Let's Set's -歳爺記-

『野鳥・花』 や 『面白いと感じるもの』 など思いつくまま気の向くまま・・・

やっと、ホトトギスが・・・。(by.一日一善)

2017年05月31日 | 野鳥
昨日カメラを忘れたので、『きょうはシッカリしないといけないなぁ』と考えていたのですが・・・。
30分も朝寝坊してしまいました。
一日一善も、いよいよ老化現象が始まったのかも知れません。

山に到着すると、もうはや「ホトトギス」が啼き出しています。
山道を歩いていたら、頭上を啼きながら横断していきました。
「ホトトギス」は、一度に2~300mはラクに移動します。
アッチで啼いて居たかと思ったら、あっという間に反対側に移動したりします。

水道施設のあたりで、前方100mくらいの所に「ホトトギス」がとまっているのを発見しました。
一応シャッターは切れましたが、ボヤボヤのピンボケです。
最初の出会いでは背中だけ、2回目の出会いではシッポだけ、今回は全身でしたが胸の縞模様が分かる程度のひどいピンボケ。
なかなか、写させてくれません。

山頂に着いて一番奥の広場に行くと、谷のやや下の方で「キビタキ」の声。
しばらく探して、やっとの事で見つけることができました。

キビタキ・・・コレも結構遠くでしたが、ホトトギスよりはましでした。
久しぶりの出会いですね。


きのう「コサメビタキ」が居た辺りを入念に調べましたが、きょうは見つかりませんでした。

さぁ、見晴台で頑張ることに。
きょうは曇り空なので、長時間頑張れそうです。

すると、どうでしょう・・・南の方から大きな啼き声が近づいてきます。
手すりの影に隠れて、「ホトトギス」を待ちます。
『来ました、来ました』、いつもなら逆光の場所ですが、きょうは曇っていて何とか見えます。
でも空抜けなので、色が綺麗に出なさそうです。

ホトトギス・・・やっと全身を近くで見ることができました。 写りはイマイチですが、今期初撮りです。 
めっちゃ嬉しい悲願の1枚です。






お腹の縞模様が写れば良かったのですが、贅沢は言ってられません。

その後2時間半、頑張りましたが「ホトトギス」は近くに来ませんでした。
グルグルと周囲を回っている啼き声は、ずっと聞こえっぱなしでした。
しばらくは楽しめそうです。

あきらめて山道に出ると、例年咲いてくれる「ササユリ」のツボミを見つけました。


ツボミは3つだけ・・・昨年より少ないですね。
開花まで、まだまだ時間が掛かりそうです。

そして帰り道で、

キビタキ・・・山道の近くにとまっていました。


きょうは、贅沢にも「ホトトギス」と「キビタキ」に出会えました。
『あしたも、もっともっと多くの鳥に出会えますように・・・。』


川を下って帰ろうかと思いましたが、今日もM公園に行くことにしました。

コアジサシ・・・きょうも1~2羽が、時々やってきては池に飛び込んで小魚を捕っています。




コサギ・・・4羽の雛に、餌を与えるのは大変ですね。


ゴイサギ・・・愛をはぐくんでいるような仕草を、ずっと続けていました。


コアジサシ・・・4~5組のカップルが居るようですが、まだカップルになりきれていない組もあるようです。
卵を抱いているのかどうかも良く分かりません。








小魚を持って帰ってきても、食べて貰えなくて追い出されているカップルも居ました。
夕立が降って、水たまりができるといいのですが・・・・。
カラスなどの天敵も居そうですが、沢山の子供達が育ってほしいものですね。
時々は、観察したいと思っています。

明日は、天気がくずれると思っていましたが、持ち直したようです。
きょうは、目覚まし時計をかけて寝ることにします。
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きょうも山は、暑かったですぅ~・・。(by.一日一善)

2017年05月30日 | 野鳥
きょうは、旅行ボケもなく颯爽と出発!!。
とはいきませんでした・・・、自転車で出て5分くらい経ってから『あれ、首にカメラがぶら下がっていない・・・アッチャー』。
旅行ボケではなく、「完全はボケ」が来ていました。
慌てて引き返して、カメラをシッカリと首に提げて再出発です。
もちろん、電池とカードが間違いなく入っているかも確認しました。

