空と風と、月と、星。

fc2「空と風と、月と、星。」からの続きです。よろしくお願いいたします。             

広島平和記念資料館のページと、辛木行夫さんの原爆の絵(カラフルです)をご覧になってほしいと思います。

2015-08-06 17:00:00 | 日中・太平洋戦争のこと
こんにちは。暑いですね。
北海道は涼しいかと思ったら、最高気温が37℃になった場所もあるとか。
全国的に、猛暑が続いています。


今から70年前の8月6日、アメリカにより広島に原爆が投下されました。
この日は、ブログでは必ず何か記事を書かないとならない、という気分になります。

原爆ドームのある広島平和記念公園に隣接する、広島平和記念資料館(原爆資料館)のページをご覧ください。

=============ページより。文章を転載。
【東館】
東館は、被爆前と被爆後の広島の歴史をふまえた「広島の歩み」を展示しています。
1階で被爆前の広島と被爆直後の広島のようす、2階で広島の復興のようす、3階で現在の核兵器をめぐる世界のようすや広島市などの平和に対する取り組みなどを展示しています。

(「被爆までの広島」には、<朝鮮人・中国人などの強制連行>という項もあります)

【西館】
西館は、被爆者の遺品や溶けた瓦(かわら)などの被爆資料、被害のようすを伝える写真などを展示しています。
原爆が引き起こした被害の実相を後世に伝える役目を持っています。

=============

西館のページでは、◆原子爆弾の原理◆を簡単に図で説明しています。
<長さ:約3メートル、 重さ:約4トン、直径:約0.7メートル、主体:ウラン235>
と、あります。
長さ、重さ、直径を、想像してみてください。
重さは4トンとありますが、日本の1000ccクラス乗用車の重さが約1トンくらいです。
または、「1辺が1メートルの立方体の水」が、1トンです。
西館のページには、原子爆弾の誕生についても、簡単に説明しています。

アメリカ・ネバダ州で原爆実験に参加した米軍兵士の証言を、昨年私はブログにまとめています。
こちらもご覧ください。
(1946年~60年代、)アメリカ・ネバダ州での原爆演習に参加した兵士(当時17歳)の回想---1995年放送のNHKスペシャルより。
記事より。米兵の証言。ここから===========
 実験のあと、私は肺をやられ、胃から出血しました。関節炎、胆嚢の障害、尿路疾患、心臓も悪くなり、発作をおこしたこともあります。あの実験で、モルモットにされた翌日、歯茎から出血しました。2週間後には、歯がぐらぐらし始めて、指で触るとポロっと抜け落ちてしまいました。7本もの歯が抜けました。胃の調子はどんどん悪くなり、大量に出血したため、手術を受けました。胃潰瘍だといわれました。それまでは、どこも悪くなかったんです。
=============-ここまで。


今日紹介するのはもう一つ、以前にもブログで取り上げたことがあるのですが、
辛木行夫さんという人が描いた、原爆の絵について、です。

リンク先の、アナーキー読書感想文から。

ブログを書いているうごさんは、カテゴリー:「辛木行夫の原爆の絵」にまとめています。
うごさんは十数年前に、辛木行夫さんの絵の展覧会で、直接本人にお会いになっています。そこで、辛木さんと話もしたそうです。
話した内容が、とても貴重だと思いました。ぜひ、リンクから読んでいただきたいと思います。
辛木さんは、広島市中心部から3キロ離れた自宅で、被爆しました。当時15歳でした。

