山横目のブログ

日々のつぶやきや旅の忘れじを書き綴ります。

施福寺へ

2019-04-19 12:12:07 | 西国巡礼H31.4(和歌山)

4月17日 朝は薄曇りの天気、午後から小雨の予報になっている。今日は一日がかりで施福寺を目指す。宿泊したホテルのある堺駅からは、シャトルバスで堺東駅に向かい、泉北高速鉄道で和泉中央駅まで行ってバスに乗り継ぐ。泉北高速鉄道と言っても普通の南海電車で、山を削って開発されたニュータウンの中を走っていく。朝の通学時間は沿線の学校に通う学生で満員だった。堺のホテルを7時20分ごろ出て、和泉中央駅には8時40分ごろに到着した。槇尾山口行きの南海バスに20分乗って、山登りのシャトルバスに乗り継ぐ。

槇尾山口行きの南海バスを槇尾中学校前で降りるとき、500円玉を両替して330円の支払いを行おうとして、両替で出てきた50円玉を100円玉と勘違いして、50円少ない280円を料金箱に入れた。その後、数人の乗客が下りて、バスの発車際に運転手が一旦閉めたドアを開け、笑いながら50円足りないと言ってきた。手のひらに残ったいた残金が220円だった。蕎麦屋の出前のようにはいかなかった。

施福寺へはシャトルバスを降りてから難所の急な山登りが待っている。ややなだらかな階段を15分ほど登ると山門に到着する。その後20分ほど石の敷石の階段を踏みしめ登ると本堂に到着する。他の人たちもヒーヒー言いながら登っていく。

  

本堂の仏様たちは御開帳になっていて、直接参拝することができた。本尊の千手観音像の他に阿弥陀如来像などを拝むことができた。山を登ってきたご褒美のようなものだった。

 

シャトルバスを降りてお寺に登り始めるところにある茶屋の脇に水子地蔵尊がある。その奥の狭いところに何とも怪しげな水子の霊の像があった。

 

 

 

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西国巡礼を再開

2019-04-19 08:28:59 | 西国巡礼H31.4(和歌山)

4月16日 朝の茨城空港発の便で西国巡礼の旅を再開する。朝から雲一つない快晴、気温も上がり快適な出発になった。7時35分発の神戸便になので、6時には自宅を出て、車で空港へ向かった。35分ほど走り6時半ごろには空港へ到着した。

西国巡礼のお寺巡りは1年半ぶりになる。まだ奈良や京都の11寺しか巡っていない。この辺で少し真剣にお寺巡りをしないとと思い、旅に立った。茨城から神戸へ向かう途中、窓の左側に富士山が良く見えた。上々の気分で神戸に到着した。今回は大阪南部と和歌山のお寺をめぐる予定をしている。那智勝浦にある1番札所の青岸渡寺に寄るかどうか迷ったが、丸一日かかるので次回にした。週末にかかると航空運賃やホテル代がかさむので、できるだけウィークデイに行動するように計画した。

(朝の茨城空港)  (空からの富士山) (神戸空港大橋)

  

10時半ごろ神戸三宮から阪神電車とJR大阪環状線を乗り継いで、天王寺に到着した。ここで近鉄に乗り換え、藤井寺駅に向かった。天王寺駅では駅そばのいい匂いがしていた。朝食が早かったこともあって、腹が減っていたがじっと我慢して通り過ぎた。以前住んでいた神奈川で、通勤の帰りに小田急線の駅でよく食べた「箱根そば」の味を条件反射的に思い出し、電車を降りると食べたくなる。

藤井寺駅を降りて、アーケードの路地のような商店街を行くと5番札所葛井寺があった。この寺は「ふじいでら」という名前で呼び「葛井寺」と書くようだ。商店街はお寺の参道で、かつては大勢の参拝客でにぎわっていたのだろう。葛井寺は奈良時代725年の開基で、のち僧行基が修行に励んだとされ、南北朝時代に楠正行が戦勝祈願をして細川顕氏郡を打ち破ったとされている。1510年の大地震で伽藍諸堂が倒壊したが、戦国諸大名の勧進で再建されたとあった。境内にある名物の藤はまだつぼみだった。

   

午後から電車とバスを乗り継いで百舌鳥遺跡公園内にある堺市博物館を訪れた。百舌鳥遺跡群は、仁徳天皇の前方後円墳を中心とした一連の古墳群の総称で、その公園の一角に博物館がある。主な展示は古墳から出土した土器や鉄器類、もちろん高名な天皇の陵はまだ発掘されていないので、市がすでに発掘した一部の古墳からの出土品である。それ以外に堺市の街並みや交易の歴史や変遷、戦国時代に盛んだった鉄砲や火薬の製造。堺出身の高僧・行基の木造像など歴史好きには通いたくなるような所だった。入場料は200円と格安だった。

 

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