日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

子どもは、天才。

2006-09-17 07:10:09 | Weblog
  平成18年9月16日(土)、「NHKの課外授業」の番組(再放送?)で、プロの有名な太鼓ドラマー「ヒダノ修一」(太鼓の講習会で、彼の演奏を直に聞いたことがあり、私の演奏でも、ヒダノ修一のバチを使って打っている)演奏者が、横浜市立矢沢小学校6年1組の生徒に、太鼓を教えていた。
 「悲しい」、「楽しい」、「怒っている」、その3つの感情を、太鼓演奏で表現させ、又、俳句(575)を各自に作らせて、その気持ちも、太鼓演奏で表現させていた。
 この学校、27年間の歴史を今年の3月4日に、閉じることになった(閉校式)。その前日に、全校生徒の前で、クラスの皆が、ヒダノ修一指導の下で、太鼓の演奏を披露した。
 演奏後の子ども達の感想は、「初めは、つらかったが、楽しかった」、「自分の気持ちを太鼓で伝えることが出来た」「又、したい」などであった。

 それと同じ様なことを、私も、経験させてもらっている。

 今から5年前、大川市の教育委員会から、特別非常勤講師に任命されて、1年間、大川市立道海島小学校の小学4年生~6年生に、「篠笛と和太鼓(盆踊りを含む)」を教えた。
 そこで、私は、多くのことを学んだ。又、そこの学校の先生方も、多くのことを学び、そのことで、研究発表までしている。つまり、太鼓で、学校全体の雰囲気が、明るくなり、はっきりと変わったのである。
 具体的には、一人一人が、まず、積極的になり、授業中、よく発表する様になった。よく挨拶する様になり、礼儀正しくなり、又、チームワークを大切にし、お互いに思いやる気持ちが生まれた。そして、何よりも各児童が、自信を持ち、アチコチで演奏したくて仕方ない状態にまでなった。

 その学校は、大川市のはずれにあり、大川市の小学校の中でも、生徒数が一番少なく、6年生が、12名(その後、新興住宅地な為に、学年が下がるに従って、児童数が増えて行ったが)。
 校長先生は、それ等の子どもをまとめるには、児童全てに「太鼓」をと思い付いたのである。そして、ある市会議員を通じて、私に依頼が来た。
 矢沢小学校とは逆に、道海島小学校では、立派なの体育館の落成式があり(そこで、太鼓の練習をした)、国会議員さんや市長さんや議員さんが沢山来られていた。その祝賀会で、演奏を依頼され、てっきり、他にもいろんな人の演奏があるのだろうと思っていたが、自分だけで、それも、酒の入る前での演奏だった。シーンとした中、何故か、全く上がることなく、自分で満足出来る程に演奏が出来、その時、この子ども達の為に、頑張ろうとの強い意思を持った。
 まず、太鼓の購入に関しては、篤志家の援助があり、又、あるルートで、安く購入できた。プラスチックの横笛は、全員に買ってもらった。そして、市報で、一般の人も募集して、「道海太鼓」なる大人と子どもが一緒になったチームを、学校と関係ない時間帯で練習することで、立ち上げた。

