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リタイアーのよもやま話

イエスは、なぜ殺されたか

2011-06-09 22:55:01 | 


キリスト教の成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳


を読んでいて、興味深い箇所があった。

イエスは、なぜ殺されたか。

このことについては、日頃から興味のあるテーマで
あった。

今回、この本の中で、そのことについての記述が
あって、大変嬉しく思った。

 

以下、そのことに関連する抜粋である。

 


【十二人の弟子にかんする抜粋】

十二人の弟子
 イエスが、十二人の信者を、彼を中心とする一種の内輪の
仲間に選んだことに、疑いの余地はない。

この十二人の存在は、パウロの文書や『使徒言行録』同様、
様々な福音書で証明されている。

加えて、神の国で彼らがイスラエルの十二の部族を支配する
という話は、非類似性の基準を満たしている。

それにしても、なぜイエスは、十ニ人の弟子を選んだのか? 

なぜ九人とか十四人ではなかったのか?

 十二の月の弟子クラブを結成したかったわけではなかった。

これは、イエスの象徴的な意思表示だったように思える。

元来旧約聖書によれば、神の民、すなわちイスラエルの人々
は、十二の部族からなっていた。

イエスによれば、これらの部族は、到来する神の国で真の神
の民が十二人の使徒によって統治されるときに、再結成され
るという。

十二人の近しい弟子を選ぶことで、イエスは、自分や自分の
教えにつき従う人間は、未来の王国に入国できることを示し
た。

全てのユダヤ人が、王国に受け入れられるわけではない。

生き方を改め、イエスの教えに忠実な者だけが、来るべき
審判を切り抜けられる。

つまり、十ニ人を選出するという行為には、黙示思想的メッ
セージが隠されているのだ。

 

【イエスが殺された理由に関する抜粋】


 神殿の浄化
 『マルコ』と『ヨハネ』は、相互に無関係に、イエスが
エルサレム神殿に足を踏み入れ、騒動を巻き起こした話を
伝えている。

もちろん、『マルコ』の記録のほうが古く、それによれば、
この事件はイエスの人生の初期ではなく、終わり近くに起
きたとされている。

事実、マルコの見解では、神殿での騒ぎが、最終的にイエス
が傑にされる原因となった。

途中、カット。

 しかし、現代の解釈者は、同時に別の何らかの事情があっ
たのではないかと指摘している。

いくつかの相互に無関係な史料には、時代の終わりに、来る
べき猛攻撃が仕掛けられ、神殿も破壊されるだろうと預言
しているイエスの言葉が載っており、しかもイエスが実際に
このように考えていた可能性は極めて高い(『マルコ』十三章
二節、十四章五十ハ節、十五章二十九節)。

神殿が? イスラエルの神への信仰の中心地が? こんな考
えは神への冒涜ではないか?

 事実、一部のユダヤ人は、明らかにイエスを冒涜的な人間
だとみなした。

そしてこのことが、結局ィエスを窮地に追いやったのだった。

しかし、イエス自身は、旧約聖書に出てくる預言者、エレミヤ
を引き合いに出したのだ。

エレミヤも、神殿やその内部での活動が崩壊すると考えていた。

イエスと同じように、エレミヤは神殿を痛烈に批判したのだ。

そしてイエスと同じように彼も大きな代償を払わされることに
なる (『エレミヤ書』七章一-十五節、二十章一-六節を参照)。

 イエスは、すぐにでも訪れる審判で、神殿が破壊されると信じ
ていた。

そうであるなら、なぜ彼はテーブルをひっくり返し、騒ぎを起こ
したのだろう? 

イエスは象徴的な行為を行ってみせたというのが本文批評家の
標準的な見解である。

言うなれば、彼は例え話を実演したわけである。

イエスは、まもなく人の子が裁きを行うために出現するときに
起きるであろう大変動を、テーブルをひっくり返すという楼小化
された形で、象徴的に示してみせたのである。


神の敵は破滅するのだ。そして旧約聖書に出てくる多くの預言者
同様、イエスは、腐敗し増長した神殿を管理するユダヤ人指導者
たちも、神の敵だとみなしていた。

しかし、彼らがその報いを受ける日はすぐそこまで来ている。

 

 

 【イエスの逮捕】

 したがって、当局がイエスを脅威に感じ、彼を排除しなけれ
ばならないと考えたのも当然である。

なぜイエスはその場で取り押さえられず、一週間後に逮捕された
のだろうか? 

