私たちは、心でどんなことを思っているでしょうか。お釈迦さまは、そこに貪欲、瞋恚、愚痴という3つの悪があることを教えておられます。
貪欲とは、あれが欲しいこれが欲しいという欲の心です。大別すると5つあり、五欲といわれます。すなわち食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
食欲とは食べたい飲みたい。財欲とはお金がほしい。色欲は男や女がほしい。名誉欲はほめられたい、他人に勝ちたい、睡眠欲は眠たい、楽したいという欲です。
考えてみますと、私たちの生活というのは、これらの欲を満たす、つまりお金を儲けたい、人にほめられたい、異性にモテたい。そのためだけに一生懸命になっています。しかもこの欲は、満たせば満たすほど、もっと欲しくなってきます。
私たちを朝から晩、晩から朝まで一日中、引きずり回しているのが、まさにこの底なしの欲なのですが、その欲が悪といわれるのはなぜでしょうか。それは、この欲を満たすために、私たちは恐ろしいことを思うからです。世の中にあふれる犯罪や争いは、元をただせば、この欲から起きています。
例えば強盗や泥棒、詐欺などの犯罪、闇取引などの汚職事件、あるいは遺産相続をめぐる親戚や兄弟の骨肉相食む争いは、お金が欲しいという財欲から起きたことです。
またスポーツ選手が、ライバルを蹴落としたり、禁止薬物を使ったりするのは、他人に勝ちたい名誉欲がさせたことです。
不倫やストーカーなどは色欲がさせたことですし、肉や魚を食べるため、生き物を殺すことは、法律でこそ罰せられませんが、仏教では殺生罪という罪に数えられます。こうした罪や悪は、いずれも私たちの欲が引き起こしたものなのです。
この欲が誰かに妨げられると出てくるのが瞋恚、怒りの心です。あいつのせいで損した、こいつのせいで恥をかかされたと、怒りの心が燃え上がると、何をやらかすか分かりません。離婚話にカッとなった夫が、包丁で妻を刺したという事件などは、恐ろしい瞋恚の心のなせるわざです。
次に愚痴とは、ねたみ、そねみ、うらみの心をいいます。自分の身におきた不幸を他人のせいにしてうらみ、自分よりも恵まれた相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、相手の不幸を喜ぶ醜い心です。
こういう貪欲、瞋恚、愚痴の炎が絶えず燃え盛っているのが私たちの心です。
自分に余裕のある時は、比較的心は穏やかで、そんな悪いことを考えているとは思えないかもしれません。しかし、ギリギリまで追い詰められた時、人はどんなことを思うでしょうか。
日本は今や高齢社会となり、介護地獄という言葉もあるとおり、認知症や徘徊が始まった親の介護で、仕事もできず、家も空けられず、経済的にも精神的にも追い詰められている人が少なくありません。中には虐待や殺人に至るケースさえあります。
介護も限度を超えると、今まで仲の良かった親子でも、それまで思いもしなかった、冷たい、恐ろしい心が出てこないでしょうか。ないものは出て来るはずはないので、出てくるとすれば、それが己の本性だからです。
真面目に自己を見つめるほど、私たちの心の奥底には、誰にも見せられないものがあることに気づかれると思います。
作家の吉行淳之介は、
「悪に汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに汚れていないつもりならば、それはただの鈍感というものである」と言っています。
また同じく作家の芥川龍之介は、「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」と言って、絶望して自殺をしています。
仏教では私たちの本当の姿を、煩悩具足の凡夫と教えています。煩悩とは欲や怒りや愚痴をはじめとする私たちを苦しませるもののことで、全部で108つあります。具足とは100パーセントそれでできているということ、凡夫とは人間のことです。
100パーセント煩悩で出来ている私たちだから、「心常念悪 口常言悪 身常行悪」となるのです。こういう煩悩具足の自分と知らされるほど、こんな者が本当に幸せになれるのか、暗澹たる思いになります。しかし、仏さまの慈悲は、苦しんでいる者にこそ注がれます。
真実の仏教は、こういう罪や悪で苦しみ続ける煩悩具足の私たちを目当てに救う教えなのです。こういう私たちが、あるがままで絶対の幸福に救い摂られて、「人間に生まれてきてよかった」という生命の大歓喜を味わえるのです。
そんな絶対の幸福に、仏教を聞けば必ずなれます。それが本当の仏教なのです。ではその絶対の幸福とはどういう幸福か、詳しいことはまた次の機会にお話いたします。
