日本-クロアチア戦をだらだら見つつ、意識は「チェンソーアートは、森と木と山村を結び直すことができるか」という命題に飛んでいた。
森林と林業(木材)、そして山村は、えてしてバラバラに語られることが多い。環境問題も似て非なる関係で議論される。みんな近いと知りつつ、いざとなると別物扱いしてしまう。それらを改めてつなぎ直さないと、各々の問題は解決しないのに。
それらをつなぐかなめがいる。それにチェンソーアートはなり得るか。
そこで、部外秘資料ながら、この点について記した一文を転載する。
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山村と林業にもたらすインパクト
私が初めてチェンソーアートに出会った時、直感的ながら、その将来性に大きな期待を抱きました。もちろん、チェンソーだけで素晴らしい木彫作品が作れること、それも短時間で仕上げられることに対する驚きもありましたが、同時に山村や林業へ与えるインパクトを意識したからです。
日本の森林、林業、そして山村は病んでいます。それは生態系がどうとか、経済的な問題といった次元だけではなく、人と森林の関係が崩れかけていることに起因すると考えています。とくに山村に暮らす人々の活力が失われ、内外の交流がしぼみ、硬直化した思考に自縄自縛になっている様子がうかがえます。誤解のないよう付け加えると、私は、山村を潜在的に裕福な地域だと思っています。資源もインフラも人材も、そしてソーシャルキャピタル(人的な規範・ネットワーク)も。しかし、それらがうまく機能していない。だから十分な力が発揮できていないと感じるのです。
そこにチェンソーアートという異色のアクティビティが広がれば、何かを変えてくれるのではないかという希望を感じました。途切れかけている各要素を再び結びつける道具としてチェンソーアートは使えるのではないか、と思ったのです。
林業の仕事道具だったチェンソーによって、創作の喜びを感じることができる。使い道のなかった木に新たな息吹を吹き込める。原木を出すだけだった現場で、最終商品たりえる作品づくりが行える。そして外部から人が入ってきて交流のきっかけになる。
場所も道具も素材も、山村では比較的簡単に得られるものばかりです。負担は小さく、個人レベルから始められる。それでいて地域を動かせるかもしれない可能性。しかも未知の世界を切り開くという挑戦的な楽しみも感じました。
チェンソーアートというアクティビティは、人々の思考を柔らかくし、新しい発想と行動を生み出すに違いありません。やる気次第で技量が上がり、それが評価され、また経済的な見返りも出てきます。細くなっていた人々とのつながりも復活し、ふくらみのある社会を築く端緒になるかもしれない。そんな夢を見ました。
ですから、私は「チェンソーアートによる地域づくり」を一過性のイベントに終わらせず、持続的な発展につながることを最大の目標としています。一時の盛り上がりやボランティア的な活動では、いつか息切れします。そうではなく、常に新しいことを生み出し、日常の中から進歩するシステムを構築し、地域とチェンソーアートが広がっていくことを願っているのです。
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気がついたら、サッカーの試合は終わっていたぜ。