親鸞聖人のお言葉を出して、その意味を説明をする、ということが最も大切なことですが、非難してくる人の多くは、因果の道理など真理とは言えない、とか、救いとは関係ない、などと言っているようです。
こういう現状ですから、因果の道理は真理か否か、なぜ釈尊は説かれたのか、そこのところをキッチリ押さえず、その先の話をしてもほとんど意味がないと思うのです。なぜなら因果の道理は仏教の根幹。シャツの最初のボタンのかけ違えれば、最後までズレていくしかありません。
釈尊が因果の道理を明らかにしてくだされたからこそ、私たちは過去世・現在世・未来世の三世の存在を知り、廃悪修善の教えの大切さも分からせていただくことができます。(そのことはこれまで何度も書いてきたことなので、繰り返しませんが、分かりにくければ、どうか過去のエントリーを参照下さい)
しかし、因果の道理に狂いなしと思わぬ人は、三世の存在も認められず、廃悪修善の教えも軽んじることになるでしょう。でも、そんな人に後生の一大事が知らされるということがあるものでしょうか?
事実、今日の浄土真宗の僧侶に、後生の一大事とはどういうことかと質問すると、こういう答えが返ってくるようです。
(1)今から死ぬまでの一大事。つまり今をどう生きるかの大事。
(2)後生が地獄とは脅しであり、悪行の戒めである。
(3)人は死ねば皆、浄土へ帰ることを言われたもの。
(4)蓮如上人の時代は戦国乱世でこの世は苦しみばかりだった。せめて死んだら安らかな極楽へ往けると、民衆を慰めるために言われたこと。
(5)人間は死ねは無に帰するから、後生の一大事は、今日死語に等しい。
(6)「前念命終 後念即生」(愚禿抄)の後と生をとって作った略語。
(7)後生とは、我々の子孫が生きていく後の世のことである。
(8)後生を実体化するのではなく、飽くまで命の一大事ということ。
これからも分かるように、因果の道理を軽んじてきた結果、親鸞聖人の教えを正確に伝えるべき僧侶自身が、後生の一大事という教えの根本においてさえ理解がバラバラ。それでいて、親鸞聖人の書かれたものを各自の智慧才覚、経験で理解して、ああだこうだと論じているのです。それで一体、何が明らかになるというのでしょう。
残念ながら、これが今日の真宗の現状です。
こういう現状ですから、因果の道理は真理か否か、なぜ釈尊は説かれたのか、そこのところをキッチリ押さえず、その先の話をしてもほとんど意味がないと思うのです。なぜなら因果の道理は仏教の根幹。シャツの最初のボタンのかけ違えれば、最後までズレていくしかありません。
釈尊が因果の道理を明らかにしてくだされたからこそ、私たちは過去世・現在世・未来世の三世の存在を知り、廃悪修善の教えの大切さも分からせていただくことができます。(そのことはこれまで何度も書いてきたことなので、繰り返しませんが、分かりにくければ、どうか過去のエントリーを参照下さい)
しかし、因果の道理に狂いなしと思わぬ人は、三世の存在も認められず、廃悪修善の教えも軽んじることになるでしょう。でも、そんな人に後生の一大事が知らされるということがあるものでしょうか?
事実、今日の浄土真宗の僧侶に、後生の一大事とはどういうことかと質問すると、こういう答えが返ってくるようです。
(1)今から死ぬまでの一大事。つまり今をどう生きるかの大事。
(2)後生が地獄とは脅しであり、悪行の戒めである。
(3)人は死ねば皆、浄土へ帰ることを言われたもの。
(4)蓮如上人の時代は戦国乱世でこの世は苦しみばかりだった。せめて死んだら安らかな極楽へ往けると、民衆を慰めるために言われたこと。
(5)人間は死ねは無に帰するから、後生の一大事は、今日死語に等しい。
(6)「前念命終 後念即生」(愚禿抄)の後と生をとって作った略語。
(7)後生とは、我々の子孫が生きていく後の世のことである。
(8)後生を実体化するのではなく、飽くまで命の一大事ということ。
これからも分かるように、因果の道理を軽んじてきた結果、親鸞聖人の教えを正確に伝えるべき僧侶自身が、後生の一大事という教えの根本においてさえ理解がバラバラ。それでいて、親鸞聖人の書かれたものを各自の智慧才覚、経験で理解して、ああだこうだと論じているのです。それで一体、何が明らかになるというのでしょう。
残念ながら、これが今日の真宗の現状です。