 平成13年4月から始めた。6月頃、生徒にアンケートを取った。それによれば、「楽しくて続けたい」と、「きついから、出来たら止めたい」の意見が、ほぼ半々であった。学校での総合学習の一環では、生徒は、好き嫌いに関係なく、全て、受けざるを得ないことになっていた。しかし、時間外の道海太鼓チームとしての練習は、自由参加であった。兎に角、夏の大川市民総盆踊り大会に間に合わせる為に、頻回に練習を重ねた。
 そして、その市民総盆踊り大会の時、夏に一生懸命に練習してきた子ども達が、自分と一緒にカッコ良く、打てたのである。大人から絶賛された。練習を余りして来なかった子どもの前で。
 それからである、太鼓がいやで、余り乗り気に打って来なくて、市民総盆踊り太鼓に参加できなかった子ども達が、目の色を変えて、練習に励む様になったのは(校長先生の談話)。二学期からは、太鼓演奏で、誰一人、嫌がる子はいなくなった。
 市民総盆踊り大会だけでなく、老人施設への慰問や、秋の体育際や、10月初めにあった大川市最大の祭りである「大川木工祭り」、卒業式など、子ども達は、大いに活躍し、大拍手をどこでも受けた。お年寄りが、涙を流して喜んでくれたことで、子ども達は、大いに燃えた。
 夏の市民総盆踊り大会だけでなく、秋の体育際や木工祭りでは、子ども達と一緒になって、私も楽しく演奏した。
 今でも、まだ、私の創った「個性と調和」の太鼓の曲を、道海島小学校の子ども達は、そのまま演奏し、又、市民総盆踊り大会の時にも、毎年、盆踊り太鼓を打っている。
 学校までの送り迎えを、そこの学校の先生方からよくして頂いたが、その時、担当の男の先生が、深刻そうな顔をして、次に様に言ったことがあった。
「田原先生、一つだけ、心配なことがあるんですが」と言う。「何ですか?」と聞くと、「生徒から、馬鹿にされてないかと、ヒヤヒヤしています。生徒の方が、覚えがいいので・・・」と言われた。私は、「子どもが覚えがいいのは、当たり前です。子どもは、天才ですから」と私は言った。
 又、別の担当の女の先生から、次の様に言われた、「私達が注意しても、なかなか、聞かない。しかし、田原先生が話す時、皆、真剣に聞いている。どうししてですかネ」。私は、言った、「小学校4年生になると、自分よりも出来る人を尊敬する傾向にあるんですヨ。それまでは、一緒に遊んでいれば、それだけで、充分なんですが。小学校4年生になると、生徒以上にはっきり出来ることをしばしば見せる事が必要と思います」と言った。
 私は、生徒の前で、決して叱らなかった。「素晴らしい、覚えがいい」、そして、訂正すべき時は、「それでもいいけど、こうした方が、もっといいかな」。何度しても出来ない時は、「簡単に出来そうで、出来ないのが太鼓。練習すれば、必ず、出来る様になる」。そして、時々言った、「練習は、本番、本番は、練習」。「上手になる人と下手な人の違いは、一つしかない、それは、出来る人は、皆の見てない所で、一生懸命に努力している。そこの差。ここの練習時間は、限られているから、大したことない」と。
 教師たる者は、その楽しさと、努力すれば、どんな人も、必ず、上手になることを出来るだけ早めに気付かせることが大切だと思う。
 長女(アメリカの高校・大学を卒業して、現在、カイロプラクターになる為に、大学院に通っている)が、次に様に言ったことがあった、「あんなに(高校の)先生から誉められれば、生徒、頑張るよな。アメリカの先生って、誉めるのが上手、噂に聞いてはいたが、これ程とは。どの先生も」と。
 又、アメリカから来た人が言っていた、「中学の部活を見て、先生が厳しく叱っているのを見て、初め、ここは、軍隊かと思った」とのこと。
 子どもは、天才である。横笛も、とても上手になった子が何人かいた。子どもは、直ぐに、覚える。大人よりも、遥かに、覚えがいい。その集中力は、凄い。子どもって、集中力のない子何か、いないのではと思う。集中力が出ないのは、興味が沸かないからだ。今からの時代、子どもに、人から喜んでもらえることを沢山経験させるべきだと思う(実体験が大切)。大脳生理学的に、10歳~12歳の間に、しておくべきだと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

APUの卒業式

2006-09-16 07:03:53 | Weblog
 昨日(9月15日)、APU(立命館 Asia Pacific University)の卒業式があった。その卒業式で、あるベンガル人が、卒業した。
 私は、2年間近く、ベンガル語を彼から教わった。そして、ダッカに行って、彼の家で15泊させてもらった。そこで大歓迎を受け、イスラム社会を体験することが出来た。
 彼から、私に招待状が来ていたが、行けずに、代わりに家内から行ってもらった。
 彼は、アメリカ資本のIT会社に就職決定している。これからはしばらく東京で研修とのこと。彼の兄も、参列していた。

 学費は、成績優秀で、ずっと無料だった様だ。しかし、彼の生活は大変で、バングラデシュの家からの仕送りがほとんどない状態で、深夜も、バイトを一生懸命に続けていた。

 式では、13時5分に開式、起立して学園歌、学長・理事長・別府市長・他の挨拶、2学部・2大学院研究科の学位記授与、卒業生・修了生代表2名の挨拶、最後には恒例という「帽子投げ」。

 カップヌードルをシャワーのお湯で食したとかの話とか、お世話になったお礼を忘れません、ここで鍛われた力を世の中に出て発揮・貢献したい、・・・代表のスピーチは、しっかり地に足のついた鼓舞する形の、明るくメリハリのあるものであった様だ。

