大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年02月23日 | 植物

<540> フ ク ジ ュ ソ ウ

        雪中に 魁の花 報春花

 今年は立春を過ぎてから寒さの厳しい日が続き、大和でも雪の降る日があったが、山間地では積もった雪が融けずに残っているところも多く見られる。そんな寒さの中、五條市西吉野町では野生のフクジュソウが雪の中から茎を立て、花を咲かせ始めた。今日はその春を告げて咲くフクジュソウの花を見たいと思い出かけた。

 フクジュソウはキンポウゲ科の多年草で、光沢のある黄金色の花を開く。全草にシマリンなどの物質を含む毒草で知られる。この毒性を逆用して漢方では強心剤とするが、不用意に使用すると心臓麻痺で死に至ることもあるので、注意が必要という。この花は春一番に咲くこの花が好まれ、縁起のよい瑞祥植物として正月の祝花として床飾りにされたりする。俳句の季語では「新年」に属し、福寿草というめでたい和名を得た。

  フクジュソウ(福寿草)はほかにも賀正蘭、長寿菊、元日草、歳旦草、朔日草、報春花、福人草、福神草、福徳草、献歳菊、満作草、側金盞花、雪蓮など多くの別名を持つが、みなめでたい名ばかりで、園芸種も見られる。全国的に分布するが、北国に多い草花で、関東以西では局地的に分布し、大和では西吉野町津越、檜川迫などに自生地があり、珍しい群落として昭和四十八年(一九七四年)、奈良県の天然記念物に指定され、今日に至っている。

  なお、西吉野町の自生地では野生の減少が著しく、平成二十年(二〇〇八年)に刊行された『大切にしたい奈良県の野生動植物』(奈良県版レッドデータブック)はフクジュソウを絶滅寸前種にあげている。最近、自生地は保護を兼ねて見学路が整備され、通路以外は立入が制限されている。

                                         

 見学路の斜面は十センチほどの積雪があり、その雪にぽっかりと穴が開き、フクジュソウが茎を出しているのが見られた。ほとんどは蕾の状態であったが、中には光沢のある黄金色のパラボラアンテナのような花を開いているものもあり、今日は土曜日とあって、カメラを持った大阪方面からの見学者も見られた。雪の中から咲き出すフクジュソウの花を見ていると、フクジュソウの生命力が思われて来る。

  自生地一帯は山里で、まだ、雪は消えず、気象予報では二月いっぱい寒い日が続くようであるが、花の里でも知られるこの山里では、雛祭り用の桃の切り花の出荷準備をする風景なども見られ、フクジュソウの花をかわきりに春の気配がそこここに感じられる時期を迎えた。 写真は雪の中から伸び出して咲き始めたフクジュソウ。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年02月22日 | 創作

 

<539> 定家に寄せたまたの「百人一首物語」

        渡れざるゆゑに思ひはつのるかな千鳥は如何にありしか知らず

  <518>の「百人一首物語」で藤原定家の『小倉百人一首』より以下の三首をして「忍恋」をテーマに一つの恋物語を試みた。

        淡路島通ふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守                          源 兼 昌 ( 『金葉和歌集』 冬 )

   玉の緒よ絶えなば絶えねながらへばしのぶることの弱りもぞする       式子内親王(『新古今和歌集』恋一)

   来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ          藤原定家 ( 『新勅撰和歌集』 三 )

  これがその三首であるが、兼昌の歌の鳴きゆく千鳥について、「渡れざるゆゑといふべきその心ちんちん千鳥の千の鳴き声」という短歌を添えて、恋路の千鳥が恋を成就させて幾夜もその逢瀬を楽しんだというものではなく、彼岸の彼方、恋路のその名の淡路島に渡り切れず、幾夜も渡ることを試みたというように見立てて物語を組み立てた。だが、千鳥はいかにあったか、渡ったとの想定も出来るので、少し節操に欠けるところではあるが、ここに物語の設定を変更し、新たに物語を進めてみようということにした。

