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名護市長選、市民は宜野湾市の轍を踏むな:騙されるという事もまた一つの罪である。宜野湾の若者とその親は何を継承してきたのか?

2017-08-27 20:39:44 | 沖縄

 2017年8月26日の新聞に、2018年2月の沖縄県名護市長選の記事が載っていた。自民党名護市支部が市議会自民党系会派会長渡具知武豊市議の擁立を決めた。氏はこれまで、辺野古新基地建設容認の姿勢をとっていたが、立候補表明では「(県が提訴した辺野古工事の差し止め)訴訟の行方を注視する」と立場を明確にせず市民を欺瞞する曖昧戦術をとっている。また、名護市支部関係者も「移設(新基地建設)の態度は最後まで明確にしないほうがいい」と発言している。これは、宜野湾市長選での佐喜真氏(当選)と同様の詐欺戦術であり、名護市民は同じ轍を踏んではいけない。沖縄の未来はそこにしかない。安倍自民党政権は「絶対に負けられない選挙」と位置づけ、来年秋の沖縄県知事選で本命の翁長氏を倒すために、どんな手を使ってでも稲嶺氏を倒そうとしているのである。

 朝日新聞社が2016年1月24日に実施した「宜野湾市長選」の「出口調査」に関する記事を載せていた。それによると、「志村氏」は高齢層に強く、60代の56%、70歳以上の59%から得票している。「佐喜真氏」は20~40代でリードし、特に30代では67%から得票した。50代では五分五分だったとの事。

 このデータをもとにして極めて恣意的に思いついた事を書いてみたい。

 まず、前置きとして両候補者の人間像について。

 志村氏は63歳、1952年生まれ。彼の育った生活環境は、彼自身は戦争の生々しい実体験はないけれど、戦争体験を持つ人たちに囲まれたものであったといえる。そしてそれは、彼の人格形成の上で大きな根っことなっていると思われる。また、敗戦後の27年間にわたって天皇と日(特に自民党政府)米両政府の意思によって、米国(米軍)による占領下に追いやられていた生活や日本復帰後から今日までの「米軍基地の島」としての生活も人格形成の上で大きな影響を与えていると思われる。

 佐喜真氏は、51歳、1964年の生まれで、1972年の「日本復帰」をした時には8歳ほどで、それ以後の人生は、大雑把に言えば、「戦争体験」や「占領下の沖縄」について人格形成上の根っことする事なく、本土の若者と類似した意識しか持たずに人格形成がなされたと思われる。

 さて、得票状況についてである。

 考えられる事は、この市長選は「50代」を境とした、「それ以下の世代」と「それ以上の世代」との対決であったといえるのではないか。

 60代以上が「戦争体験」を持つ人たちに囲まれ、「占領下の沖縄」を体験して人格形成したにもかかわらず、「基地問題」解決へのあきらめ?と思考停止の現象がみられ「佐喜真氏」へ投票したのだろう。

 また、40代は、1975年以降生まれ。30代は、1985年以降生まれ。20代は、1995年以降生まれ。これらの世代では、すべてが「日本復帰」以後の生まれであり、「戦争体験」が無い事はもちろん、「占領下の体験」も持っていない。それらの世代の親について、40代の親(65歳以上70歳までとする)は、「戦争体験」がなく、「占領下」に生まれ「日本復帰」までに「成人」となっている。「基地」のある生活が当たり前の生活として人格形成をしてきた。そのため、無関心、無理解が育まれてきた。30代、20代の人の「親」はそれがさらにその意識状態が強まっているとみてよい。

 40代、30代、20代がそのような意識状態となった背景には、その世代の親たちが自分の子供たちにどのような姿勢で接してきたかという問題がある。この問題は今日、沖縄だけに限られたものではなく日本全国に見られるものであるが、率直に言えば、「子々孫々に過去歴史を継承させてこれたのか」という問題が存在するのである。

 宜野湾においても、この問題を感じさせる状況が生じてきたとみなしてよい。

 佐喜真氏に投票した人々には「やむを得ない」と思っている人々が多い。そして、「政府と対立してはらちがあかない(長いものにはまかれよ)」「移設先は市長には決められない」「辺野古反対ばかり言ってる気がする」「ディズニーリゾート誘致で活性化できる」などの思いがあるようだ。

 このような思考様式は「奴隷根性」というが、民主主義を守りたい者はこの払拭こそ緊急に取り組まなければならない課題なのである。これを払拭できてこそ「自由」「自決権」を獲得することができるのである。

【奴隷根性論】大杉栄「勝利者が敗北者の上に有する権利は絶対無限である。主人は奴隷に対して生殺与奪の権を持っている。しかし、奴隷には、あらゆる義務こそあれ、なんらの権利のあろうはずがない。

 奴隷は常に駄獣や家畜と同じように扱われる。仕事のできる間は食わしてもおくが、病気か障害を持てば、容赦もなく捨てて顧みない。少しでも主人の気に触れれば、すぐさま殺されてしまう。金の代わりに交易される。祭壇の前の犠牲となる。時としてはまた、主人が客膳を飾る、皿の中の肉となる。