 彼には、タイ語とインドネシア語とアラビア語とトルコ語の先生も、紹介してもらった。それで、タイ(1カ月半)に行っても、インドネシア(1カ月)に行っても、助かったこと、確かに、多かった。将来は、そんなAPUの学生さんを自宅に招いて、ホームステイのお世話をしたいなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもは未来

2006-09-15 06:46:40 | Weblog
子どもは、未来 !(12月9日の講演内容)
 上天草市立上天草総合病院 小児科部長  田原 正英

はじめに:子どもにとって、今の社会は、どう見えるのか?生まれてきて、幸せを感じているのか?今の大人とは、子どもにとって、どんな存在か?現実に、子どもは、大人を、どう見ているのか?我々大人は、そんな子どもに、どう接して行けばいいのか?子どもとは、本来、どうあるべきなのか?今、大人は、子どもに何をしてあげたらいいのか?それ等のいろんな問題に対して、一緒に考えてみましょう。

いろんな見方:黒柳徹子さんの言葉、「子どもで一番大切なこと、それは、好奇心」。イスラム教では、子どもが一番神に近い。アフリカでは、世の中で一番大切なもの、それは、子ども。日本では、子は、鎹(かすがい)。子どもが親を見る目は、冷蔵庫の氷よりも冷たいとの言葉もある。3歳の子どもの1年間は、30歳の大人の1年間の10倍の重みがある。大人の縮図が、子どもの姿である。アメリカでは、生後5日目までに、決められた所に置き去りしても、罪にならない。アメリカインディアンの教え:「お母さんは、あなたの子どもをしっかりと胸に抱きなさい。そしてその子に、この世界は平和であり、人間は信ずるに足るものであることを教えなさい。お父さんは高い山に登り、あなたの子をかかげ、世界は広く、やることがいっぱいあるということを、見せなさい。」

現実の姿:少子化。モノとカネの弊害(若者の新車)。高学歴。核家族。地域社会の解体。三つの間がない(時間と空間と仲間)。離婚の増加。リストラ。幸せ度が低い。被虐待児症候群の増加。小学校での、校内暴力事件の増加。小学校では、3割の子どもが、学業に付いて行けない。中学校では、半分。高校では、7割。大学では、?。日本では、義務教育では、落第しない。小さい時から、知識偏重教育。塾やお稽古事の負担。自然体験が少ない。睡眠不足。朝食抜き。肥満児。やせ。常習便秘。親が、仕事人間。ニートの増加。格差社会。

解決する方法は?(以下の1~10を参考に)
1、 五感を使って学習することの大切さ。
    テレビの弊害、ファミコンの弊害。
2、 自然体験学習の大切さ。
幼児期の感性教育。右脳教育。知情意の内、知は、最後にあるべし。年齢に応じた教育の仕方、個性に応じた教育の仕方。価値観の多様化。
3、 幼児教育の大切さ(家庭教育、学校教育、社会教育)。
    知育・徳育・体育 それに、食育
4、 こどもは、物真似の天才。
それに、子どもは、天才である。記憶力、順応力、適応力は、抜群。しかし、経験が乏しいから、判断力に欠ける。
5、 一番近い同姓の目上の人に、影響を受ける。
    幼稚園生の女の子の一番なりたいものは、保母さん。幼稚園生の男の子の一番なりたいものは、運転手さん。母親が、息子に、父親に付いて悪く言うことは、最悪。母親が、父親をけなすと、息子は、モデルをなくす。親が担任教師の悪口を言うべきでない。
6、 自然体が大切。
自然に逆らわないで生きると、病気にならない。自然の生き方とは、調和(共生)と必要最小限度の要求。他人と競争することは、自然の生き方に反する。ヒトも、自然の一部。知足の精神を教える(ライオンは、お腹が一杯の時は、襲わない)。
7、 大切な反抗期(一番言い易い人に、反抗して、言う)。
    親子の会話が大切。子どもは、まず、親に相談したい。夫婦も、会話が必要。女性は、順番は、妻・母親・仕事であるべきか?!
8、 小学校低学年でのいい先生とは、一緒に楽しく遊んでくれる先生、しかし、高学年になると、生徒に出来ないことが出来る先生、心底から尊敬出来る先生でないと、生徒は、付いて行けない。子どもが親が尊敬出来ないと、教育は、難しい。(しかし、現実は、親の喫煙、親の賭け事、親戚との亀裂、夫婦の亀裂、近所との亀裂など)
9、 10歳~12歳の教育の大切さ(この時に描いた夢が、何かが大切)。生きる上で、尊敬する人が身近にいること、夢を持つことは、大切である。
10、 大人がいい価値観、いい生き方をする。大人一人一人が、実践する。
 カは「感謝」、キは「緊張」、クは「くつろぎ」、ケは「継続」、コは「好奇心」

