蔵書目録

明治・大正・昭和:楽器・音譜目録、来日音楽家、音楽教育家、来日舞踊家、軍内対立、医学教育、清国留学生、林彪、北京之春 

「ピヤニスト久野久子女史」 (1921.7)

2015年12月03日 | 久野久子 2
 

 「久野久子女史」

  本誌は現代女名人伝の一人として、久野久子女史を御紹介いたします。東京音楽学校教授久野女史が、わが日本の生んだピヤニストの随一であることは、恐らく何人も異論なきところでありませう。わが楽壇の花たる久野女史が名人としての栄誉を得るまでの苦心の物語は、本号の誌上に詳しく発表されてあります。図は弾奏中の女史で、本誌写真部が最近撮影したものであります。

 上の写真は、大正十年 〔一九二一年〕 七月一日発行の『主婦之友』 七月号 夏季特別号 第五巻 第七号 の口絵にあるもの。

 なお、苦心の物語とは、同号掲載の下の文である。文中には、下の写真もある。

 

   (最近の久野久子女史であります)

 現代女名人伝(其二)

  ピヤニスト久野久子女史 記者 松田鶴子 〔下は、その一部〕

 (二)

 天才の生立ちには多くは一種の奇異な事実がまつはり易い。或者はそこに神の摂理を見る。或人はそこに運命の黙示をよむと云ふ。私は久野女史のそれを誇張して、彼女の幼時をローマンスの霧に包まうとは思はぬが、しかし又彼女の未来を今日の境地に釘 つ けた、小さい哀話を逸するわけにもゆかない。
 女史は明治十八年十二月、昔ながらの名にゆかしい滋賀の都大津の町に生れた。山紫水明の地は偉人を生むといふが、小波美しい琵琶の水と、勤行の鉦 かね の音聖 きよ い叡山の神秘な息吹とに擁 いだ かれた大津の自然は、女史が特に天かた與へられた揺籃であつた。家は酒造と質商 しちや を兼ねてゐたが、父君彌助氏の丹誠で鍛へ上げた家運は、女史出生当時は朝日の如く隆隆たるものであつた。
 生後僅かに半歳ばかりの時であつた。一日女史は子守女の背に負はれて、氏神なる大津松本の平野神社に遊んだ。そして琵琶の湖を一眸 いちぼう の下に見晴す社の高い石段の絶頂から転げ落ちて、股の関節を外 は づしてしまつたのである。帰宅ののち、常には機嫌のよいおとなしい赤坊が、細い咽喉を裂けちぎれるほど泣き叫ぶので、少からず親達の注意をひいたが、子守女は不思議に顔にも手にも擦創 すりきず 一つ付いてゐないのを奇貨として、ことの真相を秘しかくしに隠してしまつた。そして両親のそれと気づいた時には、女史は一生回復することの出来ない不具の身となつてゐたのである。
 思へば運命の定めは奇しき限りである。子守女の小さい不正直は、大正の楽壇に最も誇るべき天才の一人を送り出す機縁の一つとなり得たのである。女史の一家が不慮の災難に遭つて悲嘆の涙にかきくれてゐた時、運命の神は、未来の楽星のために適はしい祭壇の用意に急がしかつたのである。
 かうして人並以上に眉目 みめ 美しく怜悧 さか しく生れ来た一人の娘が、不自由な脚 あし を引摺つて遊び戯れるさまは、どんなに両親の心をかき乱したことであらう。それも自分達の不注意がその因 もと をつくつたことを思ふとき、身に代へても償ひたいと嘆き悲しむのは、当然の親心である。両親の慈愛はこの自責の苦悩を伴つて幼い久子女史の上に雨のやうに降り注いだ。けれどもすぐれて聡明で且つ極めて意志の強かつた母堂ふさ子氏は、不憫の涙に咽びつゝも、それを露はに出して不具の娘を盲愛する人ではなかつた。さういう身には一生独りを全うする覚悟と備へが大切だといつて、まだ物心もつかぬ五つ六つの頃から、琴と三味線をきびしく仕込むのであつた。行末 ゆくすゑ はこの芸によつて生きさせようといふのであつた。
 世間では久野女史を晩学のやうにいひ伝へるが、西洋音楽に志したのこそ十七歳の秋であつたが、女史の聴覚が初めて楽の音に目醒めたのは、実にこのいたいけない若い嫩芽 わかめ が漸く春の初光に萌えそめたその頃からであつた。しかも一生をこの楽音の一節に捧げつくさねばならぬ一身の事情は、幼児の胸にも多少の感銘があつたのであらう。女史の音楽に対する感受性は日にゝ鋭い閃 ひらめき を見せ初めた。恐らくは洋楽よりも、伝統的に理解の深い邦楽によつて、女史の幼い官能が培はれ深められたといふことは、女史にとつて寧ろ幸福なことであつたに違ひない。