  この間は、冒頭の三首より物語を展開したが、今回の物語もこの三首による。三首はこの前にも触れたが、「千鳥」が七十八番、「玉の緒」が八十九番、「来ぬ人」が九十八番に置かれ、これらをピックアップして並べてみると、一つの恋物語が出来上がるというものであった。渡らんとするところは彼岸の島。彼岸の島は恋路のその名、淡い恋路を夢に見て、行けど行かれぬ淡路島という設定であった。そこには恋に身を焼く女がいて、耐えて耐えがたき心の行方を思い、須磨の浦の「うら」にかかる恨みも見え隠れするというものであった。そして、今回の物語は斯く言うところとなる。つまり、「千鳥は渡る。この身は残る」という仕儀にことは運び、残るこの身の思いは募るという仕儀に及ぶ。須磨の関守は通う千鳥のその声に今宵も目覚めて聞くという。この千鳥を如何に捉えるかが、この恋物語のポイントと言えるところである。

     渡りゆくちんちん千鳥の千の声ちんちん千鳥のおもひの姿

   須磨の浦うらみはなどか関守よ言ひ据えがたきこころの行方

   今宵もか千鳥鳴きつつ須磨の浦おもひの丈をゆかば行くべし

 千鳥は千鳥。この身は思う。思う恋こそ恋の恋。幾夜も聞いたという関守の証言は、千鳥が恋を成就させて幾夜も逢瀬を楽しんだというものかも知れない。しかし、その証言は、渡った千鳥が渡り切って恋しいものに添い遂げたことを確証するものではない。添い遂げたのならば、幾夜も聞くことはなかったろう。添い遂げ得ず、儚い逢瀬を重ねたか、逢えずにいたかにほかならない。渡れざるこの身は思う。恋とは忍ぶ恋に優る恋はないと。恋には幾つもの恋があろう。だが、恋とは忍びに忍んで、恋焦がれ、焦がれ死ぬのが恋である。後にこの決意を言葉にしたのが、山本常朝の『葉隠』であった。

                            

 定家は式子内親王に恋した。その恋を妄執の恋と位置付け、死んでからも蔓(テイカカズラ)になって内親王の墓に取り憑いたと設定し物語を戯作したのが謡曲『定家』である。しかし、この三首から展開する恋物語は、妄執の恋を容れない。ましてや、夜毎逢瀬を楽しむ騒がしくも儚い千鳥が見せる修羅の恋でもなく、恋焦がれ、焦がれ死ぬ身の恋こそ恋であるという恋がこの物語の中の中心テーマであるという次第。

 これは定家の生涯の生きざまに思うゆえで、彼の禁欲主義、ストイックな一生の振る舞いからの結論による。日記『明月記』の持続の産物はそれをよく諾う。定家は、この恋の条について、次のような歌も『小倉百人一首』に採りあげている。この歌は写生よりなる歌といってよいが、選者・鑑賞者の定家には生の本質たる恋に思いを巡らせながら客観的に詠んだ歌のように見えていたのではないかと思われる。この歌などにも定家の人間性というものが見えて来る気がする。

   これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関               蝉 丸 (『後撰和歌集』雑一)

  は、この物語の趣旨としての一首を掲げ、定家を顕彰しつつこの項を閉じたいと思う。 写真は潮の流れが速い明石海峡を跨ぐ明石海峡大橋(左が淡路島側)。  渡れざる ゆゑに思ひは つのるなり つのるその恋 まさに恋とは

 

 


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2013年02月21日 | 万葉の花

<538> 万葉の花 (74) かはやなぎ、かはやぎ (川楊、河楊)=ネコヤナギ (猫柳)

        ほらそこに 来ている みんなが 待ちし春

    霰降り遠江の吾跡(あど)川楊刈りつともまたも生ふとふ吾跡川楊                                            巻 七 (1293)  柿本人麻呂歌集

    河蝦(かはづ)鳴く六田(むつた)の河の川楊のねもころ見れど飽かぬ河かも                                   巻 九 (1723)  柿本人麻呂歌集

   山の際(ま)に雪は零りつつしかすがにこの河楊は萌えにけるかも                                               巻 十  (1848)   詠 人 未 詳

   山の際の雪は消(け)ざるをみなぎらふ川にし添へば萌えにけるかも                                             巻 十  (1849)     詠 人 未 詳

 集中にヤナギが登場する歌は四十首。そのうち川楊、河楊(かはやなぎ、かはやぎ)の表記で見える歌が三首とこれに付随する歌が一首見える。冒頭にあげたのがこの川楊、河楊に関わる四首で、この川(河)のつくヤナギは葉の開出よりも花の咲くのが早い水辺に生えるネコヤナギと見られることから、ヤナギとは別項に置いた次第である。