おわりに:60歳で、±20歳の差が(精神的にも肉体的にも)。個性と調和の時代。自立することの大切さ。「思いやりと実践」人生20年×4の生き方。
日本の素晴らしさ:乳児死亡率、新生児死亡率、早期新生児死亡率、周産期死亡率で、世界一。日本では、多くの人が、新聞が読めるし、計算が得意。水道水が飲める。蔭膳。相撲。道を極める精神。武士道。祭り。日本(人)には、和を尊ぶ、謙遜、上品さ、奥深さ、さび・わび、独特の美しさがある。四季(更に二つ)の変化。日本民族はどこから来たのか(戦争がいやで集まって来た民族?)、今は、世界と関わる時代、日本人は、アメリカ人を恨んでいない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもは、ゆがんで育てられている。

2006-09-14 12:26:03 | Weblog
 1920年(大正9年)に、1000人の出生に乳児期に166人も死亡していたのが、今では、わずか4人になっている。80年以上経って、死亡率が40倍ほど改善しているので、当の子どもも、40倍幸せになっているかと言うと、全く違う。
 かなり前になるが、昭和59年10月に、東京都の中学1年生~高校3年生までの1050名(回収率90%)をかなり信頼のおける方法で調査して、以下のデータが出ている(東京都立大の詫摩武俊教授が、発表)。
 1、いつも何となくだるい(35%)
 2、毎日が単調でつまらない(44%)
 3、何となくやる気がない(50%)
 4、自分は全く駄目な人間だ(45%)
 5、独りぼっちで寂しい(45%)
 6、心を打ち明けられる友達が欲しい(68%)
 7、人は裏で何をしているのかわからない(74%)
 8、家出したい(53%)
 9、学校をやめた(46%)
10、死にたい(31%)
11、先生をなぐりたい(33%)
 という結果が出ていた。

  2005年度に全国の公立小学校の児童が起こした校内暴力の件数は、過去最高の2018件となり、教員への暴力行為は、前年度より38%増加の464件となっている。しかし、これは、氷山の一角ではなかろうか。実際は、その数倍、いや、軽いのも入れると、更に多くなり、正に、起きる寸前のものまでも入れれば、その数字は、計り知れない。
 
 つまり、かなり前から、既に、その兆候はあり、多くの人から、それなりの対策の必要性を声高に言われていた。しかし、その声は届かず、低年齢化してしまったのである。
 生まれつきの非行少年や少女とか、生まれつきのいじめっ子などというのは、考えにくい。どの子どもも、可能性のある豊かな赤ちゃんであったはずであり、可愛い幼児であったはずである。それが年齢と共に、大きく変化して行ってのだ。
 我々大人は、何故、そこまで子どもを追いやったのかを、今こそ、真剣に、謙虚になって、反省しなければいけないと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤ちゃん捨てても、罪にならない?!

2006-09-13 07:43:02 | Weblog
生まれて、5日以内に、捨てても、罪にならない!?
 アメリカでは、出産後、5日以内に、ある定められた所定の場所に、生まれた赤ちゃんを置いても、親に、何ら、罪が問われない。「エッ、!」と日本では、多くの人が思うであろう。初め、テキサス州で始まったこの制度、今では、アメリカ50州の内の47州までもが、認めている。
 いやいやながら産んで育てたり、虐待をしながら育てるよりも、これの方が遥かに良心的であるとの、アメリカ人の考え方なのであろうか?
 アメリカでは、小さい子どもを一人にしておいたり、子どもだけで買い物に行かせたりすることは、最も親がしてはいけないことに入っている。しかし、先の様に、出産後、5日以内に、赤ちゃんを放棄しても、罪に問われないのだ。
 今、日本では、児童虐待の問題が起きている。欲しくて欲しくて出来た子どもであれば、その子どもにとっても、幸せである。しかし、生まれる前から、望まなくて生まれたり、虐待を受けながら育てられる子になるなら、里親にでも引き取らせた方がいいと言う考え方、今からの時代、日本でも、次第に認められる時代になるかも知れない。
 国の社会保障給付費の70.4%が、50歳以上の人に使われ、小児に関しては、わずか、3.8%でしか使われていない。少子化の問題が声高に言われているが、こんな所から、改革して行く手も、あるかも知れないなあ。
 子どもは、親の所有物と言う考え方よりも、社会皆の宝物と考えた方が、良さそうである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある出来事

