯」(応神天皇時代に行なわれた)神判である。その後の皇位継承で太子の木梨軽皇子が決まっていたが,同母兄妹の近親相姦で人心離れて、弟穴穂皇子は継ぐことになるが、兄の皇子は「記」では伊予に流され後追ったか軽大娘と自死したという。
*強大の権力と争いに兄皇子が負けたのであろう。

「安康天皇」記紀に、父は充恭天皇、穴穂尊、母は忍坂大中姫命、皇后中帶姫巫女と、没年56歳、在位4年、皇宮石上穴穂宮、陵墓菅原伏見西陵(奈良市宝来)石上に宮居を構えた初めての天皇と言われる。在位年数も短く、石上周辺の豪族和珥氏と深い関係ではないかと言われている。最後は大草香皇子の遺児の目弱王によって討たれてしまう。目弱王変で天皇が皇后と内緒話、天皇が大草香皇子を討ったこと知ったとすれば大きく成長すれば謀反を起こすだろうと危惧されていた、を目弱王は7歳で床下で聞いていた。秘かに天皇の寝てるいる所に行き,太刀で首打ち切った。死んだ天皇には世継ぎがなく王権は次々に変わって行く。

「雄略天皇」「記紀」に依れば、父は充恭天皇、大泊瀬幼武尊、母は忍坂大中姫命、皇后波多眦能若郎女、没年62歳、在位24年間、泊瀬朝倉宮、陵墓丹比高鷲原宮(大阪府羽曳野市島泉)、「宋書」「梁書」にも倭の五王に最も有力で実在視されておる天皇で、周辺国に攻略し勢力拡大した形跡が残されている。国内の説話も多く残されていて、眉輪王、葛城円大臣、市辺押磐皇子、御馬皇子らを積極的に粛清し、志幾大県主、吉備上道臣、下道臣、伊勢朝日郎らの反乱謀反を鎮圧したと伝えたられる。天皇の資質として「名君」「暴君」の両面を兼ね備えていた。説話には引田部赤猪子の若い頃に美しい乙女に何時か宮廷に召抱える約束を80年後、老いた老婆となって天皇に会う話や、葛城山で一言主神と出合った話など記されている。

「清寧天皇」父、雄略天皇、白髪武広国押稚日本根子尊、母は葛城韓姫、没年41歳、在位5年、皇宮磐余甕栗宮、陵墓河内坂門原陵(大阪府羽曳野市西浦)「古事記」に依れば雄略天皇の皇子の白髪大倭根子は磐余の甕栗宮で天下を統治された。この天皇には皇后がなく、皇子も生まれなかった。説話には生まれながらに「白髪」であったと言う。母は葛城円大使王で娘韓媛を雄略天皇が暴力的に、無理やり入廷させて生ませた皇子と言われた。その後の皇位継承で問題を起こす元と成った。

*大和盆地の巻向付近に、三輪王朝が王権が交替された説が主流で、それまでの万世一系の論理を覆すもので、その推論に従えば、応神天皇以後は河内一体に記述が展開されるに、あの巨大古墳群、羽曳野、古市の応神天皇陵と、堺の仁徳天皇陵と指定される大仙古墳遺跡は根拠がないわけでもない。
河内王朝時代とされる仁徳天皇年代には河内を中心に治水、土木工事がされた地域の痕跡も残っていて、詳細に記紀に述べられている。
これらの工事の様子が語れている割に、巨大古墳の造営の記述は残されていない。また天皇の妃の記録として各地の豪族の女の関係も記されている。大陸と新羅、百済、高麗の朝貢の様子も記されている。
国内に様子に於いても蝦夷の反乱を窺わせる記述も掲載されている。
仁徳天皇の没後を境にして皇位継承を廻り、兄弟同士の争いが熾烈に繰り広げられた。



コメント

ヤマトタケル英雄伝説の謎                          

2016-03-07 04:21:14 | 歴史研究
ヤマトタケル英雄伝説の謎                          

日本人の英雄伝説で、最も人気の高い「ヤマトタケル」の伝説は今も語り継がれ人々の脳裏に刻まれている。
 「記紀」に記されている「ヤマトタケル」は“小確尊”(ヲウスのみこと)のことである。
「記紀」に編纂されている「ヤマトタケル」は「日本書記」と「先代旧事本紀」では”日本武尊“称し、「古事記」では倭建命と称され、内容も「日本書紀」では少し趣が違い「古事記」の方が詳しく記されている。
主人公の「ヤマトタケル」の猛々しい活躍と、叔母倭媛と皇継関係とヤマトタケルの裏面性も赤裸々に描かれ、大和王朝を取り巻く政治と支配状況と、地域の土地柄を知らしめる遠征と、悲運な「ヤマトタケル」の終末が日本人の共感を呼び伝説が今尚語り続けられている。
小確(ヲウス)大確(オホウス)
父王オホタラシヒコシロワケの多くの妃を持ち八十人の皇子が生まれて上に、三野国(美濃)の噂の美くしき姉妹姫を娶る為に兄のオホウスに連れ帰る事から端を発する。
その美しき姉妹姫はエヒメとオトヒメと言う、兄のオホウスは二人の姫を自分の妻にしてしまい別の娘を父王に差し出した。
「記紀」描かれている王継を廻り紛争は兄、弟など女性問題が絡み正統性を関連付け引き継がれている。
このヤマトタケルの場合も兄オホウスと弟のヲウスの展開から始まり、兄のヲホウスの父王に背信行為に、少年であったヲウスが諭し役になり、兄オホウスが厠に入る所を掴み手足を引きちぎり、薦に入れ投げ捨てる。
「日本書記」には兄殺しの記載なく父王の一旦九州平定の後、16歳のヲウスに討伐に遣わした。倭姫の登場もない。

* この凄い腕力は出雲の国譲りの場面で高天原の使いのタケミカズチが、タケミナカタが抵抗したので、握りつぶし身体を投げ飛ばし諏訪まで追い詰めた強力に似ている。

この話を聞いた父王(景行天皇)ホタラシヒコは、わが子の制御の効かない暴力的な性格に慄然とし、豪腕ヲウスを恐れ疎んじ、排除を企て九州を支配しているクマソタケル兄弟を討ち取るように命じた。
* この時代には九州に抵抗する強力な種族の熊襲、隼人が大和王朝に激しい抵抗して抵抗していたのだろう。一般的に熊襲と隼人は同一視されているが九州に置く別の種族で時期的に隼人は平安時代に登場し霧島市から隼人の石塚が出土されている。天孫降臨の日向三代の兄海彦幸の弟山彦幸の登場で皇継に成れなかった山彦幸の末裔とされている。
 