 (三)

 手ほどきは土地の師匠から受けたが、田舎の町とて名ある師もないので、尋常三年のとき京都に出て、古川瀧齋検校について生田流の琴曲を専心稽古することとなつた。そのとき令兄も小学校を卒へて京都の中学へ入つたので、母堂は、忙しい家業を犠牲にして、兄と妹の監督のため共々上洛したのであつた。全くこの母堂のは、孟母にも劣らぬ賢い人であつた。それだけに子供の勉学については随分厳格で、殊に久子女史に対しては、『お前は人と違ふ体だ。他処 よそ のお娘 こ のやうに嫁入り支度の稽古ではない。生命を賭けての仕事だ。この仕事の他にお前には何にもないのだ』と、朝はほのゞ明けから、夜はあたりの物音が絶え果てるまで、撥 ばち と爪とを離させなかつたといふことである。
 久子女史の篤い天分は、かうした母堂の血のしたゝるやうな励ましをまつて、めきゝと頭角を現はして来た。殊に天性の美音と豊かな声量とは、どんな複雑な唄物でも平然と唄ひこなした。生田流にある若葉の曲などは一つの節を十分ほどもつゞけて引張るので、余程声量も豊かな節廻しの上手な人でなくては唄へぬものとしてある。それを久野女史は十三四歳の頃に立派に唄ひこなしたといふのを見ても、彼女は声楽家としても一家をなす素質があつたものと思はれる。
 十七歳までにはすつかり奥許 おくゆるし を得たのであつたが、母堂はその喜びを俟 ま たず、女史十五歳の秋、苟且 かりそめ の病のため、便り少い我が娘の前途に心残しながら、桐の一葉と共に散つて行つたのは、女史のためにも母堂のためにも限りなき恨みである。

 (四)

 久野女史は既に奥許しを取つたので、母君の遺言を守つて、一生を琴曲の師匠として暮す決心であつたが、折ふし令兄も高等学校を了 へ て東京帝大に入学することになつたので、『これからの世の中に琴や三味線の師匠でもあるまい。東京には官立の音楽学校もあるといふ。兎に角試験を受けて見たらどうだ。是非一緒に上京しよう』とすゝめられ、父君も『お前方のよいやうに』と許されたので、急に規則書を取りよせるやら、大津に帰つて女学校の先生から英語その他の学科を習ふやらまた譜の読み方も少しは知らなければといふので、オルガンなしに一二三 ドレミ を習つたりした。さうし僅か半年間に兎に角一通りの準備が出来たので、父君と令兄とに伴はれ、初めて上京したのであつた。それは明治三十四年、久子女史十七歳の秋九月であつた。女史はその頃の追懐を、
 『まるで無茶でしたわ。第一その頃ピヤノなんて見たことも聞いたこともあれしまへん。父と兄と三人が三等車の隅つこに小さう塊つてなあ。音楽学校てどんな学校やろ、大津の女学校よか立派やろなど噂しながら来ました。翌日上野の学校の前を通つたとき、奥の方から何や知らんエ、音色が幽 かす かに聞えたんで、あゝ入学 はい りたいなあ。入学れたらどんなに嬉しやろとしみゞ思ひました。何が何やら夢中の中に試験もすみ、多分駄目やろと諦めてゐたのが、假入学を許されることになつた嬉しさは、今でも忘れることが出来ません。ですが假入学といふのですから、その試験の成績はほんに危いものでしたやろ。オ、恥づかしい』と何所 どこ までも処女の気分失せぬ久子女史は、羽織の紐をまさぐりながら、美しい瞳をうつとりと見張るのであつた。
 その年の十二月には本入学を許され、甲種師範科に在籍して、中村夫人とハイドリツヒ氏とについて、ピヤノの手ほどきを受けた。在校一年にして、幸か不幸か肋膜を病んだので、大津に帰つて一年間静養し、身も心も新たに健かになつて再び学校に帰つたのは、二十歳の九月であつた。この一年間の休学のためこんどは幸田延子女史に学ぶことが出来たのであつたが、久野女史は『私に本当にピヤノといふものを判 わか らしてくだすつたのは幸田先生です。私は語学の素養もありませんし、従つて譜の読み方などもずつと遅いのです。けれど何 ど うかかうか今日ピヤノの音 ね を出すことが出来るのは、全く幸田先生のおかげです。私の脚を折つて芸術に奉仕する機会を與へて下すつた神様は、一年間私に病気を與へて幸田先生と遭 あ はして下すつたのだと信じます』と、幸田延子女史を甚 いた く徳としてゐる。