そんな一日一善では、野鳥を見つけられるはずがありません。
案の定・・・・、

「ホトトギス」が見晴台の近くに最初来た時は、とまってくれましたが「木の葉隠れの術」でシッポだけ。
2度目に来た時は、「私の顔を見て、急に方向転換して三好山に・・・」。

「アオゲラ」は、奥の広場で姿をキャッチできたのですが、カメラを構えたとたんに行方不明。

「キビタキ」は相変わらず敏感で、私が近づくだけで啼きやんでしまいます。

結局、きょうの山では「コサメビタキ」だけでした。

コサメビタキ・・・奥の広場で、帰る間際に見つけることができました。




このあと、コサメビタキを追うように出て来たのがコレ。
「コサメビタキの幼鳥」だと思いますが・・・う~ん違うでしょうか?。




連日、鳥運のない一日一善。
このあと、隣町のM公園に「アマサギ」が来ていないか見に行くことにしました。

アマサギ・・・若いのでしょうか、色がちょっと薄いですね。


ゴイサギが向こう側に居ます。


ゴイサギの若・・・よく飛び回っては、皆に『ぎゃぁぎゃぁ』喚かれています。


アオサギ・・・ケンカでも無さそうですが、威嚇し合っています。


コアジサシ・・・池の上空をクルクルと旋回しては、時々急降下して小魚を捕ります。




小魚を捕った、コアジサシの帰りを待っています。 日に焼けた砂利の上はメッチャ暑いと思います。




私が20分くらい見ている間は、小魚を咥えて帰ってくることはありませんでした。

山では、ボチボチ幼鳥たちが出て来たようです。
辛抱強く、探鳥しないといけませんね。

【日光東照宮 5月26日撮影】
2泊三日の初日に行った日光東照宮です。
残念ながら、この日はかなりの雨が降りました。
日光東照宮の修復工事が殆ど済んだので、凄い人で賑わっていました。
おかげで傘また傘・・・、傘が写らないようにするのが大変でした。

陽明門・・・傘だらけの群衆を避けたので上部だけ。
それにしても、見事な「木組み」です。 素晴らしい技術です。


見て下さい、この木組み。




この獅子も迫力満点です。


そして、天井の「竜の絵」。 狩野探幽の作と言われています。
この竜を上を向いて撮っていたら、係員に『写真を撮っていたら混みますので・・・・』と注意されました。
お金を払って、おこられて・・・ナンデヤネン!!。


三猿・・・作者不詳だそうです。 修復前より可愛らしくなったので、評価は二分しているようです。


眠り猫・・・左甚五郎の作。 これも修復前と比較してみますね。


「眠り猫」の裏側は「雀」なんですよ。 ご存じでしたか?


上神庫の象の彫り物・・・三猿の向かい側に建っています。
たぶん、彫った人は実際に見たことがなくて、見た人から聴きながら彫ったのでしょうね。


徳川家康の墓所・・・1616年4月没ですから401年経ったのですね。


明日も何とか天気は良さそうです。
あっ、もう3時半になっています。
暑いので、だらけていたらいけませんねぇ。
何事にも、シャキッと気合いを入れて頑張りま~す。
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5日ぶりに、山に行きました。(by.一日一善)