2006-09-12 07:23:37 | Weblog
 飲みに、S先生と行った。何故、今、大学を出ようと思う様になったのかを言った。・・・人を本当に説得する手段としては、行動しかない。永くいれば、腕が落ちそうにあるし(専門馬鹿になる)、大学人になり切れば、人間的に駄目になりそうな気がする。自分の信じる道に進みたい。
 以上は、自分が大学を去ることを決意し、その事で、S先生と飲みに出た時に書いた内容の一部(昭和54年6月27日)である。
 S先生は、その時、医局長だった。

 「一人で、そんな救急病院に行っても、苦労する。出なけりゃ良かったと後で後悔する。国内留学には、もうすぐ行けるし、出るにしても、論文を書いて、ティーテル(博士号)を取って、そして出れば、いい所があるし、・・・」
 「もう、決めましたので、佐伯に帰ることを」と、私は言った。
 ・・・・・
「もう、決めてしまったのか、・・・、そしたら、仕方ないなあ・・・」
 ・・・・・

 この時、「トムの樹」というスナックで飲んで、二人とも、グデングデンに酔って、翌朝、すごく頭が痛かったことを覚えている。

 それから、がむしゃらに西田病院で働き、数年経って、S先生(小児循環器の専門医で、宮医大がオープンする前に、東京女子医大に1年半いて、心エコーを得意とし、宮医大では、先生と一緒に心カテをし、循環器に関しては、私は、非常によく教えて頂いた)は、大学を去り、ある公的な病院の医長となられた(現在は、開業しておられる)。
 宮崎での学会に行くと、いつも、何か自分に言いたそうな素振りを見せていた。大学を去ったS先生には、医局長時代の威圧さはなく、何となく、柔らかくなった感じに思えていた。機会があって、学会の懇親会の後に二次会に行くことになり、S先生の隣に座った(S先生が、意図的に自分の隣に来たが)。
 「田原先生、先生にいつか言おう言おうと思ってきた。あの時、二人で、グデングデンに飲んで酔った時のこと、あんな言い方をしなければ良かったとずっと思ってきた。・・・田原先生が、大人だったよ。あれから自分も大学を去り、やっとよく分かるようになった。医者なんて、臨床が一番大事。患者さんを大切にしてこそ、医者。臨床が出来なくて、何で、医者か。臨床がちゃんと出来て、そして、余力のある人が研究をすればいい。それも、臨床に直接役に立つ研究を。・・・あの時、もっといい言い方をすればよかった。そのことで、ずっと気にしてきた。すまんかった」と、頭を下げて言われた。
 その時、私は、S先生が、とても素晴らしい、人間味溢れる先生に思えてならなかった。
 「いいえ、僕は、何も気にしていませんでした。気になさらないで下さい」と、私は言った。
 学会で会うと、「田原君、まだ頑張ってるなあ。体こわさんように」と、いつも言ってくれる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情熱だけでは限界に

