団塊タケちゃんの施術日記

一人二人生の旅立ち

人生行路の行き先はふとした縁で決まるのかも 続

2013-09-20 09:58:12 | アート・文化

大阪版川柳欄の人気ぶりに気を良くしたこともあるのでしょうが、先輩記者は広島支局のデスクに赴任して広島版でも川柳欄をつくりました。広島県ばかりか周辺の他県の川柳愛好家が盛んに投句をし、川柳欄は人気紙面となりました。広島支局はHさんの初任地でもあります。

Hさんは理科系の人で大学の専攻は林業でした。昭和54年の正月紙面特集に野崎観音を拠点とする冠句の会を取り上げてから、句づくりの愉しみを覚えたようです。冠句から川柳に広がり、冠句川柳歴は30年以上になりました。

紙面では「虫食い川柳」欄をつくり、川柳の愛好家を広げる一方、「虫食い」に入れたことばによって句ががらっと変わってしまう、ことばの魅力を示しました。私たちの宗匠として冠句の会を主宰し、カルチャーセンターで川柳の愉しさを伝えました。

先輩記者が創設した広島版の川柳欄は、連綿として続きました。7月に亡くなるまで川柳欄の選者をしていたのがHさんでした。病魔と闘いながら、選者の仕事は最後まで務めました。ここでも、先輩記者が結果として選者への「橋渡し」をしたことになります。

亡くなる二日前、高校時代の友人が自宅に見舞いに行きましたが、これが友人、知人らと会う最後となりました。Hさんは広島から届いたばかりという川柳の投句の束を友人に示しながら、「これから選をする」と話したといいます。友人は「あんなに元気で意欲的だったのに、二日後に亡くなるなんて」と絶句していました。

微笑んで 投句の束を 友に見せ

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