社長のひとり言

日々気に留めた記事やベトナム事情をご紹介します

定期掲載の終了について

2022-04-30 | 歴史
今後は特に気になったものを掲載する形にします。

日本をこよなく愛していますが、今後については懐疑的。日本人に対しては正しい歴史感を持つこと、特に大東亜戦争の発生原因や戦後の米国による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」について学習や反省をして欲しいと思います。なぜかというと誤った歴史観がそのまま現在の諸問題につながっているからです。人間は忘れるので歴史は繰り返すのですね。正しい歴史観を持っている日本人は全体の1%程度と思われます。日本は反共の砦であったのであり、それをぶっ潰したのが米国とその背後にいた国際金融資本とコミンテルン。米国が共産主義の本質を知っていれば日本と協力しソ連を倒すことが出来た。ソ連がいなければロシアはもっと民主的になったでしょうし、中共も生れなかった。欧州にナチスが残るという問題はありますが、ウクライナ戦争や第三次世界大戦のような危機は起こらなかったでしょうし、今後起きる台湾危機など問題にすらならなかった。尚、日米安保などは紙切れに過ぎず、いざとなったら日本はウクライナのように単独で戦い、米国は後方支援に徹することになるでしょう。米軍基地が攻撃される以外は、、

あとSDGsはあくまでビジネスと割り切って考えること。ただでも坂道を転げ落ちているのになぜ節約をして日本をさらにダメにすることを優先するのか?若い世代が取り組んでいるようですが彼らが特殊詐欺に引っかかっているというと分かりやすいか。単なるファッションに過ぎない。それとも環境保護団体はロシアの天然ガスは他地域のガスより綺麗だと言いたいのか?それはまさにルイセンコ思想と同類。欧州(特にドイツ)のように潜在的敵国にエネルギーを依存してはならない

また反中の考えを浸透させようとしても出来なかった。日本は中国、ロシア、さらには米国という核超大国に囲まれているという地政学的な問題を抱えて苦しむことになる。平和は憲法9条ではなく武力の均衡でのみ成し遂げることができることを分かること。大東亜戦争で北進か(ドイツと挟撃し共産ソ連を打倒する)西進(インドの独立を手助けしさらに中東まで行き米国のソ連援助ルートを断ちやはりソ連を打倒する)すれば良かったものを、近衛文麿と海軍が対米戦争に突入させてしまった。山本五十六は実行部隊にすぎませんがやはりスパイだったのでしょう。対米戦争(東進)に反対だった陸軍の考えはまっとうであり、東条英機はスケープゴートにされてしまった。日本人は人が良すぎて陰謀渦巻く世界に対峙できなかった、、それは今も同じですね






杉良太郎はなぜ152人を里子にしたのか? 生涯をかける信念を語った

2022-04-21 | Love Vietnam
杉良太郎はなぜ152人を里子にしたのか? 生涯をかける信念を語った

<長年にわたって世界各国で数十億円の私費を投じてきた慈善活動。そこには生涯をかけた強い信念と、困窮する人たちへの愛があった>

里子の数152人、投じた私財は数十億円以上──。歌手・俳優として活躍する杉良太郎は、個人として「桁違い」の規模で慈善活動に打ち込んできたことでも知られる。

国内ではデビュー前だった15歳の頃から刑務所や老人ホームへの慰問を始め、法務省特別矯正監や麻薬追放協会会長を務めるなど幅広く活動。その功績から、紫綬褒章や緑綬褒章を受章し、文化功労者にも選ばれた。

一方、国外で活動を始めたのは27歳のとき。アジア諸国やアメリカ、ブラジルなど世界中でチャリティー公演や孤児院・障害者施設への援助を行い、文化交流もしてきた。バングラデシュでは約50の学校の建設、ミャンマーでは孤児数百人の食事の世話や救急車の寄付と、億単位の資金を多くの国で費やしてきた。

なかでもベトナムとは、現在まで深い縁でつながっている。1989年の初訪問時、チャリティー公演で杉はベトナムの平和と繁栄を訴えた。同国が西側の文化交流団を受け入れるのは初めてだったが、要人たちはベトナムのことを思う杉の姿に感銘を受け、当時のド・ムオイ首相は「日本のような国になりたい」「世界で一番、日本語が話せる国になりたい」と、杉に語った。

そうしてベトナムに引き込まれていった杉だが、当時の同国は度重なる戦禍で荒廃し、貧困問題も深刻だった。首都ハノイにあるバックラー孤児院で、杉は衝撃を受けたという。子供たちが「食べていたのは1食1円のもの。カビが生えた米に、その辺の草と塩だけが入ったお吸い物、1センチ四方の魚のかけらが2枚だけ」だったと回想する。

■「お父さん、お母さんが欲しい」

そこで杉は自ら市場でニワトリやブタを買い、小屋を建てた。それを育てて食べるだけでなく、売った金でミシンを買って服を作り、着たり売ったりするサイクルを教えた。「お金を寄付してもそれだけで終わる。だから自活できる道をつくっていった」。ただ、そうした取り組みだけで、子供が本当に満たされるわけではないことを知る出来事があった。

「お菓子やおもちゃを持って行っても、見ているだけの子供たちがいた。なぜ食べないのか聞いてみると『お父さん、お母さんが欲しい』と言った。何かあげれば喜ぶと思っていたが、人間はやはり愛情に触れたいのだ」と気付いた。そこで杉は、子供たちを里子にすることに決めた。バックラー孤児院の子供全員を里子にし、その数が現在は冒頭の152人となっている。

その活動資金のほぼ全額を、杉は自腹で賄ってきた。「海外で多くの公演をやってきたが、1回も利益を目的とする興行をしたことはない。全部チャリティーだった」と言う。そんな杉をアメリカの「チャリティー王」ボブ・ホープは「あなたは日本のチャリティー王だ」と称賛した。

数十億円という金額は、決して道楽で出せる金額ではない。「芸能人は金持ちなんだと思われることもあった」が、実際には資金を捻出するために多くの資産を抵当に入れて銀行から融資を受け、「自分の体を担保にして1億円貸してほしい」と直談判しに行ったこともある。

それでも「自分に力があれば、もっと助けられたと感じる」と言う。映画『シンドラーのリスト』で、多くの人命を救ったシンドラーは最後に「もっと救えた」「もっと金があれば」と語る。「その気持ちは本当によく分かる」

■思いと心を乗せた援助を

どうして、そこまで慈善活動を続けるのか。「みんなに言われる。裏があるんだろうと思われる」と話す杉だが、自分でも理由は分からないという。「まあ、そういう人間もいるんですよ」

そもそも、相手国から来てほしいと言われたこともない。「全部押し掛け。自分で『これはやらなきゃいけない』と考え、相手の国に問い合わせて費用は自分で出すと言うと『それなら来てください』と言われて行っている」

ただ、「自分の目で孤児院や盲学校の状況を見ると『俺が援助する』となる」という彼の言葉からは、目の前で困っている人や苦しんでいる人を放っておけないという愛情が感じられる。

杉自身、「愛で、全ての問題は解決できると思う」と語る。だから支援にも、愛情や優しさが必要だとする。「ぽんとお金を寄付するのもありがたいことだが、私は後々まで見届け、人の思いと心を乗せた援助をすることを心掛けている」

また何十年も芸能界のトップに居続けたからこその思いもあるようだ。「神様がひとつだけ願いをかなえてくれるなら、『人の心の真実を教えてください』と願う。(彼らの)本当の気持ちが知りたい」と、杉は言う。「施設の人たちには虚栄心も忖度もない。ストレートに反応してくれる。そこに真実の涙や笑顔がある。それはお金を出して買えるものではない」

ベトナムにいる152人の里子とは頻繁に会えるわけではない。それでも、「いつも思いを寄せているし、心配している。それが愛情だ」。



「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断

2022-04-17 | 歴史
「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断、被害者の数はなんと5万人

■日本史の新視点

 慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。

 ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。

 ここまで見てくると、当時の秀吉は日本の為政者として領土や国民の安全を守るために最善の選択をしたように思えてくるのだが……。

九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。

 その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。

 それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。

 一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。

 一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。

 一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。

 一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。

 この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。

■西洋人が胸に秘めた「日本侵略」の意図

 さて、秀吉がなぜこの追放令を出したかだが、その理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。

もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。

 たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。

 日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。

 最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。

 秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や宣教師たちの勝手な振る舞いに一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。

 さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。

 日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。

 九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。

■『九州御動座記』の記録

 「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」

 同胞の若者たちが鎖につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ないカルチャーショックだったに違いない。

 何とも酷たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。これはそもそも、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にあるという。

 なお、牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ。ルイス・フロイスも日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。

大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。

 この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。

 海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。

 この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。

 こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。

 「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。

 その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。

 もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。



「フェミニストが嫌いだ」そう断言する若年男性がジワジワと日本でも増えているワケ

2022-04-10 | 社会
「フェミニストが嫌いだ」そう断言する若年男性がジワジワと日本でも増えているワケ

■ジェンダー意識が低いのは「昭和おじさん」だけではない

 「最近、女性活躍とかいって無理に女を出世させたりするよね、アレなんかおかしくない?」
「何かとつけて男女平等とか、女性の権利とかを持ち出すフェミニストのせいだろ」
「ああゆう人たちが騒げば騒ぐほど、世の中どんどん悪くなっていない?  経済効果のある萌えキャラも性的搾取だなんだと抗議して潰したりしてさ。男が女を性的な目で見られなくなったら、少子化がもっと進行しちまうっての」

 居酒屋でそんな会話が聞こえてきたら、きっと多くの人は、そこには「ジェンダー」に対する意識の低い「昭和生まれのおじさん」がいるはずだと思うだろう。しかし、そのイメージは間違っているかもしれない。

■若くなればなるほど「フェミニズム憎悪」が強まる

 11月16日、電通の社内シンクタンク「電通総研」が発表した「男らしさに関する意識調査」によれば、若い男性ほど「女性活躍推進に反対」「フェミニズムが嫌い」という傾向があるというのだ。

 国内18~70歳の男性3000人に「女性活躍を推進するような施策を支持する」という質問をしたところ、「まったくそう思わない」「そう思わない」と回答した51~70歳が21.2%であったのに対して、18~30歳は37.2%、31~50歳もほぼ同じ38.4%。意外や意外、「男は外で仕事、女は家を守る」という時代を生きてきたシニア世代より、若い人たちの方が女性活躍に後ろ向きなのだ。

 また、「フェミニストが嫌いだ」というズバリ直球ストレートの質問に対しても、「とてもそう思う」「そう思う」と回答した51~70歳で31.7%、31~50歳が39.1%、18~30歳は42.8%と、若くなればなるほど「フェミニズム憎悪」が強まるという結果となった。

 では、なぜ若い男性ほど女性活躍やフェミニズムに否定的な人が多いのか。研究者などによれば、男社会の恩恵を受けてきたか、そうでないかの「世代間格差」ではないか、という分析が多い。

■「昔のほうが男にとっては楽しそうじゃん」という妬み

 50代以上の人たちが若者だった時、女性を採用してもいずれ寿退社するという理由から、「男」というだけで就職は有利だった。会社に入っても、女性はお茶汲みや酒のお酌をさせられたり、下ネタに付き合わされるという精神的苦痛が多かったが、男は上司に媚を売っているだけでも定年まで会社にしがみつけた。社会も寛容で、オフィスでヌードグラビアを見ることもセーフだった。

 つまり、50代以上は男社会を120%堪能してきた世代なのだ。だから、女性活躍やフェミニズムという時代の変化にも、「昔はよかったなあ」と文句を言いながらも渋々受け入れることができる。しかし、50代以下、特に若い世代にとってこんな時代はドラマや漫画の世界の話だ。「昔のほうが男にとっては楽しそうじゃん」という妬みしかない。当然、この古き良き時代を壊した人々に怒りを向ける。それが、男性中心社会を否定し、#MeToo運動などを呼びかけるフェミニストの皆さんだというのだ。

 非常に納得感のある説だが、個人的にはもっと本質的かつシンプルな原因もあるのではないか感じている。それは「低賃金」だ。

■低賃金で虐げられた若い男性の不満の矛先

 ご存じのように、他の先進国がこの30年で着々と賃上げに成功をしてきたにもかかわらず、日本の賃金は横ばいで、ついに平均賃金(年収)で韓国にまで抜かれてしまった。この常軌を逸した低賃金で最も虐げられるのが「若い男性」であることは言うまでもない。

 日本は年功序列で若者の給料はスタート時ギリギリまで安く抑えられる。また、近年増えている非正規雇用も若者が多い。令和元年分民間給与実態統計調査によれば、20代の平均年収は330万円だ。

 若い男性は世代的に、恋愛や結婚に関心が高い人も多い。しかし、経済的な理由から「断念」をせざるを得ない人々もたくさんいる。そこで想像していただきたい、このよう人々の行き場のない怒り、不満がどこへ向かうのか。

 若者ばかりに低賃金を強いる社会へ向けられるかもしれない。たいして仕事もしないのに年功序列で高い給料をもらう祖父・父親世代が悪いという発想になるかもしれない。しかし、その中には「女性活躍推進」や、「男女平等」を声高に叫ぶフェミニストに憎悪を募らせる若い男性も現れるのではないか。

(中略)