  1849番の歌は「柳を詠む」と題された八首中の一首で、歌にはヤナギを示す言葉は見られないが、「川にし添へば」の箇所が原文では「川之副者」となっており、前に置かれた1848番の歌を引き継ぐ形で詠まれた形跡が見えることや「副」を「楊」の誤記とする説もあることから河楊を詠んだ歌と見なせる。

 『柿本人麻呂歌集』の旋頭歌、1293番の歌は「遠江の吾跡の川楊よ、刈ってもまた生えて来るという吾跡の川楊よ」というほどの意である。「霰降り」は「遠」にかかる枕詞として用いられている。また、同歌集の1723番の歌は「蛙の鳴く六田の河の川楊の根のようにこと細かく見ても見飽きることのない川であるよ」という意で、「川楊」は「ねもころ」を導く序の形で用いられている。

                                                     

  六田は吉野川の左岸に当たる吉野町の地名で、昔は対岸の大淀町北六田との間に「柳の渡し」と呼ばれる渡しがあって、舟による往来が見られ、吉野山から大峯奥駈の峰入りの起点でもあったところで、往時はにぎわったと言われる。

 歌に見える「六田の河」とは、吉野川のこの辺りを「六田の淀」と称していたことに重なる。支流の奥六田川が流れ入っている辺りで、「奥六田」の「奥」が「六田の河」と「六田の淀」の「河」と「淀」が同じであることをよく示している。つまり、合流する辺りの吉野川を「六田の河(淀)」と呼んだと察せられる。

 河蝦(かはづ)が鳴いていたのはこの岸辺り、川(河)楊のネコヤナギも多く見られたことが想像される。もちろん、見飽きないと詠人に言わせたこの辺りは川幅が広く、眺望の開けたところで、川原にはオギが群生し、自生のネコヤナギもちらほら見受けられる今もその風情を残している。

  1848番の歌は花が開出する時期の歌で、雪が降る中、萌え出ている早春の情景がよく表現された歌である。1849番の歌も川面の輝きの中で、花序が陽光に浮き立つ姿が捉えられ、雪との対比によって早春の季節感が伝わって来る。

  なお、ネコヤナギはヤナギ科の落葉低木で、全国的に分布し、川岸などの水辺に多く見られる。葉は長楕円形で、先が尖る。花は雌雄別株で、早春のころ葉に先がけて咲く。長楕円形の無柄の花序を枝々に多数つけ、この花序がネコの毛のようにふさふさしているのでこの名がある。また、これに子イヌを連想し、エノコロヤナギとも呼ばれる。大和でもよく見られるが、河川の改修などで徐々に姿を消し、平野部では少なくなって久しい。木質がしなやかなので、昔は炭俵の桟俵に利用していた。最近は品種改良された園芸種が切り花の花材として売り出され、山間地の収入源になっている。

  写真左は花を咲かせるネコヤナギ。中央は皮を被って小鳥が枝にとまっているように見える雌花。右は咲き切った雄花。いずれも奈良県吉野地方の山間地の川辺での撮影による。

 


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2013年02月20日 | 万葉の花

<537> 万葉の花 (73) やなぎ (夜奈義、也奈冝、楊奈疑、夜奈枳、柳) ・やぎ(楊、也疑、夜疑、夜冝、楊義、楊木、柳)=ヤナギ (柳、楊)

        近づけば 柳の芽吹き 確かなり

     うち靡く春の柳と吾がやどの梅の花をといかにか分(わ)かむ                                                      巻 五  (8 2 6)  史氏大原

    うちのぼる佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも                                                           巻 八  (1433)  坂上郎女

    ももしきの大宮人のかづらけるしたり柳は見れどあかぬかも                                                           巻 十  (1852)  詠人未詳

    小山田の池の堤に刺す楊成りも成らずも汝(な)と二人はも                                                            巻十四 (3492) 詠人未詳

    春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路思ほゆ                                                             巻十九 (4142) 大伴家持

