静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

大前提が壊れるとき

2010-05-16 16:53:48 | Weblog
人は皆、今日は生きておれる、明日も生きておれる、という一つの強固な信念の上に立って生きています。この信念はちょっとやそっとでグラつきませんから、人は「生」という、しっかりとした土台の上に、自分の人生を築いている錯覚に陥っています。

ですが、

私たちの「生」とは、蓮如上人が有名な「白骨の御文」のなかに「浮生」とおっしゃっているように、あるいは、善導大師が「風中の灯」ともいわれているように、極めてあてにならないものなのです。

その理屈はのみ込めても、内心は、なんだかんだ言ったところで明日も生きておれるさ、とうそぶいているのですから、そんなのは分かったうちにも入りません。

こういうのを「迷い」といいます。

皆さんは『タイタニック』という映画をご覧になったと思います。世界一の豪華客船タイタニック号が、初航海の途中、氷山とぶつかって沈没し、大西洋の藻屑と消えてしまった史実を映画化したものです。

港を出るときは歓呼の声で見送られ、自信に満ち溢れ、乗客の誰しも、到着した先の生活を夢見ていました。

しかし、

船内の豪華絢爛な世界も、乗客たちの笑顔も、それがやがて沈み行く船の中のひとコマと知っている観客は、その〃幸せ〃を見るに忍びないのです。

あの人たちには、固く信じていた、あるはずの「未来」がなかった。とらぬ狸の皮算用ばかりしていたということです。

でも、

考えようによっては、私たちも沈没確定の船に乗って、人生の航海を始めたようなものではありませんか。
その事実に目をつぶろうと、つぶるまいと、もうすでに浸水が始まっています。この浸水を止めることはできませんから、このままいけば必ず沈みます。

仏法は、この一大事に驚くことから始まります。


ところが今日、仏教を語る人たちの中に、この一大事をごまかし、勝手に生死を超越した〃気分〃になってしまっている人が多いのです。それでも、語らせればとくとくと「解放された」などと言い、お聖教の御文をたくさんあげ、「私にとって、死んだらどうなるかなど、もはや問題ではない」と言わんばかりの名調子を聞かせてもらえます。その人の自信や信念はどうでもいいのですが、問題は、それが本当に親鸞聖人の教えておられるとおりなのかどうか、です。
もし違っていれば、臨終の暴風雨の前に泣かねばなりません。
「生きているつもり」の大前提がひっくり返ると、いい加減な信仰では、すべてが音もなく崩壊するのです。

ここに、
そんな事例があります。

この話の中には、重要なことがいろいろ含まれています。
その一つが、真宗大谷派の教学を深く学んでいたある方が、臨終に、その信心が崩壊したという点です。そこに留意して読んでもらえたらと思います。
ただしその方は、これまで聞かされてきた教学では駄目だったと気づかれたあと、真剣に後生の一大事の解決を求め、人にも勧めていかれた大変尊い方だったことを、ひとこと申し添えておきます。

■浄土真宗を憂う
http://shinshu.fubuki.info/east/file01.htm

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