■アメリカでもフェミニストへの攻撃が過激化

 日韓の話ばかりをしてきたが今、「フェミニスト憎悪」はさまざまな国に広がりつつある。

 アメリカでも近年、「インセル」という女性蔑視主義者の男性たちが過激化して、フェミニストへ陰湿な攻撃をしたり、無差別殺人を起こすなどの問題が発生している。ちなみに、「Incel」とはInvoluntary celibateの略で、不本意ながら禁欲を強いられている人々を指す、元々ネット上で生まれた言葉だ。

 恋愛や結婚を望んでいるのだがパートナーがいない、身も蓋もない言い方をすれば「モテない男」のことである。ちなみに、アメリカも日本や韓国ほどではないが、成人の未婚率は38%で、1990年より10%アップしている(Forbs「米国の成人の38%は独身、1990年の29%から大幅に増加」)。

 インセルは自分たちがモテないのは、イケメン男性や、若くて金持ちの男性に惹かれるような女性たちが世の中に多いということや、「男女平等」や「女性の自立」を掲げるフェミニストのせいだと目の敵にしている。

 自分たちが不幸な境遇になったのは、とにかく女性側に原因があるという発想で、韓国の若い男性にも見られた「女たちが人生を謳歌するようになったから、代わりに男が我慢を強いられている」という思想が垣間見える。

■日本にも「フェミニズム憎悪」が存在している

 このような思考回路を聞いて思い出すのは、2021年8月6日、小田急線内で起きた無差別刺傷事件だ。加害者の男は、10人に重軽傷を負わせたが、その中で20歳の女子大生に狙いを定めて、執拗に追いかけて背中まで刺して殺そうとした。当時の報道によると、男はその理由について、こう述べた。

 「幸せそうな女性を見ると殺してやりたい」
「女性なら誰でもよかった」

 韓国やアメリカで起きている「フェミサイド」が日本でも広まりつつあるようにしか見えないが、マスコミや専門家は、何か都合が悪いことでもあるのか、「レッテル貼りはよくない」「無差別殺人者の心の闇に注目すべき」とかワケのわからない論法を持ち出して、まるで日本には「フェミニズム憎悪」は存在しないかのように必死に取りつくろっている。

 しかし、ネットやSNSを見てみるといい。この加害男性のように、女性に憎悪を抱き、フェミニストを罵り、社会を悪くする犯人だと断罪している男は山ほどいる。

 冒頭で紹介した電通の調査を「世代間の意識のズレですな」なんて呑気な話で片付けているうちに、静かにアメリカや韓国のような過激な反フェミニスト運動が広がっているのだ。

 暴力やヘイトは水と同じで、高いところから低いところへ流れる。つまり、弱い立場の人が狙われる。日本は多くの国で憎悪や排斥の対象となる移民がいないため、若い男たちの怒りや不満は、もっぱら中国人や韓国人に向けられてきた。が、今のまま低賃金が続くようなら、新たな「サンドバッグ」も必要になる。



「正社員を引きずり下ろしたい」"みんなで豊かになる"物語を失った日本の末路

2022-04-06 | 経済
「正社員を引きずり下ろしたい」"みんなで豊かになる"物語を失った日本の末路

日本郵政グループが、正社員と非正社員の待遇格差を縮めるために「正社員の休暇を減らす」ことを労働組合に提案した。文筆家の御田寺圭さんは「『みんなで豊かになる』という物語は失われてしまった。今は『平等に貧しくなる』方が説得力をもつ時代になっている」という――。

■日本郵政が「格差を縮めるため」に選んだ方法

 フェアなことは、いいことだ――と、だれもが考える時代だ。

 フェアネスが尊重されることに、だれも異論を挿まず、賛意を示す。そんな時代だからこそ、こんな結論が導かれた。

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日本郵政グループが、2020年10月の最高裁判決で「正社員と非正社員の待遇に不合理な格差がある」と認定された労働条件について、格差を縮める見直しを労働組合に提案したことがわかった。正社員の休暇を減らす内容が含まれており、労組側には反対意見がある。
会社側が見直しを提案したのは、夏期・冬期の有給休暇、年始(1月2~3日)の祝日給、有給の病気休暇の3点。夏冬の有休は現在、郵便業務につく正社員で夏と冬に3日ずつ、アソシエイト社員(期間雇用から無期雇用に切り替えられた社員)で1日ずつだが、期間雇用社員はゼロ。会社提案は、期間雇用社員に夏冬1日ずつ与える一方、正社員は2日ずつに減らす内容で、正社員にとっては不利益な変更になる。
朝日新聞「『正社員の休暇減らす』日本郵政、待遇格差認定の判決受け提案」(2022年1月6日)より引用
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■「正社員の待遇を、非正社員並みに下げます」

 正社員と非正社員の待遇格差があることを批判され、ついには最高裁判決によってその是正を求められてきた日本郵政は、こともあろうに「正社員の待遇を非正社員に近づける(下方修正する)」ことによってその格差を「是正」しようと提案した。

 これには少なからず疑問や批判の声が寄せられた。たしかに、これはこれで、不合理な格差を埋める「フェア」な施策であるというわけだが、求められていたのは「非正社員の待遇を正社員並みに近づけること」であるだろう。

 しかしながら、日本郵政側がそれを理解していなかったわけではない。もちろん、なにかの気の迷いによって、本末転倒な解決案を出してきたわけでもない。むしろ、これこそが現代社会の時代精神を反映したある種の「総意」であると考えたからこそ、労働組合に対してこの案を堂々と提起したのである。

■「若者にとって年収400万円は高給取り」

 この社会では「きっといつか、自分も(あの人たちのように)いい暮らしができるようになる」という物語にリアリティを感じることができない人がどんどん増えている。

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今年、賃金が上がると思うかNHKの世論調査で聞いたところ「上がる」と答えた人が21%、「上がらない」と答えた人が72%でした。
NHK「ことし賃金は『上がる』21% 『上がらない』72% NHK世論調査」(2022年1月12日)より引用
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 自分の人生も暮らし向きも上向かず、いつまでも現状がくすぶったまま維持され、低空飛行を続けていくことなる――という閉塞的な未来のビジョンの方が、現代社会ではよほど想像することがたやすい。とくにそれは若者層に顕著になっている。先日にもツイッターでは「若者にとって年収400万円は高給取りとみなされている」とするツイートが大きな波紋を呼んだ。

 今日の若者たちにとってみれば「年収400万円は高給取り」というのはまったく冗談ではない。厚生労働省「賃金構造基本統計調査」によれば、20代前半の男性の年収の平均値は210万円、20代後半でも250万円あまりだ。年収300万円が現実的な数字となってくるのは30代からになる。2000年代初頭には「年収300万円でどう生きていくか」といった本が売れていたが、当世においては「年収200万円でどうしのぐか」の方がより現実味を帯びている。

 「今日よりも明日がいい日になる」
「来年は今年よりも給料が大幅に上がっている」
「ボーナスをあてにして大きな買い物ができる」

 ひと昔前の時代であれば、とくに違和感なく受け入れられてきたこうした一般的な感覚が、現代社会の働き盛りの人びとにとってはそうではない。本当にそのような時代が実在していたのか疑わしい、さながら異世界や別の世界線にある日本社会を語っているかのような感覚に陥ってしまう。

■磯野家も野原家も「圧倒的な勝ち組」に見える

 漫画『サザエさん』の磯野家やフグ田家、あるいは『クレヨンしんちゃん』の野原家は当初、ごく平凡な中流家庭つまり「庶民階級」の姿を想定して描写されたし、そのような庶民の描かれ方に人びとは疑問をもたなかった。しかし、いまの20代や30代からすれば、かれらを「ごく平凡な庶民の姿」とみなす人はそれほど多くはないだろう。むしろ圧倒的な勝ち組・富裕層の家庭としてみなすようになっている。

 都心もしくは首都圏に一戸建てのマイホームやマイカーを所持し、子どもを複数人育てる――これらは『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』がはじまった時代には「ふつうの一般家庭の姿」として受け入れられていた。だが、もはやその「ふつう」は、はるか遠い高みへと消え去ってしまった。私たちはどんどん貧しくなっていく国に生きている。

 『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』で描かれたサラリーマンの暮らし向きは、もはや現代人にとっては「在りし日の懐かしい風景」ではなく、ある種の「(心情的に受け入れがたい描写としての)ファンタジー」なのである。

■正社員は「いつかなれるもの」ではなくなった

 磯野家や野原家が庶民ではなく「勝ち組」の既得権益者側に見える――このようなコンテクストを踏まえれば、正社員として働き大小さまざまな恩恵を享受できていることが「ふつうである」という前提を、もはや全社会的に共有することが難しくなっていることが見えてくる。つまり、同じ会社で働く非正規雇用者からすれば、正社員は「いつか自分がそうなりえる姿」ではなくて、一生交わることのない並行世界の住人にしか思えないのだ。

 近頃において「無駄を省く(既得権益者の利権を削る)」といったスタンスの党派が喝采されるのも「自分はそのような粛清の刃を向けられる側の世界の住人ではないし、これからもずっとそうである」という感覚を少なくない人が共有しているからだ。

 自分が踏み入れることのない並行世界の人びとだけが「おいしい思い」をしている姿を見るのは、不公平というか差別的にすら思える。「正社員/恵まれている人の待遇を削ったら、まわりまわって自分にも損がある」――というマクロ経済学的な知見に裏付けられた正論には、もはや多くの人がリアリティや説得力を感じられなくなっている。「どうせ自分はずっとこのままなのに、どうして同じような仕事をしているあいつらは(大したことをしていないなのに)給料が高いのか。それは不当だ。差別だ」という不公平感の方が優勢になる。

■「みんなで豊かになる」という物語の死

 自分がけっしてその領域に足を踏み入れることはない「別世界」で暮らす人びとの待遇が引き下げられることは、自分にとってなんの痛みもないどころか、かえって社会がより「公平」に近づいて歓迎されるべき「善行」だ――とすら考えられるようになる。

 「いま恵まれている人を引き下げたら、自分がその立場に行けたときに損をする。だから少しでもだれかが得する方向に働きかけよう」という、互助的な規範意識が、機能不全に陥ろうとしている。「みんなが苦しい時代に、おいしい思いをしているのは不当な既得権益者に違いないのだから、かれらにメスを入れて闇を暴き、引きずり下ろす!  それが民意である!」――というスタンスを明確にする、いわゆるポピュリズム政党が市民社会からの喝采を浴びますます勢いに乗るのは偶然ではない。

 この社会が「みんなで豊かになる」という社会的合意(あるいは共同幻想)を喪失してしまっていることの裏返しでもある。

■「平等に貧しくなろう」が説得力をもつ社会

 世の中で「豊かな人」を見かけても、「羨ましいが、きっと自分にもいつかはその番が巡ってくるだろう」と肯定的に考えられなくなった。そうではなくて「豊かな人は、自分たちから富を奪っている収奪者だからこそ豊かなのだ」という感覚が支配していくようになった。

 日本郵政の経営陣は、この社会が左右だけではなくて上下に分断されている空気を素直に読み込んだからこそ、「正社員の《特権》を解体して、フェアな待遇に改定しましょう」と持ち掛けた。こうした提言がたとえネットでは批判殺到でも、実社会においてはこの種の提案を支持する人が今日には一定数いることは明らかだ。

 「みんなで豊かになる」という物語をだれも信じられなくなった。無理もない。いつか自分が豊かになると信じて待つには「失われた30年」はあまりにも長すぎたからだ。

 「みんなで豊かになる」という美しい物語が死んだ。

 その代わりにやってきたのが「平等に貧しくなろう」であった。

 みんながつらくて苦しい時代には、いつか自分たち全員が慈悲深い神によって掬いあげられる日がやってくる物語よりも、「豊かさ」を享受している者を引きずり下ろす物語の方が、はるかに説得力があった。



「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯

2022-04-03 | ベトナム
「ベトナム独立戦」を支えた旧日本軍「秘密戦士」の生涯(上)中野学校からサイゴンへ

唐突だが、「ベトナム」(越南)と聞いて何を連想するだろうか。一定の年齢層ならば、「戦争」や「枯葉剤」などを思い浮かべるかもしれない。

 若者なら「フォー」や「生春巻き」「アオザイ」など親しみのある食や民族衣装のイメージが先行するだろう。

 だが、先ごろ最新作が公開されたシルヴェスター・スタローン主演のハリウッド映画『ランボー』シリーズの主人公が、心に傷を負ったベトナム帰還兵という設定であることを思い出してほしい。世界の超大国・米国において、ベトナムでの死闘は遠い過去の物語ではない。

 ベトナムは、日本の敗戦後に旧宗主国フランスを倒し、米国をも退け、独立と統一を成し遂げた世界最強の社会主義共和国である一方で、人々の親日感情は台湾に比肩し得るほど強く、現在の日越関係は「自然の同盟関係」と呼ばれるほどに緊密だ。

 この太い絆の根底に、「アジアの解放」を掲げて戦後もベトナムに残留し、独立戦争に身を投じた多くの残留日本兵の存在があったことを知る人は、戦後75年を迎え、次第に少なくなっている。

 筆者は縁あって鳥取県の民家に眠っていた1人の元日本軍情報将校の手記や私信などを大量に入手した。

 そこには、ベトナム残留日本兵がベトナム人民軍中枢を育成しただけでなく、第1次インドシナ戦争(1946~54年)でフランスのベトナム撤退を決定的にした「ディエンビエンフーの戦い」にまで関与したという、驚愕の経歴が記されていた。

 その男の名は元陸軍少尉・谷本喜久男。1922(大正11)年、鳥取県出身。1941(昭和16)年に県師範学校を卒業し、生涯を教職と青少年育成に捧げて2001(平成13)年、79歳で他界した。

