湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

花火@鎌倉&多田智満子

2016-07-21 09:48:31 | 
昨日は鎌倉花火大会でした。材木座海岸で鑑賞。去年は中止になってしまったので2年ぶりです。鎌倉花火大会といえば水中花火。

光跡がよれよれしているのは手持ちバルブ撮影のため。肉眼で楽しみたいので写真撮影はほぼそっちのけ~。この言い訳以前も書いた気がしますが
多田智満子(1930~2003年)の、その名も「花火」という詩集から超絶クールな表題作を引用します。

花火
永劫を嘲る
かん高い朱と金のアルペジオ
羊歯類は落魄に飢え
一夜熾んなヒステリア


私は多田智満子への詩(ポエジー)の最初の訪れについて質問した。そうねえ、萩原朔太郎だったわねえ、最初に読んだ詩は……と、詩人はのどかに言った。
 萩原朔太郎のあの特徴的な暗さと甘さのまじった表情をした大天使の不意の訪れは、十代の少女智満子にとって、相当ショッキングな事件だったらしい。少女はつづいてニイチェの「ツァラストラ」(原文ママ)などを耽読した。しかし、朔太郎と言いニイチェと言い、いずれも少少水蒸気過多の傾向の濃い詩人である。これら、高地ドイツ=上州的詩風と多田智満子の地中海的詩風(この傾向は第一詩集『花火』において、すでに顕著である)と、どこでどうつながるのか。
 智満子さんとの永いつきあいの中で、この時はじめて聞いたのだが、彼女は二十歳の時、肺結核に罹ったという(思えば、私の結核罹病も二十一歳の時だった)。この時、彼女は来る日も来る日も、モーツァルトを聞き、ヴァレリーを唱し、ベルグソンを読んだのだという。モーツァルトとヴァレリーとベルグソンの組合せなんてずいぶん妙でしょう、と彼女は微笑(わら)うのだが、そんなことはない、その音楽、詩、哲学の持つ明るさ、軽やかさ、明晰さは共通して地中海的(モーツァルトの本質をなすものも、ドイツ人の明るい海光への惝怳であろう)なものだ。
 私にも覚えのあることだが、結核の闘病生活というものはやりきれない。死の不安はいつも身に添うようにありながら、けっしてはっきりしたかたちをとることはない。部屋の隅やベッドの下、ものの匂いなどの中に黴かなんぞのように陰微にいるのだ。こんな陰鬱な空気からのがれるためには、日本的湿潤からできるだけ遠い、明るく、軽やかで、明晰なものを求めるにしくはなかろう。私は多田智満子の詩の秘密を見たような気がした。(高橋睦郎「詩人を訪う」より)
コメント
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