ナンカシ チキン の日々雑感

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気ままに綴ります

酒井根合戦場跡

2010-05-05 12:35:08 | 近辺
自宅マンションのすぐ脇にある首塚、胴塚とよばれる塚があります。
以外に近くに史跡とか多いんです。夜はでるよ~とうわさもありますが。。

案内版抜粋

現在は光ケ丘地区となっていますが、このあたり一帯は「酒井根合戦場」
といわれ、ここにあるような小塚が数十もありました。酒井根合戦場とい
われているのは、穀倉地帯である下総国を求めて太田道灌と千葉孝胤たか
たねが一戦をかわしたところからこういわれています。この戦いの最激戦
の地は、現在の麗沢大学前あたりとされています。

 当時の模様は、松戸市小金の本土寺の過去帳に「文明十年(一四七八年
十二月十日於境根原打死諸人等皆已成仏道云々」とあり、また鎌倉大草
紙に「太田道灌は、国府台よりはせ向い、合戦終日、木内、原(千葉勢)
ことごとく討死し千葉孝胤は臼井城に退いた」とあります。戦いに勝った
太田道灌は、戦死した者の霊を弔うため、敵、味方の区別なく首、胴、武
具をそれぞれに分け、首塚、胴塚、刀塚としたと伝えられています。
 その一部と伝えられている塚がここに保存されています。
 



地名の「酒井根」は、ちょうどこのあたりが相馬郡ごおりと葛飾郡の境
だったところから「境根」と呼ばれたそうです。また合戦に勝った太田道灌が
乾いたノドを酒井根薬師堂近くの井戸の水でうるおし、まるで酒のようにうま
かったので以後「酒井根」に変わったなどとの言い伝えが残っています。
  <柏市文化財保護委員会 柏市教育委員会>

柏市酒井根には「合戦場」と称する箇所が多数あり、またかつては千、万ともいう数の塚があり、原、木内など千葉孝胤軍の将兵の墓であると伝えられていたようです。光ケ丘の開発などでこれらの塚も埋められてしまったが、現在も団地の隙間など一部箇所に塚が残っています。


太田 道灌(おおた どうかん)は室町時代の武将。武蔵国守護代。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

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