日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その142)

2007-07-08 10:06:55 | Weblog
○昭和52年8月10日(水)晴。
 新生児の剖検をした。回腸末端がが盲端に終わって拡張して壊死になり、80mlの血液がそこに入っていた。親もそれで納得してくれたと思う。疲れたがとても勉強になった。
○昭和52年8月11日(木)雨。
 元気な梶原先生の血圧が上が200以上、下が100以上もあって早引きした(部長は、この20年間、私用で休んだことがなかった)。自分も夏カゼを引いて苦しかった。
 午後から心臓外来があった。髄膜炎の子どもを退院させた。お米をもらってしまった。亡くなった先天性白血病の父親からビ一ルの券をもらった。もらうことよりも、一生懸命にしているという気持ちが通じてもらえたかと思うと嬉しい。大学の○○先生から、「子どもが作れないんだろう」と言われてくやしかった。作れないのではない、お金がなくて作らないのだ。
○昭和52年8月15日(月)雨。
 当番だった。ひどい喘息患者さんが二人来た。喘息、かなり診たので怖さが昔みたいにない。医局に冷房がきいているので遅くまで勉強が出来る。植物人間、一体どうなるのかなあ?

*腎性尿崩症の子どもが急性虫垂炎で○○外科で手術しようとして麻酔をかけた時に脱水でルンバ一ルショックになり、その後小児病棟で植物人間で長く入院していた。患者さん側は、問診の時に、「日頃からよく水を飲む子だ」と言ったと主張し、○○外科医は、「聞いていない」といい、その子に尿崩症があったことにそれまで誰も気が付いていなかった。その後、訴訟になり、医療側が負けた。判決後、数年して、患者さんは亡くなられた。自分は主治医でなかったが、いろいろ考えさせられた。○○外科は、自分の住むアパ一トのすぐ近くにあって、家内との散歩の時、「この医院スゴイねえ、大きくて作りがモダンだし」と憧れながら語っていた。しかし、新聞に大きく報道されてから、患者さんの足は嘘の様にピタリと止まり、とうとう廃院になってしまった。梶原先生は、次の様に言われた、「昔は県病で死んだ時、県病でも生きなかったのだからということで、患者さん側が充分に納得して感謝して帰って行った。今は、県病も大学も関係なくなってしまった。・・・」と。

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