力を持て余すヲウスは父王の真意を知らず喜び九州に向かうがその前に叔母ヤマトヒメの所に寄って「御衣と御裳」をお守りとして受け取り意気揚々と西に向かった。
* この場面で出てくるヤマトヒメ(倭姫命)は父王の妹姫で伊勢の祭祀を司る。豊鍬入彦命の後を継ぎ天照大神の御杖代として大和から伊勢の国に入り、神託により皇大神宮を創建したと伝えられる。ヤマトヒメについては東征の折にも立ち寄り何かにつけヤマトタケルに励まし支えになっているようである。
熊襲征伐へ
大和を旅立ったヲウスは熊襲の首長クマソタケル兄弟の征伐に向かった。手勢やどの様な行程は定かではないが、ヲウスは策略を練って、熊襲の館に忍び込み「麗しき娘の姿」の女装で祝宴に紛れ込みクマソタケルに近づき酌をして廻った。叔母ヤマトヒメから授かった御衣で変装し、色白で妖艶なヲウスの女装に心奪われ二人の隙を見て、突然兄クマソに襲い掛かり胸に突き刺した。
さしずめ15.6歳の美少年であったろう。そんな妖艶な美少年に油断したのか、不意を突かれた勇猛な熊襲タケルは、ヲウスの短剣の一刺しで絶命、その様子を見た弟タケルは逃げ出したが酒に酔って逃げ出せず、館の端に追い詰められ、背中を掴み尻を一突き通した。瀕死の弟タケルは今際の際で相手の名を問うた。
私はヲウスまたの名は「ヤマトヲグナ」と答えると、弟のタケルは自分達より強い者達が西方に居た事知った。その勇猛さを讃えて「ヤマトタケル」の名を与えた。絶命したタケルをヲウスは剣を引き抜き果実を切り刻むが如く斬殺をした。以後ヲウスは「ヤマトタケル」を名乗ることになった。
* この熊襲征伐に巧妙な策略と残虐な殺戮方法を「記紀」は飾り立てる事なく赤裸々に描写している。この時代には仕返や反逆を恐れ、根絶やしに抹殺する種族存続に激しい争いがあったのかも知れない。当時の遺跡の人骨に刻み込まれた痕跡があり、大和王朝の覇権拡大の手段の選択は無く、地方の種族の熊襲が「ヤマトタケル」の名を与える事で傘下、従属を示したのであろう。
出雲征伐へ
熊襲征伐を終えたヤマトタケルは筑紫水門から日本海に沿って北上し「出雲国」に入った。出雲に着いた「ヤマトタケル」の武勇は伝わっていたのか「イズモタケル」と友情結んだ。ある日の事、「ヤマトタケル」は木で造った偽物の剣を腰に吊るし、イズモタケルを誘い肥の河に水浴に出かけた。
水浴を終え「太刀の交換」を提案し先に水から上がった「ヤマトタケル」はイヅモタケルの太刀を腰につけ、後から上がったイズモタケルは残された「ヤマトタケル」の太刀を腰につけた。そこで「ヤマトタケル」は太刀合せを挑んだ、偽物で太刀は抜けないイズモタケルの隙を見て一機に切り殺してしまった。
* 出雲に入って「イヅモタケル」「熊襲タケル」タケルは日本書記の「武」古事記の「建」と勇ましい男の美称だったのだろう。
しかし今回も「太刀の交換」と言う友情の証とでも言う口述で、手段を選ばない姑息な策略で出雲国のイズモタケルを屈服させたのである。古代謎に包まれた巨大な出雲国家の中央王権への抵抗の激しさを物語る。また「古事記神話」の国譲りを連想される。突如現れた出雲地方の荒神谷遺跡は「銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個」が出土、何故あれだけの武器が一箇所に埋めなければならなかったかは解明されていない。
ただしイヅモタケルについては「日本書記」にはこの出雲の物語は一切再登場せず、熊襲征伐後は吉備や難波の邪神を退治し、内海の水路を開いたとして天皇の賞賛を受けた。
東征へ
大和に帰還した「ヤマトタケル」は何の労いの言葉も無く、直ちに東征への出発
の命令であった。
◎ 「古事記」では西方の蛮族から帰ると直ぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の征伐を命じる。倭建命は再び倭姫命を訪ね、父王のは自分を死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙の剣)と袋を与え「危険時にはこれを開けなさい」と言う。
◎ 「日本書紀」には東征には将軍として兄のオホウス(大確命)が選ばれたが、怖れずいて逃げてしまい、代わりにヲウス(日本武尊)が名乗り、天皇は賞賛し皇位継承を約束する。また軍勢には吉備氏、大伴部氏を就け、古事記の記述には泣きながら趣くのと違って、喜び勇んで東征に趣いた。後は伊勢により倭姫命より「袋」と「草薙の剣」が与えられる。「草薙の剣」はスサノオが出雲での大蛇退治で尾の中から出てきた剣で「草薙の剣」は伊勢神宮にあったものとされている。
「古事記」には伊勢から尾張の尾張国造家に入り、美夜受媛と婚約をして相模国に、国造の荒ぶる神がいると欺かれ「ヤマトタケル」は野中で火攻めに遭ってしまう。
そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打ち石が入っており、草薙の剣で草を掃い、迎え火を点け逆に敵を焼き尽くしてしまう。その地を焼遣(焼津やきず)として地名として残っている。
相模から上総に渡る際に、水走の海(浦賀水道)を渡る時に大嵐に遭う。船は荒波に翻弄され進むことが出来ず、后橘媛が海を鎮める為に見ら命に替わり入水すると、波は自ら鎮まった。嵐の7日後に媛の櫛が浜辺に見つかったと言う。后弟橘媛の夫「ヤマトタケル」の恋い慕って回想する歌を詠んでいる。
「日本書紀」には「ヤマトタケル」が「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語し神の怒りをかったと記されており、后弟橘媛は犠牲によって難局を逃れた事を記されている。
ヤマトタケルは更に東国に「蝦夷」を平定し、足柄坂(神奈川、静岡)の神を蒜(野生のひる)を打ち殺し、東国を平定し、四阿嶺に立ち、そこより東国を望み后弟橘媛を偲び「吾妻はや・(我妻よ)」と嘆いたと言う。それ以降、東国を「東、吾妻」と呼ぶようになったと言う。その後、甲斐国の酒折宮で連歌し難局を振り返る。その連歌の下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。
科野(信濃)経て尾張に入った。
「日本書紀」には「ヤマトタケル」の行程が古事記と異なり上総から北上し北上川流域まで達し、陸奥平定後、甲斐酒折へ入り、ここで吉備津彦に「越」(北陸に向かわせた)「ヤマトタケル」は信濃の坂の神を蒜で殺し、越を廻った吉備津彦と合流した。
尾張に入った「ヤマトタケル」は結婚の約束をしていた「美夜受媛」と歌を交わし、そのまま結婚をしてしまう。神剣を美夜受媛に預けたままに、伊吹山のへその神を素手で討ち取ろうと出立する。この遍は日本書紀と同じである。
素手で伊吹の神と対決に趣いた「ヤマトタケル」の前に、白い大猪が現れるが、上の使いと軽く無視をした。実際は神の化身で大氷雨を降らされ失神させられつぃまう。山を下ったヤマトタケルは居醒めの清水で気を取り戻したが、既に病に侵されていた。
弱った身体で大和に目指して、当芸。杖衝坂、尾津、三重村と進み、その間地域の地名起源を描写しながら、死に際のヤマトタケルの心情を述べながら能煩野で「大和は国のまほろば・・・」と4首の歌を詠みながら亡くなった。
「日本書記」では伊吹山で大蛇をまたいで通ったことから神に怒りをかって氷を降らされ、病身となり尾津から能煩野に至り、伊勢神宮に蝦夷を献上、朝廷には吉備津彦に報告させ、三十歳で亡くなった。
* 東征では、九州や出雲の猛々しい活躍はなく苦戦を強いられている様子が窺える。幾度となく難局を踏破しながら「ヤマトタケル」の個性を十分察し出来る描写が続き、后の登場と助けを必要とし、身を呈して救った弟橘媛への慕情と葛藤の歌が詠まれている。荒ぶる神々は蝦夷や地域の種族、豪族であろう。国造の役人も配置が伺え、大和朝廷の支配地がまばらに存在していたことも推測できる。
また叔母のヤマトヒメの授かった草薙の剣も火打石も威力を発揮できず「日本書記」には吉備津彦、大伴部氏を共に就けているがその動向は伝えていない。叔母から授かった「草薙の剣」は伊吹山で結婚した美夜受媛に預けて荒ぶる神に立ち向かう、この「草薙の劔」は草を掃って難を逃れる、不思議な神通力の劔を忘れたがこのヤマトタケルに登場させたのは皇位の「三種の神器」の正統性を示す為とも言われ、その後、美夜受媛の元に熱田神宮に祭られている事になった。
白鳥になった「ヤマトタケル」
「古事記」ではヤマトタケルの死の知らせを聞いて、大和から訪れた后や皇子達は陵墓を造り周りを這い回り、八尋白智鳥と化した「ヤマトタケル」を歌を詠いながら後を追った。
白鳥は伊勢を出て、河内の国志畿に留まり、そこに陵墓を造るが、やがて大空に舞い上がっていった。
「日本書紀」には父天皇は悲しみの余り、寝食も進まず、百官に命じてヤマトタケルの能煩野陵に葬るが、白鳥になって大和に向い、飛び去って行ったと言う。白鳥は大和琴弾原から河内は古市に舞い、そのうち大空に舞い上がり天に昇っていったという。
◎ 景行天皇の御世は「古事記」にはヤマトタケルを中心に描かれているが「日本書紀」には景行一二年に熊襲は朝廷に反旗を翻した。この時天皇は自ら筑紫に向い途中、周防で四人の土蜘蛛を退治、九州に渡っては石室と禰疑野に澄む5人の土蜘蛛を次々と打ちのめし、熊襲の本拠地日向の国では熊襲の娘を味方につけ「熊襲タケル」を娘に打たせた。
その後七年間九州征伐を敢行し大和の戻っている。その後わが子の「ヤマトタケル」征服した諸国を巡行したと記されている。「古事記」と違って慈悲深い天皇に描かれている。
* ヤマトタケルの悲運な死に追悼する者多く、各地に伝説が生まれ、伝説の地に陵墓、神社が造られ「ヤマトタケル」が没した能煩野の三重県に「白鳥塚」亀岡市に「T字塚」が「能煩野陵」に日本書紀には大阪羽曳野市には「白鳥陵」が、最後に立寄ったとされる「大鳥神社」和泉の国一ノ宮として信仰を集め祭神として祀られ、近江国一ノ宮の建部神社は稲依別王、犬上君、建部の君の祖として祀られている。
「日本書記」と「古事記」の記載事項に違いはあるが、伝え記された足跡は、架空ではあるが日本人に数々の伝説と夢を残した古代の英雄の覇者「ヤマトタケル」は、揺ぎ無い大和王朝確立に寄与した事には違いない。









コメント

歴史が語る伝説の謎 第一章、神武東征伝説の謎  ①              

2016-03-06 05:18:11 | 歴史研究


歴史が語る伝説の謎

第一章、神武東征伝説の謎  ①              

神武天皇は「記紀」の日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である。
「古事記」では神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)と称され、「日本書記」では神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)神武天皇の呼称は奈良時代後期の文人の淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したことに始まる。
紀元前七一一年から五八八年の日本神話に登場する人物である。天皇が即位したのが西暦前六六〇年と比定される。
「日本書記」に寄れば四五歳日向の地高千穂にあった磐余彦は天孫降臨以来、神々が君臨する高天原から葦原中国へ降臨する間の「日向三代」でニニギが三一万八五四三年、ホオリで六三万七八九二年、ウガヤフキアエズで八三万六〇四二年の計一七九万年二四七〇余年を経て未だ西辺であり、全土を王化していない。
神武天皇の事跡についても、内容が神話的で、実在を含め現在の歴史学的に史実ではないと考えられるが、古代の史実を知る上に重要な事柄が神話の物語に秘められていないか、推測するものである。「古事記」「日本書記」も若干異なるものの記述の東征が大部分を占める。
◎ 天孫降臨まで一七九万年二四七〇年は、仏教の弥勒菩薩の兜率天の五六億七千万年後の下界に降って衆生救済する話しに似ている。人間の届かない遥か時代を越えた壮大な別世界の存在を表しているのではと思われる。