2006-09-11 07:25:03 | Weblog
平成2年6月27日 大分合同新聞より(原文のまま)
 県南の命守って10年(情熱だけでは限界に)
 佐伯市西田病院小児科部長の田原正英(41)を訪ねた。田原はこの10年、たった一人で24時間体制で、県南地域の新生児と一般小児を診てきた。今、それを振り返り「感無量」という。そして「情熱だけで突っ走ってきたが、41歳を迎え体力と精神力に限界を感じだ。もうすぐ新生児医療から遠のく」とも。「自分が作り、自分が育てたものに、自分がつぶされかかっている」。
 田原は研修医の当時から「新生児、救急」を担当したいと意欲を持っていた。昭和55年3月、西田病院に初の小児科部長として着任した。新生児に対する意欲は並ではなく、「新生児室をミリ単位まで自分で設計する」ほど情熱を燃やしていた。63年5月まで、西田病院の小児科医は田原一人。「朝7時半からの外来診療は着任以来ずっと続け、時間外の診察は断ったことがない」という。(注:この記載には、少し、嘘があり、7時半は、数年後からであり、断ったことがないのは、新生児・未熟児の場合、しかし、時間外の一般小児の診察は、まる10年間、深夜でも、全て小児科医が診た!)
 60年の資料をみると、田原が診た時間外患児数は3.497人。うち午前零時以降が142人。また、年末年始も診療を続け、533人を診察した。夜中の2時でも3時でも、正月でも診察を続けた。もっとも、この数字には新生児と未熟児は含まれていない。それらを加えると、時間外患児数はさらに膨らむ。新生児と未熟児を新生児室に抱えながら、患児を断らずに診るために泊り込みが続き、1カ月に2日しか家で寝なかったころもある。
 田原は「子供の病気は小児科しか診ることはできない」という大学の教授の教えを忠実に守ってきた。新生児医療や小児の救急をやめようと思ったことは何度もあるが「県南地域には自分しかいない」と思い、続けてきた。一人で、24時間体制でやってこれた理由は「犠牲的精神と情熱。救急をやりたいという意思があったから」。
 しかし、新生児室に人工呼吸が必要な重症患児がいる精神的な重荷は計り知れない。重症の子供はいつ症状が悪化するかもしれない。外来を診ながらも新生児室が気になる。それが積み重なってくるとどうなるか。
 田原が「新生児医療を退く」理由は体力的なきつさより、この精神的なストレスの方が大きい。「新生児医療からくるストレスは信じられないほど大きい。新生児医療の負担がなければ小児の救急は続けられる。今、県立病院など、先生方は一般小児と新生児と掛け持ちで一生懸命やっておられますが、情熱だけでは支えきれなくなる時がきっと来ますよ」。
 他県の施設でも、理由はさまざまだが中心的な新生児専門医が現場を離れるという例がみられる。その後の医師の補充がうまくいかなければ、新生児医療室は操縦者のいない“機械”だけがむなしく残るということもあり得る。
 田原は「新生児を診る医師には、何よりも情熱と命がけの気持ちが大切だ」という。「けれど、なかなかそんな医師は出てこないでしょうね。ポケットベルにしばられて、夜中も眠れない生活できますか」。
 地域で小さな命をまもるために今、医師の”質“と数の充実が求められている。
(文中敬称略)