 だが戦時中は、工作員としてフランス領インドシナ(仏印)で駐留フランス軍の武装解除と、阮朝バオ・ダイ帝を擁したベトナム独立工作(明号作戦)に関与した。

 敗戦後は「ベトミン(ベトナム独立同盟)」に身を投じ、「グエン・ドン・フン」と名を変え、ベトミン軍幹部に近代戦術を指導。1954年に帰国するまでの9年間、ベトナム再占領を企てるフランス軍相手に熾烈な山岳ゲリラ戦を展開した人物だ。

 この谷本氏と筆者を結び付けたのは、やはり戦後29年間、ゲリラ戦を戦い抜いたことで知られるあの人物だった。

小野田寛郎氏の「遺言」

 冷めたコーヒーをスッと飲み干し、はにかんだような笑顔を浮かべて、小柄な老人は話題をしめくくろうとしていた。

「まあ、ボクはたまたま他の人より任務に就いた期間が長くなったので注目されたけど、ボクなんかよりも、もっと大きな働きをした人はたくさんいるんだ。すでに鬼籍に入ってしまったけれど、同期の谷本君などがそうだったよ」

 梅雨もようやく開けた2008年7月、東京都中央区佃のレストラン。当時所属していた新聞社の、原稿の「夏枯れ」対策として、元陸軍少尉・小野田寛郎氏(1922~2014)に終戦関連のインタビューをした。

 小野田氏と言えば、終戦後も日本の反攻を信じてフィリピン・ルバング島で遊撃戦を展開し、ひとりになるまで「残置諜者」としての任務を継続した筋金入りの秘密戦士だ。

 1974年に帰還。戦後社会の価値観の変化にとまどい、ブラジルに渡航して牧場経営を成功させた後、晩年は自身のサバイバル術を通じて日本で青少年育成に努め、藍綬褒章も受章した。

「人間はひとりでは生きられない」と、道徳教育の重要性を訴えた小野田氏は、師範学校卒で教育者だった古い仲間の話題を最後に、インタビューを終えたかったのかも知れない。

「もし機会があればキミ、鳥取のご遺族を訪ねて彼のことも取材してほしいんだけどなあ……」

 小野田氏の言う「谷本君」が、帝国陸軍の諜報、遊撃戦術の教育機関であった中野学校二俣分校(現静岡県浜松市)の1期生の仲間で、終戦後も仏印にとどまった残留日本兵の1人であることは、このときすでに認識できていた。

 氏から贈られた資料や、神田の古書店で大枚をはたいて購入した中野学校の校史『陸軍中野学校』(中野校友会編)などで調べあげていたからだ。

 しかし、新聞社の日々の仕事に忙殺され、小野田氏存命中は鳥取に出かける機会もないままに、その名は記憶の片隅に追いやられていた。

 思い出したのは今年に入ってからだ。

 昨年末、29年間勤めた新聞社を早期退職したものの、新型コロナウイルス感染症の拡大の影響で国内外での自由な取材活動がままならず、小野田氏から預かった中野学校関係の資料などを整理していた際に、インタビューの光景が鮮明によみがえった。

 偶然にもこの時期、鳥取に知人ができたことで、緊急事態宣言の解除後には、その知人に会うため鳥取市を訪問することになった。

 わずか3日間の現地滞在にもかかわらず、谷本氏のことを「小野田氏の遺言」として訪問先で話題にしたところ、知人の伝手や、地元住民らの協力もあって、奇跡的に鳥取県倉吉市北郊・北栄町の嫁ぎ先で暮らす谷本氏の唯一の肉親、次女の牧田喜子さん(62)にたどりつくことができたのだ。

次女が提供してくれた貴重な資料

「父も、そしてその後は母も、他界してから随分年数が経ちますし、そろそろ実家に置かれたままの遺品なども整理せねばと、家族と話していたところでした」

 不意の訪問にもかかわらず、元教員の喜子さんは、夫の元教員、浩文さん(59)、義母の豊子さん(89)らと筆者を出迎え、亡父の手記や私信、記念品など眠っていた資料群を探し出してくださった。

 喜子さんは、筆者が連絡する直前まで東京に出向いていたといい、1日前後していれば会えなかっただろう。

「どうぞお貸ししますから、持ち帰ってゆっくりご検証なさってください」

示された資料は少なくなく、さらには後日、鳥取市郊外の実家にまで足を運んで探した、という写真なども郵送されてきた。

 戦後、ルバング島から帰還を果たした小野田氏を囲んだ中野学校同窓会での記念写真と思しきものや、晩年に約40年ぶりにベトナムを再訪した際のスナップ写真などもある。

 また自筆の『大東亜戦争の追憶 安隊中部越南工作の記録』、私家版『回顧録 ベトナム残留記』、『四十年振りに訪れたベトナム行-報告記』など複数の手記には、大戦中に自身が関与した仏印での工作や、敗戦後の混乱の中でベトミンと関係を深めた経緯、軍事教練やゲリラ戦関与の実態などが記録されており、これらは特に貴重だ。

 残留日本兵の現地独立戦争への関与は、邦画『ムルデカ17805』(2001年公開)にも描かれたように、インドネシアを中心とするオランダ領東インド(蘭印)の事例がよく知られている。

 だが仏印の場合は、インドネシア独立のケースほどには戦史研究者らの耳目をひきつけなかったようだ。民族独立支援とはいえ、実態が共産政権及びその軍の育成であったため、米国と安全保障条約を締結した戦後日本では扱いにくいテーマだったのかもしれない。加えてベトナムにとっても体面上秘したい歴史であったと見られる。

 事実、先行研究は限定的で、主要人物である谷本氏への聞き取り調査などに関しても、ある資料では2000年に聞き取り調査に応じたと記されているものの、別の資料では90年代後半に死去したと記されるなど、不正確な記述も目立つ。

 インターネット上を渉猟する限り、谷本氏はその没年すら定かでないとされてきた。

日本軍が企図した「明号作戦」

 さて、回顧録などをもとに、その経歴を再確認しておくと、鳥取県八頭郡河原町(現鳥取市河原町)出身の谷本氏は1941年に県師範学校本科第一部を卒業。同年、県西部(現伯耆町)にあった日光尋常高等小学校において訓導(教諭)となった。

 43年1月に現役兵(第一乙)として地元の「中部47部隊」に入営。翌44年、豊橋第一陸軍予備士官学校を経て、中野学校二俣分校でスパイ・ゲリラ戦術の約3カ月間の速成教育を受け、同年内には仏印駐屯軍司令部付となってサイゴン(現ホーチミン)に赴任。45年1月に少尉に進級し、そこで予備役編入。以後は特殊工作任務に就いた。

 19世紀末はアジアが欧米列強による植民地化の餌食となった時代だ。英国が清国の香港や威海衛、ドイツが同様に山東半島・膠州湾、ロシアが沿海州、また米国がフィリピンを自国の統治権下に置いたように、仏印もまたフランスが19世紀末までにベトナム、ラオス、カンボジアを保護国化した連邦だった。

 フランスは41年の日本の対米英戦開戦前後は親独のヴィシー政権下にあり、日独伊三国同盟の流れから日本軍の仏印進駐を受け入れ、現地フランス軍と日本軍は協力関係にあった。

 しかし、戦局の悪化にともない、谷本氏がサイゴン入りした後、米軍はフィリピンを奪回し、日本軍の南方総軍司令部がマニラからサイゴンに撤退。また欧州でのドイツの劣勢を受けてヴィシー政権もすでに崩壊しており、仏印ではそれまで協力関係にあった現地フランス軍が、露骨に敵対的姿勢をとりはじめていた。

 このため日本軍は、仏印駐留フランス軍の武装解除とともに阮朝バオ・ダイ帝を擁立して独立を宣言させることを企図して、45年3月、「明号作戦」を展開した。

特殊工作に従事した谷本氏

 作戦立案の中枢には中野学校2期、3期という古参も含まれていた。

 現地日本軍はこの時期、駐留フランス軍に比べ兵力劣勢だったとされるが、谷本氏はこの作戦で、中野学校出身者らで組織された「安機関」の工作員となって特殊工作に従事した。

 部下数名と通訳、ベトナム人工作員を連れて一班の指揮官となり、商社員になりすましてフランス軍兵営のあるバメツオの街に潜入。やがて来る主力部隊の誘導などを念頭に、「隠密行動をつづけていました」と記している。

 谷本班は3月9日払暁、好機到来とみて味方の主力到着を待たず、わずかトラック2台分の兵員のみで現地フランス軍の大佐官邸や将校宿舎を急襲しており、その時のドラマチックな様子を次のように記録している。

「町は静寂そのもの、正に寝入ばなであった。(仏軍)フォーロ大佐官邸の歩哨も何故か?居なかった。手筈どおり、宿舎を取りかこませると、谷本少尉は平野通訳を従え、拳銃片手に官邸の階段をかけ上がった。扉をノックすると、先ず寝巻(パジャマ)姿の夫人が出、次で之もパジャマ姿の大佐が現れた。官服に着替えさせ、隣の応接室で【日本軍側の】中隊長を交えて説得すること一時間余、不承不承ながら、やっと武装解除命令を出すことに同意した。【※中略】大成功の一語に尽きる」(【】内は筆者註)

 この作戦で日本軍は目論見通り、わずか数日で仏印各地の主要フランス軍部隊の武装解除に成功し、フエ王城内に軟禁状態となっていた阮朝バオ・ダイ帝も救出。同帝を擁して3月11日にベトナム独立を宣言させた。

 連邦を形成していたカンボジア、ラオスもこれに続いて独立を宣言したが、この際の「ベトナム帝国」は日本の敗戦で半年後に瓦解し、谷本氏らは中国(国民政府=蒋介石)軍からの武装解除を受けることになった。



ウクライナ戦争で高まる日本の核武装論の前に議論すべきこと

2022-03-29 | 政治
ウクライナ戦争で高まる日本の核武装論の前に議論すべきこと

タブーなき言論がさけばれているが、日本には欧米社会が持つ当たり前の国防意識が欠如【河東哲夫(本誌コラムニスト、元外交官)】

ロシアのウクライナ侵攻が続く。路上を歩く市民が砲弾で吹き飛ばされる生々しさはコンピューターゲームとは違う。文明国同士ではもうあり得ないと思っていた戦争がいとも簡単に起き、非文明の世界になってしまう。

これを受けて、「アメリカに守られた体制の中でアメリカの戦争を非難し、平和を叫んできた戦後ののんきな時代は終わり。憲法改正、核武装、いろいろなタブーを外して安全保障を現実の問題として考えよう」と言いたくなるが、それもまた紋切り型で思考停止に近い。

問題は、日本の政府や社会がまだ「近代国家」という怪物を使いこなせるほど熟していないことだ。そして政府の当事者たちも日本の安全保障をこれからどうしたらいいのか、方向性がつかめていない。

どういうことか? まず、多くの国民が問題視する日米同盟なしに日本はやっていけるか。日本が米中ロという強国に取り囲まれているのに似て、スイスはフランス、ドイツ、イタリア、オーストリアという勢力に取り囲まれている。

だがスイスは、これら勢力を相互に牽制させ合うことで独立を守ってきた。それも、自分は軍を持たないから襲うなというのではなく、スイスの中立を侵す者は武力で撃退する気構えとそれができる兵力を備えての話だ。こういうやり方が日本はできるか? 多分、駄目だろう。

日本では物事を決めるのに時間がかかりすぎるというか、決まらない。核武装も考えなければいけないのだが国論は分裂するだろうし、アメリカをはじめ他国も認めまい。ということは、ウランも買えないということだ。

それより大きな問題は、日本では政府と国民の間の一体感が少ないこと。大衆はトップがマッカーサーでも服従したし、自社の「社長」に中国人がなっても構わないだろう。

お偉方は別世界の生き物であり、彼らに「国防意識を持て。国家の主権を大切にせよ」と上から目線で言われても、「自分のことは自分で守れ」と思ってしまう。

政府とは国民がつくり国民のために働くもの。だから国民は政府の防衛努力を評価するという、欧米では当たり前のことが日本にはない。なにより、徴兵への恐怖が染み込んでいる。現代の軍隊は高度の技術を使うので昔のような徴兵ということにはならないのだが。

社会全体が今の安定にどっぷりつかり、エラーをしないこと、生意気だと見られないことばかり考えている。

近代国家を動かす体制が未整備
ビジネスでは、アメリカ人も中国人もインド人も新機軸を求めて競争しているのに、日本人の多くにその気概はない。「会社」の中で給料をもらい、休暇を消化することばかり考えている。経済力は国の安全保障の土台なのに、これではおぼつかない。

明治維新以来150年余り、日本は近代国家を動かす体制をまだ整備できていない。中国の科挙(官吏登用試験)に倣って世界に冠たる官僚組織をつくったのはいいが、それを動かして政治をする政治家の多くがしっかりしていない。

官僚も(自分もそうだったが)社会から遊離している上に、この頃は省益ばかり考える。国家は人間のつくったものだから倒れることもあるという当たり前のことが頭に刷り込まれていないから、国に寄生して私利を図って恥じない者すらいる。

プーチンは有言実行の人物で今は核使用の準備をしているようだ。「ロシアのいない世界など要らない」と言い切る狂気が、彼にはある。

それにくみする中国や、花火のようにミサイルを打ち上げる北朝鮮が日本の隣にはいる。なんとかしたいが、まずは思考停止を脱することだろう。



「中国製気にしない」「SNSで探しECで買う」Z世代消費の“傾向と対策”

