マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

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細川忠興

2018-03-31 05:26:11 | 戦国武将・戦国姫図鑑
細川忠興
【諱】
忠興
【苗字】
細川
【朝臣】

【生没】
1563年ー1645年
【通称】
与一郎
【父親】
細川藤孝
【母親】
沼田麝香
【養父】
細川輝経
【兄弟】
細川興元
細川幸隆
細川孝之
伊也(一色義定のち吉田兼治室)
女(木下延俊室)
女(長岡好重(藤孝の実弟)室)
女(長岡孝以のち小笠原長良室)
【正室】
明智玉子
【子息】
細川忠隆=細川内膳家
細川興秋=細川興元養子
細川忠利=熊本藩細川家
細川立孝=宇土藩細川家
細川興孝=細川(長岡)刑部家
松井寄之=松井興長養子
おちょう(前野景定室)
こほ(松井興長室)
たら(稲葉一通室)
まん(烏丸光賢室)
【解説】
生誕
室町幕府13代将軍足利義輝に仕えた細川藤考の子として生まれる。
そして同族である細川奥州家細川輝経の養子となる。
足利義輝が暗殺されると父藤孝や明智光秀らと協力し。
足利義昭を織田信長を利用して15代将軍として擁立。
後に対立し父が義昭から離れ信長の家臣になると、自身は織田信忠の配下にされる。
織田家臣時代
1577年、14歳の時に紀州征伐にて初陣を飾る。
叛乱を起こした松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその明智光秀と共に攻め落とし素晴らしい戦果を得たので感状を賜っている。
1578年に元服し信忠から忠を賜り忠興と名乗り、同年明智光秀の娘玉と結婚した。
信長の命により九曜を定紋にし家紋になるが、以前に信長の小刀に描かれていた九曜を忠興が気にいったためそれを覚えていたからと言われる。
父と共に丹後守護大名である建部山城城主・一色義道を滅ぼし。
その功績で父は丹後南半国の領主になる。
織田権威の軍事パレードである京都御馬揃えにも若年ながら妹婿一色満信(義定)ら共に参加。
この時信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上した物だと言う。
本能寺の変
義父明智光秀が織田信長に対し本能寺を強襲し自害に追い込み。
続いて忠興の主君であった織田信忠を二条城で自害に追い込んだ。
光秀は娘婿であった忠興を理由に味方に誘われるが父と共に拒否。
玉を幽閉する事態になっている。
結果光秀は敗北、同じ光秀の婿であり内通を疑われ殺害された津田信澄と異なり。
連座処分になる事はなかった。
父の隠居で丹後宮津城主となり、妹婿であり光秀側に付いた満信を殺害し。
その功績で羽柴秀吉から丹後全域の領有を許された。
その際に妹伊也が戻ってくるが、怒りが原因で傷を負わされ。
以後、その傷は周りからの忠興関連のタブー視される事になった。
豊臣政権下
小牧・長久手の戦いに参加、従四位下・侍従に叙任し秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。
ちなみに七将とは・・・・・・豊臣秀吉子飼いの猛将7人を指し構成された人物は・・・
福島正則(尾張清洲城主)
加藤清正(肥後熊本城主)
池田輝政(三河吉田城主)
細川忠興(丹後宮津城主)
浅野幸長(甲斐甲府城主)
加藤嘉明(伊予松山城主)
黒田長政(豊前中津城主)

となっており、後に全員は関ヶ原の戦い直前に石田三成らと対立し東軍に付く事になる。
その後九州征伐や小田原征伐に従軍した。
朝鮮出兵では第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取った。
秀次事件で豊臣秀次ら一族が粛清されると、忠興は秀次に借金があり追及される。
家臣松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納するがそれに力を貸したのが徳川家康である。
秀吉が死去すると他の七将の面々と共に政敵石田三成邸を襲撃。
同年、家康の力により後国杵6万石が与えられ松井康之・有吉立行を置いた。
関ヶ原の戦い
徳川家康からの「味方につけば丹後の隣国である但馬一国を進ぜよう」と言われ東軍に参加した。
妻玉と父藤孝が京におり、今後どう影響するか注目されていたが。
忠興が東軍参加表明に豊臣恩顧の大名に影響与えたと言われている。
大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉が西軍の襲撃を受け、自害する悲劇に見舞われている。
護衛であり稲富流砲術の開祖稲富祐直が敵方に弟子がいたので助けられ逃げ。
嫡男忠隆の正室千世が実家前田屋敷に逃亡し、その2件で忠隆は激怒し。
稲富を殺害しようとしたり、忠隆に離縁を求め拒否されると廃嫡する。
稲富は家康に仕え、難を逃れ。
妻と離縁し嫡男熊千代を失った忠隆とは25年間親子の縁を切り、和解したのは32年後の事であった。
忠隆の子忠恒、忠春は熊本藩一門家臣として仕える。

話を戻し関ヶ原の戦いでは丹後田辺城に籠城した父藤孝と弟幸隆は懸命に奮戦するが。
幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇が開城する勅命を出し合戦前に開城し。
飛び地領地の杵築城が西軍側である大友吉統に攻撃されたが、松井康之と有吉立行が防戦に尽くし黒田如水の救援により守り切り。
本戦では忠興は136の首を討ちとったという。
戦後
転封され豊前国中津33万9000石と杵築合わせ39万石の大名になる。
なお前の領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており年貢の返還をめぐって筑前商人を抑留するトラブルが発生している。
弟幸隆を竜王城の城主として同じく弟の孝之を香春岳城の城主などと領内の防衛強化を図る。
徳川政権
1611年に伏見城の徳川家康の元へ祗候するために上洛をした時に持病に倒れる。
本多正純を通して漢方薬の万病円を忠興に遣わし、快復しその日のうちに家康に礼を述べた。
1615年に大坂の陣に参加、次男興秋が大坂方につき戦後に切腹させている。
三男の忠利に家督を譲って隠居し出家する。
隠居して分割された領地は細川立孝が入り、死後宇土藩が設立している。
なお立孝の子孫は細川本家に養子に入っている。
83歳で亡くなるが、臨終の際に「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と最後まで戦国武将としての心意気を失っていなかったと言う。
【人物】
性格
『茶道四祖伝書』によると「忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷である」と短気な人物であったと言われる。
光秀から丹波平定の際に「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」と戦場でも非人道的行為していた可能性が高い。
事実、丹後の同じ足利一門であり妹婿満信を騙し討ちにし敗残兵を虐殺した。
そのせいか、身内の者にも容赦を加えない苛烈である事から弟興元とは不仲であり、妹の伊也が夫を殺害された事を恨み斬りつけられる程である。
晩年は丸くなっていた様子。
文化人であるためいろんな人と交流関係を持ち、幕府重鎮の土井利勝や遠戚関係にあった春日局など交流関係を持っていたと言う。
【子孫】

(竹田宮恒徳王)

(北白川宮道久王)

(朝香宮孚彦親王)
東久邇宮信彦王を含めこの4人の親王殿下は明治天皇の孫であるため細川忠興の子孫である
明治天皇
大正天皇
昭和天皇
今上天皇
竹田恒泰
東久邇信彦
細川護熙(内閣総理大臣)
細川護久(義族議員)
など
などと日本の権威である№1と№2がいる。
数々の皇族方が子孫におられるが、中でも今上陛下や細川護熙総理が一番有名であろう。
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