2017年05月29日 | 野鳥
旅行ボケもまだ覚めやらぬ状況ですが、久しぶりに山に登ることができました。
山は、やっぱり落ち着きますね。

きょうは、殆ど見晴台で『ぼぉ~』としていました。
お茶ばかり飲んでいたような気がします。
まったく気合いが入りません。

それでは、きょうの山の鳥たちです。
後半に、2泊3日の旅行で写せた野鳥を掲載します。

こんなだらしのない状況ですから、写せたのは「エナガ」だけでした。

エナガ・・・6~7羽が、賑やかに急速通過して行きました。




「ホトトギス」が南側の木に飛んできたのは良かったのですが・・・、葉っぱの影に入ってしまい背中しか写せませんでした。

他には、「カワラヒワ」「シジュウカラ」「ヤマガラ」が飛んでいました。
「キビタキ」は声だけです。

「エナガ」しか写せないので、帰り道「コアジサシ」を探しに行きました。

コアジサシ・・・2羽だけ見つけることができました。




時々帰ってきては、小魚をあげています。




コチドリの雛・・・あっちにピョコピョコ、こっちにヨタヨタと動き回ります。


セッカ・・・口の中がまっ黒ですね。




オオヨシキリ・・・この声を聞くと、暑苦しく感じるのは私だけかなぁ・・。


【5月27日に撮影した野鳥です。】
栃木県の「中禅寺湖」の近くにある「戦場ヶ原」と言う湿地帯で撮影しました。
友人達は、野鳥に興味がないので置いてけぼりにされました。

ニュウナイスズメ・・・つがいで動き回っていました。 大きな群れにはなっていませんでした。












ヒガラ・・・やっとのことで、なんとか1枚だけ。


コサメビタキ・・・やっぱり目元が可愛らしいですね。


ビンズイ・・・川べりに降りたり、木に飛び上がったりと忙しそうにしていました。


「中禅寺湖」は雨の影響で、ガスが立ちこめていて全く見通しがききませんでした。

シカ・・・車でスカイラインを走っていたら、ノンビリと草を食べていました。


「華厳の滝」で「イワツバメ」が飛んでいましたが、雨のため撮影不能でした。
「イワツバメ」が、絶壁に巣を作っているのか沢山飛び交っていました。

栃木県で見つけた鳥は、大阪で2ヶ月ほど前に見た鳥が多かったですね。
とても楽しい3日間でした。
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邪馬壹国と卑弥呼(3/3)。(by.一日一善)

2017年05月28日 | その他
きのう一日一善が出した答えは、『畿内説』の方にとっては頭にくる内容・へそが茶を沸かす内容だったことでしょう。
きょうは最終の3日目です。
もっと突き詰めていきたい今後の課題を2つ取り上げて、『邪馬壹国と卑弥呼』を締めくくります。

【卑弥呼は誰なんだろ?】

きのうの整理したデータの中で、
(1)卑弥呼は、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)ではないと書きました。
   ※倭迹迹日百襲姫は崇神天皇の時代の人なので、おそらく4世紀後半(360~400年)。
   ※もともと男王がいて、7~80年前倭国は乱れたので女王として立ったと書かれているが、崇神天皇(第10代)の時代にそのような争いは無い。
   
(2)卑弥呼は、神功皇后でもないと書きました。
   ※神功皇后は、倭迹迹日百襲姫よりもさらに50年ほど後の時代(5世紀)の人。 250年頃の書物に到底登場できない。
   ※神功皇后には、仲哀天皇(第14代)という夫が居る。

では、卑弥呼は一体誰なのでしょうか?。

いろんな説がありますが、『天照大御神=卑弥呼』という説にはとても興味が引かれます。
・卑弥呼が活躍した248年に月食があって、「天岩戸に隠れた」という言い伝えに合致する。
・もし卑弥呼=天照大御神とすると、天照大御神は神武天皇より5代前の人なので、卑弥呼の死後5~60年経って九州から奈良に東征したのも頷ける。
・卑弥呼には弟が居たのだが、素戔嗚尊は天照大御神の弟である。

