川田先生は、最近授業で雑談をしなくなったという。その真意はよくわからないが、それだけ大学受験が厳しくなっているということか・・・。私が予備校生だった、まだ世の中がのどかだった頃は、先生はよく雑談をしてくれた。先生の授業を初めて受けた日、先生はこんなことをおっしゃった。
「女は男を棄てるが、男は女を棄てない。なあ、そう思わないか。男ども!まあ、そうだな。その例外は、遠藤周作の『私が・棄てた・女』とドストエフスキーの『白痴』だけだな」
私はニヤニヤしながらも、いままで知らない異文化に足を踏み入れたような衝撃を覚えた。私は、授業を終えたその足で、本屋に行き、『私が・棄てた・女』という、講談社文庫を入手して読んだ。内容はここでは割愛するが、主人公ミツという女の名が「罪」をもじっており、キリスト教でいう人間の「原罪」の贖罪を純粋無垢な女・ミツそのものに負わせようとした遠藤の意図が、2度目に読み返した時にわかった。
それから、しばらくして、その本が映画化されていることを知った。近くのビデオ屋に問い合わせたところ、映画好きらしい店長がすぐに高価なVHSを入荷してくれた。私は、その映画の虜になった。原作よりもずっとよかった。そして、舞台になっていた早稲田大学がとりわけ美しかった。その映画がきっかけで、私は志望校を変えた。
大学生3年の時、私は、学内紙編集のアルバイトをしていた。その新春特別企画で、各記者が好きな早稲田OBを選んでインタビューをすることになった。まわりのみんなは、当時テレビに出ていた有名芸能人を人選していたが、わたしはすぐに、河原崎長一郎に決めた。
映画「私が棄てた女」の主演俳優である。夢のようだった。
河原崎長一郎氏は、2003年に他界されたが、代々続いた梨園の河原崎家の血筋で、岩下志麻とは、いとこ関係にあたり、早稲田一文出身だ。「私が棄てた女」のほかに、「五番町夕霧楼」「神々の深き欲望」などの映画で賞をとり、名俳優として知られていたが、わたしがインタビューをした当時は、ドコモのCMに出ていたくらいで、もう映画にもテレビにも出演していなかった。
インタビューの場所は吉祥寺にある喫茶店で、たしか「ブルー・ムーン」とか「スター・ムーン」とかそんな名前だった(数年前行ってみたらスパゲティ屋になっていた)。河原崎氏本人から指定された店だった。写真をとるには最適な真っ白は壁。インタビューのために店の一角が用意されていた。
黒に赤と黄色の模様が入ったセーター姿で現れた河原崎氏は、腰の低い、やさしそうな印象だった。
まず、「自分は一文中退であるが、よろしいんですか」と、ことわった。大学に入った当時、京都の撮影所に頻繁に通っており、学校に通えなくなったため、印南先生(私が在学中は文学名誉教授でした)に相談したところ、「辞めもていいんじゃないか、なんておっしゃってね」面白そうに笑いながら言う。
厳しかった父の話。歌舞伎の方じゃなくて、映画の道に進んでしまったことなどを話した。河原崎氏が学生当時に早稲田界隈にあった「おふくろ」という定食屋や、「早稲田文庫」という喫茶店(今は、吉祥寺に移転したそうだ)の話しをしたあと、話は、もちろん、映画や芝居の話に移っていった。
こういう公的なインタビューの場でインタビュアーとして私情を挟むことは許されない。でも、どうしても「私が棄てた女」のことについて知りたかった。河原崎本人、わたしが、この映画を観ていると思いもしなかったようだ。
「『私が棄てた女』という映画は、不思議でしてね、早大生だったこともあって、当時の僕に状況が重なる部分が多くてね。といっても、僕は女を棄ててませんけどね(笑)。僕も60年安保を経験してますから。僕はそんな熱心な活動家ではなかったんですけどね、周りに駆り出されるんで、仕方なく。夜中に集まったりしてね。でも、樺美智子さんの事件が一番大きかったな。」
映画「私が棄てた女」は学生運動の雰囲気を引きづる、挫折派が主人公だ。
「校門前を歩くシーンがあるんだけど、あのシーンが好きでね。」
たかだか、4,5秒のシーンだが、偶然、私も一番好きなシーンだった。
「監督の浦山さんとも仲が良くて、彼はクラッシックが好きで・・・」
(確か、ベートーベンの石膏の顔のアップに、ベートーベンが流れている喫茶店のシーンがあった)
わたしは、ここで言っておかなければ後悔すると思った。
「いろいろ、邦画を観ましたが、黒澤映画より、小津映画より、なにより『私が棄てた女』が日本一の映画だと思います!」
すると、河原崎は驚いたように、「ありがとう」と言った。
河原崎氏は、正直でいい人格だった。
「ぼくは、数年前に脳卒中をやっちゃってね。もう、台詞が思うように覚えられなくなっちゃったの。僕は絵を描いたり、本を書いたりするのが好きでね。作品もいくつか持ってる」
それから、河原崎氏は、内田吐夢監督の「宮本武蔵」シリーズのことを語った。
「内田吐夢さんって、厳しいひとでね。『飢餓海峡』なんか撮った人なんだけどね。僕の役は、台詞もなにもなくて、錦之助さんをスーっと睨むだけのシーンだったの。でも、このシーンを何十回も取り直されてね。ぼくはどうしてだかわらない。不思議なもんで、意を窺うっていうのかな、いやらしいもんでね、これでいいかなって、ぱっと監督の方を見ちゃうわけ。そうすると絶対だめなのね。でも、誰がどう思っても関係ない。ぼくはぼくでやるんだっていう感じで、無心になった瞬間、OKが出たの。すごい監督だったよ」
にこやかに、何気なく語ってくれたこの言葉を私は、生涯忘れない。その当時は、この映画シリーズを一本も見ていなかったが、偶然最近、シリーズの一部を観て、このシーンにぶち当たった。河原崎氏は、謙遜して端役みたいにおっしゃっていたが、のちに宮本武蔵に目を潰されて、仏像彫りにおちぶれる侍という重要な役で、河原崎氏が言っていた、「スーっと睨むシーン」というのは、非常に重要なシーンであることが、十年以上たってわかった。
インタビューが終わって、昼食をとっている時、私は、急に不吉な思いから逃れられないような気持ちになり、泣いた。涙がどんどん溢れてきて止まらなかった。一緒にいたカメラマンは面を食らっていた。緊張の糸が切れたのだと思っていたようだ。
それから、河原崎氏は一切、テレビにも映画にも出ることなく、その数年後、吉祥寺の自宅で息を引き取った。
川田先生の以前の週言に、「人生のすべては、経験された過去から未来への弾道であり、現在の意識的な過去に対する経験の瞬間にのみ、その軌道の全体が明るく照らし出される」
とあったが、河原崎氏の言葉の記憶は、間違いなく私の未来への弾道の一部になった。