私がそれまで接してきた、原爆の被害状況を表したものは、幼少時はアニメ(小学校低学年のときに学校で見ましたが、目が飛び出る場面が怖かった)、そして白黒の写真(それでも十分怖い)、映像、
高校生や大人になってから見た、米軍の資料のぼやけたカラー映像です。
そして、ブログを始めてからは丸木美術館の「原爆の図」という絵があることを知りました。画家の、丸木位里・俊夫妻が描いた絵です。
白黒の映像、ぼやけたカラー映像、「原爆の図」、いずれとも全く違う辛木行夫さんの絵は、
ブログで紹介しているうごさんが「リアルだ」と書いているとおり、リアルです・・。
(うごさんがブログにアップしているのは、絵はがきだそうです)
(丸木夫妻の「原爆の図」ですが、夫妻は原爆が投下された後、人々の救護にあたりました。私は辛木さんの絵も「原爆の図」もネットでしか見たことがないのですが、「原爆の図」は、悲惨などという言葉で表せないほどで、これも、見なければならない絵、だと思っています。丸木美術館の「原爆の図」
辛木行夫さんの原爆の絵 1-1 では、原爆投下後のおびただしい数の遺体と、遺体が膨張してしまっている様子を描いた絵ですが、
まるで、自分がそこで見ているかのような気にもなってしまう、そんな感じの絵です。

辛木行夫さんの原爆の絵 2
で、うごさんは、
私が、小さい頃から資料として見せられた写真や映像のように、
現実は白黒やくすんだ粗いフィルムの世界ではなかったのです。
それは、クッキリとした日常生活の色彩の中で起こっていた
のであって、あの60年以上前の戦争自体、そうだったのです。

と、書いています。
2枚目の絵:「御幸橋あたりで川の中の死体を魚を取るように回収している人」 では、人が舟に乗り、
川に浮かんだ遺体に紐のようなものをつけて、水に浸けたまま、運んでいます(移動させているようです)。
大勢の人の遺体をまとめて、です。

私がこの絵を見て思い浮かべたのは、自分の家の近くに流れる、「笛吹川」という川です。
昔は、大雨で氾濫したらしいです。

私の祖父は2度、日中・太平洋戦争時に召集令状が来て従軍したことは以前にもブログに書きましたが、
祖父の軍服姿の写真を初めて見たのは、高校2年か3年の時でした。
写真を見るまでは、「戦争はいけないに決まっている」と思いつつ、どこか別の国の出来事のような気もしていた戦争ですが、
自分のおじいさんが、となると、急にリアルに感じられて、初めて見た時に驚きで息を呑んだのを覚えています。
辛木さんの絵は、そのような感情を呼び起こさせる絵、という印象です。
もう一度、リンクを。「辛木行夫の原爆の絵」 ぜひ、ご覧になってみてください。



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
平和を促す役目は我々 (マー・ひろし)
2015-08-19 11:25:46
体験者が少なくなっていくだけでなく、
人の価値観・考えの多様化、
細かく複雑になっていく世界情勢。
そんな中を、戦争、原爆をどう伝えるべきか?

今までの凄惨・悲惨の一側面では、
実感を得ることは、だんだん難しく
なってくるのかもしれません。

今までの資料に加え、
他側面の証言、検証、考え、昔の写真のカラー化
などなど、様々な方向から、
戦争を伝える必要があるかもしれません。

いろいろな方法を使って、
少しでも平和を促したいものです。

「勘違いな人の日記」
これからも応援しております。
返信する
勘違いしつつも勘違いじゃないを目指す (ゆうこ)
2015-08-21 21:00:41
マー・ひろしさん、コメントありがとうございます!

>今までの凄惨・悲惨の一側面では、
>実感を得ることは、だんだん難しく
>なってくるのかもしれません。

それ言えてると思うんですよ・・。
たとえば、私のリンク先のブログの方が、1945年8月14日の天皇の側近のことを取り上げていたのですが(ある一人に焦点を当てるととても分かりやすいし、親しみやすい)、
それに比べて大きなメディアではどうしても、「玉音放送」の『耐え難きを耐え』の部分や、正座して泣いている日本人が強調され気味で、
細かな動きは放送していたとしても、目立たないです。

ひろしさんのおっしゃるとおりです。
私はブツブツと文章がまとまらないながらも、これからも、このブログ続けていきます。
どうもありがとう!U´・ー・`U
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。