神武の東征
「古事記」に拠れば、イワレヒコ命は兄五瀬命と高千穂宮で相談され、「何処の地にいたならば、安らかな政が執り行なうことが出来るか、東の方に行こうと思う」と日向より発して筑紫に幸行し、豊国の宇沙に至り宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を造り奉り、そこより遷移り、筑紫の岡田宮に一年坐しき、そこより上がり安芸国の多祁理宮に七年留まられ、そこから遷り上がられ、吉備の高島宮に8年間居られた。
それから国を上って行かれ、亀の甲で釣りをするものに速吸門で会われ「お前は誰か」と問われた。「国津神」と答え、自ら仕える事を言ったので名をサヲネツケと与えた。この人は大和国造らの祖先である。次に上に行かれ浪速の渡りを経て白肩津に船を停めになった。
その時に登美のナガツネヒコは軍勢を起こし、待ち受け戦った。そこに御舟を入れてあった楯を下し立たれた。その地を楯津(東大阪市に地名現存)と言った。
そうしてナガスネヒコと戦われ、その時イッセイ命が手痛い矢で負傷を受けられた。そこでイッセイの命は「私は日の神の皇子、日に向かって戦うは良くない、遠周りして日を背にして戦おう」と誓い、そこから南に回って進み、紀伊国の男之水門に至ってイッセイの命は亡くなった。 
その水門を名付け男の水門と言う。御陵は紀伊国の竈山にある。そこから南に回って行かれ、熊野村に着き、大きな熊が見え隠れし、やがて姿を消した。
するとイハレビコハ命は気を失われ、兵士も気を失って倒れた。そこに熊野のタカクラジと言う者が一振りの太刀を持って来て、イワレビコに献ると、即座にイワレビコは気を取り戻し、その太刀を手にすると兵士たちも気を取り戻した。
皇子は太刀のことをタカクジラに聞かれると、天照大御神と高木神が「葦原中国が騒がしいのだ、葦原中国はあなたが服従させた国、タケミカズチ神に降るように」支持されたが、タケミカズチは自分が降らなくても、平定した時の大刀を降すことを提案し、タカラクジに託されたことを伝えた。
また高木神が申されるに天津神の皇子をこれ以上奥に進ませては成らぬといわれ「あらぶる神、多く案内の八咫烏を遣わそう、その後に付いて進むように」その後、尾の生えた国津神ヰヒカが現れ(吉野首の祖先)、次ぎに岩を押し分け入ってきた国津神イワオシワクノコと言う* (吉野の国栖の祖先だった。)そこから奥に宇陀に進み、宇陀の穿(うかち)と言う。
天皇の兄ミケヌノ命は穀物を司る神、浪を踏んで常世国に行ったとされている。タケミカズチ神が霊験フツノミタマに降す話は霊験は邪気を払う意味で信仰され、石上神社のご神体として、物部氏によって崇祭されたものである。
八咫烏もミサキ神として鳥の信仰から、熊野三山は牛王法印の図柄を配している。 
宇陀にエウガシ・オトウガシの二人がいた。八咫烏を遣わし「天津神が来られた、御仕えするか」の問いに兄のエウガシは鳴鏑矢を射って追い帰した。
その鳴鏑の落ちた所を訶夫羅前という。エウガシは待ち受け軍勢を集めたが集まらず、偽って御殿を造り、中に罠を仕掛けた。
一方オトウカシはイワレビコをお迎え拝礼し「兄のエウガシは天津神を罠を仕掛け待ち受け殺そうとしております」この時大伴連の先祖のミチノオミノと久米直の祖先オホクメノの二人がエウガシを呼んで問い詰め、追い込んだ所、自分の造った罠にはまって死んだ。この地を宇陀の血原という。* (ウエガシ兄宇迦斯・オトウエガシ弟宇迦斯で宇陀の土豪である。)
そこから更に進み、忍坂の大室のついた時に、尾の生えた土雲が大勢待ち構えうなり声を上げていた。御子の命令で御馳走を大勢の兵に賜わった。
兵に料理人に太刀を隠し持たせ、歌を合図に土雲を撃つようにされた。予定通りに歌の後たちを抜いて一斉に打ち殺してしまった。
その後、ニギハヤヒノ命が、イワレビコ命の下に参上された時「天津神の御子が天降ってこられたことを聞き参上に参りました」ことを伝ええた。
そしてニギハヤヒ命は、トミビコの妹トミヤヒメと結婚して生んだ子がウマシマジノ命で、物部氏、穂積氏、婇臣の祖先である。このようにしてイワレビコ命は荒ぶる神たちを平定し和らげ、服従しない人撃退して、畝火の白檮原宮において天下を治めになった。

◎ 「古事記」にはイワレビコの兄ミケヌノ命は穀神で東征のイワレヒコ命が熊野から廻ったのは、熊野が常世国は海の彼方の未知の世界、常世国の穀神を招く信仰からである。
◎ 紀伊の国は古来、黄泉の国に直結した信仰が根付き、熊野三山の青岸渡寺の観音信仰の開山のインドの僧裸形上人の補陀落山の世界は舟に乗り海を渡って補陀落を目指すこと、実際は生きたまま捨身往生や水葬として行なわれ、熊野から行なうのが一般的であった。
中国の始皇帝の不老不死の仙薬を求めて来た徐福伝説など紀伊は別世界の特別な地の観念があったのかも知れない。八咫烏や剣が高天原から投下されるものその一つかも知れない。
◎ 九州と大和の征伐、東征で神武東征、ヤマトタケルの熊襲征伐と神功皇后と三回古代に往来があった。神武東征が時代的に古いが、その割りに地域の情景が詳細に描かれている。種族の祖先や土豪など地域の勢力分野も帰されている。
◎ 「古事記」については、わが国学の大家「本居宣長」が一七六四年から一七九八年のかけ約35年間かけて、「古事記」の写本を手に入れ、「日本書記」や「先代旧事本紀」を対比させながら、「古事記」を中心に解読、解釈を進めた。果たしてどの様に注釈をつけ、後世に残る再発見と再評価をさせ「古事記」意義、存在を高めたかは、それまでの「古事記」の内容と解読、解釈がどうか修正されたかにに、ついては知れないが江戸末期から明治維新に大きな影響を与えたことには確かである。
◎ 「日本書紀」兄磯城と弟磯城の兄弟を対比され、宇陀の県の頭に兄猾、弟猾がいて兄猾は磐余彦には敵意を持って計略を仕組んだが弟猾によって発覚、兄猾は討たれる。「古事記」には宇陀の土豪、兄宇迦斯はイワレヒコに抵抗するが、弟宇迦斯はイワレビコに協力し、宇陀の水取(宮中で飲料水を司る)祖先になる。  

コメント

歴史が語る伝説の謎 「院政の政僧“信西(しんぜい)“」

2016-03-04 04:14:02 | 歴史研究
歴史が語る伝説の謎


「院政の政僧“信西(しんぜい)“」
平安時代は大きく分けて摂関時代と院政時代に分けられる。
摂関(せっかん)時代は藤原良房・基経から忠平・実頼・伊伊・頼忠・兼家・道長・頼通と摂関家によって引き継がれていった。
一方、院政は後三条天皇に端を発し、白河・堀河・鳥羽・崇(すとく)徳・後白河・二条・高倉らの上皇・法王らによって引き継がれていった。
こう言った引き継がれた王権と権力継承には血縁と、複雑な人間関係と主従関係の絡みの中で権力構造が形成され、事変に展開されて行った。
また登場する一人一人の人物像に、柵に生きた数奇な運命の物語に、平安時代と言う時代の趨勢(すうせい)に生きた人間像が浮かび上がってくる。
そんな院政末期の後白河院政に総師として権力に中枢にあって辣腕(らつわん)を振るった政僧「信西(しんぜい)」の特異な生き方を綴ってみた。
総師信西
保元元年(1156)保元の乱に勝利した後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令をした。王土思想を強調した宣言の新制は荘園(しょうえん)整理令(せいりれい)を主たる内容としていた。
要は鳥羽院政では荘園の乱発に加え管理が不十分で各地で国務遂行に支障が生じ紛争が多発していた。
この荘園整理令はその混乱を収拾し、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図としたもので、荘園の公領制の成立の大きな契機となった。
平安期には荘園制度は何度も荘園整理令が出された。寄進地(きしんち)系(けい)荘園(しょうえん)が諸国に点在し、しかも税金逃れに貴族たちや開発領主たちは寺社に寄進し管理を任せた。寺社領地には免税処置があって、国衙、国司の税金を逃れる隠れ蓑になった。特に興福寺などは全国に寺領は点在し大和一国とまで言われた。
特に後白河天皇は南都の興福寺や北嶺(ほくれい)の延暦寺の肥大化し寺院に僧兵を持って傲訴(ごうそ)で朝廷に狼藉(ろうぜき)の限りを尽し翻弄(ほんろう)をさせた寺領に快くは思っていなかった。南都の興福寺、北嶺の延暦寺の僧兵はそれぞれ三千人を有し豊かな財源で支えられていた。
その豊富な財源を絶つにも信西は思い切った荘園整理令を出し公領を増やさなければならなかった。
後白河天皇の思いのまま成らないもの一つに僧兵と嘆き検非違使を手もとから手放せなかったと言う。
また開発領主や貴族の朝廷より受けた恩賞などは転売されたり、寄進を装って国衙に税収されない事態に、荘園公領制に立案・推進したのが後白河天皇の側近の信西でった。
信西は改革実現に、記録書を設置ために長官に上卿には大納言・三条公教を就任させ、実務を担当する弁官からは右中弁に藤原惟方(これかた)・左少弁に藤原俊(とし)憲(のり)(信西の嫡子)が起用された。
その下で二十一人の寄人らが荘園領主から提出された書面を審査し本所間の領主間の紛争や度重なる転売で、その所有者の判定をしたり、荘園主と荘官(しょうかん)、国衙領(こくがりょう)への公領への査定を厳しく行った。
信西の言葉に後白河が「暗主」であると言う、記録所の寄人の一人だった清原頼業が後日九条兼実に語ったと言う。
信西は後白河の威光の許に強権を発動してた節があった。そして老朽化した内裏にも着手して保元二年(1157)に再建したり、新制三十箇条を出して、公事・行事の整理・官人の綱紀粛正に積極的に取り組んだ。
この間の信西の一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする信西の子俊憲・貞憲は弁官として「紀二位」(後白河の乳母)に成憲・修憲は受領になった。
信西自身は保元の乱で敗死した藤原頼長(よりなが)の所領を没収し自らも蓄財を確保した。
では何故このような信西が強権を後白河から信頼と負託されたかについては、出自と後白河天皇の関係を考察すると理解が出来る
信西に出自
信西は嘉承元年(1106)平安末期の貴族・学者・僧侶で信西は出家後の法名、号は円空で俗名藤原通(ふじわら)憲(みちのり)又は高階通(たかしな)憲(みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言が彼の出自である。
通兼(信西)の家系は曽祖父藤原実範以来、学者一家(儒官)の家系で祖父の藤原季綱は大学頭であったが、父が蔵人所で急死し通憲は七歳で縁戚の高階家に養子に入った。高階家は摂関家の家司として諸国の受領を歴任した。
通憲は祖父譲りの学業の才能を積み重ね、保安二年(1121)には高階重仲の女を妻としている。通憲は鳥羽上皇の第一の籠臣である藤原家成と親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があった。
通憲の官位の初見は天治元年(1124)の中宮少進(中宮藤原璋子は鳥羽天皇の皇后、白河天皇の母)に仕え鳥羽院の近臣として通憲は頭角を現し、後白河天皇と通憲の信頼関係がこの頃より築かれていった。
長承二年(1133)頃から鳥羽上皇の北面の伺候(しこう)(そばについて奉仕する)するようになって評判は当世無双の博識と見識と称されその才知を生かして院殿上人・院判官代と地位を昇格させていった。
通憲の願いは曽祖父・祖父の様な大学頭・文章博士・式部大輔を志したが、世襲化の当時は高階家に入ったことがその道を閉ざしてしまった。
これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。その通憲の出家の噂を知って止めさせようと書状を送り、数日後には対面し、その才能を惜しみ「ただ敢えて命を忘れず」と涙流したと言う。
鳥羽上皇は出家を引き留めるために、康治二年(1143)正五位下を与え、翌年には藤原姓を許し少納言に任命をし、更に子に文章博士・大学頭に就任する資格を与えた。
それでも通憲の意志は固く出家し信西と名乗った。
しかし信西は俗界から身を離れることなく「にぎかふる衣の色は心をそめぬことをしぞ思ふ」心境を歌に詠んでいる。
鳥羽上皇の政治顧問が死去すると信西はそれに取って代わるように奪取し下命を受けるなどして信任を強固なものして行った。
そして後白河天皇の近臣者として采配を振るようになった信西は、国政改革の為に以前からの馴染みの平清盛を厚遇をする。
平氏一門は北面武士の最大の兵力を有していた。保元の乱後は清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と四ヵ国の受領を占めていた。
またその役割は,荘園整理、荘官、百姓の取締、神人・悪僧(僧兵)の統制で戦乱で荒廃した京都の治安維持に平氏は不可欠であった。
だがここにもう一つの別の政治勢力が存在していた。美福門院を中心とした二条親政派である。美福門院は鳥羽上皇から荘園の大半を引き継ぎ大荘園主となっていた。
美福門院は養子・守仁の即位を信西に要求し、止む得ず後白河天皇は二条天皇に即位しここに「後白河親政派」と「二条親政派」が生まれ新たな軋轢が生じて行った。二条親政派は藤原経宗・藤原惟方(これかた)が中心となって美福門院を背景に後白河の動きを抑圧した。
これに対して後白河即位は近衛天皇の急死によって継承した都合上、頼れるのは信西のみであった。
※美福門院は藤原得子の流れを汲む勢力、藤原得子は鳥羽上皇の譲位後の籠妃。近衛天皇の生母。女御。皇后。藤原北家未茂流の生まれ、父は中納言・藤原長実、母は左大臣源俊房の女、院号は美福門院。
信西と信頼の確執
しかし美福門院派の巻き返しに抗するためにも、また二条親政派に対抗するためにも信西だけでなく、ここに後鳥羽上皇は近臣の育成に抜擢起用したのが武蔵守藤原信頼であった。
信頼は保元二年(1157)に右近権中将、蔵人頭・参議・皇后宮権亮、権中納言、検非違使別当と矢継ぎ早に昇進し、元々信頼一門は武蔵・陸奥を知行国として関係が深く、源義平が叔父義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦にも活躍し、保元三年(1158)後白河院庁が開設されると、信頼は軍馬を管理する馬別当に就任する。
源義明も宮中の軍馬を管理する左馬頭で両者の関係が深まり、信頼にとって武力の切り札を得たことなる。
また義明と信頼とは親戚として婚姻のやり取りで固く結ばれていたと言う。
反信西の結成
ここに、信西一門・二条親政派・後白河親政派と平氏の武士集団と複雑に人間関係が絡んできた。
信西と信頼の確執の要因に、信頼が近衛大将を望んだがそれを断ったにあると言われ、反信西派の結成は強権総師の信西の反発の結成で、二条親政派も後白河院政派も一致していた。
そんな不穏な動きに最大の武力集団の平氏清盛は中立的立場を守っていたと言う。折も折、清盛が熊野詣に赴いていたその時を突いて、反信西派は決起した。
平治元年(1159)十一月九日に信頼とその一派の軍勢は院御所・三条殿を襲撃し後白河上皇と上西門院を拘束し、三条殿に火を放ち、逃げる者容赦なく殺害をした。警備の大江家中・平康史ら官人や女房が犠牲になった。
これを知った信西一門は身の危険を感じ逃亡していた。拘束した後白河上皇・上西門院には丁重に「すゑまいらせて」と信頼は一本御書所に擁したと言う。後白河上皇を乗せた御車には源重成・光基・季実らの護衛が付き、美福門院の家人らが関わって二条親政派の同意があってのことと推測され、信西の子ら俊憲・貞憲・成憲・修憲らは逮捕全員配流された。
一方信西は山城国田原に逃れたが源光保の追手を振り切れず、郎党藤原師光に命じて自らの遺体を地中に埋めさせること命令し自害をした。
信西の自害を知った源光保は遺体を地中から掘り起し首を切り落とし、京に持ち帰り首は大路に棟木につるされ獄門にさらされたと言う。
何故に執念を持って信西の遺体を掘り起こし首を切り落とし都大路の獄門にさらし首にしたかについて、保元の乱の処理・処遇に多くの公家・武将に反感を生んだことにある。
① 雅仁親王(後白河天皇)即位擁立には雅仁親王を養育していた信西の策動があった
② 後白河天皇擁立に立太子しないままに即位は無理がった。美福門院の反発は根強かった。
③ 鳥羽上皇の葬儀は信西が取り仕切った。
④ 薬子の変後公的死罪を復活させた。
⑤ 荘園整理令に反感を持つ荘園主がいた。
⑥ 信西は自分の子息に要職に就け、旧臣に反感を持たせた。