 ヤナギはヤナギ科に属する落葉樹で、高木から低木まで見られ、我が国には四十種以上が分布していると言われる。雌雄別株で、尾状花序に小花を密に咲かせ、交雑しやすいところから雑種も多く、見分けが難しい樹種とされている。こうした事情のヤナギには、一つに花の咲く時期によって分類する見方がある。葉の開出する前に花を咲かせるタイプと葉が開出するのと同時かその後に花をつけるタイプとに分けられる。ネコヤナギやバッコヤナギの類は前者に属し、シダレヤナギやアカメヤナギなどは後者に属する。

 『万葉集』にはヤナギ(柳、楊)を詠んだとおぼしき歌が四十首見られるが、前述の点を踏まえてみると、かはやなぎ、かはやぎで登場する前者のネコヤナギの類が四首見られ、ほかの三十六首は後者のヤナギを詠んだ歌であることがうかがえる。ここではこの後者のヤナギを詠んだ三十六首について考察してみたいと思う。ネコヤナギの類と思われる四首については項を改めて触れることにしたい。

  やなぎ、やぎの原文表記については万葉仮名の当て字のものは別にして、柳と楊の漢字が用いられている。中国ではヤナギのことを楊柳と言って、楊と柳を区別し、楊は枝が堅く立つもの、柳は枝がしなやかで垂れるもの、即ち、シダレヤナギに用いている。だが、万葉当時の我が国ではその区別は見られず、『万葉集』ではそれに意識することなく、用いられているのがわかる。

                                              

 ヤナギの三十六首を見ると、まず、1433番の坂上郎女の歌のように青柳(あをやぎ、あをやなぎ)と詠んでいる歌が十二首。1852番の歌のように、枝が垂れる意のしたりやなぎや糸などの表現によって見えるヤナギが五首。また、同じ1852番の歌のように枝を折り取って頭插にした歌が十一首見られる。これは枝のしなやかなシダレヤナギであろう。当時の貴人たちがヤドリギのほよと同じく、シダレヤナギに霊力を認めるところがあったからだろうと推察出来る。

 また、826番の大原の歌のようにウメと抱き合わせに詠まれているものが十首で、これは中国から渡来したウメとともに植えられたヤナギであろうことが想像出来る。三十六首の中には柿本人麻呂歌集の歌が二首見え、この二首がヤナギの歌の中で時代的に最も古いものだと思われるが、これらを総合してみると、『万葉集』に見えるヤナギはウメとほぼ同時代に中国から渡来した中国原産のシダレヤナギと見てよいように思われる。

 これは、ウメと同時にシダレヤナギも中国からやって来て、貴族の庭園などにウメとともに植えられたということが言えるからである。1433番の郎女の歌の「佐保の河原」や3492番の歌の「小山田の池の堤」など場所の限定されている歌も見られるが、これらにしても、自然に生えているものではなく、植えられたものと見ることが出来る。言わば、三十六首に詠まれたヤナギは当時の舶来品で、ウメと同じく、中国文化の一端がうかがえると言える。

 このシダレヤナギは後世でも根強い人気が保たれ、江戸時代を舞台にした映画の時代劇などには掘割にヤナギはつきもので、よく見られる。また、近代になっても「柳青める日、つばめが銀座に飛ぶ日」と首都東京を歌った懐かしのメロデイ―でもお馴染みである。古都の奈良には多く見られ、大和ではときに半野生の見上げるようなシダレヤナギに出会うことがある。

 


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2013年02月19日 | 写詩・写歌・写俳

<536> 長谷寺 雪模様

        雪は降る 深々と降り 止まず降る

 大和の十九日は雪模様の一日だった。初瀬の長谷寺は積もっているだろうと思い出かけてみた。降る雪は南東部に向かうほど強くなり、初瀬の辺りは田畑や人家の屋根も白く、長谷寺は雪の佇まいだった。

 登廊脇の牡丹園には雪避けの菰を被った冬牡丹が咲いていた。足許が悪いためか、参拝者はほとんど見られず、境内で雪の情景をいろいろと撮影することが出来た。雪は止むことなく降り続き、遠望するものはみな霞んで見えた。

 大悲閣の本堂ではちょうど朝の勤行の時で、読経の合唱が聞かれた。境内は森閑として寒く、読経は高らかに冴えて聞こえ、雪とはまこと静かに降るものだということが思われた。では、雪の境内を巡りながら、更なる二句。

      雪の初瀬 大悲の観音 おはすなり            読経冴ゆ 雪は静かに 降るものかな