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おじいちゃんのその一言に、思わず泣いてしまった・・・

2006-09-10 12:03:31 | Weblog
 昭和53年12月13日、宮崎県延岡市の病院(宮崎県立延岡病院)の小児科から、生後15日目になるチアノーゼを呈するベビー(男児)が、航空自衛隊のヘリコプターで搬送されてきた。宮崎医科大学のグラウンドの真中に下り、私と医局長と婦長は、アンビューを持って駆け寄り、直ぐに小児病棟に運んだ。酸素が不足すると、すぐに真っ黒になった。大きな臍帯ヘルニア(内臓脱出症)があり、心臓に雑音が聴かれたが、それ以外に、外見上の奇形は見られなかった。顔付きは、両親に似て、かわいい顔をしていた。翌日の新聞を見ると、大血管転位の疑いで、ヘリコプターで宮医大に送られたと載っていた。
 私が主治医であったが、方針がなかなか決まらなかった。まず病名がはっきりしなかった。何によるチアノーゼだろうか?
胸部レントゲン像では、一見、心臓腫瘍を思わせたが、超音波で否定され、大血管転位も否定された。縦隔腫瘍の疑いで断層撮影するもはっきりせず、心電図で異常があり、心雑音がある為に、先天性心疾患は必ずあると思い、心臓血管造影・心臓カテーテル検査をした。その結果、心臓が何かによって右に押しやられていることがわかり、心外膜炎も疑われた。しかし、それ以上の診断の進歩はなく、一日一日と一般状態が悪くなってきており、手術を急ぐ必要があった。
 私は朝早く、古賀保範先生(当時助教授、その後、教授となり、病院長にもなられたが、残念なことに、故人となられた)にお願いに行った。古賀先生は、何に対しても熱心で、いつも朝早く、又、夜遅くまで病棟にいることで、その教室の医局員から尊敬されていた。「一応、教授の了解がいるので・・・」ということで教授の来るのを待った。OKということで、今度は、麻酔の教授の所に、古賀先生と一緒にお願いに行った。そこでもOKで、その日のうちに、古賀先生が中心になって緊急手術が施行された。
 術前診断は、縦隔腫瘍であったが、開胸してみると、心臓を被っている心外膜や横隔膜の一部が欠損し、そこに肝臓が入り込んで心臓を右上に圧迫していた。つまり、縦隔腫瘍ではなく、診断は、横隔膜ヘルニアで、その中でも非常に珍しいMorgagni孔ヘルニアであった。
 それからも、又、大変であった。レスピレーターを常につけていないといけない状態で、いろいろ試みるも、どうしても抜管できなかった。途中で無気肺にもなり、心不全の状態は、改善しなかった。
 私は、毎日夕方、家族(両親とその祖父母の6人)にていねいに状況を説明してきた。この家族は、我々にとっては、非常に医療がしにくい存在であり、検査するにしてもすぐにOKということはなく、いつも6人でしばらくの間、よく相談してから了解の返事をもらっていた。特に、父方の72歳の祖父は、ある宗教を信じているようで、自分にとってはその中でも一番威圧的に感じられていた。
 医局では、「あの子はもう望みないなあ。せっかく手術までもっていけたけど、駄目だ。一体心臓はどうなっているのかなあ。ゼク(病理解剖)してみたいなあ。しかし、あのおじいちゃんは、難しいなあ。あのおじいちゃんがOKだったら、ゼクはできるかもしれない」と言う人がいた。
 年末年始、夕食と風呂以外は、家に帰ることなく、一日中、私は外科の集中管理室におり、夜は3時過ぎに医局で寝、それこそ命賭けで、この一人の子ども為によく観察し、処置をし、治療をした。
 1月1日に、古賀先生が来て「田原先生、本当にごくろうさん」と言ってもらえた。又、第二外科の他の先生方からも「田原先生には、わしら頭があがらんぞ」と言ってもらえた。両親の祖母からも、「先生の体が心配で・・・」と言ってもらえた。
 1月2日に、例のおじいちゃんが初めて、はっきりと私に感謝の言葉を掛けてくれた。私が、「いや、仕事ですから」というと、涙声で、「仕事ということだけで、これだけのことはできません」と言ってもらえた。
 つまり、私は、年末年始に、家族の人がいつ見に来ても、その子どもの傍にいたのである。どの人よりも、私はその子どもと一緒にいたのである。しかし、努力の甲斐なく心不全の状態はとれず、昭和53年12月19日に手術をしてから、約1カ月後の昭和54年1月21日、死亡した。
 大学病院では、死亡した場合、必ず、病理解剖を家族にお願いするのであるが、私は多分駄目だと思っていた。なぜなら、手術をしているし、病名もある程度つけられているし、状態がどんどん悪化して行っても、家族が最後まで一生懸命に望みを持っていたから。
 どうして解剖が必要かを30分以上説明し、学生のする系統解剖とは、はっきり違うことを強調した。
 しばらく家族の話し合いがあったあと、例のおじいちゃんが、「先生には、一生懸命にしていただき深く感謝しています。亡くなった子どもも充分に満足していると思います。何のお礼もできませんが、この子の解剖でお礼に換えさせていただきます」と言った。その時、私は、思わず家族の前で泣いてしまった。何故、涙が出たのか今でもわからないが、声を出して泣いてしまった。直ぐに、当直室に行った。冷静な自分に戻るのに、しばらくの時間を要した。
 解剖してみると、心臓は、心房中隔欠損、心室中隔欠損、Criss cross heartで、左上大静脈遺残があった。
 解剖後、見送る時に、やさしそうな母親が、「元気になったら、子どもを抱いて、先生のところに必ずお礼に行こうと主人と話していました」と言ってもらえた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大切な小児の救急医療

2006-09-09 14:45:11 | Weblog
昭和55年(1980年)11月4日(火)の大分合同新聞に記載された内容(原文のまま)。

 大分県医師会による第43回大分県医学会が、このほど大分市の県医師会館で開かれました。そのなかでは佐伯市、西田病院小児科の田原正英医師が、ことし4月から9月末までに扱った小児の救急患者の例をまとめ「小児の救急医療について」を発表しました。診療時間外のいわゆる救急患者のなかでは小児が一番多いといわれ、県下でも公的な”小児救急センター”の設置が望まれていますが、まだ実現していません。この点、田原医師は「ともかく県南地域の小児の死亡を一人でも減らしたいという考えから、この六カ月間”24時間診療”でがんばってきた」と発表しました。田原医師の発表要旨水を紹介してみましょう。

乳児が全体の24%、・・・・(省略)