平治の乱とそのその後
清盛は、紀伊で京の異変を知って、動転し九州に逃れることも考えたが紀伊の武士・湯浅宗重・熊野別当の協力で帰京できた。
その後の京の軍事の均衡は乱れ、義明の軍勢は少数に過ぎず、信頼の威信は崩れ後白河院の院政派にも二条親政派にも信西を排除した今は、信頼は無用の長物で御用済みはあからさまにであったが、清盛は信頼とは姻戚関係を結んでいたので、恭順の意を示した。
二条天皇も内裏を脱出し、清盛邸のある六波羅蜜に行幸した。後白河上皇も仁和寺に脱出した。この状況を藤原成頼が京中に触れ回り、公卿・諸大夫や武士集団が続々集結し、信頼・義明に追討の宣下が下された。
信頼軍は源義明・重成・光基・季実・光保の源氏を中心とした兵力と清盛を中心とした平氏軍と六波羅合戦が始まり、信頼混成軍は敗北、藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王の前に出頭し、清盛の前に引き出され、信西殺害・三条殿焼打ちの罪で処刑された。
摂関時代は藤原家の身内同士の覇権を廻って幼少の天皇の後見人なるための女御を持って天下の政治を執った。
院政派は幼少の天皇に即位することに於いて後見人として、上皇、法王の身分で天下政治を執った。
院政末期には平氏・源氏の台頭で武士の起用なしでは政治の運営が出来なくなって、武士の発言力に武力に朝廷と藤原家の衰退が顕著になって平安時代は終末に向かって、武士の時代、武布へと移って行き、頼朝の天下創設の幕が開かれた。

コメント

歴史が語る伝説の謎 二、 東大寺別当の系譜

2016-03-03 04:36:31 | 歴史研究
歴史が語る伝説の謎


二、 東大寺別当の系譜

初代 良弁   天平勝宝四年五月(七五二)~天平宝宇4年(七六〇 )
二代 良興   天平宝宇五年(七六一)~天平宝宇八年(七六四)
三代 良恵   天平神護一年(七六五)~神護慶雲二年(七六六)
四代 永興   宝亀一年(七七〇)~宝亀四年(七七三)
三代 忠恵   宝亀五年(七七四)~宝亀五年(七七四)
四代 霊義   宝亀九年(七七八)~延暦一年(七八二)
五代 等定   延暦二年(七八三)~延暦六年(七八七)
六代 永覚   延暦六年(七八七)~延暦十年(七九一)
七代 禅雲   延暦十年(七九一)~延暦十三年(七九四)
八代 堪久君  延暦十四年(七九五)~延暦十七年(七九八)
九代 源海   延暦十八年(七九九)~延暦二十一年(八〇二)
十代 定興   延暦二十一年(八〇二)~延暦二十四年(八〇五)
十一代 海雲   大同一年(八〇六)~大同四年(八〇九)
一二代 空海   弘仁一年(八一〇)~弘仁四年(八一三)   (真言系)
 #空海真言宗開祖、延暦二十三年最澄らと入唐後高野山に真言宗を開く(八一六)より六年まえに東大寺に入寺して真言宗布教の拠点としていた。
一三代 義海   弘仁五年(八一四)~弘仁九年(八一八)
一四代 静雲   弘仁十年(八一九)~弘仁十二年(八二一)
一五代 永念   弘仁十三年(八二二)~天長二年(八二五)
 *東大寺に真言院を建立。真言宗の影響が強くなる。
一六代 興雲   天長三年(八二六)~天長六年(八二九)
一七代 覚雲   天長七年(八三〇)~天長十年(八三三)
一八代 心恵   承和一年(八三四)~承和四年(八三七)
一九代 実敏   承和五年(八三八)~承和九年(八三九) (真言系)
二〇代 正進   承和十年(八四〇)~承和十三年(八四三)
二一代 真雅   承和十四年(八四四)~嘉祥三年(八五〇)(真言系)
二二代 貞祟   仁寿一年(八五一)~斎衡二年 (八五五)(真言系)
二三代 斎棟   斎衡二年(八五五)~天安二年(八五八)
二四代 真昶   貞観一年(八五九)~貞観十二年(八七〇)
二五代 祥勢   貞観十三年(八七一)~貞観十六年(八七四)
二六代 玄津   貞観十七年四月(八七五)~元慶二年(八七七)
二七代 真昶   元慶三年(八七八)~元慶三年三月(八七八)
二八代 安軌   元慶四年(八七九)~元慶四年四月(八七九)
二九代 祥勢   元慶五年八月(八八〇)~寛平一年(八八九)  
三十代 勝皎   寛平二年三月(八九〇)~寛平二年五月(八九〇)
三一代 恵珍   寛平二年九月(八九〇)~寛平五年(八九三)
三二代 済棟   寛平六年六月(八九四)~寛平九年(八九七)
三三代 道義   昌泰一年八月(八九八)~延喜四年(九〇四)
三四代 戒撰   延喜五年三月(九〇五)~延喜八年(九〇八)
 *東大寺東南院を造立。
三五代 延惟   延喜九年四月(九〇九)~延喜十一年(九〇九)
三六代 智鎧   延喜十二年一月(九一〇)~延喜十二年(九一〇)
三七代 観宿   延喜十九年十二月(九一九)~延長一年(九二三)
三八代 延敏   延長二年二月(九二四)~延長五年(九二七)
*東大寺講堂再建。
三九代 基遍   延長六年二月(九二八)~延長六年五年(九二八)
四〇代 寛救   延長六年六月(九二八)~承平六年(九三六)(真言系)
四一代 明珍   承平六年十一月(九三六)~天慶七年(九四四)
四二代 寛救   天慶八年(九四四)~天暦四年(九五〇)   (真言系) 
四三代 光智   天暦四年五月(九五〇)~康和一年(九六四)
四四代 法蔵   康和二年(九六五)~安和一年(九六八)
四五代 観理   安和二年(九六九)~天禄一年(九七〇)
四六代 法縁   天禄二年五月(九七一)~貞元三年(九八七)
四七代 堪照   貞元三年九月(九七八)~永観一年(九八三)  
四八代 寛朝   永観二年二月(九八四)~永延二年(九九〇) (真言系)
 *円融法皇、東大寺で受戒する。
四九代 然   永延三年七月(九九一)~正暦二年(九九一)
五十代 深覚   正暦三年七月(九九二)~正暦四年(九九三) (真言系)
五一代 平祟   正暦五年七月(九九四)~長徳四年(九〇八)
五二代 深覚   長徳四年十二月(九〇八)~長保一年(九〇九)(真言系)再任
五三代 雅慶   長保一年八月(九〇九)~寛弘一年(一〇〇四)(真言系)
五四代 済真   寛弘二年十二月(一〇〇五)~寛弘四年(一〇〇七)(真言系)
五五代 澄心   寛弘四年四月(一〇〇七)~長和三年(一〇一四)
五六代 清寿   長和三年三月(一〇一四)~長和五年(一〇一六)(真言系)
五七代 深覚   長和五年五月(一〇一六)~寛仁四年(一〇二〇)(真言系)再任
五八代 朝晴   寛仁四年十二月(一〇二〇)~寛仁五年(一〇二一)
五九代 観真   治安三年八月(一〇二三)~長元二年(一〇二九)
六〇代 仁海   長元二年六月(一〇二九)~長元五年(一〇二三) (真言系)
六一代 済慶   長元六年二月(一〇二四)~長暦一年(一〇三七)
六二代 深観   長暦一年十二月(一〇三七)~永承四年(一〇五〇)(真言系)
六三代 尋清   永承四年十二月(一〇五〇)~永承五年(一〇五一)(真言系)
六四代 有慶   永承六年五月(一〇五二)~天喜二年(一〇五四)
六五代 覚源   天喜三年八月(一〇五五)~康平一年(一〇五八)(真言系)
六六代 延幸   康平二年十二月(一〇五九)~冶暦二年(一〇六六)
六七代 信覚   延久三年二月(一〇七一)~承保一年(一〇七四)(真言系)
 *(一〇七四)興福寺の僧徒、別当法務頼信の房を襲い、付近の民家を焼く。
六八代 慶信   承保二年一月(一〇七五)~嘉保一年(一〇九四)
六九代 経範   嘉保二年六月(一〇九五)~康和一年(一〇九九)(真言系)
七十代 永観   康和二年五月(一一〇〇)~康和四年(一一〇二)
 *(一一〇二)東大寺の僧徒、興福寺の僧徒の狼藉を訴え八幡社の神輿を奉じて入京する。
七一代 寛助   元永一年四月(一一一〇)~天冶一年(一一二四)(真言系)
 *(一一〇六)興福寺の末寺の清水寺の僧徒、別当定深の罷免を求めて強訴。
 *(一一一〇)摂政忠実は興福寺の僧徒の武器所持を重ねて禁止する。
 *(一一一一)東大寺、興福寺僧徒争う。
 *(一一一七)春日社の神人が乱暴されたとして、興福寺の僧徒が蜂起する。
 *(一一二〇)興福寺の僧徒の強訴、神人を乱暴したとして和泉守藤原雅隆を解任される。
七二代 勝覚   天治二年七月(一一二五)~大冶三年(一一二八)(真言系)
七三代 定海   大冶四年五月(一一二九)~永治一年(一一四一)(真言系)
  *(一一四五)東大寺僧徒と興福寺僧徒争う。
七四代 覚信   久安三年一月(一一四七)~仁平三年(一一五三) (真言系)
七五代 覚晩   仁平三年三月(一一五三)~保元三年(一一五九) (真言系)
七六代 覚遍   保元四年三月(一一六〇)~永万二年(一一六六) (真言系)
七七代 顕恵   永万二年七月(一一六六)~承安四年(一一七四)
七八代 敏覚   承安五年三月(一一七五)~安元三年(一一七八)
七九代 禎喜   治承一年十二月(一一七七)~寿永一年(一一八二)(真言系)
 *(一一八〇)平重衡大軍を率いて南都に攻め入る、東大寺、興福寺壊滅的に被害焼失。
八〇代 定遍   寿永二年(一一八三)~文治一年(一一八五)   (真言系)
八一代 雅宝   文治二年三月(一一八六)~文治四年(一一八七)(真言系)
八二代 俊証   文治五年五月(一一八八)~建久二年(一一九一)(真言系)