貪欲とは、あれが欲しいこれが欲しいという欲の心です。大別すると5つあり、五欲といわれます。すなわち食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
食欲とは食べたい飲みたい。財欲とはお金がほしい。色欲は男や女がほしい。名誉欲はほめられたい、他人に勝ちたい、睡眠欲は眠たい、楽したいという欲です。
考えてみますと、私たちの生活というのは、これらの欲を満たす、つまりお金を儲けたい、人にほめられたい、異性にモテたい。そのためだけに一生懸命になっています。しかもこの欲は、満たせば満たすほど、もっと欲しくなってきます。
私たちを朝から晩、晩から朝まで一日中、引きずり回しているのが、まさにこの底なしの欲なのですが、その欲が悪といわれるのはなぜでしょうか。それは、この欲を満たすために、私たちは恐ろしいことを思うからです。世の中にあふれる犯罪や争いは、元をただせば、この欲から起きています。
例えば強盗や泥棒、詐欺などの犯罪、闇取引などの汚職事件、あるいは遺産相続をめぐる親戚や兄弟の骨肉相食む争いは、お金が欲しいという財欲から起きたことです。
またスポーツ選手が、ライバルを蹴落としたり、禁止薬物を使ったりするのは、他人に勝ちたい名誉欲がさせたことです。
不倫やストーカーなどは色欲がさせたことですし、肉や魚を食べるため、生き物を殺すことは、法律でこそ罰せられませんが、仏教では殺生罪という罪に数えられます。こうした罪や悪は、いずれも私たちの欲が引き起こしたものなのです。
この欲が誰かに妨げられると出てくるのが瞋恚、怒りの心です。あいつのせいで損した、こいつのせいで恥をかかされたと、怒りの心が燃え上がると、何をやらかすか分かりません。離婚話にカッとなった夫が、包丁で妻を刺したという事件などは、恐ろしい瞋恚の心のなせるわざです。
次に愚痴とは、ねたみ、そねみ、うらみの心をいいます。自分の身におきた不幸を他人のせいにしてうらみ、自分よりも恵まれた相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、相手の不幸を喜ぶ醜い心です。
こういう貪欲、瞋恚、愚痴の炎が絶えず燃え盛っているのが私たちの心です。
自分に余裕のある時は、比較的心は穏やかで、そんな悪いことを考えているとは思えないかもしれません。しかし、ギリギリまで追い詰められた時、人はどんなことを思うでしょうか。
日本は今や高齢社会となり、介護地獄という言葉もあるとおり、認知症や徘徊が始まった親の介護で、仕事もできず、家も空けられず、経済的にも精神的にも追い詰められている人が少なくありません。中には虐待や殺人に至るケースさえあります。
介護も限度を超えると、今まで仲の良かった親子でも、それまで思いもしなかった、冷たい、恐ろしい心が出てこないでしょうか。ないものは出て来るはずはないので、出てくるとすれば、それが己の本性だからです。
真面目に自己を見つめるほど、私たちの心の奥底には、誰にも見せられないものがあることに気づかれると思います。
作家の吉行淳之介は、
「悪に汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに汚れていないつもりならば、それはただの鈍感というものである」と言っています。
また同じく作家の芥川龍之介は、「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」と言って、絶望して自殺をしています。
仏教では私たちの本当の姿を、煩悩具足の凡夫と教えています。煩悩とは欲や怒りや愚痴をはじめとする私たちを苦しませるもののことで、全部で108つあります。具足とは100パーセントそれでできているということ、凡夫とは人間のことです。
100パーセント煩悩で出来ている私たちだから、「心常念悪 口常言悪 身常行悪」となるのです。こういう煩悩具足の自分と知らされるほど、こんな者が本当に幸せになれるのか、暗澹たる思いになります。しかし、仏さまの慈悲は、苦しんでいる者にこそ注がれます。
真実の仏教は、こういう罪や悪で苦しみ続ける煩悩具足の私たちを目当てに救う教えなのです。こういう私たちが、あるがままで絶対の幸福に救い摂られて、「人間に生まれてきてよかった」という生命の大歓喜を味わえるのです。
そんな絶対の幸福に、仏教を聞けば必ずなれます。それが本当の仏教なのです。ではその絶対の幸福とはどういう幸福か、詳しいことはまた次の機会にお話いたします。
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