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静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

生簀の中の自由

2010-05-12 20:02:42 | Weblog
沖縄基地移転問題も大事だし、

来る参院選も日本の未来を左右する大きな問題でしょう。

でも、

賛成する者も、反対する者も、

謗る者も、謗られる者も、

非難する者も、非難される者も、

ともに、もうじき死んでしまいます。

そこを問題にされることはまずありませんが、
本当はそれこそ一大事ではないでしょうか。
この一大事の前には、本来、敵も味方も、勝った負けたもないと思います。

たとえば、こういう光景を想像してみてはどうでしょう。

料亭の生簀(いけす)の中で、たくさんの魚が泳いでいる。たまたま来た客が、「あ、じゃあこの鯛」とか言って指差すと、板前さんがタモを使って、生簀のその鯛を追いかける。
生簀の魚は驚いていっせいに逃げ回る。

目的の鯛が捕らえられ、調理される頃には、また生簀の中は平穏にかえっている。

だがまた次の客が来て、どの魚を指名しようかと物色しはじめると、再び生簀で大騒ぎが始まる。でもどの魚かが犠牲になった時点で、また平穏が訪れる。この繰り返し。

ある客 「この生簀の中で、魚はどれくらい居られるものかね?」

板前 「そうですね、一週間で全部なくなります」

まさに【出口なし】

70年の人間の営みを、7日間の生簀の魚になぞらえてみることもできよう。
新型インフルエンザの出始めは大騒ぎしたが、何人か犠牲になったあとは、まるで何もなかったかのように静まっている。そんなことを繰り返すうち、いずれ自分の番が来る。
100パーセント逃れられない。 
まさに生簀の魚。


「僕は僕らしくありたい」とか、「自由に生きたい」と人は言い、それが人生の目的であるかのように言うけれど、それは所詮、生簀の中での「僕らしさ」や「自由」でしかないのではなかろうか。生簀の鯛が、いかにも鯛らしく、その中で自由に泳いでみせたところで、だから何だ?そんなものが自由なのか?という気がしないでもない。
もっと大きな自由が欲しくはないのだろうか?
そう、生簀自体を超越するような自由である。

それこそが仏法の目的とするところの生死出離の道。


出口のない森の中での「自由の讃歌」など、ハッキリ言わせていただけば、もう聞き飽きたのである。
それよりも迷宮の森の「出口」こそ、万人の希求する真の自由ではなかろうか。




ここを訪れる人は、恐らく賛否両極端で中間はいないと思います。最近はたくさんの方が来られるようになりました。だから、その方々に、ぜひ問いかけてみたいのです。
私自身のことなど、どう思われてもいいのですが、ここは一つ、憎悪の感情は一端、白紙に戻して、あなた自身、本当に自由かどうか、考えてみられてはどうでしょう。
その自由はひょっとして「生簀の中の自由」でしかないのではありませんか?

だとすれば、敵対したり、いがみ合うことで時間を潰すのは賢い選択ではなさそうです。

生死出離の道を歩ませていただき、人にその道を示す、それこそが親鸞聖人の正統な教え明らかにすることであり、それがお互い、残された人生でやるべきことなのでは。
本当のところ、そう思っています。




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