大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年06月15日 | 植物

<2359> 余聞、余話  「 花 」

     咲く花はそれぞれにしてそれぞれに灯す明日への志向の姿

 大和の地(山野)に野生の花を訪ね歩くようになってほぼ二十年、その都度、出会った花を写真に収め、かなりのコマ数に至ったことにより、「大和の花」と題してこのブログに順次紹介している次第である。ときに、なぜ、野生の花にそれほどこだわるのかと自問する気持ちにもなって、いろいろと思い巡らせることもあったが、根本のところ花との出会いが楽しいからということで今日の仕儀に及んでいるということが出来る。

 その出会いはさまざまだが、山野の花は私をやさしく迎えてくれる。そして、私の精神性を無言にして受け入れてくれる。これは相性というものか。例えば、山巓の岩場に咲く花がある。心地よい風に靡きながらその花は咲いている。その花に会いたくて出かけるのであるが、予想通りの花があれば、思いがけない花に出会うこともある。時間をかけて登り、山岳では片道二、三時間が普通である。

 そうして時間をかけて山巓の岩場に赴き、花に出会う。その出会いの風景に心満たされながらよく思うことがある。そこに咲く花と登り来たった自分とは同じ時間を共有している存在だということ。つまり、花も私も同じ地球の生命体たる存在なのだという認識。この認識に及ぶということ。そして、その認識は私の精神性に裏付けられた感覚に負うものではないかと思われ、まずはカメラを取り出し、花に焦点を合わせ、仕事に当たる。まことに充実の一時である。

           

 花について、私は常ながら思っている。植物は概ね根、茎、幹(稈)、枝、葉、花からなり、花は果実に移行する。そして、これらはみなそれぞれに役目を負い、みな必要欠くべからざる部位として働いている。だが、根、茎、幹(稈)、枝、葉と花(果実)には少し違いがある。根、茎、幹(稈)、枝、葉は、植物の実態からして言えば、生命を維持するため常に現在形で働いている。これに対し、花(果実)は未来に志向して働く存在としてある。

 つまり、植物の個体そのものにとって根、茎、幹(稈)、枝、葉はなくてはならない部位であるが、花はなくてもその個体は枯れることなく生きて行ける。しかし、花を有する植物にとって花がなければ、未来を開いてゆくことは甚だ難しくなる。これはどういうことか。それは大概の花が未来をその中に内包して咲いているということにほかならない。

 言わば、根、茎、幹(稈)、枝、葉は現在そのものであり、花(果実)は未来を志向して存在しているということになる。花(果実)における未来とは種の存続にほかならない。植物全体からすれば、みなともに必要欠くべからざる役目を負っている部位であるが、ほかに比べ、花(果実)には他にない特殊性が認められる。

 花はその働きを十分たらしめるために、自分の働きの助けになるものを花に誘う。その誘いを叶えるために自らを美しく装い、色や形のみならず、よい香りを出したり、甘い蜜を振る舞うといった具合に工夫している。花は花粉媒介者をよく認識し、媒介者へのアピールを欠かさない。そして、花は常に明るく対外に接している。その花の働きが十分に果たされているのが、自然の中の野生の花たちだということが、現地で花に接しているとよくわかる。

 私は年齢が嵩むにつれて、この花の意義が多少理解出来るようになった。パッと艶やかに咲く花も小さく目立たない地味な花も、その種における花の意義は同じ重さをもって存在している。数ある植物の中で、花の存在は斯くあるわけで、その魅力は花それぞれにあるということになる。言わば、花は種の存在を引き継ぎ開いて行く意義に満ちたものであり、故に、花のやさしさにはいつも明るさが纏っており、私の精神性に沿って見えて来るという次第である。

 以上は、花における時に関することであるが、今一つには場所的なことが花にはあると見なせる。そして、そのことが野生の花を訪ねる私の精神性に引き寄せて語ることが出来る。生き物にとって、風土即ち住む場所の環境は大切であるということ。このことを山巓の岩場に咲く小さな草花たちは教えてくれる。そして、野生の花を訪ね歩く意義が私の精神性において確固たるものに発展して行ったといってよい。

 この山巓の岩場の小さな草花たちは岩上の環境に合致するか、合致すべく自身を変えて臨んで来た結果そこに存在していると考えられる。この小さな草花の姿は地球上の全ての生命体に言えることで、高等的人間にも当てはめて言うことが出来る。自然とは関わりのないような大都会のど真ん中で生きているような人間でも、この環境の法則から脱し得る生命体はないと見るのが正しかろう。そして、そこには同調、葛藤、まさにさまざまな生の展開が見られ、生き行くものたちの涙ぐましいまでの姿も認識される。

 というようなことなどを思い巡らせながら、私は野生の花に会うため、今も出かけている。中でも殊に減少傾向にある在来の花に関心が持たれるのは、切迫した状況にもかかわらず、未来に向かって咲く涙ぐましいまでの心持ちが花に感じられ、愛おしく思えてくるからにほかならない。

 花は明日を志向する。だが、花が満ち溢れている状況のある中で、明日が約束されないような存在の花もある。これがこの世の様相であるならば、私の精神性はどちらかと言えば、涙ぐましくも愛おしい姿の花に向かうことを選択する。という次第でこの二十年に及ぶ野生の花への旅は一貫して続けられている次第である。

 芭蕉は『嵯峨日記』の中に「花芳しければ」という言葉を遺した。この言葉に続く言葉は人によってさまざまに思えるが、私に言わせてもらえるならば、「道は自ずと開かれる」と続ける。花の本分は花に見るべきであると言えるからである。 写真はイメージ。花期を迎えた大峰山脈のアケボノツツジを主にしたツツジの大群落(釈迦ヶ岳付近)。