 けれども奴隷は、この残酷な主人の行いをもあえて無理とは思わず、ただ自分はそう扱われるべき運命のものとばかりあきらめている。そして社会がもっと違ったふうに組織されるものであるなどとは、主人も奴隷もさらに考えない。

 奴隷のこの絶対的服従は、彼らをしていわゆる奴隷根性の卑劣に陥らしむるとともに、また一般の道徳の上にも甚だしき頽廃を帰さしめた。人が道徳的に完成せられるのは、これを消極的に言えば、他人を害するようなそして自分を堕落させるような行為を、ほとんど本能的に避ける徳性を得る事にある。しかるに何らの非難または刑罰の恐れもなく、かつ何らの保護も抵抗もない者の上に、容赦なくその出来心の一切を満足さすというがごときは、これとまったく反対の効果を生ずるのはいうまでもない。飽く事を知らない暴慢と残虐とがはびこる。

 かくして社会の中間にある者は、弱者を虐遇する事に馴れると同時に、また強者に対しては自ら奴隷の役目を演ずる事に馴れた。小主人は自らの奴隷の前に傲慢なるとともに、大主人の前には自ら全く奴隷の態度を学んだ。」

 

  天皇や自民党政府は敗戦時から、占領という環境下で作られた(安倍は米国による強制という認識をしている)「日本国憲法」体制を廃して、「大日本帝国」を復活させる事を宿願とし、そのために、執拗にジグソーパズルを完成させるように、今日まで延々と野望を捨てず、その意思を受け継ぐ次代の政治家や支持者を育てる取り組みを続けてきたのである。そして、敗戦後70年を経た今日、その意思の正統な継承者を自認する安倍晋三政権は、その最後の仕上げをしようと目的達成のためには手段を選ばない手法で意気込んでいるのである。彼らは本気であり、あきらめる事は絶対にないのである。なぜなら、彼らはあきらめた時点でその存在価値を否定され居場所を失うからである。後戻りもできないのである。だから、死に物狂いなのである。

 それに対して、佐喜真氏に投票した人はどうだったのか?なかでも40代以下の人たちはどうだったのか?命がけで「基地問題」を分析し考えた末の投票だったのだろうか?辺野古になら新基地を建設させても良かったのか何とも思わないのか、辺野古に新基地が建設されれば将来の辺野古は沖縄県はどうなるのか、普天間基地跡地に米国資本のディズニー・リゾート施設が誘致されれば将来の宜野湾は沖縄県は良くなるのか?そんな事に広く深く思いを馳せたであろうか?私にはそうは思えない。歴史過去が世代間でしっかり継承されていないために、主観的な感覚で結果的に安易に刹那的に手前勝手な思い込みで期待を抱き、佐喜真氏へ投票したのではないだろうか。これまで何度も自民党に騙されてきたにもかかわらず。

【伊丹万作の言葉】「騙されるという事もまた一つの罪である」

 佐喜真氏に投票した人たちは、彼の恐ろしい正体をもっと正確に知っておくべきだった。彼は「普天間の一日も早い閉鎖・撤去」を主張したが、辺野古移設については主張をせず賛否をあいまいにしたが、それは、安倍自民党政権の意を呈した姿であったのである。その意味は、あるべき市長の権限の範囲を示す(アピール)とともに、政府の権限である事を表明(アピール)していたのである。選挙勝利を見越して、他の自治体首長に向けて安倍政権に対する「首長のとるべき姿勢」を知らしめたのである。そして、佐喜真氏はその安倍政権を支持している事を表明(アピール)していたという事なのである。そして、ディズニー・リゾート施設誘致を経済振興策としてアピールしただけであったが、この事は宜野湾や沖縄県が米国資本や米軍基地との間でリセットできない新たな関係を作る事を意味しているが、それを言葉にせず伏せたままであった。このような態度は彼の狡猾さを表しており、詐欺的手法そのものであった。これまでの彼の動向から見れば改めて驚く事ではないが。

 基地問題は辺野古に新基地が建設されたならば新たな段階に入る。辺野古が半永久的な基地である事から考えれば、辺野古はもちろん沖縄県は今後半永久的に「基地問題」から解放される可能性はなくなるという事。有事の際には、攻撃目標となり、かつての「地上戦」の悲劇以上の悲劇を再び体験する事から逃れる道は断たれるという事。これまでとは異なり、沖縄は半永久的に本土日本人のスケープ・ゴートの役割を担わされる事になるという事。ディズニー・リゾート施設誘致は、辺野古新基地建設問題や「基地の島」沖縄問題から目を反らせる(騙すための)「撒き餌」だったのであるが、佐喜真氏に投票した人たちはそれを見抜く事ができなかったようで、もし誘致が実現すれば宜野湾はもちろん沖縄県民は後戻りのできない拒否できないものとして米国(米軍)との新たな関わりを持たざるを得なくなり「腐れ縁」として生活していかざるを得ない立場に立たされる事になるという事。子々孫々までも。

【重光葵の言葉】「日本人は、政治を見る事、あたかも芝居を見るがごとく、鑑賞はしても、自分自身が役者の一人であり、自ら舞台の上にある事を悟っていない」

(2017年8月27日投稿)

 

 

 


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