2022-03-20 | 政治
「SNSで探しECで買う」はいいとして「中国製気にしない」若い世代には危機感しかないですね。若者だけでなく日本人は近現代史を知らなすぎる。歴史というのは単に過去の事象ではなく現代に繋がり将来へ伝わっていくものです。今のままでOKという日本人が増えれば私の価値観とは相いれないので、どうぞ中国の経済植民地(あるいは本当の植民地)として生きて行ってくださいというしかない。取り敢えず自分と家族が困らないように万全を尽くしてひどい目に合わないようにして、後は野となれ山となれということになります。世代を超えて説得するパワーもないので今何が起きているか知らない方々はあとで十二分に後悔してください

「中国製気にしない」「SNSで探しECで買う」Z世代消費の“傾向と対策”

1990年代後半から2000年代に生まれた世代を指す「Z世代」という言葉を見聞きすることが増えた。

 若年層の取り込みが課題となっているテレビは、Z世代のインフルエンサーを積極的に起用するようになり、消費分野でも「Z世代」はトレンドの担い手として企業の関心を集める。

 中国でも「Z世代」にターゲットを絞って急成長するスタートアップが次々に現れ、2021年以降数多くの分析やレポートが公開されている。中国のZ世代はどのような特徴を持つのだろうか。
「Z世代」のみが日米中で共通する背景
 X世代、Y世代、Z世代、ミレニアル世代……これらの呼称は欧米で生まれ、日本でもマーケティング用語として使われてはきたが、「Z世代」以前は一般には浸透していなかった。

 日本には「バブル世代」「氷河期世代」「ゆとり世代」といった日本独自の経済環境や教育制度を背景とする世代のくくり方が存在し、多くの人にとってそっちの方がしっくり来るからだろう。

 中国も同様だ。改革開放前に生まれ貧しい中で必死に働いてきた「70後(70年代生まれ)」、一人っ子政策下で生まれ“新人類”といわれた「80後(80年代生まれ」、社会が急激に豊かになる時代に両親の期待を一身に背負い育った「90後(90年代生まれ)」という分け方が定着している。

 しかし「Z世代」だけは、日本と中国の両国で比較的広く使われている。その理由はZ世代の「物心がついたときからインターネットがあり、買い物やコミュニケーションの中心にデジタル技術が存在する」という特性にあるのだろう。

 Z世代は「SNSの情報を元に商品を購入する」「マスメディアに頼らずとも動画配信などによって有名になれる」など同じカルチャーを共有しており、インターネットを介して情報が瞬時に伝わるためトレンドの差も小さくなっている。

 日米のZ世代に絶大な人気を誇る動画共有アプリ「TikTok」の運営企業は中国のバイトダンスであり、日中韓の動画サイトでは同じようなオーディション番組が制作され、K-POPアイドルは隣国の日中だけでなく、東南アジアや米国でも高い人気がある。

SNSとECに特化するZ世代マーケティング
 では、中国のZ世代に特有の傾向は何か。それは海外トレンドと日常的に“同期”している故に、国境を意識しない「ボーダーレス」と「愛国心」の価値観を併せ持ち、上の世代のような「海外ブランド信仰」が薄いことだろう。

 最近筆者は日本のマスコミ関係者に「メード・イン・チャイナ製品の品質は向上しているのでしょうか」と質問された。実際には日本の百円ショップやアパレルショップで売られている商品の多くは中国製であり、日本人は当たり前のように中国製品に囲まれて暮らしている。

 ただし、上記の質問に象徴されるように、「メード・イン・チャイナ」は相変わらず低品質、低安全、模造品のイメージが強く、中国に製造拠点を持つグローバルメーカーは中国製であることを極力目立たないようにし、中国人消費者ですら海外ブランドを積極的に選んできた。

 しかし中国のGDPが日本を抜いて世界2位になった10年に幼児~中学生だったZ世代は「メード・イン・チャイナ」に対して卑屈な感情が薄く、各々のライフスタイルに合わせて感性で商品やサービスを選択する傾向がある。それに気づいた起業家は、SNSマーケティングに資金を集中投下しECで販売する「Z世代最適化戦略」で急成長を実現するようになった。

 Z世代にフォーカスして成功している中国の代表的な2社を紹介したい。

 1社は果実酒メーカーのMiss Berryだ。19年の設立時から「アルコールの空白市場」とされていた若い女性にターゲットを絞り、アリババと二人三脚でEC市場を開拓。わずか1年で果実酒カテゴリーの販売トップに立ち、今では現地のセブン-イレブン、ローソン、ファミリーマートなど著名小売店に販路を広げている。

 家飲み、イベント飲みと場面や気分によって飲み分けられる多様なフレーバーを展開し、購入者の8割は18歳~30歳の女性だ。ターゲットは女性だが、設立1年間で1億元(約17億円)以上を調達した実績からビジネス的にはVCや経済界の関心が高い。

 もう1社はプチプラコスメの完美日記(PERFECT DIARY)。17年に最初の商品を発売した完美日記は、19年のアリババのセール「ダブルイレブン」において中国ブランドとして初めてコスメカテゴリーの売り上げトップに立った。運営する逸仙電商(Yatsen)は20年11月にニューヨーク証券取引所に上場。日本でも最近中国コスメブームが起きているが、その火付け役でもある。

マーケティング依存のリスクも
 2社に共通するのは、以下の点だろう。

・写真SNS「小紅書(RED)」でライフスタイル提案型の投稿を行い、ファン基盤を構築した(特に完美日記はREDが今ほどマーケティングツールと認知されていない17年にアカウントを開設している)。
・インフルエンサーによるライブコマースなどで「バズ」を作った。
・ECチャネルで実績を作り販路を実店舗に広げた。

 また、Miss Berryの創業者は大手アルコール飲料メーカー、完美日記の創業者は化粧品メーカーでマーケティングの責任者を務めた経験があり、豊富な業界知識と既存企業が拾えていなかったZ世代女性に特化した戦略で成功した。

 とはいえ、2社を含めたZ世代特化型スタートアップが今後も勢いを持続できるかは何ともいえない。

 完美日記を運営する逸仙電商は8月に発表した21年4-6月決算で、3億9100万元(約72億円)の純損失を計上した。同期のマーケティング費用は9億7300億元(約180億円)で、売上高(15億3000万元)の6割超を占めている。

 一世代前のメーカーは、中国製が持つネガティブイメージを払拭するために研究開発や品質向上に力を入れてきたが、品質イメージがフラットなZ世代をターゲットにするとマーケティング次第で短期間で成長できる。ただし、多くのスタートアップが赤字のまま資金調達を繰り返して規模拡大しているのが実態でもある。

 5年前に中国スタートアップの象徴としてもてはやされたシェア自転車のofoは資金ショートで、3年前に史上最速で上場したコーヒーチェーンのLuckin Coffee(瑞幸珈琲)は粉飾会計で行き詰まった。

 Z世代マーケティングがスタートアップの持続可能な成長のステップなのか、それとも投資を呼び込むための一時的なバズワードなのか、もう少し様子を見る必要がありそうだ。




地球規模で進行する少子化の衝撃シナリオ

2022-03-13 | 政治
「世界中の女性が子供を産まなくなっている」地球規模で進行する少子化の衝撃シナリオ

全世界の合計特殊出生率は下がっている

スピードは緩やかであるにせよ、多くの国・地域で人口減少が進み始めた背景には、合計特殊出生率の長期低迷がある。地球規模で女性が子どもを産まなくなる傾向にあり、少子化がすでに急速に進行しているということだ。

背景には技術の進歩による経済発展がある。暮らしが豊かになるにつれて、多くの人々が教育を受けられるようになり、公衆衛生も普及してくると社会は「多産」から「少産」へと向かう。「少産」に転じる要素の1つは、子どもの死亡率の改善だ。

国連の資料によれば、5歳未満児の死亡率は国によってバラつきはあるが、「1990〜1995年」には出生数1000人当たり91人だったが、「2015〜2020年」は40人にまで低下した。

すでに開発途上国の多くで経済的な発展が成し遂げられたため、全世界の合計特殊出生率は「1985〜1990年」は3.44だったが、「2015〜2020年」には2.47へと低下したのだ。

1950年以降の合計特殊出生率の推移を見ると、ほとんどのエリアで著しく下落している。「2015〜2020年」では4.72と最も合計特殊出生率が高水準にある「サハラ砂漠以南のアフリカ」は、「1950〜1955年」には6.51であった。「北アフリカ・西アジア」は現状2.93だが、「1950〜1955年」には6.57であった。


「最後の人口爆発の地」アフリカですら少子化が急速に進む

世界の合計特殊出生率が今後どうなっていくかと言えば、国連の中位推計では「2045〜2050年」は2.21と置換水準を上回るものの、「2070〜2075年」になると2.05となり、「2085〜2090年」には1.98と「2」台を割り込む。その後も下げ止まらず、「2095〜2100年」には1.94となる。多くの国・地域で社会が豊かになっていくことの裏返しであるが、世界人口の減少は止まらなくなる。

21世紀前半の人口増加の“立役者”となる「サハラ砂漠以南のアフリカ」の合計特殊出生率は、「2015〜2020年」の4.72から「2045〜2050年」には3.17となる。

「2065〜2070年」はさらに下がって2.62となり、「2085〜2090年」は2.28とほぼ半減する。そして「2095〜2100年」には2.16になる。「サハラ砂漠以南のアフリカ」は置換水準を下回るわけではないが、21世紀後半は世界人口を押し上げる力を急速に失っていくということだ。ちなみに、米国ワシントン大学の研究所チームは、2063年に「サハラ砂漠以南のアフリカ」も、2.09となって置換水準を下回ると予測している。2100年は1.73だ。このように、最後の「人口爆発」が起こるアフリカでも少子化が急速に進んでいくので、世界人口は減少に転じていくことになる。

経済発展は“若すぎる出産”も減らしていく


なお、15〜19歳での出産は、妊産婦および乳幼児の死亡の大きな要因となるが、「2015〜2020年」の15〜19歳の出生率(この年齢の女性1000人当たりの出生数)は、「サハラ砂漠以南のアフリカ」、「中央・南アジア」、「ラテンアメリカ・カリブ」における一部の国々で依然として高水準にある。

この間に同年齢の女性が出産した子ども数はおよそ6200万人と推計されるが、「サハラ砂漠以南のアフリカ」(46%)、「中央・南アジア」(18%)、「ラテンアメリカ・カリブ」(14%)が8割を占めている。これらのエリアでも合計特殊出生率は低下していくが、出産する母親の平均年齢が上昇することも影響を及ぼす。経済発展は医療態勢の充実をもたらすだけでなく、“若すぎる出産”を減らす。それらは乳幼児の死亡率を下げ、妊娠件数そのものを減少させていく。

2050年、世界の6人に1人が高齢者になる

他方、21世紀は少子化の進行と並行して地球規模での高齢化が進む。65歳以上人口は2018年に初めて5歳未満の子どもの数を上回ったが、21世紀を通じて増加していく。2045年には15〜24歳の若者の人数も追い越す。

高齢者人口と高齢化率の推移を見ると、2020年は7億2760万6000人(9.3%)ですでに世界の11人に1人は高齢者だが、2050年には15億4885万2000人(15.9%)で、6人に1人が該当するようになる。2080年には2020年の3倍にあたる21億5490万8000人(20.2%)となり、「20%」台に突入。2100年は22.6%で、24億5666万3000人となる。

2050年にかけて「北アフリカ・西アジア」、「中央・南アジア」、「東・東南アジア」、「ラテンアメリカ・カリブ」の各地域では割合が倍増する。特に進むのが「欧州・北米」だ。2050年には26.1%となり、4人に1人が65歳以上となる。日本を含む「東・東南アジア」も23.7%である。

各国で平均寿命が延び、高齢化が進む

75歳以上の高齢者も増加傾向をたどる。2020年には2億6928万5000人(総人口の3.5%)から、2100年には13億4762万9000人(12.4%)に膨らむ。

80歳以上は2020年の1億4550万4000人から2050年には4億2636万7000人へ3倍増となる。2100年には8億8110万7000人だ。

90歳以上は、2020年には2138万7000人、2050年には7670万6000人、2100年には2億3253万9000人となる。2100年になると、100歳以上も1909万3000人(2020年は57万3000人)を数える。

世界規模で高齢化が進むのは、各国の平均寿命が延びていくからだ。「1990〜1995年」に64.56歳だった世界の平均寿命は、「2015〜2020年」に72.28歳にまで伸びた。世界の平均寿命は、「2050〜2055年」は77.35歳だ。

少子高齢化が進行すれば、勤労世代も年々減っていく
少子化と高齢化に因果関係はない。子どもが減ったから高齢者が増えたわけではないし、高齢者が増えたから子どもが生まれなくなったわけでもない。少子化が始まる要因の多くは経済の発展とともに未婚化や晩婚化が進むことにあり、高齢化が進んでいくのは経済的豊かさや医療技術の進歩で多くの人が長生きするようになったことが大きな要因だ。「少子高齢化」と一括りにして呼ぶが、全く異なる事象なのである。

ただし、この2つの異なる事象が同時に進むことで起きる変化もある。勤労世代の減少である。多くの人は、加齢に伴いどこかの時点で現役を引退する。一方、若者が減って新たに働き始める人が減るのだから、少子高齢化が始まった社会においては、勤労世代が年々減っていくのは当然の帰結である。

