もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

118冊目 久田恵「フィリッピーナを愛した男たち」(文春文庫;1989) 評価5

2012年01月08日 06時49分15秒 | 一日一冊読書開始
1月7日(土):

318ページ  所要時間5:55

近頃周囲に、母親がフィリピン人という若者たちが、多くはないが、確実に増えてきている。統計的に調べれば、明確に数値・比率として出てくるはずだ。そして、彼ら、彼女らも日本社会を構成する同胞である。その親たちが、どのような経緯で、出会い、結ばれ、共に生きるようになったのか、その背景に関心があった。

今日、ブックオフで全く偶然手に取り、表題よりもむしろ出版年を見て決めた。1989年、即ち23年前の出版とは、逆算すれば、まさに彼らの両親が出会った時期のルポルタージュなのだ。

勿論、人間の出会い方は多様であり、型にはまった見方をもつことが、偏見につながる危険があると思いつつも、本音では「貧しいフィリピンの女性を、金持ち国ニッポンの中で、嫁不足の地方農村や底辺・低所得の男性が代替物として仕方なく受け入れた結婚という灰色の暗い図式」を思い描きながら、「でも、大宅壮一ノンフィクション賞も受賞してるし、やっぱり読んでおいたほうがいいよなあ」と考え、そのまま買って読み始めた。

形式は、「体当たり取材」の形で、日本国内にとどまらず、むしろマニラをはじめとするフィリピンでの現地取材に重点を置いて、個人ライターの取材としては、かなり頑張った数量の<フィリッピーナと日本の男のカップル>の事例が検証されている。

登場するカップル:アグネス23歳とヤスオ32歳(都市銀行大手町支店勤務)/エミリア21歳?と森本ユウスケ38歳(パチンコ店勤務)/ステラ20歳と川村哲二43歳(×1、大手商社退社、小さな会社経営)/マリタ27歳と佐藤竜男37歳(古物商・バッタ屋)/ジョシー20歳と江口真28歳(ホテルオーナー息子)/マリアン32歳と川合裕一48歳(食料品店経営)/マリール21歳と橋本幸二33歳(飛行機整備会社勤務)/テッシー28歳→実は40歳と笠原正雄39歳(離婚、信用金庫退職、フィリピンで再起)/セシル26歳と久松昭45歳(元ヤクザ)

勿論、出会い・始まりは「極端な経済格差の狭間でおこっている金持ちニッポンと貧しいフィリッピンとの夜の巷を拠点とした民間レベルの経済戦争なのだ」、「日本は金づるなのだ」という部分は揺るがない。しかし、大切なのは、<結婚>なのだ。結婚すれば、子どももできるし、経済格差もくそもない。読み進むに従って、当初思っていた印象と2つの点で内容が違っていった。好ましい期待はずれだった!

それは、まず第一に、「暗い内容になっていない」ということ。無理に暗く陰湿に表現しようとすればできるのかもしれないが、むしろ元気なフィリッピーナも疲れた日本の男たちも、幸せになろうとして一所懸命に生きようとしている姿が、滑稽さをともないつつ、ある種の懐かしい愛しさを感じさせるのだ。

第2に、著者の取材が、普遍的事実や統計的数値を重んじるルポルタージュの姿勢から、特に後半に顕著になっていくのだが、魅力的な登場人物(例えば、フィリッピーナのテッシー、日本人の久松パパなど)に対して、著者がどんどん肩入れ・深入りしていくので、読む側としては「あれあれあれ…」となってしまうのだ。けれど、それが不愉快でなく、とても心地よいのだ。そのため、本書に対する評価もルポルタージュとしては4だが、心を明るくする読み物としては5になってしまうのだ。

結論として、読者にとっては、読みごたえがあれば十分なので、評価は5となるのである。

最後に、私が感じた戸惑いは、著者自身の戸惑いでもあった。解説の井出真木子は「常識はずれの事実を得ることは、取材者にとって嬉しい収穫だけではすまない。それは困惑である。取材者は事実をどう扱ってよいか途方に暮れるのだ」と言っている。