 (五)

 一年間の静養に加へて、幸田女史を得た久野氏は、天の時と地の利をしめた勇者のやうに、その技もめきゝと上達した。翌年三月甲種師範科の卒業證書授与式に当り、器楽部一年生で、クーラウのソナタを弾いたのなどは、今から考へると何でもないが、当時にあつては異教として衆目を聳 そばだ てしめた。これが女史の初陣であつたが、明治三十九年の夏、第十七回卒業證書授与式には、器楽部卒業生として、女史はベートーヱ゛ンの競奏曲 コンチエルト を弾いたのであつた。これよりさき幸田延子女史やケーベル博士は、競奏曲を弾いてゐたが、それは人も許し自分も許した斯道の権威である教授達であつた。その頃の生徒達は名を聞いたゞけでも身を慄 ふる はして恐ろしがつてゐた競奏曲を、生徒の纎手 せんしゆ に弾奏し得たのは、誠に久野久子女史が嚆矢 こうし であつた。
 音楽学校卒業後は研究生として学校に残りケーベル博士、ロイテル氏、シヨルツ氏と、歴代の教授について研鑽に身命を捧げて余念がなかつたので、技はますゝ進み、人の追従を許さぬ彼女独特の香り高い力の芸術は、この間に次第に形成されて、天才久野女史の名は、上野の杜 もり 深くひゞき渡る美しいメロデーと共に、東都の楽壇に曉の明星のやうにきらめき初めたのであつた。とは云へ久野女史のこの栄誉の陰には、彼女の血を枯らし肉を削ぐ苦悩の戦のあつたことを忘れてはならぬ。
 女史の天分は篤かつたとはいへ、その天分を拓 ひら いたのは彼女絶倫の精力と努力とであつた。それに性来の負けず魂が添つて大成されたためである。久野女史の勉学ぶりが近所の床屋の親方は、
 『久野さんといふ方は恐ろしい勉強家だ。上野の杜に烏が啼かぬ日はあつても、あの人が気違ひのやうにピヤノをかき鳴らさぬ日はなかつた。私も長らく学校の近所にゐますからいろんな音楽家に知合がありますが、久野さんのやうな糞勉強家を見たことがない』と奇蹟のやうに語り伝へてゐる。
 また女史に親しく仕へてゐた下婢の一人は
 『先生がピヤノにお対 むか ひになつたときのお顔はほんとうに凄うございます。目の光が何ともいへぬ色を帯びて、それは到底 とて もこの世の人ではないかと思はれる時があります。そして思ふやうに手が動かぬと、一日でも二日でも御飯を召し上らないのです。演奏会などがあると、もう一週間も二週間も前から誰にも会はないで、家の者にも口一つお利 き きにならず、部屋に鍵をかけて練習なさるんです。私のやうなものは見てゐるだけでも寿命がちぢまります。あんな苦しい修業は、孫子の末までさせないことだとつくゞ思ふことがございます』といつてゐるが、その火のやうな悶 もだ えと、飽くことを知らぬ向上欲と、芸術的執着とがもつれもつれて、女史独特のあの力強い芸術を作り上げるのであらう。

