江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

「東日本大震災から11年半が過ぎた」  東北岩手学習交流の旅 (4)

2022-12-18 | 随想
Ⅳ 《田老の巨大防潮堤 万里の長城は》
宮古市田老地区に向かう。
旧田老町は明治29(1896)年に水位15mと昭和8(1933)年に水位10mの大津波の被害をうけた。
その教訓から高さ10m、長さ1350mの第一防潮堤をS9年~32年にかけて完成させた。

更にS37年~40年にかけて高さ同じで582mの第二防潮堤を。
翌S48年~53年にかけて501mの第三防潮堤を完成させた。
総延長2.4Kmの日本一の防潮堤である。

住民は「万里の長城」と呼んでいて絶対的な信頼を寄せていた。
だが、3月11日の大津波は容赦なく防潮堤を乗り越え破壊して181人が犠牲になった。




〈二分された町の復興は〉

ここからは学ぶ防災ガイドの元田さんの案内である。

目の前に巨大なコンクリートの壁がそびえ立つ。
鉄の階段を登った上は、震災後築かれた高さ14.7mの防潮堤だ。
真下には真新しい野球場がある。

山側の高台には住宅地が作られ、海側には漁業関係の建物や設備が見える。
地震発生当時、学校には300人が避難していたが津波は見えなかった。
更に山の上を目指して避難し難を逃れたと云う。

被災した戸数は1700戸だが、山側には被災していない家もある。
家が流された人たちは借金を抱えゼロからのスタートだが、家が残った人たちはその心配がない。
家族や親族を失った人と被災から免れた人たちで町は二分された。

町は復興に向けて、人々の意識や心を一つにする必要に迫られた。
そして今、町全体を震災遺構として一緒に学ぶ数々のイベントに取り組んでいる。


〈津波遺構 たろう観光ホテル〉





次に「たろう観光ホテル」に向かう。

ホテルは2Fまでむき出しの鉄骨だ。
3Fは壁の一部が残り、5Fから6Fは部屋が当時のまま残されている。
4Fまで浸水したが2Fまで鉄骨を残し倒壊しなかった。
2Fまであった設備が流され、鉄骨だけになって海水が通り抜けた為と云う。
奇跡としか言いようがない。

地震発生と同時に「たろう観光ホテル」の社長は、従業員を帰宅させ自分一人がホテルに残った。地震から既に30分経ち津波の襲来が予想され戻ることも出来ない。
もう逃げられないと覚悟を決めて、6Fに上がり買ったばかりのカメラを海に向け続けた。


〈防潮堤を乗り越える津波映像〉
ホテルの6Fの各部屋は当時のままだ。
この一室でガイドの元田さんから震災学習を受けた。

社長が命を賭して映した津波襲来の映像は、学習に参加した方だけが見ることが出来る。
映像では防潮堤で津波が見えないので、避難途中で家に戻る住民や車の往来も見える。

「逃げろー」と社長は叫ぶが声は届かない。
明らかに防潮堤は第一波の津波を防いでいた。

その間逃げる時間はあった。
しかし水かさはあっという間に増してきた。
海水は防潮堤を乗り越え街並みを一気に飲み込んだ。
海から迫ってくる津波の威力の凄まじさは映像でしか伝わらない。

そして津波はホテルを直撃して激しく揺れ動かす。
社長は立つことが出来ず、もう映像は撮れない。

宮古市はこのホテルを「津波遺構」として残すことを決めた。
ホテルは国が指定した第1号の震災遺構となった。


(つづく)


<デラシネ>


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