湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

作詩にあたっての十個条第七条

2016-01-31 18:26:58 | 
蜜蜂がいなくなった現象は、世界では続いているんでしょうか。逗子の野にはいましたけど。

では、金子光晴「作詞にあたっての十個条」から第七条を引用します。
字づらの効果よりも、心に受けわたす中身のほうに重点を置かねばならないこと。
 できあがった詩が一見、巧妙に、ソツがなくできていても、それでその詩がすぐれたものだということはできません。また、表現上のみせかけで、中身がさもゆたかそうに書かれた詩もありますが、そういう詩は、ちょっとだまされても、すぐ、内容の貧しさが気づかれてしまって、ながく人の心にのこるわけにはゆきません。なんの奇もないようにみえていて、ズシリと心にのこる詩もあります。そういう詩は、まえの詩が小手先の詩であるのにくらべて、全身の重味のかかった詩とでもいうほかはありません。つまり、それだけじっくりと生活したうえで書かれたものなのです。作品の世界的、宇宙的ひろがりとでも申しましょうか。
 山村暮鳥の詩に「囈語」というのがあります。
   藕盗金魚
   強盗喇叭
   恐喝胡弓
   賭博ねこ
   詐欺更紗
   瀆職天鵝絨
   姦淫林檎
   傷害雲雀
   殺人ちゆりつぷ
   堕胎陰影
   騒擾ゆき
   放火まるめろ
   誘拐かすてえら。
 この詩はかなり思いきって奇抜なものではありますが、おもいつきのおもしろさにひきずられ、並びに才気をてらったものでもあります。字づらだけで、必然性が乏しく、先端的衣装の目新しさが取りえといえばいえます。新しい表現の試みとして、可能性をひろげたという功績もあるかもしれません。おなじ作者が、後年に書いた作品「雲」をひいてみましょう。
   おうい雲よ
   ゆうゆうと
   馬鹿にのんきさうぢやないか
   どこまでゆくんだ
   ずっと磐城平の方までゆくんか
 は、若いときの覇気や、てらいをはらいおとして、淡々とした境地で、素朴なことばでうたいながら、この詩の背後は、大自然の運行のはてしないひろさにつづいています。人は、この詩をよんで、のびのびとした解放感と、作者の善意とにふれることができます。詩の見どころは、そんなところにあることを念頭から失わないようにしてください。

これを読んで同じ作者の詩だったんだ~って、改めてびっくりしました。
ところでメンバーの皆さん、もう1月が終わります。締切は2月4日ですよ!

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