昨日書いたことに関連していいますと、
まず、人は何らかの信心を持っているという
こと。また何かを信じなければ生きてはいけ
ないということが、前提としてあります。
それは仏や神といった特定の宗教、あるいは
共産主義のような特定のイデオロギーを信奉
している人だけのことではなく、無宗教、
無思想を自認する人であっても、やはり例外
ではありません。
たとえば、
私たちは日々の生活に、一定の秩序と関連性
を見いだそうとしています。
これがないと安心して暮らせません。今日は
昨日みたいだった、明日も今日みたいだろう、
今日善いとされていることは、明日も善いと
されているだろう、自分が善いと感ずること
は、他人も善いと感じているだろう、といっ
た信頼、安心感です。
これが、生きるための大切な基盤なのですが、
自然災害や社会の動乱や事件に巻き込まれ、
この信頼、安心にひびが入ると、とたんに不安
に陥ります。ひどくすると、トラウマを抱えて
しまう人も出てきます。
だから「信心」はだれにとっても不可欠のもの
なのですが、
人は何を信じて、人生に安定感を得ようと
しているのでしょう?
一口に「信ずる」と言いましても、そこには
信ずる「対象」と、信ずる主体としての「心」
があります。
では、私たちの「信心」の実態を、対象と心
の2つから分析してみることにしましょう。
「信心といえる二字をば、『まことのこころ』
と訓めるなり。『まことのこころ』というは、
行者のわろき自力のこころにては助からず、
如来の他力のよきこころにて助かるが故に、
『まことのこころ』とは申すなり」(御文章)
(つづく)
まず、人は何らかの信心を持っているという
こと。また何かを信じなければ生きてはいけ
ないということが、前提としてあります。
それは仏や神といった特定の宗教、あるいは
共産主義のような特定のイデオロギーを信奉
している人だけのことではなく、無宗教、
無思想を自認する人であっても、やはり例外
ではありません。
たとえば、
私たちは日々の生活に、一定の秩序と関連性
を見いだそうとしています。
これがないと安心して暮らせません。今日は
昨日みたいだった、明日も今日みたいだろう、
今日善いとされていることは、明日も善いと
されているだろう、自分が善いと感ずること
は、他人も善いと感じているだろう、といっ
た信頼、安心感です。
これが、生きるための大切な基盤なのですが、
自然災害や社会の動乱や事件に巻き込まれ、
この信頼、安心にひびが入ると、とたんに不安
に陥ります。ひどくすると、トラウマを抱えて
しまう人も出てきます。
だから「信心」はだれにとっても不可欠のもの
なのですが、
人は何を信じて、人生に安定感を得ようと
しているのでしょう?
一口に「信ずる」と言いましても、そこには
信ずる「対象」と、信ずる主体としての「心」
があります。
では、私たちの「信心」の実態を、対象と心
の2つから分析してみることにしましょう。
「信心といえる二字をば、『まことのこころ』
と訓めるなり。『まことのこころ』というは、
行者のわろき自力のこころにては助からず、
如来の他力のよきこころにて助かるが故に、
『まことのこころ』とは申すなり」(御文章)
(つづく)
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