かりんとうの小部屋Z

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勉強できる子 卑屈化社会

2019年01月03日 15時41分19秒 | BOOK
秀才でもダメなやつ、という呪いに気づく 『勉強できる子 卑屈化社会』に見る日本人の偏見とは

勉強ばかりして子どもらしくない。社会に出たら勉強なんて役に立たない――日本の「勉強できる子」には、こんな呪いの言葉が降り注ぐ。最近テレビ番組で東大生をよく見るが、彼らが(学力が低いことを公表している芸能人と討論等をしたあと)最終的に「いくら学力が高くても手に入れられない何か=愛情、友情、人間味、コミュニケーション能力等」を持ち合わせていないと指摘される役割を担わされていることからも、この呪いの持続性は高いと考えられる。

著者は「勉強できる子」の周辺地図を丁寧に解説していく。現状を分析するだけでなく、教育の歴史を振り返り、国際的な目線で他国と日本を比較し、最終的には著者なりの「勉強できる子」用の処世術を提示する。あることができるがゆえの悩みなんて贅沢だと言われそうだが、人間の感情は相対評価ではなく絶対評価だ。「こちらの立場のほうが辛い」「こちらの立場で悩んでいる人のほうが多い」なんて比較は意味がない。悩んでいるその人が辛いと感じたら、それは百%、きちんと辛いのだ。そんな真っ当な主張さえ許されないような場所に佇む人に、この本は優しく寄り添う。

印象的なのは、「勉強ができる」とは「足が速い」「絶対音感がある」と同じく、人格の一部ではなく才能の一つであるという指摘だ。学園ドラマに出てくる秀才は嫌なヤツとして描かれることが多いが、そいつは学力関係なく嫌なヤツなのだ。同様に、足が速いから元気で明るい、という論も成り立たない。そう考えると、このような呪いは「勉強できる子」以外にも、さらに言えば大人になった私たちにも降り注いでいることに気づかされる。

恋愛そっちのけで白球を追いかけた元高校球児と、女性経験のない東大生。彼らを同じように「自らの才能を追求した者たち」と捉えられる自分に出会うことは、この世界に降り注いでいるあらゆる呪いを解くことにも繋がるのだ。

評者:朝井 リョウ
(週刊文春 2017.2.9号掲載)


勉強頑張っていい大学入るのと、スポーツ頑張って賞もらうのって、頑張りレベルは同じ。のはずなのに、勉強は「勉強ばっかりしてきたの?さみしい学生生活だね。他に何ができるの?」といわれ、スポーツは「おおすごい!素晴らしい青春だね~。きっとモテるね~!ほかのこともできそう!」と言われる。

勉強好きは世間から冷たい目で見られ、だんだん卑屈になり、最後には凡人化する。
勉強は楽しいからしてたんだけど! 読書も同じ!卑屈になる必要ないよね!堂々と読もう!


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