【神武天皇が東征したってホント?】

・神武天皇自体の存在を否定する説もあるが、私は実在したと考える。
・神武天皇が東征して奈良に大和朝廷を築いた話は有名だし、実際奈良県に痕跡は多々あります。
・私は、神武天皇の活躍年代は285年頃と考えている。(当ブログ 2月12日の記事に詳細根拠を書いています。)
  (建国記念日では紀元前660年となっているが、100歳以上(最大160歳)の天皇が7人も居たという計算根拠は納得しがたい)
・神武天皇が東征する前に、大和に物部氏の祖ニギハヤヒの命が天降っている。
 ※おそらく神武天皇が東征する前には、大和に違う文化圏があったと思われる。
  (出雲にアメノホヒが天降ったように・・→大国主の国譲り)
・畿内の銅鐸文化が、大和朝廷以後かき消えてしまったのは、神武天皇に滅ぼされたのではないかと思われる。
・神武東征により、九州の「三種の神器(鉄剣・勾玉・鏡)」の文化が持ち込まれたようである。
  (畿内には銅剣の文化はあったが、鉄剣や勾玉の文化はなかった)
・魏志倭人伝の時代に『邪馬壹(いち)国』だったのが、後世『邪馬薹(だい)国』に変わったのも国の移動があったことを示しているのでは。

その他にも、色々と調べたいことは山ほどありますが、今回は此処までということにします。
肩の凝るような話に付き合わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした。

以前から『邪馬台国』について、少しだけでも書きたいと思っていた夢が叶い、とても嬉しいです。

【参考にした書籍】

一日一善が読んだ本をご紹介しておきます。
この類いの本を読む時に、気をつけなければいけない事があります。

どの本を読んでも・・・必ず『あぁ、ナルホドそういう事だったのか』・・・と納得させられてしまうんです。
もちろん、筆者の方達は『これが正解だ!!』と言う気持ちで書かれています。

たとえば・・・『この遺物は「○○○法」で調べた結果、「弥生時代初期」であることが分かった』・・・と書かれていたとします。
普通は『そうだったのか、今まで「弥生後期」だと思っていたけど「弥生初期」なのかぁ』と考えます。
でも大事なのは・・・『「○○○法」の精度はどのくらいなのか?』という事を理解できる内容になっているか・・・と言うことなんですね。
調べてみると『「○○○法」は資料によっては100年ぐらいズレることもある。』と、書かれている本がありました。
要は、「自説に都合の良いデータだけを取り上げている」話には気をつけないといけないのです。
こういった『検証』も大事になってくるわけです。

一日一善が本を読む時に注意しているのは、『筆者だけの説を蕩々と述べているのか?、筆者の説に対する反論も併せて書いてあるか?』と言うことです。
現代はインターネットを使えば、『何でもすぐに分かる』けれど、果たして『書いてあることが正しいのか?』が問題ですよね。

一日一善は学者ではありませんから、『全ての裏付けを検証できない』ので、『どうも正しそうだな・・』程度の判断基準です。
皆さんも、『読んでみようかな?』と思われる本があれば、試してみて下さい。













右側の書籍は年4回発行の季刊誌で、現在131号が最新刊です。








左側の『邪馬台国はどこですか?』、は奇想天外な短編小説集で「キリスト」や「聖徳太子」などの話も、面白おかしく書かれています。


























これらの資料も、もっともっと詳細に読破しなければと思っていますが・・・・・なかなかです。
またいつか、続編が書けるくらい勉強できたらいいのですがね。

きょうの夜7時頃、旅行から帰ってきます。
旅行談は、また後日『記事にできたらいいなぁ・・・』と考えています。

また明日から、探鳥できるのを楽しみにしています。
さて天気予報は、どうなっているのかな。
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邪馬壹国と卑弥呼(2/3)。(by.一日一善)

2017年05月27日 | その他
さて、きょうは『邪馬壹国』に巧く辿り着けるでしょうか?。

皆さんもご存じかとは思いますが、『邪馬台国論争』は大きく分けて『畿内説』と『九州説』に分かれます。
一日一善は、畿内に住んでいるにもかかわらず、『九州説』の立場です。