国連の中位推計で世界の生産年齢人口(15〜64歳)の推移を見ると、2020年の50億8354万4000人から、2050年に61億3052万3000人となって10億5000万人ほど増える。2090年に65億3630万7000人でピークを迎えるが、2100年は65億2102万6000人なので大きく減るわけではない。

しかしながら各国を見ていくと、大きく減少する国もある。世界人口第1位、第2位の中国とインドもそれに含まれる。



世界規模で直面する「人口減少」の静かなる脅威

世界の人口は増加の一途をたどっていると思いがちですが、「すでに地球規模で少子化が進み始めており、世界人口が減少に転じるのは、もはや時間の問題だ」と言うのは『未来の年表』の著者・河合雅司氏です。人類の課題は今後、人口爆発がもたらす弊害から、人口減少がもたらす課題へと大きく転換するといいます。これから先いったい何が起きるのでしょうか――。河合氏の新著『世界100年カレンダー』を一部抜粋し再構成してお届けします。

■人口爆発による成長の限界

 「あと30年もしたら、石油は掘りつくされてしまう」――。私が子どもだった1970年代、人口爆発への懸念がよく語られていた。1973年、のちに高度経済成長を終焉させることとなる第1次オイルショックが起きたためだ。

 第1次オイルショックのきっかけは、第4次中東戦争で原油の供給制限と輸出価格の大幅な引き上げが行われたことであり、人口爆発と直接的な関係があったわけではない。だが、世界人口の爆発的増加で消費量が増えれば、エネルギーに限らずさまざまな資源の枯渇が加速するとの認識が広がったのである。

 街のネオンサインは消され、テレビの深夜番組は打ち切りとなった。多くの人が「省エネ」を強く意識するようになったのも、このときからだろう。

 過剰反応も生んだ。馬鹿げた話なのだが、オイルショックによって物資が不足するのではとの噂が広がり、日本各地でトイレットペーパーや砂糖などの買い占め騒動が起きたのである。

 人々がオイルショックと人口爆発を結び付けたのは、世界の有識者が集まって地球規模の課題を研究し啓蒙するために設立された民間組織「ローマクラブ」の影響が大きい。前年の1972年に、「成長の限界」というレポートを発表したのである。

 その内容は天然資源の有限性を説くもので、第2次世界大戦による荒廃から立ち直り、物質的な豊かさを追い求めていた当時の人々に非常に大きな衝撃を与えた。必然的に人々の関心は世界人口にも向くこととなった。

 20世紀は、科学技術と経済成長の時代として特徴づけられるが、実は「成長の限界」が懸念されるほどに猛烈な人口増加が起こった時代でもあったのだ。そのすさまじさについては、のちほど詳述する。

 第1次オイルショックから半世紀を経て、さまざまな代替エネルギーが登場した。もはや石油の枯渇危機は叫ばれなくなったが、いまだに「開発途上国が、先進国並みの生活をするようになったら、食料も資源も不足して争奪戦が起きる」といった言説はなくならない。

事実、乱獲によって漁業資源が乏しくなるといったことは起こっている。その背景にあるのは、豊かになった人々の増加だ。人々が際限なく消費を拡大していったなら、確実にさまざまな天然資源が枯渇するだろう。

 人口増加は自然環境の破壊にも直結する。人口が増えれば資源の獲得競争は激しさを増す。その分、使用するエネルギー量も増え、地球温暖化は加速した。一方で、都市開発や良質な住宅を確保するために密林地帯など未開の土地の造成が進み、緑地面積は減った。温暖化によって永久凍土が溶けたところに、性懲りもなくさらなる開発の手が伸びていく。

 近年、新規感染症が広まるペースが速くなってきているのもこうした乱開発と無関係ではない。密林などに住む動物を宿主としていたウイルスに人類が接触する機会が増えたためだ。COVID-19に続く新たな感染症の発生が懸念される。

 いまだに世界人口は増え続けている。人々が豊かな暮らしを手にしたいと思う気持ちは抑えようがない。果たして、この先、人類はどうなっていくのだろうか。考え始めたら不安は尽きないだろう。

■世界人口が減少に転じるのは時間の問題

 だが、各国のデータを調べてみると、すでに地球規模で少子化が進み始めている。あまり知られていないが、1950年以降、世界全体の合計特殊出生率は急落している。「2015~2020年」は2.47だが、21世紀中に「2」台を割り込む見通しだ。世界人口が減少に転じるのは、もはや時間の問題なのである。

 資源不足にしても、地球温暖化の進行にしても、人口の急増が大きな要因となっているわけだから、その前提が変わればいずれは落ち着きを取り戻し解決に向かうこととなる。タイムラグはあるが、いつの日か人類の悩みは人口爆発がもたらす弊害から、人口減少がもたらす課題へと大きく転換するということだ。

 人口が増加から減少へと転じるのは、言うまでもなく少子高齢化が進むからである。人口減少後の世界がどうなっているのかは、「課題先進国」と呼ばれ、少子高齢化が最も進んでいる日本が道標の役割を果たすこととなるかもしれない。

 世界人口の減少の動きは、一律ではない。最初に変化が表れるのは少子化である。続いて平均寿命が延びていく。これが高齢者人口を増やす理由だ。出生数が減り、高齢者が増えるのだから、必然的に勤労世代の割合は減ることとなる。労働者というのは国際間移動をするため、勤労世代の減少はなおさら認識されづらい。

このように、人口の変化は複雑に進行するが、中でも厄介なのは平均寿命の延びであろう。出生数の減少を覆い隠し「見せかけの人口増加」をもたらすためだ。人口減少がヒタヒタと迫りきていても多くの人は気づかず、状況が放置される。現在の世界人口は、ちょうどこの段階にある。

 平均寿命の延びに限界が来た段階で人口が減り始めるが、そうした状況を多くの人が認識する段階に至ったときには、もはや講ずる策はなくなっている。これは日本が証明していることだが、人類はひたすら絶滅の道を歩んでいくこととなる。

 少子高齢化による人口減少というのは、隕石によって恐竜が死滅したのとは異なる。

 われわれは突如として人類絶滅の日を迎えるわけではない。ある意味、こちらのほうが過酷かもしれないが、絶滅に至るまでの間も少子高齢化は各国の経済を停滞させ、社会機能を麻痺させていく。「老いゆく惑星」の未来は、過去からの延長線上にはないのである。私はこうした事態を「静かなる有事」と名付けて警鐘を鳴らしてきた。

 先にも述べたように、「見せかけの人口増加」は人口減少の危機に対する各国の国民の目を曇らせ、社会全体としての危機感が醸成されにくい状況をつくる。そうしている間にも、年々の少子化で女児の数が減っていく。そうなると、「未来の母親」となる若い女性人口が激減過程に入ってしまい、出生数の下落を止められなくなる。これから多くの国が、日本と同じ運命をたどるだろう。

 繰り返すが、人口がひとたび減り始めると流れを止めることは難しい。それどころか、減少スピードを加速させていくこととなる。われわれは、人類が〝レッドリスト〞の仲間入りをすることになるかどうかの瀬戸際にあることに気付くべきなのである。

■10億人単位の急加速

 先述したように、20世紀は人類史に刻まれる「人口爆発の世紀」であった。その激増ぶりはどういうものであったのか。また、いつの間に減少局面へと転じたのか。20世紀を振り返ると痕跡が見つかる。まずは、時計の針を19世紀に巻き戻してみよう。

国立社会保障・人口問題研究所(社人研)の「人口統計資料集」(2021年版)が国連データを紹介しているが、世界人口が10億人に達したのは1800年代はじめである。この頃の年平均の人口増加率は0.4%であった。年平均の人口増加率は、紀元前から20世紀前半(1945~1950年は0.8%)までずっと0%台で推移してきており、途方もなく長い時間をかけて人類はその数を徐々に増やし、19世紀に10億人に達したということである。

 ところが、10億人から20億人に達する道のりはまったく違った。わずか130年足らずしかかからなかったのである。具体的には1927年とされる。

 突如として人口が急増し始めたのは、農業の生産性が向上し、医療の普及や衛生環境が改善したためだ。先進国では工業へと産業構造が転換していくにつれて人々の暮らしが急速に豊かになり、乳児をはじめとして亡くなる人が減った。一方、開発途上国においては、子ども数の増加は労働力の増加であり、農業収穫量の増大を意味した。

 国連の「世界人口推計」によれば、20億人からさらに10億人増えて30億人となったのは、その30年後の1960年である。40億人となるのには、もっと短く14年しかかかっていない。1974年のことだ。

 50億人突破はその13年後の1987年、60億人突破は50億人突破から同じく12年後の1999年である。

 年平均の人口増加率を見ても、第2次世界大戦後に急加速し始めたことがわかる。先に紹介した通り、「1945~1950年」は0.8%だったが、「1950~1955年」に1.78%となるとその後は伸び続け、「1965~1970年」には2.05%に上昇した。これは、1800年代前半の5倍の水準である。これらは、20世紀の「人口爆発」がいかにすさまじいものであったのかを明確に示しているのだ。




もうすぐ実現する「現実的な」世界の最新兵器

2022-02-27 | 軍事
もうすぐ実現する「現実的な」世界の最新兵器






日本が国際社会で生き残るためにはどうすべきか

2022-02-20 | 国際
正に総悲観の日本の現状と未来像。「失われた40年」はほぼ確定で50年になるかもしれませんし、中国に支配されてほぼ永遠に栄光は取り戻せないかもしれない。高度成長期に頑張ったおかげでその果実で何とか30年は生長られたかもしれませんが、すでに経済的には先進国から脱落しつつあるし、例えば地価は東南アジアより安いんですね。しかしその割にはまだ大丈夫と思っている平和ボケ日本人が多く、これからの経済成長の処方箋さえ見いだせない。90年代から始まった脱成長・環境保護政策が20年代にはカーボンニュートラルと形を変えて繰り返されることになる。消費つまりごみを増やして技術発展で環境問題を解決することにしか経済成長はないのに、、


日本が国際社会で生き残るためにはどうすべきか/倉山満

日本が国際社会で生き残るためには
 日本国が国際社会で生き残るために何をすればいいか。

 ちゃんとアメリカの属国になれ、と言いたい。21世紀に入って、真面目にアメリカの属国をやったのは、小泉純一郎首相だけではないか。あとは、中国の属国か、不真面目な属国だ。

 9・11テロの時、小泉首相は即座に同盟国のアメリカを支持。「憲法上可能なことは何でもやる」と伝え、実行した。いわば、「アメリカ幕府の外様大名」として、「将軍家の一大事」に馳せ参じた。属国だろうが何だろうが、同盟の義務を果たした。代わりに日本が北朝鮮と交渉する際、アメリカは軍事的も含めた圧力を加えて日本に協力した。

 国際政治は日本の戦国時代と同じ論理で動いている。すなわち、「子分を守らない親分は、子分に見捨てられる」なのである。

今の日本は国(アクター)ではなく、土地(シアター)
 残念ながら、敗戦以後の日本は、地球上に国名ではなく、地名としてのみ残っている。今の日本は国(アクター)ではなく、土地(シアター)なのだ。今すぐ大国(パワー)に戻るのが無理な以上、まずは小国に戻る道を真面目に模索すべきではないか。だから、現実を見据え、「アメリカの属国を真面目にやれ」と言っている。

 戦後保守政治家の大半は、「いばらの道を歩むくらいなら、すべての周辺諸国の靴の裏を舐めても構わない。それが現実主義だ」と考えてきた。果たして、それが現実か。自分の運命を自分で決められない状況に甘んじ、何の努力もなさない。

 敗戦でアメリカの持ち物にされ、旧ソ連や今の中国が「それを俺に寄こせ」と小突き回し、北朝鮮や韓国にまで舐められる。それのどこが現実主義か。単なる現状主義ではないか。しかも、当のアメリカが「助けてくれ」と言っている時に。

「ロシアとウクライナは同一民族だ」と主張するプーチン大統領
 もっとも、今のウクライナ問題では、アメリカの本気が見えない。しばらく様子見は結構だが、「臨戦態勢で待機」ほど難しいものはない。まずは飛耳長目、世界で何が起きているかを見極めることだ。

 専門家が注目するのは、昨年7月にロシアのウラジーミル・プーチン大統領が発表した論文だ。プーチンは「ロシアとウクライナは同一民族だ」と主張、1000年の歴史を強調している。ウクライナの首都キエフは、ロシアにとって父祖の地。日本人にとっては、熱田神宮と愛知県が韓国にあるようなものか。

 なぜこの時期にプーチンがと考えるより、常に考えていたと解釈する方が良さそうだ。

プーチンにとって「失地回復」以外の何物でもない
 ソ連崩壊後、ロシアのボリス・エリツィン大統領を、アメリカのビル・クリントン大統領はコケにし続けた。’90年代を通じたバルカン紛争の末に、エリツィンは子分のセルビアを守り切れなかった。他のバルカン諸国は米欧の軍事同盟であるNATO入り。ロシアのくびきを完全に離れ、アメリカの庇護下に入った。そしてNATOは東方拡大。こうした屈辱的な状態を背景に、ロシアの独裁者となったのがプーチンだ。

 プーチンは’08年北京五輪の時も、西側陣営に馳せ参じたグルジアに侵攻。領土を掠め取った。これにアメリカ抜きのヨーロッパは、なすすべがなかった。隙あらばと、’14年には、ウクライナからクリミア半島を奪いとった。