 (六)

 四十二年、即ち女史二十五歳の時、時の音楽学校長湯原元一氏は、女史を抜いて助教授とした。爾来女史は自己の研究と共に後進のために身を挺して訓育につとめたのであったが、何事にも迸 ほとばし るやうに情熱をもって人に迫ってゆく女史は、その子弟を導くに当っても全人的に総て投げ出してかゝった。髪をふり乱して、汗が新調の着物をしみ通すのも知らず、生徒の肩にかぶさるやうにして、そこが違ふかう弾くのだと、一々手を取って教へるのであった。況 ま して自分の教子が演奏の場合などは、殆んど意識を失ったかのやうに、或は手を叩き首をふって狂喜したり、譜を間違ったといっては人目を忘れて悶え嘆くので喜怒を色に現はさぬことを淑女の誇りとする人々からは、一種の滑稽と見られるのであった。されど女史のかうした純真な芸術家気質は、感受性の鋭い若い音楽家の群からは、恋人のやうに敬愛され『久野先生久野先生』となつかしみ親しまれるのである。
 女史は自から常に口にしてゐる通り、妥協の出来ぬ誤魔化しの出来ぬ人である。先頃来朝した世界的のバイオリニスト、エルマン氏の演奏を聞いた時、女史は『私は何だかエルマン氏がお気の毒なやうな気がしました。あれほど偉大なあの人の芸術が、伴奏者なくては出来ぬといふのは、何といふつらいことでせう。私はエルマン氏と伴奏者との間に紙一枚の隔 へだた りのないことは信じますが、それだけにあの方の心のの何所 どこ かに調和の苦労が潜んでゐることも信じます。私のやうな頑固者は、伴奏者の要らぬピヤノを撰んだことを喜んでゐます』といってゐたが、かういふ風に他人と妥協の出来ぬやうに、自分の心とも妥協が出来ぬ。演奏会などの場合も自信のない限りは決して手をつけぬ。従って演奏の数は比較的少ないかのやうである。四十四年の十二月、音楽学校に開かれた第二十五回音楽演奏会にユーバーの競奏曲 コンチェルト を、越えて大正二年十二月、クローン氏の指揮する管絃楽 オーケストラ とともにバッハ、グノーの黙想曲 レヱ゛リー を、五年五月にはクローン氏の指揮する管絃楽の下に独奏者として、ショパンのホ短調競奏曲作品十一の演奏をなし、同年十一月、皇后陛下音楽学校に行啓あらせられた際、グリークの春の曲とショパンの練習曲 エチュード との御前演奏が仕った。これ等は世人の記憶に深く刻みつけられた思ひ出深い、驚嘆すべき演奏であったが、女史の芸術に一区画を齎らしたものは、大正四年一月廿一日の奇禍である。
 この夜女史は、吹きまくる寒風をショールに包 くる まって、赤坂葵橋の停留場で電車をまってゐた。驀然 まっしぐら に走 は せ来た自働車に、脚の不自由な女史は身を転 かは す間もなく、無惨にも轢き倒されて重傷を負ひ、人事不省の身を築地の病院に運ばれたのであった。再三危篤を伝へられたほどの重症であったが、天はこの若い天才を惜しんでか、半年の入院後再び元の健かな心身をもって、芸術の奉仕を許された。この病中、昏睡状態に在りながらも、常にピヤノを弾く手振りをしてゐたといふことであったが、夢寐 むび にだも心を離れなかった、そのピヤノに、再び対 むか ひ得た時の女史の歓喜は、何をもって現はすことは出来ない。以来猛烈なる練習、誠に寝食を忘れてベートーヱ゛ンの難曲に練習をつんだのであったが、大正五年十二月、女子大学桜楓会と音楽学校々友会とは合同して、女史のために恢復祝賀の演奏会を開いて、復活した女史の芸術を公衆に紹介した。この時の盛況は従来のあらゆる記録を破り、久野久子女史の名は、都の大空を春の霞のやうに立て罩 こ めて、若い男女の血を沸かし肉を跳 をど らしたのであった。   