著者あとがき「当時、私はジャパゆきさんと呼ばれる出稼ぎのフィリッピーナとニッポンの男の関係を被害者と加害者という固定的な関係の中で捉えることからなかなか自由になれないでいた。マスコミ等で報道されている“ヤクザにだまされ身も心もぼろぼろにされた可哀相なアジアの女たち”という彼女たちに対するイメージがあまりにも根強かったからである。/そのため、取材をすればするほど不安に陥った。目に映るフィリッピーナたちの多様な実態もニッポンの男との様々な関係も、いずれも特殊なケースのように見えた。その不安が、取材をしつこく繰り返す原動力になった。書く覚悟ができるまで一年半が必要だった。/この間出会った人たちから多くのものを学んだ。そのことを通してものを見る目が以前よりずっと自由に柔らかくなった気がする。取材をする、されるという関係を超えて、共に同じテーマを考えるという醍醐味も味わった。/このテーマを通して発見したことが、人は誰もがかけがえもなく自分を愛し、のっぴきならぬ思いで生きているのだ、といえば、笑われるかもしれない。/けれど、それが私の今の正直な実感である。」

追加:

1979年=<ジャパゆき元年>:日本に出稼ぎに行くフィリッピーナが確実に年間1万人を超えた年。

 1988年現在、出稼ぎ目的と思われるフィリッピーナは推計6万人。不法滞在者を含めれば、日本全国に散らばる彼女たちの数は10万人を優に超えている。

 1989年=<ジャパゆき結婚元年>:日本人男性と正式に結婚したフィリッピーナの数が、1万人を確実に超える。フィリッピンサイドのみの結婚や内縁関係にあるカップルを含めれば、その数ははかり知れない。

◎「(フィリッピーナたちから、絶大な信頼を受けている日本人プロモーターが)日本のジャパゆきビジネスの構図は、今や変わりつつありますよ、したたかなフィリッピン娘に身ぐるみ剥がれた日本の男の哀れな実態の方も少しは書いて下さいよね、と妙に皮肉っぽい笑みを浮かべながら言った。自嘲的なその口振りから、彼もまた若いフィリッピーナに翻弄された苦い経験の持ち主であることが察せられた。」

◎「こういう二重結婚は、フィリッピンでは実によくある話で、おそらく今後は、既婚のジャパゆきさんが独身と称して日本の男と二重結婚をして故郷の家族に仕送りをするケースが、続々と出てくるに違いないと言う」

◎フィリッピーナは、カトリックなので妊娠中絶は絶対にしない。

◎敬虔なクリスチャンの彼女たちが、なぜ性に関する規範が強くないのか?の疑問に対して→「その神様がこの国では便利なんですわ、過去のことを持ち出したら、あの子たちは怒り狂いますよ。『ワタシ、そのこと教会でもう告解したよ、神様すべて許してくれた、だからもう関係ない、あなた何言うかっ』これでおしまいですわ」/彼女たちにとって、人を裁くことのできるのは神様だけである。犯した罪や間違いはその神様がみな引き受けて許してくれる。だから過去は引きずらない。心も淀ませない。何度でも彼女たちは新しく人生をやり直すことができるのだ。

◎「元ジャパゆきさんのステラを愛したニッポンの男、川村哲二はこう告白している。『始まりは確かにひどかった。/それは本当のことだ。/僕は彼女の頬っぺたを札束で引っぱたいた。/彼女も僕の顔が札束に見えていた。/けれど、いつの間にか彼女に魅かれ彼女を愛した。/子どもも生まれて家族になった。/ここから、今までと違う別の何か、新しい/何かが生まれてきてもいいはずだ……。』略。こういった背景の下で生まれた日本の男とフィリッピーナたちの恋物語は、決して美しくもすがすがしくもない。けれど、彼らは、それぞれの抱えたのっぴきならない人生を重ね合わせるようにして、ともかく家族を作り、共に生き始めた。この暮らしの中からこそ、日本とアジアとの新しい隣人としての出会いが始まっていくに違いない。」

◎「マニラに流れて来る男たちは、日本にはいられないような何かしら脛に傷を持つものが多い。略。一癖も二癖もあるそんな男たちばかりだ。略。日本の犯罪者が逃げて来るのもみんなここマニラですからねえ。」

◎マニラ市北部にあるフィリッピン最大のスラム街トンド地区の記述はすごい…スモーキングマウンテンと呼ばれる巨大なごみ集積場がある。

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