 我々にとっては「侵攻」以外の何物でもなくとも、プーチンにとっては「失地回復」以外の何物でもないのだ。

ウクライナは、西側諸国にとっての「盾」
 だが、西側諸国も一枚岩ではない。米英仏独といった西側の大国は、必ずしもNATOの拡大を望んでいない。ソ連や帝政ロシアに苦しめられた東欧諸国はNATOに入りたいだろうが、ロシアとの対峙は米欧にとっては迷惑な話でもある。だから、隣国のウクライナは、NATOにいれたくない。「盾」として使いたい。

 世界の覇権国家であるアメリカは、中国の台頭を脅威に感じている。ヨーロッパの問題など、英仏独に任せておきたいのだ。中国に専念したい。だから、中東にも不用意な手出しはしないし、アフガニスタンからも引きあげた。そうしたアメリカの心理を、プーチンは突いた。

 10万を超えるロシアの地上軍が、ウクライナに集結している。かつてない大規模な動員だ。戦になるか否か、本気度は地上軍を動員するか否かが最大の指標だ。今回のプーチンは、明らかな本気を見せている。

 これに対し、アメリカも戦後初めて海軍をNATOの指揮下に入れた。ロシアを地中海に絶対に出さない、との姿勢だ。1万人に満たない数の小出しながら、陸軍の動員も決めた。遅まきながら、バイデンも舐められまいと身構えた。

ロシアに対峙する米欧を安全地帯で見守る中国
 米欧は、ウクライナを本気で守る以外のあらゆる方法で支援するだろう。金を出す、兵器を渡す、戦い方を教える、国境の外に軍隊を集結させる、等々。

 中国は、グルジア侵攻の時と同じく「ウチはオリンピックの最中なので」と他人のフリだし、いざとなれば「ウチがオリンピックの最中に、貴様らは何をしている」と言える。安全地帯で、一の子分のプーチンが米欧を翻弄するのを睥睨(へいげい)しているだけで良い。

 ましてや、米欧がロシアに縛り付けられると、笑いが止まらない。中国の狙いは台湾。米欧が束になってロシアの侵攻を止められないとなると、台湾への野心をむき出しにするだろう。ウイグルや香港など、中国共産党の私有物なのだ。助ける方法など無い。むしろ今の中国は他人の持ち物を奪おうとしているのだ。

同盟の最低条件は「自分の身を自分で守る力があること」
 アメリカが同盟国を守る力がないとなると、日本はどうなる?

 どうなるかよりも、どうするかを考える時だろう。

 米欧と中露の違いは何か。「人を殺してはならない」との価値観が通じる国と通じない国だ。日本は明らかに「人を殺してはならない」との価値観の国々と生きるしかない。そして、同盟の最低条件は「自分の身を自分で守る力があること」だ。

国際社会では軍事力がなければ何も言えない
 ようやく「防衛費GDP2%」が話題になったが、それで間に合うのか? いきなり核武装しろとは言わないが、国際社会での発言力は軍事力に比例する。金が無ければ何もできない。コロナはもちろん、景気回復もさっさと成し遂げ、軍事費を増やさないと何もできない。

 それとも、今までのようにすべての周辺諸国の靴の裏を舐め、「殴らないでください」とわびながら生きるのか? 自分自身の問題だ。





ワクチン接種により新たな変異株が出現している

2022-02-13 | 健康
止まらないコロナ禍。ワクチン接種が進むほど感染者が増えているのは事実。最近の二つの記事を見ると3回目のワクチン接種を推奨するかに見えて、実はワクチンの効果は低く(実際には短期間の効果はあるが抗体維持が短い)、ADEによりワクチン接種がウィルスの変異を促していることを示している、と私は思います。子供を除くと日本人の90%以上がワクチン接種したにも拘らずなぜコロナ禍が終わらないのか?ウィルスによる死者数は元々少なくしかもかなりの水増しであることはほぼ確定している一方、ワクチン接種後の死亡を厚労省は認めない。

※抗体依存性感染増強(ADE)とは、ウイルスの感染やワクチンの接種によって体内にできた抗体が、ウイルスの感染や症状をむしろ促進してしまうという現象

一番目の記事では東京大学先端科学技術センター教授の話では「「α(アルファ)、β(ベーター)、γ(ガンマー)、δ(デルタ)というのが出てきて、α、β、γ、δは3回目までのワクチンで凄くいいということなんです。ところがワクチンを打っていると、ワクチンに抵抗性の変異が免疫不全の人で増えてきて、オミクロンみたいの出てきてしまう。すると今度は、イスラエルでみられる様に4回目のワクチンを打っても感染拡大自体はあまり効果が少ないかもしれない。」とあり、早い話ワクチンの効果はあるがとても短く変異株のペースに追い付いていない、3回目の摂取はあまり効果がなく(リスクはあるのに)、4回目接種はほぼ効果なしと・・


沖縄でのデータでは「抗体の減りやすさは20代に比べて30代が2・59倍、40代は5・95倍、50代は6・99倍、60代は10・07倍」とあります。ということは年代が高い人に抗体はほとんど残っておらず2回のワクチンの効果は少なかったということになります。あるいは抗体を維持するためにこれから無間地獄のようにワクチンを打ちまくるかどうか?
我々は現在「時間」という人生における最大価値を失っており、全世代でのうつなどの精神疾患や高齢者の認知機能の低下、身体機能の低下にもさらされているのを忘れてはいけない。さらにワクチンそのもののデメリットが出てくるとしたら、、 自分の身は自分で守らないと人生を失うことになるでしょう

デルタ株の新たな変異種出現 東大先端研・児玉名誉教授「コロナウイルスはまだまだ進化している」

とうとう新規感染者が10万人を超えた。現在の感染者のほとんどはオミクロン株によるものだが、デルタ株による感染も根強く残っている。実はこのデルタ株の新たな変異株が現れ、既に感染者が出始めていた。番組では、東大先端研の児玉名誉教授をスタジオに招き、現状と対策などを聞いた。

■第5波のデルタ株は、たまたま壊れやすい株だったが…

去年の夏、第5波と呼ばれる感染のピークがあった。これはデルタ株によるのもで、致死率、重症化率は、現在主流のオミクロンより遙かに高かった。欧米ではデルタ株が猛威を振るったが、日本ではなぜか早々にピークアウトした。だがこのデルタ株、今も侮れないと児玉名誉教授はいう。

東京大学先端科学技術センター 児玉龍彦 名誉教授
「第波の時に日本に入ってきたのはAY29という特殊な(デルタ)株で、NSP14という変異があって壊れやかったから、すーっと引いた。でもアメリカ・ヨーロッパでは、かなりしつこくありました」

オミクロンが主流になり今やデルタは話題に上がらないが、東大先端研では去年暮れあたりからデルタの変異種に注目しているという。去年、研究室で民間PCR検査に寄せられた検体をゲノム解析していたところ奇妙なものがあることが分かったという。これまではPCR検査で使われる2つの試薬の両方ともに陽性反応をとなっていたデルタだが、そのひとつをすり抜けるデルタ株が現れたというのだ。ゲノム解析をしなければわからなかった事実。このデルタが両方の試薬をすり抜けるものに変異する可能性にも注意をしなければならないという。さらに軽症が多いといわれるオミクロンが流行しているため、民間検査で陽性となって自宅療養すると、変異したデルタである可能性もあり、重症化の危険性も高いという。

東京大学先端科学技術センター 児玉龍彦 名誉教授
「(デルタ株の変異種によって今のオミクロンが収束したあと、第7波になる可能性もある?)はい。そういうことです。オミクロンにもBA1に対してBA2というのが増えてきています。ウイルスの“進化”の様子を注意して見て、きめ細かく対応を立てないといけない」

既に新しいデルタ株は、100か国以上で確認され、日本でも300例が報告されている。

■「今のワクチンは3回までしか効かない」

現段階で重症化しないための最善策はワクチン接種であり、3回目の接種を急ぐべきだと児玉先生も言う。

東京大学先端科学技術センター 児玉龍彦 名誉教授
「α(アルファ)、β(ベーター)、γ(ガンマー)、δ(デルタ)というのが出てきて、α、β、γ、δは3回目までのワクチンで凄くいいということなんです。ところがワクチンを打っていると、ワクチンに抵抗性の変異が免疫不全の人で増えてきて、オミクロンみたいの出てきてしまう。すると今度は、イスラエルでみられる様に4回目のワクチンを打っても感染拡大自体はあまり効果が少ないかもしれない。今の武漢型のワクチンでは、おそらく3回目までがひとつのピークなんで、3回目までを急いで(接種して)、その間に新しい対策を考えないと、逆にワクチンの副作用の可能性も残っている」

■「受け身ではなく、攻めの科学技術を」

ウイルスはどんどん進化を続けている。そのウイルスがどんな“顔”をしているのか、ゲノム解析を拡充すべきと、皆口をそろえる。イギリス、デンマークなどでは感染者数のほとんどをゲノム解析している。だが日本では、一向に数が増えない。国によっては企業や大学が解析に協力しているが日本では国の機関など対応する組織が限られているという。

東京大学先端科学技術センター 児玉龍彦 名誉教授
「(コロナ対応で)失敗だったのは、大学なんかが文科省の指導で最初の対応の時に施設を閉じて、大学の中で感染者を出さないっていう“受け身”的な対応だった。日本の基礎科学って結構力ありますから、例えば小型のロボットで(検査が)出来るとか、オミクロンを分けるPCRキットも発売される。そういう日本の科学技術のいいところをどんどん使って、少し“攻め”の科学技術に移る…(中略)今は大学や研究者が奮い立たないといけない時です」

進化を続けていてまだ退化していないという新型コロナウイルス。変異を逃さず、次の手を打つためには何が必要なのか。日本の科学者の知見を集結させ、先を見越した政策立案をすることが今望まれている。


追加接種で抗体15倍増加 2回目3週後と3回目4週後を比較 沖縄の病院が調査 飲酒習慣で減るリスク増加

新型コロナウイルスワクチン3回目接種の本格化を前に北部地区医師会病院(沖縄県名護市)は、3回目を打ち終えた職員の4週間後の抗体が、2回目の3週間後に比べて15倍、6カ月後に比べて34倍に上昇したとの調査結果を5日までに公表した。また2回目接種から半年後の抗体量を調べると、40代以上は低下しやすく、「毎日お酒を飲む人」は「飲まない人」に比べて抗体の減るリスクが2・34倍高かった。

同病院の田里大輔医師は「年齢が上がるにつれて抗体量は上昇しづらく、また低下しやすい。ご高齢の方はできるだけ早く3回目の接種を受けてほしい」と呼び掛けている。

 ワクチンは全3回ともファイザー社製で、昨年12月に3回目を接種し、今月2日現在でデータがそろった292人分を集計。2回目の接種後は徐々に抗体量が下がっていくが、3回目の後は顕著に増えていた。

 3回目の接種で抗体が増え、オミクロン株に対しても効果が再上昇することは海外でも報告されているが、県内の身近なデータでも裏付けられた形だ。

 また2回目以降に抗体が減る状況を、359人分のデータを基に(1)性別(2)年代(3)高度肥満(4)運動習慣(5)飲酒頻度(6)喫煙-の観点からそれぞれ調べたところ、(2)の年代と(5)の飲酒頻度の2項目で有意な結果が出た。

 抗体の減りやすさは20代に比べて30代が2・59倍、40代は5・95倍、50代は6・99倍、60代は10・07倍。70代以上は今回の調査では対象者がいなかった。

 またお酒を「飲まない」と「ほとんど飲まない」に比べ「時々飲む」は1・58倍、「毎日飲む」は2・34倍、それぞれ抗体が減りやすいことも分かった。

田里医師は「休肝日を設けるなどお酒は適切な頻度でたしなんでほしい」と助言。副反応については「3回目は2回目と同程度」という結果が既に公表されていて「身近なデータとして併せて確認してもらい接種に前向きになってほしい」としている。



秋篠宮家のエゴイズム

2022-02-06 | 社会
真子さんの結婚問題は重すぎる影響を皇位継承問題につなげることになるでしょう。妹・佳子さまは姉と同じような考えを持っているものと思われ、早く民間人となられたいようです。内親王は結婚する限り民間人となられるわけですが、あくまでお相手の身体検査なしの自由恋愛を希望することになるでしょう。そして年齢の離れている末子である悠仁さまへの影響は大きいと考えるのが普通。ご自分も自由になりたいと思われ皇室離脱を希望するかもしれない。あるいは世論が秋篠宮家への皇位継承を認めないかもしれませんね。ご自身がそうであったように子供たちへ自由を与えるという皇族としての育て方に問題ありと思われます。千数百年にわたりY遺伝子を継承している世界で唯一の国であり、それが天皇制の前提と考えるなら愛子天皇がピンチヒッターとなるのはあり得るとしても、早急に旧宮家の男系男子の皇室への復帰を考えるべきと思います。女系天皇ならほぼ確実に皇室は国民の支持を失っていきます


秋篠宮家のエゴイズム「特権は手放さずに運命からは逃れたい」が招く“皇室の崩壊”

「眞子さん問題のひとつは“皇族の特権で困難は乗り越えられる”と現在も考えていることかもしれません。その意味では、自分の力で乗り越える教育が秋篠宮家には欠けている気がします。その秋篠宮家の子供への“過保護という弱さ”を、未来の天皇陛下となられる悠仁さまの今後に影響させないことが大切でしょう」

 そう話すのは、静岡福祉大学の名誉教授で近現代の皇室制度に詳しい小田部雄次さん。

 11月30日に公となった秋篠宮さまのお誕生日会見。その中では、小室圭さんと結婚された長女、眞子さんをフォローされる場面が多く見受けられた。

皇室が特権を享受できる理由

「結婚会見で双方向の会見にならなかった理由の1つとして、眞子さんが『複雑性PTSD』を患っていることを挙げ、“会見している際に発作などが起きることも考えられるでしょうから、やはり難しくなったのかなと思います”と、眞子さんが記者との問答ができない状態だったとフォローされました。