 (七)

 その後沈黙二年、再びベートーヱ゛ンの大曲の研究に心を潜め、難曲五つを拵 こしら へ上げるや、大正七年二月、再度の大独奏会を開いた。この二回の独奏会によって、現代の日本に於てベートーヱ゛ンを弾き得るものは、久野女史を措いて他にないとの定評を完うしたのであった。
 誠にベートーヱ゛ンのあの逆まく怒涛が岩を噛み石を砕き、吹きまくる疾風が野も林も埋めつくすやうな、力の強い線の太い芸術は、久野女史のやうに全人的に曲の精神に突入してゆく人でなくては、現はすことは出来ぬ。女史はこの演奏中、渾身の力と心を、細い十本の纎手 せんしゅ にこめて鍵 キイ を押したので、指先は破れて鮮血がピヤノを真赤に染めたといふことである。それは演奏の時だけではない。女史は一つの新曲の研究に指を染めるや、その曲を通じて作者の精神との強い霊交に接するまでは、指が破れようが五体が疲労しつくして感覚を失はうが、何時までも同じ物を弾きまくって苦心惨憺するのである。その時の女史は、殆んど人間界の人とは見えないほど、物凄く神々しくもあるといふことである。女史は常に、
 『ピーッと自分の胸に響くものを掴まないうちは駄目です。それが掴めないうちは、どんなことがあっても人の前で弾くことは出来ません。』といってゐるが、その芸術的良心と自信とは巌 いはほ のやうに堅く、誰が何といっても、人情を楯としても、決して演奏をしない。況んや報酬などに動かされて心にもない弾奏をするやうなことは決してないのである。
 女史の生活は全く芸術に捧げた聖 きよ められた生活である。物資や権勢や情実などの妥協は少しもない。これが女史の芸術をして力の芸術であらしめ、純真の芸術であらしめる所以であらう。
 これを例ふればロダンの彫刻である。ゴーホの絵である。あの荒っぽいゴツゝした線の味は、普通の女性の手には到底與 あた へられないものである。情調的のセンチメントは少いかも知れぬが、太く深く刻み込んでゆく偉大さは、今の楽壇を通じて、たゞ久野女史の芸術にのみ見出すことが出来る。とはいへ女史の芸術は未完成の偉大である。或は一生を通じて完成されないかも知れぬ。しかしそれが女史の芸術の生命であり、力であり、将 は た意義である。

 (八)

 女史の芸術が男性的であるやうに、女史の性格も男性的である。けれども一面には非常に優しい涙のもろい女性である。打てば響く鳴る鐘や鈸 ねうはち のやうな、溌剌たる生気に充ちた半面には、咲いた花の萎 しぼ むのにも涙ぐむ乙女の情緒がある。研究する時間が欲しいゝといひながら、肉身〔肉親〕の扶養のためには、音楽学校に女子大学に教鞭を執る余暇に、多くの子弟を教育して、物質のため尊い自己を犠牲にして厭はぬ。女史は、
『前にはどう気張っても到底 とて も及ばぬことと諦めてゐた或る曲が、この頃は手を延ばせば掴めるやうな近くにある気がして来ました。この機会にうんと勉強したいと思ひますが、その余裕はまだ與へられません。けれども、どうしても二三年の中には何とかならねばなりません。金と時間さへあれば思ふまゝの勉強も出来るとはいふものゝ、それは金も時間もないからのことで、実際さういふ身になったらほんとの勉強が出来るかどうかは判りません。ですから私は何にも不足を云はないで毎日一生懸命働いてをります』
 與へられた自己の境遇に満足して、何物にも屈託しない楽天的の女史の性格が、芸術に携 たづさ はるものに取って一番つらい世俗的の事情もつひに踏み破り、思ふまゝの修業をつみ得て、女史自身も私達も満足する境遇を拓き得る日の一日も早く来る様に祈ってやまない。そして私達は久野女史の成功が、現在の境地に留 とどま るものとは思はない。人は云ふ、久野女史とベートーヱ゛ンとピヤノとの間には一分の隙もないと、誠にそれに相違ないと思ふ。けれども私達は彼人 あるひと の未来に、更に奥深い幽玄なものゝあるのを想像することは無理ではあるまいと思ふ。
コメント