察するに、神殿での出来事は、その時には取るに足りない些細な
出来事だったが、イエスの所業についての噂が広まった結果、
指導者たちは、彼を監視することにしたのだろう。

彼らが見聞きしたことは、イエスに対する彼らの評価を大して
高めなかった。

イエスの周りには、審判の日は訪れるという彼の黙示思想的
メツセージに興味を持った群衆が群がり、その数はどんどん
膨れ上がっていった。

とうとう指導者たちは、事態の収拾がつかなくなるのでは
ないかという危惧を抱くようになる。

なにしろ、これは過越の祭りの時期であり、エルサレムに
人々が集結していた。

彼らの多くは、イスラエルにまつわる伝承に熱心に耳を傾け、
ローマの支配下における自分たちの悲惨な暮らしを変えて
くれる何かが起こることを切望していた。

ユダヤ人指導者たちは、イエスを逮捕する手筈を整えた。

 イエスが十二人の弟子の一人、イスカリオテのユダに裏切
られたという話は、初期史料にしっかりと記されているため、
後世のキリスト教徒が作ったわけではないようだ(イエスの
最も近くにいる弟子たちへの影響力は、もはや以前のように
はなかったのか?)。

なぜユダがあのような行動を取ったのか、ということについ
ては、色々と推測されてきた。

彼は政治的な反乱を起こしたがっていたのに、イエスが無関心
であることに失望したのか? 

イエスが群衆に自分を支持するよう呼びかけて、反乱を始める
ように仕向けることができると考えたのか? 

早急に金が必要だったのか? 

ただ単に始めから彼はたちの悪い人間だったのか?

 しかしもっと興昧深いのは、ユダがどのように裏切ったのか、
という疑問である。

この問いを立てることによって、私たちは、事の核心に迫ること
ができるのだ。

群衆から離れて、イエスが一人でいる場所を当局に密告する以上
のことを、ユダがしでかした可能性はあるのか? 

三十枚の銀貨をわざわざ支払わなくても、イエスを尾行していれば、
彼が一人でいる場所など、当局にはすぐに分かったはずである。

ユダは、指導者連中がィエスを起訴して、永久に彼を抹殺するため
に利用できる何らかの情報を漏らしたのだろうか? 

この疑問への答えは、冒頭言取り上げた、この章の最も重要な
テーマと連動している。

すわなち、イエスが自分について何を語ったか、という問題である。


 イエスは自分について何を語ったのか?

 ここまで私は、イエスが、自分が神聖な存在であるとは言わな
かったと主張してきた。

彼は、ほとんどの場合、自分自身についてではなく、神について
語ったのである。

とりわけ彼が強調したのは、地上で審判を下すために人の子が
出現し、神の国がまもなく訪れるということである。

イエスは、神の国が、彼の生きている時代が終わる前に到来すると
主張した。

そして、この新しい国に入るためには、自分の教えを受け入れなけ
ればならないと、群衆に説いた。

彼の教えとはすなわち、全身全霊を傾けて神と向き合い、自分を
愛するように隣人を愛することである。

 しかし、それならば、イエスは自分については何を語ったのだろ
う?

長い間、この疑問が多くの学者を悩ませた理由は、イエスが最終的に
ローマ当局に身柄を拘束され、裁判にかけられたとき、彼の容疑が、
ユダヤ人の王を僣称したことだったからである(『マルコ』十五章
二節)。

これは奇妙な話である。

最古の史料によれば、イエスは、公の説教のなかで、このような
ことを一度も口にしていないのだ。

もし実際に彼がユダヤ人の王を名乗っていないのなら、なぜローマ
当局は、彼がそのようなことを言ったと考えたのだろう? 

しかも、裁判にかけられたイエスは、なぜこの容疑を否認して、
事態の打開を図らなかったのだろう?

 当局がこの種の発言を深刻に受け止める理由はよく分かる。

ローマ皇帝か、ローマ市民が任命した人間だけが王になれる時代
に、王の名を語ることは、反逆行為に当たるからだ。

ローマに対する反乱を起こすよう扇動したかどで、イエスは処刑
された。

しかし、初期史料を読む限り、彼が謀反に関わったようには
思えないのだ。

ならば、これらの記録をどう解釈すればいいのだろうか?

 答えは、イエスの黙示思想的な教えに隠されている。

彼は、(ユダを含めて)十ニ人の弟子に、彼らがまもなく実現
する王国で、「イスラエルの十二の部族」を統べる支配者に
なることを伝えた。

しかし、それならば、彼らを支配するのは誰だろうか?

王国には王がいるはずである。

人の子が徒党を組んで神に楯突く勢力を滅ぼし、地上に彼の
治世を打ち立てた暁には、誰が王国の王になるのだろう? 

もちろん、ある意味では神が究極的な王であるが、誰を通して
神は支配するのだろうか? 

弟子を招集し、彼らの主人だったのはイエスである。彼が弟子の
上に君臨するのだろうか?