 “眞子さんが『公』よりも『私』を優先している”という世間の風潮にも納得されていないご様子で“私よりも公を優先しなければならないなら、10年たっても20年たっても結婚することができなくなる”という趣旨のおことばも飛び出しました」(皇室担当記者)

 皇族も『私』の部分はあって然るべきだが、公的立場であるという前提があるからこそ、皇室という存在が成り立っているという。

「皇族がプライベートを求めること自体は当然ですが、まずは公的立場にあることが前提です。だからこそ多くの特権を享受しているのです。皇族として生まれた以上、その運命から逃れることは難しい。

 しかし、国民も自分の運命と向き合いながら懸命に生きています。むしろ国民の多くは運命に直面することはあるにしろ、特権はない。“特権も手放したくないし、運命からは自由になりたい”という、国民の苦労を意識しない考えを秋篠宮家の方々が強調し続ける限り、風当たりは弱まらないでしょう」(小田部教授、以下同)

秋篠宮家の“エゴイズム”

 皇族の運命から自由になりたいーー。その考え方は、いつ結婚されてもおかしくない秋篠宮家の次女・佳子さまにも引き継がれている可能性がある。

「これほどの騒ぎになった秋篠宮家と縁戚になることへの信念が求められるので、結婚のハードルは自然と高まるでしょう。それでも、佳子さまへの愛情で乗り越えてくださる方がおられることを願うのみです。

 いちばん心配されるのは、佳子さまはお姉さまの眞子さんと心が通っておられるので、眞子さんと似たような皇室観、結婚観をお持ちだと想像されます。

 国民に寄り添う皇室の一員としての自覚より、皇室という“籠”から逃げ出したいとお考えかもしれませんし、眞子さんと同じ騒動を佳子さまも引き起こされる可能性は否定できません」

 今回の眞子さんの結婚騒動は少なからず、皇室にも影響を及ぼしている。

「国民に寄り添う平成までの皇室を敬愛してきた国民にとって、現在の秋篠宮家のなさりようは驚きの“エゴイズム”に映るでしょう。眞子さんは皇族としての苦悩があったのかもしれませんが、それを国民に吐露するのではなく、強引な皇室離脱という形で解決しようとしたことは大きな失敗だったと思います。

 幸いにも、国民の多くは秋篠宮家の教育方針の問題としてとらえているので、皇室全体への影響は今のところ広がっていません。とはいえ、眞子さんの問題が皇族への特権的待遇や、皇室に対する忖度の根強さなどを広く世間に知らしめてしまいました」

 国民が小室圭さんに対して不信感を抱き、眞子さんとの結婚を案じていたのは小室家のお金にまつわるトラブルや疑惑の数々が報じられたことも大きな要因である。

 さらに、一部では“皇室利用”を指摘する声も。少なくとも皇室のお金を利用していないことを証明するために「使途明細を公表するべきなのでは」と小田部教授は提案する。

「適切な皇位継承者がいなくなる」

「愛子さまが紀宮さま(現・黒田清子さん)のティアラを借用されるという話題は、よかったと思います。国民への寄り添いという意味では、内廷費や皇族費の使途明細の公表も重要かもしれません。

 オンラインでのご公務が増えた分、警備費用などはかなり浮いている状態です。宮内庁は、それが眞子さんの警備費用のために使われていないことくらいは、発表したほうがいいかもしれません。

 金銭問題は無礼なテーマでもありますが、経済的苦境にある人々にとっては切実な問題です。内廷費や皇族費などからコロナ禍の国民支援のための費用を捻出すれば、皇室への敬愛はさらに高まるでしょう。一方で、コロナ禍で難儀する国民への寄り添うことなく、国外に脱出してNYのマンションでセレブ生活を満喫するというのは、一番の悪手です」

 秋篠宮家の“個人の意思を尊重する”という教育方針が招いたと言われる、眞子さんの結婚騒動。次代の天皇家である秋篠宮家に対する風当たりは強まる中、目下政府が進めている皇位継承問題にも大きな影響を与え、いずれは「適切な皇位継承者がいなくなる危険性すら生じている」と小田部教授が続ける。

「今の天皇ご一家の節度あるふるまいで、皇室制度の崩壊が今すぐ起こるとは思いません。しかし、秋篠宮家への国民の不信感や、眞子さんのお相手選びの強引さなどから、今後の皇位継承問題に大きな影響を与え、令和以後の皇室制度の崩壊を促す可能性が生まれてしまいました。

 愛子さまの皇位継承の容認、旧宮家の男系男子の皇室への復帰などが叫ばれていますが、そうした議論はすでに小泉純一郎内閣から続いており、いまだに決着していません。よほどの国民的危機感や政治的実行力がなければ、議論だけで終わるでしょう。

 そのころには愛子さまも結婚されてしまい、旧宮家の方々への国民的シンパシーも希薄になって、適切な皇位継承者がいない状態になるかもしれません」

 国民からの敬愛を取り戻すため、最大の危機を迎えている秋篠宮家の今後のなさりように期待するほかないだろうーー。



手を差し伸べたのは日本のみ

2022-01-30 | 歴史
手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡

1940年、外交官・杉原千畝が発給した「命のビザ」を握りしめ、約6000人のユダヤ難民が福井県の敦賀港に辿り着いた。そこからさかのぼること20年前に、もう一つの人道物語があった。

幼い頃に祖国から遠く離れたロシア極東のシベリアで、親と離ればなれになったポーランド孤児たち。飢えと寒さに苦しむ760人あまりの孤児は、日本に救出され、日本の地で静養し、祖国へと帰っていった。

100年前の事実を解き明かすため、取材を続けること6年。忘れられた歴史を今に伝える貴重な資料が次々と見つかった。そこからは“親のいない子どもたちを慰めようと各地から寄せられた善意”“伝染病に感染した子どもを救うため命を懸けた若き看護婦”といった私たちの知らない100年前の日本人の姿が浮かび上がってきた。

前編では、ポーランドの孤児たちが日本へ救出されるまでを追った。

忘れられた100年前の歴史

東ヨーロッパに位置するポーランドは日本と国交が結ばれて100年が経つ。

ポーランドは1939年に第2次世界大戦が勃発し、西からナチスドイツ、東からソ連に占領され、国が消滅する。1945年、ドイツが降伏して戦争が終結するが、その後はソ連の影響下に置かれ、長い間抑制を受けた。民主化を果たし、ようやく自由を手に入れたのは30年前のことだ。

2002年、平成の天皇皇后両陛下がポーランドを訪問された際、首都ワルシャワの日本大使公邸に高齢のポーランド人たちが集まった。彼らは、元ポーランド孤児たちで、両陛下に感謝の言葉などを伝えた。

しかし、この事実は長い歴史のうねりの中で人々の記憶から消えていった。

そこでまず、2002年に元孤児たちの傍らで通訳をしていた、日本人でポーランド在住のジャーナリスト・松本照男さんを訪ねることに。40年程前に独自に孤児の調査を始めた松本さんだが、当時ポーランド国内で孤児たちの消息は分かっていなかった。

人づてに孤児を探す地道な作業を続けたが、当時のポーランドはソ連の影響下にあり、孤児について語ることは“タブー”だったという。

松本さんとともに調査したポーランド国立特殊教育大学のビエスワフ・タイス教授は、「1945年以降のポーランドでは、シベリアを含め、ソ連を政治的に悪く言うことは禁止されていました。ポーランド孤児の話は、この禁止項目に触れていたのです」と明かす。

松本さんとタイス教授は、探し出した元孤児をこっそり集めて、松本さんの家で茶碗と箸でもてなした。すると、「箸を持って大喜びして、興奮して使っていました。彼らにとって、日本で経験したことは一生の大切な思い出だと思います」と松本さんは振り返る。

しかし、忘れられた100年前の歴史を直接知る人たちはもう亡くなっている。それでも取材を続けていくと、20年ほど前にポーランド孤児のドキュメンタリー映画を撮影したという人物に辿り着いた。

映画監督のエバ・ミシェビッチさんは、生前の孤児にインタビューして映画を作り、そのオリジナルテープを残していた。

また、当時の天皇皇后両陛下と面会した元孤児たちにもインタビューを行っていた。彼らの映像は、2002年の面会の2年前に撮られたもの。

エバ監督は忘れられたポーランド孤児の存在を広く知ってもらうために映画を制作したといい、「世界史の中でも珍しい話なので映画にしたかったのです。孤児たちが他界し、その足跡だけが残った今、記録する価値のある物語だったと思います」と明かした。

元孤児のインタビューを聞いていくと、彼らはなぜシベリアにいたのか、なぜ孤児となり、日本に助けられたのか、その足跡を辿ることができた。

ポーランド人がシベリアへ…

プロイセン、オーストリア、ロシアといった大国に挟まれたポーランドは、今から200年以上前の1795年にロシアなどの侵略で3つに分割され、国が消滅する。

ポーランド人は何度も独立運動を起こすが、ロシアに鎮圧され、政治犯としてシベリアへ送られた。その後、仕事を求めて移住する人も現れ、今から100年ほど前には15万人から20万人のポーランド人がシベリアで暮らしていたといわれている。

2002年に当時の天皇皇后両陛下と面会したアントニーナ・リロさん。彼女の両親は無償で土地がもらえると言われてシベリアに移住し、農業をしながら6人の子どもを育てていたという。

「家の隣に納屋があり、子牛や子豚を飼っていました。楽しかったです。納屋には干し草が敷かれ、動物が遊び相手でした」と当時の生活ぶりを振り返るアントニーナさんだが、1917年にロシア革命が起き、生活は一変する。

社会主義を目指す勢力が台頭し、ロシアは内戦状態に。社会主義に反対するポーランド人は迫害を受け、虐殺された。

「10歳以上の少年はすぐに射殺されました。父は台所のテーブルの下に大きな穴を掘りました。私たちはそこに入って犬のように座り、出ることは許されませんでした」(アントニーナさん)

元孤児のハリーナ・ノビツカさん。彼女の父親はロシア人で、シベリアで生まれ育った。

ハリーナさん一家もロシア革命後は生活が一変する。軍人だった父親は帰ってこなくなり、母親は家を捨てて逃げることを決意。混乱の少ない東へ逃げようと、他の避難民と共にシベリア鉄道に乗り込むが、途中の駅で革命家のグループに襲われる。

「私たちは裸にされました。年老いた退役軍人たちは一列に並ばされました。その後、一斉にマシンガンの音がしました。私たちの荷物は奪い取られ、女性たちは小屋に閉じ込められました」(ハリーナさん)

ハリーナさんの母親も小屋に連れて行かれ、乱暴されたという。シベリアの冬は氷点下40度。避難民たちは寒さと飢えで次々と死んでいった。

「車両には私たち家族3人だけでした。他の人は1人ずつ死んでいったのです。私たちは服を着ていなかったので、母は死体から服を脱がせました。服のシラミをこすり落して外に干し、まだ残っているシラミを寒さで凍らせました。その服を私たちに着せたのです」(ハリーナさん)

命からがら祖父の住む街に辿り着くと、ハリーナさんと弟は頭のシラミを駆除するため、丸坊主にされた。そんなとき、子どもを救済する組織が出来たことをハリーナさんは知る。

孤児の救済組織が日本に助けを求める

ロシア極東のウラジオストクに出来た、ポーランド孤児を救済する組織。

孤児の足跡を調べていると一人の女性に出会った。

ポーランド人の血をひくタチアナ・シャーポシニコワさん。曾祖母の妹が救済組織に助けられたことから、当時の資料を集めているという。約30年前のソ連崩壊以降、それまで封印されていた資料が少しずつ見つかっていた。

見せてくれたのはシベリアにいたポーランド孤児たちの写真。極寒の中、着るものも食べるものもなく、瀕死(ひんし)の状態で、伝染病も広がりつつあり、一刻の猶予もなかった。

こうした子どもたちを救おうと1919年、ポーランド児童救済委員会が結成される。

この前の年、1918年に第1次世界大戦が終わり、ポーランドは123年ぶりに独立を回復した。瀕死(ひんし)の子どもを救い、復活したばかりの祖国へと帰すため、救済組織はシベリア各地を回り、親の片方を亡くした子どもや孤児をウラジオストクに集めた。

「叔母が2人の子どもを連れてきて私の母にこう言いました。『子どもたちを救済組織に預けて先にポーランドへ行かせましょう』と」(ハリーナさん)

ヘンリク・サドフスキさんの母親も決死の覚悟で息子を救済組織に預けたという。

「母は私にキスをして、十字を切って言いました。『子どもだけでポーランドに行きなさい。ポーランドは西にあるけど、東に行くのよ』。それが別れの言葉でした」(ヘンリクさん)

ところが大きな問題が浮上する。

救済組織が立ち上がった1919年、ポーランドはソビエトと戦争を始める寸前だった。そこで、アメリカへ移住したポーランド人のもとに孤児たちを送る計画を立てた。

当時、シベリアにはチェコ兵捕虜の救出を目的に、アメリカや日本などが出兵していた。救済組織はアメリカ赤十字に孤児の輸送を依頼したが、チェコ兵捕虜の救出が終わると、アメリカ軍と共に撤退を決定してしまう。

