もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

0095 重松清「かあちゃん」(講談社文庫;2009) 感想5 パーフェクト!

2013年08月25日 17時36分50秒 | 一日一冊読書開始
8月25日(日): ※事情はわからないが、時刻表示が間違っている。正しくは、08月26日の 2時30分頃です

539ページ  所要時間 8:00      図書館

著者46歳(1963生まれ)。 いじめとは、居場所を奪うこと。

面白かった! ほぼパーフェクトな小説だ! 話の流れ、間の取り方など、絶妙である。すべての微妙?な表現が腑に落ちるし、得心がいった。重松清は本当にうまい小説家だ、と思う。夕方5:40に読み始めて、夜半1:40まで、8時間を休憩無しで一気に読み上げた。苦痛では全くなかった。これは作品のもつ力である。読了後、すぐにアマゾンで352円(102円+250円)で注文を出した。手元においておきたいのだ。

「謝罪」と「償い」の違い、取り返しのつかない問題とどう向き合うべきか、をテーマに据えた作品。話の中心に中学2年生のイジメ自殺未遂事件を据えて、中学生のさまざまな家庭問題、学校教師も問題を抱える個人として描く。多くの家庭の、特に母と子のさまざまな関係のあり方を描き分ける。

作品の登場人物の感受性や思考の深さの表現が、中学生にしては深すぎる気がするが、これが高校生に設定すると、心の有り様が純粋、真面目過ぎるので、やはり中学生しかないかなあ…、と思えるのだ。主人公たちを中学2年生に設定したのは絶妙としか言いようがない。

「青い鳥」などでも明らかだが、本作品を通して、重松清の学校におけるイジメ問題のような取り返しのつかない問題の解決策は、「謝罪」のゆるす/ゆるされる、ではなく、「償い」であり、それは自らが他人に対して行ったひどい行為を誤魔化さずに、忘れることなく自覚し続けること。いじめられた側も、忘れることは不可能だし、受け入れても忘れないことしかできない。

無粋かもしれないが、いじめを早く忘れて無かったことにしようとする態度は卑怯であり、「償い」としていじめの事実を決して忘れることなく覚え続け背負い続けることが<和解>のために一番大切なことだ、という結論は、<いじめ>という言葉を、<侵略戦争>、<植民地支配>、<従軍慰安婦>などの言葉と置き換えれば、そのままアジア諸国との「歴史認識問題」とぴったりと重なる。ユダヤの古い箴言に「歴史は忘れようとすればするほど、追いかけてくる」というのがあった、と思うが、今の日本政府の<歴史修正主義>的態度は、まさにこの轍を踏む愚行としか言いようがない。

過去の過ちは、正々堂々と認め、真摯に謝罪をした上で、歴史教育としてしっかりと次世代に記憶として受け継ぐことが、結局、国家としての誇りを保ち、大切な隣国だけではなく、国際社会での誇りある地位を占めることにつながるのだ。自民党の安倍・アホウの知性が、もう少し高ければ、この簡単な真理に気がつくはずなのだが…、詭弁モンスター橋下や身内愛慎太郎も含めて残念としか言いようがない。

「いじめ」も、「侵略戦争」の歴史認識も、結局<解決策>は「誤魔化さず、忘れないこと」に尽きる。「覚えているのが苦しいからといって、忘れようとしても、いじめられた方は、決して忘れられないのだから覚悟を決めて忘れないでい続けるしかないのだ」という点で、全く同じなのだ!

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