 私は、イエスが宣教活動をしていた時期に、自分か王であると
公言したとは思わない。

そのような言動はあまりに危険で、犯罪行為に値する。それに、
実際自分が王だとは考えていなかった。

しかし、彼がより長い時間をかけて、十ニ人の弟子に、私的に
教えを説いていたことも確かだ。

そして、彼は、弟子が未来の王国の支配者になると話したのだ。


 もしイエスが、自分が弟子の現在の主人であるだけでなく、次の
時代の主人でもあると、私的な揚で彼らに話したのであれば、全ての
つじつまが合う。

王国の王になるのはイエスなのだ。

古代イスラエルにおける未来の王の呼び名の一つが、「油を汗がれ
た者」を意味する「メシア」という言葉である。

他の人々は、イエスがメシアだと考えていたかもしれないが、
公的な場では、彼自身は自分をメシアとは呼ばなかった。

しかし、弟子と共にいた私的な場で、メシアを自称したとき、彼は、
ローマ人を追い払い、イスラエルを独立させることを意図していた
わけではない。

彼は、神が悪の勢力を放逐し、自分を王に任命するのだと言いた
かったのだ。


 弟子が、イエスの死後も、彼をメシアと呼び続けたのはこのた
めだった。

当時のユダヤ人には、メシアが一度死んでから蘇るという観念は
なかった。

したがって、イエスの弟子が彼の復活を信じるようになったと
しても、このことが、彼らがイエスをメシアと呼ぶ理由には
ならない。

彼らは、イエスの生前に、彼をメシアだと認識していたはず
なのである。

なぜか? イエスが彼らにそう教えたからにほかならない。

 イエスが、公の場でユダヤの王を僣称しなかったならば、なぜ
ローマ人は、それを理由に彼を処刑したのだろうか? 

なぜなら、ローマ人は、彼が王であることを自認していた事実を
知ったからである。

 彼は、「未来の」という括弧付きで、すなわち黙示思想的な
意味でそのように考えていたわけだが、ローマ人は、現在の、
政治的な意味での王として解釈し、彼の処刑を命じたのである。

それにしても、このことが公知の事実でなかったのなら、どう
やってローマ人は知ったのだろうか? 

イエスの私的な教えに接する機会があった誰かが密告したの
である。

それは、十ニ人の弟子の一人だった。

 ユダは、当局に、イエスの居所を知らせただけではなかった。

彼は、イエスが(未来の) ユダヤの王と名乗っていたことを
告げ口したのである。

 当局はこの情報に飛びついた。寞は投げられた。自分たちや
自分たちの権威への揶揄が込められた、イエスの黙示思想に業を
煮やしていたユダヤ人指導者は、彼を尋問した挙句、裁判にかけ
るべく、その身柄をピラトに引き渡した。

ピラトは、イエスに、ユダヤの王なのかと問い、イエスは、
はっきりと否定できなかった。

ピラトは傑刑を申し渡し、この判決は即座に実行に移された。


以上。


彼は、(ユダを含めて)十ニ人の弟子に、彼らがまもなく実現する
王国で、「イスラエルの十二の部族」を統べる支配者になることを
伝えた。

との話しだが、無学文盲で、どうして、部族の支配者になれるの
だろうか。

何を勘違いしているのだろう。イエスは。

 


このようなこともある。


しかし、弟子と共にいた私的な場で、メシアを自称したとき、彼は、
ローマ人を追い払い、イスラエルを独立させることを意図していた
わけではない。

彼は、神が悪の勢力を放逐し、自分を王に任命するのだと言いた
かったのだ。

なんとも、自分勝手な話しよ。


生涯の野心を果たした管直人でさえ、無能のそしりを受けている
のだ。

今、民主党が政権担当能力を疑われている。

ローマ帝国の最下層の民が、とんでもないことを本気にしてしまった
ものだ。

例え、神の審判があったとしても、彼が、その地位につくわけには
いかないはずだ。

どうして、部族を国家を運営できるのだ。

あまりにも、社会的に無知なイエス、これでは、殺されても
しようがないではないか。

ここまできて、やっとイエスについて知りたかったことが、分かり
えて、この本に出会ったことを、幸運として喜びたい。

しかし、この本を読んでいろいろと考えているうちに、わたしたちの
70年代の愚かしい大騒ぎとダブってきてしまった。

わたしたちも、愚かなイエスと同じような愚かなことをしていた。

60年代の大学生と比較して、エリートでもなんでもない新制大学
の学生が、デフレ化した知能を省みず、時代の波に踊らされて、
革命ごっこをして、大騒ぎをしてしまった。

恥ずかしい話しである。

 


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