他の国も撤退し、残っていたのは日本軍だけだった。

窮地に陥った救済組織のアンナ・ビエルケビッチ会長は、わらにもすがる思いで、国交を樹立したばかりの日本へ出発。

しかし、周囲からは「日本人は極めて利己的で不親切な人種であって、自己の利益とならざる事は何事もなさない」(ビエルケビッチ会長手記より)と忠告を受けていた。

ビエルケビッチ会長は1920(大正9)年6月に外務省を訪れる。外交史料館にはビエルケビッチ会長が書いたフランス語の文書と日本語の訳文が残され、孤児たちの窮状を訴えていた。

外務省はビエルケビッチ会長に同情しつつ、日本赤十字社に連絡。外務省が当時の日本赤十字社の社長に宛てた文書には「両国との国交とに鑑みできるだけ応じたいが、政府においては経費の関係上、これを引き受けるのは不可能」と記されている。

すぐに資金を捻出できない日本は、孤児の救済を日本赤十字社に依頼。日本赤十字社はただちに孤児救済を決定した。依頼からわずか15日後の返答だった。

一体なぜ、100年前の日本は決断に踏み切れたのか。

東京女子大学国際社会学科・黒沢文貴教授は、「当時の日本は、第1次世界大戦に勝利して近代国家の仲間入りを果たした。近代国家は力が強いという側面だけでなく、文明国という側面もある。文明国は人道援助をする、具体的にそれを担うのが赤十字社。文明の側面に力を入れていたタイミングでポーランド孤児救済の話があった。それが即決させた大きい理由ではないか」と解説する。

1877(明治10)年に発足した日本赤十字社。日本赤十字社の人道援助は、国民からの寄付金で支えられていた。

こうして100年前の日本人の善意が、極寒のシベリアで命の危険にさらされていたポーランド孤児を救うことになった。

この知らせを聞いたビエルケビッチ会長は「まるで夢のようです。今迄向處(どこ)へ行っても断られて殆ど絶望と思っていたのに」と涙ながらにお礼を述べたという。

日本への受け入れが決まったポーランド孤児たち。

後編では、日本でどのような生活を送り、祖国へ戻ったあとどんな人生を歩んでいったのか辿っていく。


2050年、「中国の人口が半減する」という衝撃事実

2022-01-23 | 中国
中国の出生数はこの5年間で40%も減っており今後も減少は続きそうだ。当局は人口減少の事実に神経質になっており、各省政府が水増し統計を続けたきた結果ともいえる。「黒孩子(ブラックチルドレン)」という無戸籍の子供(成人)の増加分を考えても毎年10%以上の減少は隠せないでいて今年の出生数は1000万人を下回り、自然減が始まるのは間違いない。二つ目の記事では極端な人口減少は過去の水増しと整合性を取るためであり、すでに総人口は14億人ではなく12億人台ともみられている。その場合は2018年から人口減少が始まっていることになる。私見ではすでに総人口でインドは13億人を超えており世界一が代わっていると考えています

中国の出生数、建国以来最少に 今年から人口減少が始まる可能性

中国国家統計局は17日、2021年の出生数が1062万人だったと発表した。1200万人だった20年から約12%減り、1949年の建国以来最少となった。中国でも人口減少社会の到来が目前に迫っていることが明らかになった。

 総人口は前年比微増の14億1260万人。中国で最も出生数が少なかったのは1961年の1187万人で、毛沢東が58年に発動した「大躍進」政策後、3年間にわたる大飢饉で餓死者が相次いだ。

 その後、毎年2千万~3千万人が生まれるベビーブームが続いたが、79年から人口増加を抑制するため「一人っ子政策」を導入した。

 だが、経済成長に伴って女性の社会進出や価値観の多様化、教育費の高騰などが重なり、少子化が加速。15年に一人っ子政策の廃止を決めたが、少子化の流れは止まらず、20年には1200万人まで出生数が減少。共産党指導部は3人目の出産解禁に加え、子育て支援の法整備に着手した。

 ただ、都市部を中心に高止まりした不動産価格や激しい受験競争などから、家庭にのしかかる金銭的、心理的な負担から「3人目を生むなんてあり得ない」(北京市の30代の中国人女性)との声は根強い。

 一方、国家統計局が17日に発表した21年の65歳以上人口は建国後初めて2億人を超えた。

 中国国内でも人口減少・高齢化社会到来への危機感は強まっている。人口問題の専門家である何亜福氏は昨年、「いつ人口減少が始まるのか。私の予測は22年ごろだ」とする文章を発表。党機関紙・人民日報などの主要国営メディアも人口減少が近く始まるとする記事を取り上げるようになった。労働力人口が減少すれば、中国経済の成長鈍化は避けられず、日本を含む世界経済にも深刻な影響を及ぼしかねない。


2050年、「中国の人口が半減する」という衝撃事実

日本で人口減少が叫ばれる一方、世界では14億人もの人口を抱える中国が大きく変貌し始めていることをご存知だろうか。2050年には人口が半減するとも言われているのだ。『世界100年カレンダー』著者の河合雅司氏が、中国の人口激減とその衝撃実態を描き出す――。
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中国マーケットは魅力的か

 2020年の国勢調査は、日本の総人口を1億2614万6099人だとした。国勢調査における人口減少は2回連続である。

 国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2040年までの20年間だけで1500万人以上も減る。その一方で出生数の減少スピードはコロナ禍の影響もあって加速しており、人口減少が下げ止まる気配は全くない。

 このままではズルズルと国内マーケットは縮小していく。だからと言って、外国人をあてにするのも難しい。国勢調査によれば外国人人口は前回調査より43.6%増加し過去最高となったが、この5年間の増加数はわずか83万4607人にとどまる。とても日本人の減少幅を穴埋めできる数ではない。外国人観光客も、感染症の波が繰り返し起きている現状を考えると過度の期待は禁物だ。

 まさに八方塞がりである。もはや多くの企業は国内マーケットの縮小を前提として経営戦略を立てざるを得ない。

 高付加価値化による収益構造の転換が急がれるが、海外マーケットに活路を見出せる企業は軸足を移すのも選択肢となろう。

 だが、「海外マーケット」と言っても広い。進出する国を間違えたならば、大きな痛手を受けるだけで終わる。

 海外マーケットの取り込みには時間がかかるためだ。現状では魅力的に映っても、数十年後には先細りしていく国もある。こうした国は避けたほうが賢明である。

 その代表格が中国だ。経済にかつての力強さが見られなくなったからでも、米中対立の狭間で苦しむことを危惧しているわけでもない。もっと構造的な問題が横たわっているからである。

人口激減の未来地図

 2020年の中国の国勢調査によれば、同国の総人口は世界最多の約14億1178万人だったが、これから人口減少によって巨大な消費マーケットや豊富な労働力を短期間で失っていく予測されているのだ。

 言うまでもなく中国は巨大な人口を武器として短期間で経済発展を遂げたが、現在ピークにあると言ってよい。経済的に結びつきの強い隣国ではあるが、深追いしすぎると命取りとなりかねないのである。

 中国の総人口がどれぐらい減るのかを見ていこう。人口減少については中国政府も認めている。問題はそのペースだ。速ければ社会の負担は大きく、経済成長にブレーキをかける。

 そこでポイントとなるのが合計特殊出生率となる。中国政府は2020年の国勢調査に合わせて「1.3」と公表した。これは国連の低位推計が前提としている値に近い。そこで、低位推計による2100年の総人口を確認してみると6億8405万人だ。80年かけてほぼ半減するということである。

 ところが、「1.3」という数値については、中国国内の学者からも「実態より高い」といった異論が噴出している。中国国家統計局は2000年の合計特殊出生率を1.22、2015年については1.05としてきており、各国の研究者には「実際には1.0~1.2程度」との見立てが少なくないのだ。

 「1.3」に否定的な見方が強いのは、中国政府が発表した他のデータが深刻なこともある。例えば、2020年の年間出生数は1200万人とされたが、2019年の1465万人と比べて18%もの大激減であった。

 わずか1年で2割近くも減るというのは尋常ではないが、中国が毎年発表してきた年間出生数にも疑いの目が向けられてきた。それが国勢調査で一挙に表面化した形だ。国勢調査は0~14歳人口を2億5338万人としたが、該当する年の年間出生数を足し合わせても2億3900万人ほどにしかならず、1400万人もの食い違いが生じたのである。

 各年の出生数は政府が発表してきた数値よりも少ない可能性が大きく、中国の人口はすでに減少に転じていると分析する学者が少なくない。北京大経済学院の蘇剣教授も、2019年に北京で開催されたマクロ経済に関する会議において、「2018年に減少に転じた可能性がある」との分析結果を公表している。

衝撃的な研究レポートの中身

 さらに「1.3」を疑わせることになったのが、中国国家統計局の年報だ。2020年の出生率(人口1000人当たりの出生率)を8.52人と発表したのである。これは比較可能な1978年以降で最低であり、10人を下回ったのは初めてであった。

 そもそも人口統計に限らず中国の統計データはかねて信憑性を疑われてきた。これらのデータを総合的に判断するなら、多くの研究者が指摘する1.0~1.2台と考えるのが自然だろう。

 合計特殊出生率が1.0~1.2台ならば、母親世代と娘世代と比較して出生数がほぼ半減していくこととなり、総人口はとてつもなく速いスピードで減っていくこととなる。

 これを裏付けるような衝撃的な研究レポートがこのほど西安交通大学の研究チームによって発表された。合計特殊出生率が1.0の場合、2050年には中国の総人口は7億人台になるというのだ。中国政府の“言い値”の通り「1.3」が持続したとしても2066年には7億人台になるとしている。

 あと30年を待つことなく総人口が半減する事態となったならば、社会の各制度を改革している暇がなくなる。半減に至るまでもなく年金をはじめ人々の暮らしにひずみが生じ、社会の混乱が避けられないだろう。

 『大国空巣』(=空っぽの巣の大国という意味)の著者でもある米国のウィスコンシン大学の易富賢研究員は、2020年に発表した論文で中国の総人口を12億6000万人と推計している。さらに、2100年の総人口は4億人を割り込み、3億人台にまで落ち込む可能性があるとの予測も示している。ここまで減ったならば、中国社会は現在とは全く異なる姿となる(中国の人口データの詳細については、拙著『世界100年カレンダー』を参照いただきたい)。

3人に1人が高齢者に…

 中国が激しい人口減少を招くことになった要因は「一人っ子政策」である。中国政府は、自らまいた種に苦しんでいるのだ。

 危機感を募らせた中国政府は1組の夫婦が子どもを3人までもうけることを認める政策の大転換を図ったが、その効果は疑問視されている。かつて条件付きで2人目の子どもを認める緩和策を講じた際も、思うような出生数の回復につながらなかったからだ。多くの人は、国の政策で制限を受けているから子どもを1人で諦めているわけでなく、個々の夫婦が意思として1人しかもたないようにしているのである。

 人口が減ることだけが課題ではない。むしろ、中国は人口減少の過程で起きる高齢化の進行に苦しむこととなるだろう。

 国家衛生健康委員会によれば、2020年11月1日時点における65歳以上は日本の総人口を上回る1億9064万人を数えた。高齢化率は13.5%だ。すでに圧倒されそうな人数だが、中国の高齢化スピードは速く高齢化の本番はこれからだ。2060年には高齢者数のピークを迎え、この時点の高齢化率は33.8%に達する。3人に1人が高齢者という社会である。

 高齢化の進行に伴って勤労世代(20~64歳)は減っていく。国連の低位推計によれば、2020年の9億2978万9000人から、2100年には3分の1の3億752万7000人になるという。今後40年間は、日本と同じく勤労世代が減りながら高齢者だけが増えるいびつな社会になるということである。

 これを65歳以上の高齢者に対する25~64歳の人口比率でとらえ直すと、2050年には1.9となり、早くも2人の勤労世代で1人の高齢者を支えなければならなくなる。合計特殊出生率が「1.3」よりも低ければ、もっと早い段階でこうした社会が到来する。

 すでにいくつもの省の年金積立金の枯渇危機が伝わってきているが、勤労世代の負担は年を経るごとに大きくなる。それは、やがて若者の不満の高まりや労働意欲の減退という形で表れることだろう。

 年金生活になれば、若い頃のようには消費できなくなる。必要とするモノやサービスも年齢とともに変わる。すなわち、実際の人口が減少する以上にマーケットは縮むということだ。中国政府は人口減少に伴う経済面のマイナス要素を技術革新によってカバーすると考えているようだが、社会としての“若さ”を失うにつれてイノベーションを起こす力も弱っていく。

 中国には、十分に豊かになる前に衰退がはじまることを指す「未富先老」という言葉があるが、これらの人口データを見る限りそうした未来は避けられそうにない。いくつかのシンクタンクは、中国のGDPが米国を追い抜くといった予測をしているが、夢物語に終わるかもしれない。実現したとしてもつかの間のことだろう。

 中国は今、大きく変貌し始めているのである。幻想にいつまでも追いすがり、闇雲に突っ込んでいったならば、日本企業は国内マーケットの縮小と中国マーケットの変質という2つの課題を同時に抱え込むことになりかねない。日本の人口が増えていた時代ならまだしも、国内マーケットが崩れていく過程においてはあまりに重荷だ。これまで多くの企業が成功した国だからといって、今後もうまくいくとは限らないのである。

 どこの国のマーケットに将来性があるのかを知るのに、既存のイメージに頼り、中途半端な情報に振り回されるのではあまりに危うい。初めて本格的な海外進出を目指す企業はなおのことだ。現地のデータを可能な限り収集し、慎重に分析する必要がある。

河合 雅司