その根拠をお話しする前に、魏・呉・蜀の三国と朝鮮半島と九州の位置関係を見ておいてください。
こんな位置関係なんですよ。



【なぜ一日一善は九州だと思ったのか?】

(地理的な問題)
・邪馬壹国が畿内の場合、遠すぎる魏に援軍を頼むメリットは無い。 九州だからこそ同盟を結ぶ必要があったと考える。
 ※応援を頼みに行く時間、応援に駆けつける時間が長く掛かりすぎて、その間に滅ぼされるのは自明。
・邪馬壹国が畿内にあって、九州北部にある伊都国までの西日本全部を統治できるほどの巨大勢力ならば、南にある狗奴国に苦しめられるような力関係にはならないだろう。
 ※『伊都国』が九州の「糸島半島」という事は『畿内説』論者も異論はない人が多い。
・畿内説では邪馬台国への方角「南」を「東」に変えないと辻褄が合わない。
 ※当時の人たちが方角を90度も間違えるだろうか。 現代人より遙かに方向感覚は鋭いはず。
・もし「南」が「東」の間違いだとするならば、すべての方角を90度変える必要があるのではないか。
 ※一部分だけ都合の良いように解釈するならば、日本国中あるいは世界の何処に比定する事ができます。
・『(38)女王国の東、海を千余里渡るとまた倭種の国がある』と書かれている。
 ※畿内で(三重県や和歌山県の)東の海を渡ると何も無い。 わざわざ琵琶湖を渡った訳でもないだろうと思う。
・『(39)倭種の国の南に侏儒国があり、女王国より4千余里』と書かれている。
 ※畿内では何処に比定できるのか。 この「南」も「東」と読み替えるのだろうか?。
・『(35)北九州の伊都国に検察の一大卒を置いた』と書かれている。
 ※畿内に邪馬壹国があったとするなら、「大阪湾」か「丹後」あたりに置くべきであろう。
・畿内説の論者の中でも「末盧国」から「不弥国」までは北部九州だと認めている方が多いが、「九州不弥国」と「畿内邪馬台国」の間に「投馬国」一国しか戸数・道里の記述のある国が無いのは不自然である。
 ※中国地方や四国に、投馬国以外に戸数・道里が分かった国が無かったのだろうか。
・『邪馬壹国より(北)については戸数・道里が分かっているが、その他の国は遠すぎて良く分からない』と書かれている。
 ※邪馬壹国が畿内の場合、『邪馬壹国より(西)については戸数・道里が分かっている』と書くはず。
・『(41)倭の地は、海の中にあってグルッと回ると5千余里くらいである』と書かれている。
 ※まさに九州や四国のような小さな島国を、良く表した表現である。 本州ではあり得ないと思う。

(奈良県にある箸墓古墳が卑弥呼の墓とする説があるが?)  ※『卑弥呼が死んで大いに塚を作る。径、百余歩』
・箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓であるが、女王では無い。 当時、天皇として崇神天皇がいた。
 崇神天皇の墓は、360~400年頃の墓と言われている。
・倭迹迹日百襲姫は4世紀後半(350年頃)の人であり、魏志倭人伝とは100年くらい後の時代である。
・『(48)(49)卑弥呼がなくなった後、男王を立てたが治まらず再度女性の壹与(とよ)を立てた』と書かれている。
 ※倭迹迹日百襲姫(崇神天皇)の時代にそういう事実は見当たらない。
・箸墓古墳から2001年に「馬具」が出土しているが、魏志倭人伝には『(19)牛・馬なし』と書かれている。
 ※馬具は4世紀後半の出土が最古(福岡の老司古墳に出土)である。 その頃に朝鮮半島から騎馬軍が輸入されたのだろう。

(奈良県にある纏向遺跡のホケノ山古墳は卑弥呼の時代の墓と言われているが?)
・『(23)魏志倭人伝には、棺あって槨なし』と書かれている。 
 ※ホケノ山古墳の埋葬形式は、残念ながら「木槨木棺墓」であり、もっと後の時代のものと思われる。

(畿内に祀られている神功皇后が卑弥呼とする説があるが?)
・『(37)卑弥呼には夫が居ない』と書かれている。
 ※神功皇后にはれっきとした夫(仲哀天皇)がある。活躍の時代も倭迹迹日百襲姫よりさらに後の時代である。