少なくない新生児
 ところで田原医師は、こうした一般の小児救急患者のほかに、新生児・未熟児の救急も手がけています。妊娠中に異常に気がついて、紹介患者として西田病院で出産した例や、産後すぐに搬送された例が多いそうですが、ときには、田原医師が携帯用の保育器をかかえて救急車で産院まで駆けつけたりもしています。これらによって、この六カ月間に扱った新生児・未熟児の救急入院患者は51人、決して少なくない数字です。
 病名は2500g未満の低出生体重児15人をトップに、特発性嘔吐症、重症仮死各4人、先天性肺炎、頭蓋内出血、脱水症、尿路感染症各3人などですが、なかには800g程度の超極小未熟児で呼吸障害のウィルソン・ミキッティー症候群を伴った例(2人)、1500g未満の極小未熟児で特発性呼吸窮迫症候群を伴った例(2人)なども含まれています。
 これら新生児・未熟児の救急はかなり難しく、数日間医師、看護婦がつきっきりになることがしばしばですが、その努力があって、死亡はこれまでわずか2例だけ。800g程度の未熟児も助かっています。
 これらの経験から田原医師は「新生児・未熟児の救命は一刻を争うわけで、これこそ”真の小児の救急”といえるのではないか」といいます。また、「この6カ月間の小児科の入院患者は194人だったが、そのなかでは診療時間外と、この新生児・未熟児の入院が合計で128人となり、入院の66%と、半数以上を占めている状況からすると、小児科の救急がいかに大切であるかがわかるのではなかろうか」とも発表しました。
 他県では、すでに小児の救急医療センター、あるいは新生児・未熟児の救急医療施設が設置されていますが、大分県はまだであり、立ち遅れています。この点を田原医師は、次のようにも訴えています。

本来なら行政で
 「私の場合、県南地域の小児、特に新生児の死亡を少しでも減らしたいと思ってがんばっているわけだが、本来ならこうした小児救急医療は行政レベルでやらなければいけないことだと思う。その際、行政側はスタッフの確保と採算を問題にするのだが、たとえば治療が遅れて障害が残った場合、国や県はその後、この子供に1億円近い費用をかけて面倒をみていかなければならないわけで、それだけのカネがあれば、新生児・未熟児を含む小児の救急医療センターをつくった方がより望ましく、大きくとらえると”十分に採算が合う”といえるのではないか。大分県でも、行政の責任で一刻も早くこうしたセンターを実現させてほしいと思う」。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育は、いつから始まる?

2006-09-09 12:03:22 | Weblog
ある人が、マカレンコ(教育者)に質問したことがある。
「子どもの教育は、いつ頃から始めたらいいのでしょうか?」と。
 この質問を読まれた各位は、どんなお考えで、いつ頃から始められているのでしょうか?」。
 A:小学校1年生から。
 B:幼稚園から。
 C:保育所から。
 D:乳児から。
 E:ゆりかごから。
 F:胎児から(胎教)。
 人によって、それぞれ異なったお考えで始められ、努められていると思います。
 マカレンコの答えは、予想以上にさかのぼっていた。
 「教育は、生まれる20年前から始めなければならない」と。
 これは、親から育てられ、成人して、新家庭を営むようになるまでの20年間が、やがて生まれてくるであろう子どもの教育を決定する、という意味を含んでいると思われる。(おおよそ、人間は、親から育てられた様に、その子を育てるものである)
 20年が、40年、60年、80年の教育ともなれば、子どもを教育するということは、孫を教育し、更に、ひ孫の教育へ作用して行くことにもなる。
 温かいきれいな心を持った両親からは、温かいきれいな子どもが育ち、その血は、次に流れて、世代の続く限り、きれいに流れて行くのと同じ様に、濁った心の両親からは、濁った血が渦を巻いて流れて行く。
 きれいな血と濁った血が交われば、濁った血の方が勢力を増すもので、これが現世の姿である。濁りが澄んできれいになるまでには、長い年月の苦労がいる。(白を黒に塗り変えるのは、易しいが、黒を白に塗り変えるのは、難しい)
 戦争時代、子どもまで戦争にかり込み、終戦後は、衣食住と知識偏重に全精力を消耗し、右往左往し、子どもの教育に自信と努力を怠った天罰が、60年後の今日に至って猛威をふるい、毎日、日本中のどこかで、世人を痛めつけている。因果の理で、この事実を誰も否定することは出来ないであろう。
 明治時代の先覚者福沢諭吉の精神は、明治の子である大正を経て、昭和の孫、平成のひ孫に引き継がれ、21世紀を迎えている現代っ児の乳となって、補給されている。
 これ等21世紀の我らのひ孫、更には、ひ々孫の世代を開発する為に、自分たちにのみ都合のいい人作りでなく、世界に誇り得る真の人作りを、お互いの力によって推し薦めて行きたいものである。

 ドイツの諺:「母親の全てのものが、その乳と共に、子どもの口に注ぎ込まれる」

*父(明治45年生)の遺稿を少し変えて、以上の記載の内容にしました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする