大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年08月30日 | 写詩・写歌・写俳

<12> ケイトウとセセリチョウとカマキリ
        ケイトウが咲いた
     セセリチョウがやって来た
     カマキリもやって来た
     真昼の日差しの中で
     舞台は整い
     生を賭けたドラマが
     始まった
     蜜を求めてやって来た
     セセリチョウを
     カマキリが狙う
     セセリチョウには
     危ないと思った瞬間
     飛び立った
     ほっとして  私は

     胸を撫で下ろす
     だが しかし 
     生きてゆかねばならない
     カマキリには
     無念至極
     涙ぐましくも 辛抱が要る
     ああ 神さま 
     セセリチョウを守りたまえ
     涙ぐましいカマキリに恵みを
     それにしても
     これは悩ましい
     実に悩ましい願いごとだ
     相反する命に関わる
     この舞台の設定
     ドラマの展開
     ケイトウの花は
     真昼の日差しの中で
     いよいよ鮮やかに
     いよいよ際立ちを見せ
     咲いている

  このような光景は自然の中でよく見られる。この自然におけるドラマについて、民俗学者の柳田國男は『野鳥雑記』の「翡翠の嘆き」の中で言っている。金魚を狙うカワセミに触れ、「物の命を取らねばならぬものと、 食われてはたまらぬ者との仲に立っては、仏すらも取捨の裁決に御迷いなされた。 終には御自身の股の肉を割愛して、餓え求むる者に与え去らしめたというがごとき、姑息弥縫の解決手段の外に、この悲しむべき利害の大衝突を、永遠に調和せしむる策を見出し得なかったのである」と。

                         

 単に金魚がかわいそうだという理由のみではカワセミを納得させるに十分ではなく、これが自然の世界だという。 食われたものは食ったものの中で働きとなって浮かばれるというのが自然の掟にはあり、ここに生の公平性が成り立っていると言えるが、 ここで二者の仲立ちとなるのが「感謝」という言葉ではなかろうかと思われる。セセリチョウを捕まえたカマキリが感謝の念を持つならば、 セセリチョウには恨みは生じないだろう。食われたセセリチョウにはカマキリの中で生きることになるから。これが生の連鎖の実情であり、生の連鎖にはこの「感謝」という言葉がキーワードとして考えられるということになる。

                



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