(三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡なのか?)  ※『絹や鏡を賜った』
・残念ながら、「三角縁神獣鏡」は中国から1面も発見されていない。
 ※鏡の形式も、魏の形式では無く南方の 「呉」の形式である。 もちろん南方の呉でも、まったく出土していない。
・「三角縁神獣鏡」のなかに、「景初4年」の年号のものがある。
 ※「景初は3年」までしかなく、明らかに日本で作られた鏡と言える。(滅んだことを知らなかった)
・「三角縁神獣鏡」は4世紀以降の古墳からしか出土しない。
・三角縁神獣鏡は、4世紀以降の古墳からしか出土しない。
・魏の時代の中国鏡は「内行花文鏡」・「位至三公鏡」・「双頭竜鳳文鏡」・「方格規矩鏡」・「盤竜鏡」などである。
 ※九州で37面出土しているが、畿内では2面(奈良県では出土していない)である。

(出土した遺物・遺跡を比較すると)
・『(20)武器として鉄矛(ほこ)・鉄鏃(やじり)』とあるが、九州では398個の出土、畿内では4個である。
・『(43)(44)絹製品を賜った』とあるが、福岡で15例の出土、奈良で2例である。
・『(50)勾玉を中国に献上』とあるが、九州では29個の出土、畿内では3個である。
・『(37)宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け』と書かれていて、吉野ヶ里遺跡には3つとも揃っているが畿内の遺跡に3つ揃った遺跡は無い。

(神話について思うこと)
・高天の原は、「天空の世界」ではなくて「都」あるいは「祖国」だと考える。
 ※現代でも「都」に行くことを「のぼる」、地方に行くことを「くだる」と言う。
・高天の原(都)から大和(奈良)に、ニギハヤヒの命がくだっているということは、大和は都では無いということになる。

(風俗について)
・『(15)倭の水人は水に潜って魚や蛤を捕らえる』と書かれている。
 ※おそらく近くに海があったのであろう。 奈良の近くに海は無い。
・『(22)倭の地は温暖である』と書かれている。
 ※まさに九州と思われる。

以上の考察から、一日一善は『邪馬壹国=九州』という考えに至りました。

まだまだ解決すべき難しい問題は沢山有りますが、今の所『畿内説』に劣るようなデータが見当たらないのです。
出土品などは、畿内で出土するものは必ず九州にもありますが、九州で出土するものが畿内に無いことはあるのです。


それでは、いよいよ謎解きです。

【邪馬壹国は何処に在ったのでしょう?】

昨日の資料の内『邪馬壹国への道程記事』を、もう一度整理して箇条書きにして見ます。
※( )内の数字は、原文・現代語訳の節番号を表しています。 興味のある方は、もう一度読み直して下さい。

(2)帯方郡(魏の出先機関)から狗邪韓国(今の釜山あたり)へ行くには7,000余里である。
(3)狗邪韓国から海を渡って1,000余里行くと対馬国に至る。 1,000余戸。
   ※釜山から対馬までを1,000里とすると、当時の1里は7~80m程度と分かる。 上記の7,000里とも合致する。
   ※現在の「対馬」で間違いは無さそうである。 
(4)対馬国から海を渡って1,000余里行くと一大国に至る。 3,000戸。
   ※現在の「壱岐」で間違いは無さそうである。
(5)一大国から海を渡って1,000余里行くと末盧国に至る。 4,000余戸。
   ※現在の「松浦半島あたり」か。
(6)末盧国から東南に500里行くと伊都国に至る。 1,000余戸。
   ※現在の「糸島半島あたり」か。
   ※末盧国から糸島方面は東南では無く北東である。 
(7)伊都国から東南に100里陸行すると奴国に至る。 20,000余戸。
   ※現在の「那の津(福岡)あたり」か。
(8)伊都国から東に100里いくと不弥国に至る。 1,000余戸。
   ※現在の「宇美あたり」。
(9)伊都国から南に20日水行すると投馬国に至る。 50,000余戸。
   ※伊都国から20日水行なのか、帯方郡から20日水行なのかが良く分からない。
   ※帯方郡からだとすると、下記の行程から考えて伊都国から水行10日とも考えられる。
(10)伊都国から南に行くと『邪馬壹国』に至る。 帯方郡から合計で水行10日、陸行1月である。 70,000戸。
   ※伊都国以降の国については、伊都国からの放射式行程にしましたが、連続式行程の考え方もあるかも知れません。

