日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その32)

2007-03-16 07:03:09 | Weblog
○教養2年、2月20日(日)晴。
 昨日、熱が39度5分もあって、田畑内科に行った。Aが僕の様子を見に来てくれた。隣の桂さん(既に社会人で、囲碁初段で、時々、囲碁を指していた)が、サンドイッチを持って来てくれた。隣の女の娘(沖縄の娘で、鹿児島大学教育学部で、雪が降った時、喜んで外に出てはしゃいでいたが、その後、彼女も風邪を引いてしまっていた)、お茶漬けを持ってきてくれた。今日は、38度8分あった。アスピリンを飲むと37度に下がって、又、上がる。こんな時、恋人でもいれば、気兼ねしなくていろいろ頼めるのになあと思った。

○教養2年、3月15日(水)晴。
 110単位(満単)、しかも、60中、40が優で、特に語学は、25単位中、優が20。次が、H嬢(熊本高)の104単位で、A(鶴丸高)とS嬢(鶴丸高)の100単位だった。この時、単位不足で教養から専門に上がれない人が10人いた。
 道端で、○○君と会った。彼とは自動車学校で知り合っていた。彼は、医学部目指して二浪していたが、大学を行くのを諦めて、就職していた。何たる相違。心の底から喜べない、複雑な心境だった。

○教養2年、3月29日(水)曇。
 2時からテニスの練習に行った。N間嬢(鶴丸高)と対戦して、4:3でやっと勝った。「乱打では差がないが、試合になると、Nは強い・・・」と松田は言う。そんなNに勝てた。(Nの高校も先輩の蔵屋嬢は、西医体のチャンピオンになっていた。蔵屋嬢は、臨床の腕も素晴らしく、鹿児島市立病院での専門3年生前の春休みの実習では、現在宮崎医科大学の池ノ上克先生がまだアメリカにいて不在中の時で、私は、蔵屋ドクターから、新生児に関していろいろと教えてもらった。その後、5つ子が生まれて、日本中を騒がすことになったが)


 大学受験では、同じ事の繰り返しで、はっきり言って、新鮮味がなかった。それに反して、自分にとっては、大学で学ぶ科目は、新しいことの連続で、面白かった。元々地学が好きだったし、語学も好きだったので、地学やフランス語やラテン語などは、楽しく勉強できた。文系の科目は、あまり難しいと思わなかったが、理系の科目、特に、大学の物理は難しく、講義も難しかったが、物理学実験に関しては、生物実験や化学実験(テキストは、全て英語で書かれていた)よりも、はるかに難しいと思った。今までの記憶の頭では全く解けない感じで、自分の頭で考えて、レポートを書くしかなかった。深夜までかかる人はざらで、翌日もしている人もいた。レポートが一度にパスすることは少なく、再再度、再再再度返されている人もいた。
 物理学実験では、二人ペアーで実験をするのだが、自分と組んだ相手が、阪大工学部卒の人で、優秀だった為に、後ろ髪を引かれる感じで、皆の目を気にしながら、夕方5時過ぎに、早々と帰っていた。





*ドイツ語は、医学部では、8単位必修(追試もあったが)だったが、その習得は、それなりに厳しかった。鬼の○田とか魔の○枝とか言う先生がいて(3単位)、魔の○枝先生の場合は、毎回、ベシュライベン(書き取り)をしていて、それが点数の半分になっていた為、本番の試験では、諦めて、受けない人もいた。教養2年後期のあるドイツ語試験では、先の鬼と魔の二人の先生以外に、講義でしたこととは全く関係ない感じで、辞書持ち込み可で、実力試験を課す先生もいた。
 教養2年の前期終了で、既に8単位習得した人は、1割足らず、そんな人は、人知れずに、ドイツ語を真剣に勉強してきていた人と思われる。(ドイツ語学習は、月刊雑誌のマインドイチよりも、NHKテキストの方がいいと私自身は思っていた)
 当時は、高校での大分県と鹿児島県の受験体制の締め付けは異常と言うべきもので、それに反して、宮崎県と熊本県の締め付けは緩く、それが、そのまま、大学教養部医学部でのドイツ語習得状況に出身県別に如実に現れていた。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060802/4

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