三   興福寺別当の系譜
*(一)一乗院家(大)大乗院家

初代 慈訓   天平宝宇(七五七)~
二代 永厳   宝亀十年(七八〇)~
三代 行賀   延暦十年(七九一)~
四代 修円   弘仁十一年(八一九)~
五代 隆恵   承和一年(八三四)~
六代 寿朗   承和十四年(八四三)~
七代 興昭   貞観一年(八五九)~
八代 考忠   貞観十三年(八七一)~
九代 房忠   仁和二年(八八六)~
一〇代 仙忠   寛平五年(八九二)~
十一代 真覚   延喜五年(九〇五)~
十二代 基継   延喜十五年(九一〇)~
十三代 平源   延長八年(九三〇)~
十四代 空晴   天暦三年十二月(九四九)~
十五代 助精   天徳一年十二月(九五七)~応和一年(九六一)
十六代 延空   応和一年(九六一)~康保四年(九六七)
十七代 安秀   康保四年七月(九六七)~天禄一年(九七〇)
十八代 定昭   天禄一年十月(九七〇)~天元四年八月(九八二)
十九代 真喜   永観一年(九八三)~長保二年(一〇〇〇)
 *興福寺の僧徒、備前守藤原理兼の乱行を訴える。
二十代 定澄   長保二年八月(一〇〇〇)~長和四年(一〇〇二)
 *興福寺の僧徒ら大和国司の館に乱入。
二一代 林懐   長和五年五月(一〇〇三)~万寿二年(一〇二五)
 *(一〇〇六)興福寺の僧徒、春日荘の訴訟のため入京する。
二二代 扶公   万寿二年六月(一〇二五)~長元八年(一〇三六)
 *(一〇三七)興福寺僧徒、東大寺の東南院を焼く。
二三代 経教   長元八年八月(一〇三六)~長久五年(一〇四五)
二四代 真範   長久五年六月(一〇四五)~天喜二年(一〇五四)  (一)
* (一〇四六)興福寺焼失。翌年再建始まる。
* (一〇四九)興福寺の僧徒、大和守源頼親の館を襲う。
二五代 円縁   天喜三年一月(一〇五五)~康平三年(一〇六〇)   
二六代 明懐   康平三年六月(一〇六〇)~康平五年(一〇六二)
二七代 頼信   康平五年八月(一〇六二)~承保三年(一〇七六)
二八代 公範   承保三年八月(一〇七八)~応徳三年(一〇六六)
二九代 頼尊   寛治三年三月(一〇六九)~康和二年七月(一一〇〇)
三十代 覚信   康和二年八月(一一〇〇)~保安二年(一一二一)  (一)
*(一一〇一)興福寺の僧徒、金峯山の僧徒と争う。直ちに天皇、藤原忠実、宋との蜂起を制止する。
*(一一〇二)興福寺の僧徒蜂起、法皇阻止するために宇治橋を壊し入洛を防ぐ。 
三一代 永禄   保安二年七月(一一二一)~天冶二年(一一二五)
三二代 玄覚   天冶二年四月(一一二五)~大冶四年十一月(一一三〇)
三三代 経尋   大冶四年十二月(一一三〇)~天承二年(一一三二)
三四代 玄覚   天承二年四月(一一三二)~保延四年九月(一一三九)
 *(一一三七)興福寺の僧徒、神木を奉じて入京し強訴する、僧正補任について強
訴、同寺僧玄覚を僧正を補任させる。
 *(一一三九)興福寺僧徒、別当隆覚の坊を焼き神木を奉じて入京。十一月に再び別当隆覚を襲い、結果隆覚を辞任させる。
三五代 隆覚   保延四年十月(一一三九)~保延五年(一一四〇)
三六代 覚誉   保延五年十二月(一一四〇)~久安二年(一一四六)
三七代 覚晴   久安三年二月(一一四一~久安四年(一一四二)
 *(一一四五)興福寺僧徒、金峯山僧徒と争う。
三八代 隆覚   久安六年八月(一一四二)~保元二年(一一五七) (再任)
*(一一五一)頼長、興福寺の別当を私邸に召し、僧徒の武装を禁止する
 *(一一五三)頼長、自ら院別当になる。
三九代 恵信   保元二年十月(一一五七)~長覚一年(一一六五)
*(一一六五)二条天皇の葬儀の主導を巡り、比叡山と興福寺が争い続き延暦寺の訴えで、興福寺の別当恵信を辞めさせられる。興福寺の僧徒、延暦寺の座主の流罪を求め強訴をする。
四〇代 尋範   長覚二年五月(一一六四)~承安四年(一一七四)
 *(一一六七)興福寺別当尋範を襲い、大乗院など焼いた前別当の恵信を伊豆に流罪。
*(一一七三)興福寺僧徒、多武峯の坊舎を焼く。
  延暦寺、興福寺僧徒互いに争いを繰り返し蜂起する。南都十五カ寺の寺領を没収する。
四一代 覚珍   承安五年八月(一一七五)~安元一年十月(一一七五)
四二代 教縁   安元一年十一月(一一七五)~治承三年四月(一一七九)
四三代 玄縁   治承三年四月(一一七九)~治承四年(一一八〇)
四四代 信円   養和一年一月(一一八一)~文治五年五月(一一八九)(一)(大)
四五代 覚憲   文治五年五月(一一八九)~建久六年十二月(一一九六)
+ 延暦寺や東大寺の座主別当の詳細な記述に比べ興福寺の記録は余り残されていない。度重なる戦火、焼失が記述を失わせたのかもしれない。
 

コメント

歴史が語る伝説の謎 『平安座主・別当興亡の系譜」

2016-03-02 04:29:11 | 歴史研究

歴史が語る伝説の謎

『平安座主・別当興亡の系譜」
          
はじめに

日本の平安仏教を二分させた天台宗と真言宗、とりわけその天台宗は仏教で言う「総合仏教学校」であった。禅宗、浄土宗、法華宗などと、薬師如来から、阿弥陀仏、釈迦如来など宗旨、拝仏を問わず「学僧の府」でもあるとともに、権力と武力の牙城でもあった。
その寺院と宗派の最高権威、権力者の「座主、別当」は存亡を左右するものでもあった。
荘園制度と共に勢力は拡大、朝廷内への発言力と仏事の覇権を巡り、宗派内、他宗に対しても対抗する意味に於いても寺院、宗派の長官である「座主、別当」の任命は重要であった。
「座主、別当の補任」任命権は朝廷の特権であり、それぞれの利害と思惑が相成って熾烈な戦いが繰り広げられた。
特に仏教史上熾烈を極めたが、天台座主の補任を巡る争いに端を発したのが第三代座主円仁の山門派と、第四代座主円珍の寺門派の空前絶後の朝廷を巻き込んだ争いであった。
奈良仏教の雄、興福寺も東大寺も興亡、また別当の補任で朝廷と激突、荘園拡大、朝廷への影響力を懸けての戦いは複雑に絡み合った。
真言宗も同様に高野山の金峯山寺座主を巡り金剛峯寺ざすと大伝法院座主の補任を廻り、覚鑁を指す鳥羽上皇に、加護のもと就任したが旧勢力と紛糾し壮烈な紛争の後に、高野山を降り、此処に古儀真言宗と新義真言宗と分派した。
成熟する平安仏教は、仏教普及と権力争いは表裏一体であったの確かであった。

一  天台座主の系譜

                  寺=寺門派
 最終時 辞=辞退  没=職責時没  止=座主停止 再=再任
    僧名  就任期間                     
宗祖    最澄               ~弘仁十三年(八二二) 没
 *大同一年最澄天台宗を開く。弘仁十年比叡山に戒壇院を設立を申請をする。
初代    義真  天長元年(八二四)~天長十年 (八三三) 没  
二代    円澄  承和元年(八三四)~承和三年 (八三六) 没
三代    円仁  仁寿四年(八五四)~貞観六年 (八六四)  没    十年
#円仁(七九四~八六四)慈覚大師
延暦十三年(七九四)下野国生まれ。天台宗山門派の祖。九歳にして大慈寺広智に師事し、十五歳にして広智に伴割れて比叡に上がり最澄の門下に入った。最澄に伝法可所潅頂を受け、同年東大寺で具足戒受けた。その後比叡山で教師になり、法隆寺、四天王寺などで講演し、承和二年(八三五)六月、入唐還学僧(条件付)の詔を受けた。 入唐には遣唐大使藤原常継に請益僧円載らと共に従った。
 揚州に漂着し、天台山に上がり、長安で天台学を学ぶつもりが資格なく、やむなく開元寺で学び、翌年帰国の遣唐使船に乗り帰国の途中に嵐に遭い、山東半島に漂着、翌年五台山に上がり志遠和尚にあい教えを受け「摩可止観」、など学び天台経典三十七巻を書写し、青竜寺でも義真阿闍梨に学び、玄法寺に、大安国寺に長安に止住六年多くの経典と教えを学び、その折仏教の排斥に会い、新羅の商船で命からがら経典など持ち帰った。その持ち帰った品の数々は天台宗に大きな影響を与え比叡山の確立に寄与した。帰国後比叡山天台宗座主として十年間にも及び弟子の育成と、寺院の拡充に貢献した。
また入唐の詳細は「入唐求法巡礼紀」に残されている。
四代    安慧  貞観六年(八六四)~貞観十年 (八六八)  没
五代    円珍  貞観十年(八六八)~寛平三年(八九一)没 寺門派二十三年
#円珍(八一四~八九一)智証大師
 弘仁五年讃岐国に生まれ、母は佐伯氏の女で空海の姪である。天台宗寺門派の宗祖。十五歳で叔父に随って比叡山に上がった、座主の義真に師事し「法華経」「金光明経」など学び、受戒し僧に成り、籠山すること十二年内供奉十禅師に勅任。
仁寿元年(八五一)入唐の為に大宰府に向った。七月に出航福州に着岸した、天台国清寺で止観を学び、越州開元寺で台教を、長安青竜寺の法全に大潅頂を、大興善寺で、福州開元寺で「法華、華厳、倶舎」を学び、大小乗経など四百四十部千巻をもって、天安二年(八五八)に肥前に帰国、大宰府に着いた。入糖七年数々の経典を持ち帰ってことは大きくより一層天台の教学に貢献ことは言うまでもない。比叡山王院で住持し多くの僧に伝授した。清和天皇以下三〇余名に潅頂を授け、五五歳にして天台宗座主に就任、在任二十年間に多くの弟子の育成に尽くし、円珍に影響された弟子を多く残した。
*山門派、寺門派の盛衰記
 比叡山天台宗延暦寺の揺ぎ無い確立に貢献したのが、円仁と円珍である。共に入唐し数々の経典とその奥義を持ち帰り、伝え弟子を育てた、それぞれの教えが多くの弟子達に引き継がれた。
その大きな功績が故に尾を引き、二派に分かれるほどの影響があった。それは天台座主を巡る後継者にまで波及していった。
六代    惟道  寛平四年(八九二)~寛平六年 (八九四)  没 寺門派
*六代座主に 円珍二十年間の座主で弟子の惟道が二年間座主になった。
寛平四年七代座主に円珍系の弟子の猷憲が就任、続いて八代座主に康済が五年間座主になった。
九代座主に円仁派の長意が七年間就任した、十代には円珍派の増命が十八年間も座主に就任、十一代、十二代に良勇、玄鑑が、十三代尊意座主から十七代喜慶まで円仁派が就任した。
七代    猷憲  寛平五年(八九四)~寛平六年(八九四)没 寺門派
八代    康済  寛平六年(八九四)~ 昌泰二年(八九九)辞 寺門派
九代    長意  昌泰二年(八九九)~ 延喜六年 (九〇六)  没
十代    増命  延喜六年(九〇六) ~延喜二十二年(九二二)辞寺門派十八年
十一代  良勇  延喜二十二年(九二二)~延喜二十三年(九二三)没 寺門派
十二代  玄鑑  延喜二十三年(九二三) ~延長四年(九二六)  没        
十三代  尊意  延長四年(九二六)~ 天慶三年(九四〇)    没  十四年
十四代  義海  天慶三年(九四〇)~ 天慶九年(九四六)    没 
十五代  延昌  天慶九年 (九四六)~ 応和四年 (九六四)   没 十八年
十六代  鎮朝  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)   没
 *良源焼失寺院を再建してゆく、延暦寺東塔法華堂、などその後惣持院、講堂、文殊院他。(九八〇)には根本中堂を再建。
十七代   喜慶  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)  没            
十八代   良源  康保三年 (九六六)~ 永観三年 (九八五)  没   十九年
 *天元十二月(八九一)円仁派、円珍派の両門徒法性寺の座主職を争い円仁派の門徒が勝つ。
# 良源(九一二~九八五)元三大師
延喜十二年(九一二)近江国浅井で生まれ、慈覚派(円仁)で比叡山の中興の祖、十二歳で比叡山西塔理仙に師事し、尊意座主に受戒、阿闍梨、内供奉、権律師、僧正と順風に地位を上り、五十四歳(九六六)で座主に上り詰めた、何より良源の名を知らしめたのが、応和三年(九六三)の宮中で行なわれた「応和宗論」で南都の僧との活躍であった。
比叡山の延暦寺の大火を機に堂塔を整備したことと、藤原氏の荘園の寄進を受け経済的にも、基盤が確立して評価と信頼を得た。
良源の出現によって天台宗比叡山延暦寺は再興されて「天台中興の祖」と仰がれたが、結果、円仁、円珍の両派の均衡は崩れて、主導権は円仁の慈覚派が中核を占めるにいたりこれを機に山門派、寺門派の対立が表面化していった。
十九代   尋禅  永観三年 (九八五)~ 永祚元年 (九八九) 辞 
*藤原兼家の子、尋禅が座主に就任。それまで兼家は横川に薬師堂を建立。
二十代   余慶  永祚元年 (九八九)~ 永祚元年 (九八九) 辞 寺門派
*余慶が天台座主に補任されたが直ちに円仁派の猛反対で座主につくことできなかった。事の起こりは円仁派の盛り返しの最中、京都の法性寺の座主を廻り(法性寺の座主は代々円仁派の僧)、円珍派の僧余憲が朝廷より任命され、これを知った円仁派は強烈に反対し阻止し。
永祚元年(九八九)  朝廷は天台座主に寺門派の余慶を任命した。
其の時も円仁派は、猛烈に反対し、任命状を使者を途中で待ち受けて、妨害、襲い盗ろうとし、勅使が宣命が、比叡山に持って上がることが出来なかった。
* 「永祚の宣命」と呼ばれ、余慶は天台座主に任命されながら、その職務に就けなかった。この事件より決定的に亀裂が起きていった。
二一代  陽生  永祚元年(九八九)~  永祚二年(九九〇)   辞
二二代  暹賀  永祚元年(九九一)~  長徳四年(九九八)   没
 *正暦五年(九九三)遂に、円仁派と円珍派の武力を持っての争いが起きた。
山内紛争が三千人以上が山塔付近に住持し、僧衆徒が入り乱れての争い、山中に坊舎を配備、一触即発の状態の中で突如、円仁派が円珍派の拠点に襲撃をしたことが発端で衝突が起きた。
 双方入り乱れて乱闘が起き負傷者、死者の数は定かではないが、数で劣る円珍派の僧徒千人は、落ち逃げ延びるように、山を下った。
 向った先は兼ねてより、円珍が唐より帰国した折に居を構えて住持したところの、山麓の大友邸に円珍派は居を構えた。
 園城寺は円珍派が大友氏より寄進を受けものであるが、あの悲劇皇子、弘文天皇の皇子の邸跡で、以後此処を拠点に円珍派は勢力を伸ばしていった。
山内紛争から宗内紛争の始まりである。
自立した円珍派は「園城寺」を寺門派として積極的に朝廷に働きかけたりして加護と理解を求めた。
朝廷も山門派の行き過ぎた行動に再三諌め、寺門派に深入りを示したが返って山門派を刺激した感があった。
二三代  覚慶  長徳四年(九九八)~ 長和三年 (一〇〇一) 没
二四代  慶円  長和三年(一〇〇一)~ 寛仁三年(一〇一九) 辞  十八年
二五代  明教  寛仁三年(一〇一九)~ 寛仁四年(一〇二〇)  没
二六代  院源  寛仁四年(一〇二〇)~ 万寿五年(一〇二八) 没
二七代  慶命  万寿五年(一〇二八)~長暦二年 (一〇三八) 没  十年
二八代  教円  長暦二年(一〇三八)~永承二年 (一〇四七) 没
*長元八年(一〇三五)三月、園城寺の三尾明神の祭礼に、延暦寺の僧徒が乱入、乱闘となった。
直ちに報復として園城寺の僧徒、僧兵らを延暦寺の僧正の坊舎の襲撃、焼き討ちをかけた。
*長暦三年(一〇三九)二月、その頃には園城寺には戒壇院がなかった。
戒壇院とは僧侶になるには受戒して始めて僧侶の資格を得る。その戒壇院は当時は延暦寺、東大寺に行って僧侶の受戒を受けていた。園城寺は再三戒壇院の許可を朝廷に求めで出たが悉く延暦寺の反対し強訴、合戦繰り広げられた。
長久三年(一〇四二)三月、園城寺は再度朝廷に戒壇院の申請を出す。
 再三尾園城寺の戒壇院の申請に、怒った延暦寺の僧衆徒は園城寺の山内の円 満院へ焼き討ちをかけた。
*永承三年(一〇四八)八月、天台宗座主に、寺門派の明尊に補任が決まった。
たちまち山門派の僧兵らの猛反対で辞任し、やむなく改めて山門派の源信を補任した。この頃各宗派の最高の地位権威の座主、別当の許可、任命権は朝廷にあって、しばしば山内の僧綱(僧正、僧都、長者など)の反対で阻止される事がしばしば
 徹底して園城寺への反対は露骨になっていった。
二九代  明尊  永承三年(一〇四八)~永承三年(一〇四八)辞  寺門派
三十代   源心  永承三年(一〇四八)~天喜元年(一〇五三)    没 
*(一〇五三)三月、天台座主補任を廻り、朝廷は寺門派の源泉を補任した。
 またも延暦寺は猛反対で、即辞任しなければならなかった。
 天喜元年結果山門派の明快で落着した。
三一代  源泉  天喜元年(一〇五三)~天喜元年 (一〇五三) 辞
三二代  明快  天喜元年(一〇五三)~延久二年(一〇七〇)  没  十七年
三三代  勝範  延久二年(一〇七〇) ~承保四年(一〇七七) 没
*延久七年(一〇七七)二月、山門派、寺門派入り乱れて断続的に乱闘があって、原因は園城寺の戒壇院の許可を廻り抗争の最中、四月は寺門の覚円が天台座主に補任された。またもの反対で辞任し、朝廷は止む無く山門派の覚尋を座主に補任して決着した。
三四代  覚円  承保四年(一〇七七) ~承保四年(一〇七七) 辞  寺門派
三五代  覚尋  承保四年(一〇七七) ~永保元年(一〇八一) 没          
*永保三年(一〇八一)三月、日吉社の祭礼に下人と下人の喧嘩で、山門派が怒り、僧徒ら園城寺に焼き討ちをかける。
三六代  良真  永保元年(一〇八一)~寛治七年(一〇九三) 辞
*天仁三年(一一〇〇)六月、園城寺の僧徒は長史の坊舎を焼き払う。
多分朝廷より使わされた園城寺の高僧であったが自分たちの意の添わない人事に抗議したのだろ。
三七代  仁覚  寛治七年(一〇九三)~康和四年(一一〇二)  没 
*(一〇九五)延暦寺の僧徒、寺僧を殺害したとして源義綱を流罪を求め日吉社の神輿を奉じて入京を企てる。
 *園城寺の僧徒、長史の坊舎を焼く。八月、朝廷は園城寺の越訴を停止させる。
三八代  慶朝  康和四年(一一〇二 ~長治二年(一一〇五)  辞
三九代  増誉  長治二年(一一〇五) ~長治二年(一一〇五) 辞  寺門派
*長治二年(一一〇五) 天台宗座主として寺門派の、増誉が補任されたがまたもの山門派の延暦寺沿僧衆の猛反対で辞任を余儀なくされた。
四代   仁源   長治二年(一一〇五)~天仁二年(一一〇九)  辞 
四一代  賢暹   天仁二年(一一〇九)~天仁三年(一一一〇) 辞
四二代  仁豪   天仁三年(一一一〇)~保安二年(一一二一) 没 十一年
四三代  寛慶   保安二年(一一二一)~保安四年(一一二三) 没
*(一一二二)延暦寺の僧徒、美濃山門領の処置を巡り、座主覚慶を遂う。翌年再び座主を遂う。
*保安三年(一一二二)五月、園城寺の僧衆徒、延暦寺の僧徒を殺す。直ちに延暦寺の僧兵ら報復として下山し園城寺に向かい、襲撃をかけ金堂、他諸堂を焼き払う。
四四代  行尊   保安四年(一一二三)~保安四年(一一二三)辞   寺門派
四五代  仁実   保安四年(一一二三)~大治五年(一一三〇) 辞
*(一〇二二)道長が延暦根本中堂に参拝、十二神将像を供養する。
*大冶四年(一一二九)十二月、天台座主として、久々に寺門派の行尊が補任された。直ちに山門派の猛反対で辞任した。
四六代  忠尋   大冶五年(一一三〇)~保延四年(一一三八) 辞 
四七代  覚猷   保延四年(一一三八)~保延四年(一一三八)  辞
*保延四年(一一三八)四月、天台座主として寺門派の覚噂を補任するが、延暦寺の僧衆徒の猛反対で辞任。
四八代  行玄   保延四年(一一三八)~久寿二年(一一五三) 辞寺門派 十五年
四九代  最雲   久寿二年(一一五三) ~応保二年(一一六二) 没
 *(一一五八)天台座主最雲らに、僧徒の蜂起を禁止する。
五十代  覚忠   応保二年(一一六二)~応保二年(一一六二)辞 寺門派 
五一代  重愉   応保二年(一一六二) ~応保二年(一一六二) 辞
*応安二年(一一六二)一月、延暦寺の僧衆徒ら、延暦寺の僧衆徒ら、園城寺の長史覚忠が天台座主に補任された、直ちに山門派が拒み猛反対、結集しこの訴えを朝廷にする、朝廷この訴えに屈し山門派の重愉を座主にすることで決着。
五二代  快修   応保二年(一一六二) ~長寛二年(一一六四) 止 
五三代  俊円   長寛二年(一一六四) ~仁安元年(一一六六) 没
五四代  快修   仁安元年(一一六六) ~仁安元年(一一六六) 止  再任 
五五代  明雲   仁安二年(一一六七)~安元三年 (一一六七) 止
五六代  覚快   安元三年(一一六七) ~治承三年(一一七九) 親
五七代  明雲   治承三年(一一七九)~ 寿永二年(一一八三) 没  再任
五八代  俊尭   寿永二年(一一八三) ~寿永三年(一一八四) 止
五九代  全玄   寿永三年(一一八四) ~文治六年(一一九〇) 辞
六十代  公顕   文治六年(一一九〇) ~文治六年(一一九〇) 辞    
*建久元年(一一九〇)三月、再び天台座主を廻り紛争、寺門派の公顕を天台座主に補任、即座に山門派の猛反対止む無く辞任。
これ以降天台座主の寺門派、山門派の座主を廻る紛争が少なくなっていった。
て行った。
理由は時代は鎌倉時代に移り、互いに消耗合戦を繰り広げ、荘園は減少し、その勢力は衰退の一途を辿った。時代の趨勢は、浄土宗、禅宗、日蓮宗などに変わっていった。

 

コメント

歴史が語る伝説の謎 「神功皇后」武功の虚実の謎           

2016-03-01 04:31:53 | 歴史研究
歴史が語る伝説の謎

「神功皇后」武功の虚実の謎           

日本人に取り古代英雄伝説で最も代表的な物語が「神功皇后」である。
その活動は九州を中心に展開し、日本の各地に分布される八幡神社は、神社総数の約12万社ある中で4万社余りが神功皇后を祭神として祀り、地域の一ノ宮として多く崇敬を受け、皇孫の祖神として古くより伊勢神宮と共に崇拝されている。

「神託と神功皇后」
 景行天皇の死後、後継に成務天皇が継承したが皇子にいなかったので「ヤマトタケル」の第二に皇子の足仲彦(仲哀天皇)が即位した。
 足仲彦(仲哀天皇)は父ヤマトタケルの武勇に長けているのに反し、弱々しく描かれている。ヤマトタケルクマス征伐後に、景行天皇が九州熊襲征伐が行なわれた。次ぎに即位した成務天皇が皇位就いたが継子が無かった為にヤマトタケルの皇子の仲哀天皇が即位したが、再び熊襲が朝廷に反逆を企てたと知って、天皇は熊襲征伐に向かいった。
九州は筑紫の香椎宮で武内宿禰が神降ろしの場で、神託を問うた所「西の方国があり、その国には金銀の財宝の財宝がる。その国に行くように」のお告げを仲哀天皇は疑って「西方を見ても大海があるだけ」行動を起こされなかった。神は「そなたはこの天下は統治する国ではない、そなたは黄泉の国に向かいなさい」と仰せになった。 
そのとき下された神託に従わなかった為に神の怒りに触れ、翌年仲哀天皇は崩御されたと記されている。
武内宿禰は神に、皇后の御腹の皇子の男女の別を問うた所、皇子とお告げがあって、大神の名を問えば「天照大御神の御心による、表筒神、中筒神、底筒神の住吉三神である」と答えたと言う。
* 仲哀天皇の不可解な謎の死は、神功皇后の御腹には世継ぎの予言と神託が述べられている。
何か仲哀天皇に身辺に、記述にない王権に政変があったのか、短い記述で神罰があったことを伝えている。
神功皇后を支える武内宿禰と住吉神三神の導きで国内統治、三韓征服を進めていく、九州を中心に展開されてゆく。
 一方、神託に従った神功皇后は、熊襲、土蜘蛛を次々征服した。
* 神功皇后の出自については、「日本書紀」には気長足姫尊は開化天皇の曾孫、気長宿禰王女である。母は葛城高顙媛と言う。幼少から聡明で、叡智があって、容貌も優れ、美しいと記されている。
また「古事記」には誉田別(応神天皇)の母オキナガタラシヒメについて新羅の沼の畔で娘が昼寝をしていると、日光の娘の陰部に日が射し、やがて身篭り赤い玉を産んだ。これを見ていた男は玉を貰い受けたが、ある時国王の子アメヒボコから牛殺しの疑いをかけられ許しを請う為に赤い玉を差出した。
赤い玉は美しい娘に変身、王の子と結婚、その後二人は不仲になって、やがて娘は「祖先の国」に行くと小船に乗って海を渡り難波に住みついた。後追ってきたアメヒボコは多遅摩(但馬)に上陸、新羅より持ち込んだ「八つの宝」八前の大神として出石神社に祀られ、アメヒボコは多遅摩に住み着き妻を娶り、その子孫から神功皇后(オキタナガタラシヒメ)であると語られている。これを見れば渡来系の影響の神と見られる。

「三韓征伐」
神の神託によって「三韓征伐」は「記紀」に記載されている。夫の仲哀天皇が急死後、神功皇后が六八年間代わって政務を執り行った。
先ず始めに齎宮に入って自ら神主になって、住吉大神の神託で再び新羅征伐の託宣がでた。対馬の倭珥津を出発し、妊娠したままの海を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅を攻めた。新羅は戦わずして降伏して、朝貢を誓い、高句麗、百済も朝貢を約束したという。「日本書紀」には新羅王は王子を人質に出した事記されている。
新羅国を馬飼と定め、百済国の海を渡った、地名を屯倉と定め、皇后は御杖を新羅の国王の門に突き立てた。
住吉三神の荒御魂を、国を守る守護神として鎮め祭り、帰国され新羅から帰国後、筑紫で誉田別皇子(応神天皇)を産んだと「古事記」に記されている。
神功皇后は帰国に際し出産を遅らせるために、御腹に月延石、鎮懐石と言われる石を当ててさらしを巻き、冷やす事によって出産を遅らせた。
月延石は3つあったとされ、長崎の月讀神社、京都の月読神社、福岡の鎮懐石八幡社に奉納されたと言う。

神功皇后の帰国後、新羅王汗礼欺伐は人質として倭国に渡った妻子が奴婢とされたので使者を派遣し返還を求めてきた。
神功皇后はこれを受け入れ、見張りに葛城襲津彦を新羅に遣わすが、途中の対馬で新羅の使者に騙され逃げられた。
これに怒った襲津彦は新羅の使者三人を焼き殺し釜山南の多大浦から上陸、慶尚南道梁山辺りを攻撃し捕虜を連れ帰った。
この時の捕虜は桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。
「百済記」には神功四六年に百済が倭国に朝貢した記述が残されている。
神功四九年には神功皇后は将軍荒田別・鹿我別を卓淳国へ派遣し、新羅に急襲しょうとするが、兵の増強を進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪らに合流を命じて、新羅軍を破った。その後七カ国を破り、四つ邑は抵抗もなく降伏した。
神功五一年には百済は久氐を派遣し朝貢した。
皇后五二年には百済王は倭国との同盟を記念し七子鏡と七枝刀を献上した。
「葛城襲津彦の新羅征討」
神功皇后62年葛城襲津彦を遣わし新羅を打たせる。
「百済記」に拠れば新羅が倭国に奉らなかったために沙至比跪(さちひこ葛城襲津彦)を新羅に遣わし討伐したが、所が沙至比跪は新羅の美女に心奪われ矛先を加羅に向け滅ぼす。
加羅王は百済に亡命し、加羅王の妹は天皇に直訴し、天皇はこれに怒り木羅斤資を遣わして沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また沙至資跪は天皇の怒りが収まらないと石穴で自殺した。

* 4世紀末から5世紀初頭にかけ大和政権は、新羅を征圧した事は歴史的史実で朝鮮半島の百済、新羅などに「記」残されている。
学説には神功皇后の新羅征服の伝説は「記紀」に押しはめたに過ぎず、継体天皇時代に形成されたと推測され、神功皇后の存在の史実に懐疑的な見方もある。
その要因として斉明天皇が新羅征伐に断行し客死しその後「白村の戦」に失敗、敗走し中大兄皇子の近江宮遷都になった史実と持統、元明へと女帝を元に神功皇后像が出来上がったのではとの説がある。
また近年まで魏志倭人伝の卑弥呼には天照大神と並んで、神功皇后が最も有力な候補とされていた。
江戸時代には新井白石が大和説、本居宣長が九州説など色々憶測を呼び、九州中心に活躍をした神功皇后の記述には、倭の女王が魏の皇帝に貢物を贈った、と言う魏志倭人伝の記事が引用されている。

「古事記」大和帰還への道
新羅から帰国した神功皇后は、九州に一旦落ち着かれ皇継の誉田別皇子を出産、大和に帰還には大きな問題があった。
先妻のオホナカツヒメの仲哀天皇の間に生まれた皇子二人、香坂王(カゴノサカ)、忍熊王(オシクマノ)が待ち構えていた。九州にあって神功皇后は大和の不穏な動きを察知、反逆のここ抱く事を懸念し策を講じた。
「古事記」にはこう記されている。棺を乗せる船一艘を用意し、皇子を喪船に乗せ「皇子はすでに亡くなられた」と噂を流された。
これを聞いたカゴサカノ王とオシクマノ王は皇后一行を待ち伏せて討ち取ろうと「斗賀野」(大阪兎我野町か神戸の都賀川の地か?)で可否を占って「誓約狩」をした。
カゴサカノ王は櫟(くぬぎ)に登っていたら、大きな怒り狂った猪が現れ、カゴサカノ王を食い殺した。弟オシクマノ王はそれを怖れる事無く、軍勢を立て直し皇后の軍勢に立ち向かった。
皇后も軍勢を降ろし相戦った。オシクマノ王は難波の吉師部(大阪岸部?)の祖先イサヒノ宿禰将軍として、一方皇太子は和禰臣宿禰をナニハネコタケフルクマノ将軍として、追い退けて山城に至った時、オシクマノ軍は立ち直り、相戦った。
皇太子側のタケフルクマノ将軍は「皇后は亡くなったのでもう戦う事は無い」と噂を流し、弓の弦を切って偽装降伏をした。その計略にはまったオシクマノ軍勢は武装解除した所へ、皇太子軍は隠し持っていた武器を追撃、逢坂辺りまで追い詰めは破り、楽浪で悉く切り伏せた。オシクマ王と将軍は追い詰められ湖上に乗り上げ、身を投げて共に死んでしまった。

戦いが終わってタケシウチウチノ宿禰(建内宿禰)は皇太子を連れて、禊をする為に、近江と若狭国を巡歴した時、越前の国の仮宮を造りそこに住まわせた。
その地のイザサワケノ大神が夢に現れて「私の名を御子の御名に変えたい」とお告げがあった。お告げに従う事を伝えると、明日、浜に来ればその贈り物を差し上げると告げられた。翌日浜に出てみると、鼻に傷付いたイルカが浦一杯に集まっていた。
これを見て御子は「神は私に食料の魚を下さった」と神を讃えて「御食津大神」と名付けた。それが今に「気比大神」であると言う。
イルカの傷付き臭かったので「血浦」と言ったが、今は「角鹿」(弦が)と呼んでいる。気比大神の前で成人の儀礼を終えた御子は都に帰還して、神功皇后が待ち受ける待酒によって「大御酒を献上し」御子が天皇と認められた。
この段は「酒楽の歌」が二首に歌謡によって作られている。仲哀天皇の御陵は「天皇を河内国の長野陵に葬りまつる」神功皇后は「狭城の楯列陵を葬り申し上げた」ときされている。
*「古事記」では難波に向かう筈の御子がわざわざ「角鹿」つるがに禊に行ったかについては神功皇后の出自の系譜の「天日槍命」に名を代える成人の儀式と一般的に言われている。「原始的な即位儀礼」と解されている。
「日本書紀」では御子を武内宿禰が抱いて戦っているが、「古事記」では皇太子、成人として陣頭指揮をしている。
若狭地方は海人部の拠点、漁業や海の産物で生業をしている。笥販大神、御食津大神は食物を司る神として、古くより朝廷に献上していたかも知れない。また北陸一帯は朝鮮半島に近く、白山神社のように新羅系に神々を祭神とする地域、オオクニヌシ系の国津神、地主神などが点在する。
この気比神社や若狭への巡行は神功皇后の出自の関連付けではないかと思われる。

「日本書記」大和帰還への道
新羅を討った後、皇后は軍卿百寮を率いて、穴門の豊浦宮に遷って天皇の遺骸を乗せて都に向かった。
その時仲哀天皇の先妻の御子、麛坂王、忍熊王は「皇后には御子あり、郡臣は従っている、皇后は幼い御子を立てるだろう、自分達兄である、どうして弟に従えるか」と画策を立てる。
天皇の陵を造るまねをして、淡路島に渡り石を運び、人海で皇后を待った。犬上君の倉見別と吉師の五十狭茅宿禰は麛坂王に付いた。将軍として東国に兵を起こさせた。
麛坂王、忍熊王は兎餓野を出て様子を窺った。その時 赤い猪が突然襲いかかり麛坂王を食い殺した。
忍熊王は軍を率いて退却、住吉にたむろした。皇后は敵の動きを知って,武内宿禰と御子を抱いて迂回し紀伊水門から、皇后は真っ直ぐ難波に向かった。途中で船がぐるぐる廻って進まず武庫に帰って占われた。
天照大神のお告げには「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない、広田国(摂津広田)に置くが良い」葉山媛に祀らせた。
また天照大神の妹の稚日女尊が教えて「自分は活田長狭国(摂津生田神社)に居たい」それで五十狭茅に祀らせた。事代主が長田国(長田神社)に祀らすように、住吉三神が大津の淳名倉の長狭の祀らせるように、お告げに従った。  これら神々の鎮座を見て平穏になった。
忍熊王は陣を引き、宇治に陣取り、皇后は紀伊より日高で太子(応神天皇)に会えることが出来た。
群臣は忍熊王を討たんと小竹宮(和歌山県御坊市小竹)に移り、変事の障害に遭い、何日かが過ぎて武内宿禰と和珥の臣の祖先竹振熊に命じて、数万の兵を率いて山城付近に進出した。
宇治に至って忍熊王は陣営を出て戦おうとした。そこで武内宿禰は和睦を提案し、直ちに武器放棄を装った。
忍熊王はその偽りの言葉を信じ、忍熊王は全軍に武器を解き河に投げ込む事を命令した。
武内宿禰は隠し持っていた控えの武器を出して敵に迫った。
自分は騙されたと知った忍熊王は兵を率いて逃げたが武内宿禰は精兵を送り近江の逢坂で追いつき破った。逢坂の地名はこの地名に基づく。
「日本書紀」はここで仲哀天皇の陵を河内国の長野陵に葬ったと記され、誉田別皇子の立太子として「大和国の磐余に都を造った」と記されている。
その二年後、新羅王が朝貢されたと記述が残されている。
* 「日本書記」では神功皇后の大和帰還には難波から播磨国を拠点に住吉神のお告げと、お告げにより、神を祭り難を逃れ、神功皇后は和歌山から迂回、武内宿禰軍と合流、近江で策略で忍熊王を討ち取った。
麛坂王は「古事記」と戦いの最中に「日本書記」同じく猪に食い殺される。九州を立って大和帰還する時には誉田別皇子が近江に戦った時は成人になっているので、何年かの月日が経っていると言う事かもしれない。

◎神功皇后の邪馬台国の卑弥呼説について、「記紀」の編纂者は「神功皇后紀」には卑弥呼を意識して考えていたとようである。これを基に江戸時代までは神功皇后が卑弥呼と考えていた様であるが、神功皇后の三韓征伐に「魏志倭人伝」はこの件に言及していない。時代考証に100年のずれがあって、今日では余り論議されない。

コメント