   【放射式と連続式について図示】


(11)女王国より北にある国(上記)については、戸数や道里は概略分かるけれども、その他の国は遠くにあるので良く分からない。
(12)他の国は、斯馬國・巳百支國・伊邪國・都支國・彌奴國・好古都國・不呼國・姐奴國・對蘇國・蘇奴國・呼邑國・華奴蘇奴國・鬼國・為吾國・鬼奴國・邪馬國・躬臣國・巴利國・支惟國・烏奴國・奴國があり、これが女王の境界が尽きる所。
   ※これらの国々が九州内部にあったのか、四国・中国地方あるいは畿内にあったのか今後の課題です。
(13)邪馬壹国の南に狗奴国があり、女王に属していない。
   ※『古事記』『日本書紀』には九州の熊襲(くまそ:現熊本県人吉市周辺が球磨郡~現鹿児島県霧島市周辺の部族)と記述されています。
   ※日本の記録が『九州の熊襲』と書いていて、その北に『邪馬壹国』は有るのです。
(14)帯方郡から邪馬壹国まで12,000余里である。
   ※このことから、狗邪韓国から邪馬壹国まで5,000里以内ということがわかる。
   ※あるいは末盧国まで10,000余里だから、末盧国から2,000里以内と言うことになる。 
   ※末盧国から2,000里なら、北部九州から外に考えることは不可能と思われる。

【一日一善の考える邪馬壹国】

以上のデータを、先ほどの地図に書き込むと・・・。


そして、その他の国を比定してみたのがコレです。青い楕円形のあたりだと考えています。
「吉野ヶ里遺跡」に隣接する南側一帯ですが、「吉野ヶ里遺跡」はもう少し時代を遡ると考えています。


やっと『邪馬壹国』に行き着くことができました。

『魏志倭人伝』にできるだけ忠実に検討したつもりですが・・・・・まだまだ検討すべき課題も多いですね。
今の所、一日一善のファイナルアンサーです。

【旅の想い出】

『邪馬台国と卑弥呼』を訪ねて、対馬・壱岐・福岡・佐賀・大分・宮崎・熊本・富山・出雲(島根)と何度も旅行に行きました。
弥生遺跡を巡る旅です。
地元のタクシーの運転手さんさえ知らない遺跡を探したこともあります。
弥生時代の貫頭衣(かんとうい)を着て、弥生時代の再現食事を食べたこともあります。
今は、野鳥・パズル・水彩画などが主になっていますが、またいずれ『卑弥呼』を訪ねる旅に出る事になると感じています。

行ったところ全部に想い出が一杯あります。

そのうち九州に次いでインパクトのあった、出雲の「荒神谷遺跡」と「加茂岩倉遺跡」の写真を何枚か掲載しておきます。
八百万(やおよろず)の神々が集う出雲。
大国主命の国譲り神話で有名な出雲。
「九州の銅剣文化」と「畿内の銅鐸文化」を併せ持つ出雲。
『卑弥呼の活躍した邪馬壹国』の時代に、おそらく出雲にも強大な勢力圏が有ったのは間違いないでしょう。
だから、邪馬壹国(高天の原)から天菩比神(アメノホヒ)が降ったのでしょう。
いつか、もっともっと出雲のことを勉強したいと考えています。

荒神谷遺跡での銅剣(358本)・銅矛(16本)出土状況。


加茂岩倉遺跡での銅鐸出土状況(39個)。(銅鐸は畿内の文化、九州にはあまり出土しません)


銅剣・銅矛の展示。




銅鐸の展示。


三角縁神獣鏡とその他の中国鏡。


大量の銅剣(358本)銅矛(16本)を、『なぜ1箇所に埋めたのか?』。
おそらく他の国から攻撃を受けて、敗れた末に没収され埋められたのでは無いのでしょうか?。
こんな事を考えると、胸がわくわくします。

そして人生の最後を感じた時、最後の最後に奈良県をもう一度探訪してみたいと思っています。
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