「天才楽師久野久子女史」 (1919.4)

2015年12月01日 | 久野久子 2
 

  東京音楽学校の教授にしてピアニストとして、天才のほまれ高き久野久子女史。
 
 天才楽師久野久子女史 
    《自働車で負傷したのが覚醒の動機》 
                      一記者

 ▽天才ピアニストの遭難

 梅日和の陽光 ひのひかり が空一ぱいに漲 みなぎ つて居る正午 ひる 前を、駒込林町ピアニスト久野久子女史を訪ひますと、女史は恰度 ちやうど 音楽学校へ出られる処でした。折角門口 かどぐち へ来た迎ひの腕車 くるま を戻して、態々訪問子を迎へられた女史は、紫紺地に溢 こぼ れ梅の刺繍 ぬひとり のある御羽織を無造作に、大島にかさねた姿で、洋風の応接間へ案内されました。
 応接には黒く輝いたピアノが一台、其上の美しい花籠が注意を牽きました。卓子 テーブル を挟んだ女史は白い足袋を足焙 あしあぶ りに乗せて、静かに訪問子の問ひに答へられるのでした。
 『強 しど い怪我を致しましてから、身体の不自由を感じます度に、自動車で轢かれた遭難当時を想ひ出し、其遭難が余り惨 いた ましかつたと思はぬことはありませんが、併し轢いた運転手を恨んだことはないのです、却つて深いゝ感謝に咽ぶやうなことがあるんですよ。熟 よ く考へると、妾 わたくし が世に出るやうになつたのも、実は当時の惨ましい遭難が動機となつたのですからね。』
 『遭難は一昨年の春でした。傷 きずつ いた身体を白い病床に横 よこた へて居ますと、何の新聞にも、妾の遭難した記事が大きな活字で書いてあるのでせう(天才ピアニストの遭難)と云ふやうな表題 みだし でね。夫 それ に時々思ひ設けもしない処から御見舞状も届くのです。妾は病床で、其新聞や御見舞状を拝見しまして、非常な感激を覚えたものでした。妾は社会から斯んなに注意されて居つたのかと思ひましてね。然 さ う思ひますと、妾の生命 いのち が大事なものになつて来ました。妾の芸術の尊さが自覚されるやうにもなりました。社会の期待に反 そむ いてはならぬと決心したのも其時でした。然 さ う決心すると、社会に対する責任観念が覚醒 めざめ まして、其覚醒が自分の存在価値を保証づけて呉れるやうでした。無な生存から自覚した生の歓びー妾の胸には歓喜がいつぱいに溢れるのでした。斯うした覚醒の歓喜も、不幸な遭難が與へて呉れた結果なんです。妾の生涯に、あの遭難がなかつたら、妾は或ひは一生生の歓びと芸術の尊さを自覚しなかつたかも判りません。然う思ふと、運転手は再生の恩人です。恨むことは出来ません。』
 『傷が漸次 しだい に快 こゝろよ くなつて退院しますと、田中理学博士が来訪されて、今度の遭難で有名になつたのだから此際 このさい 是非、独奏会をやれと勧誘して下さいました。博士は予 かね て妾の芸術を愛して指導、鞭撻して下すつた方です。妾も其時は、無自覚から覚めて居つた時でしたから、決心して演奏台に起 た つ覚悟をしたものです。作曲はベエートーヱ゛ンのものが、自分の心にしつくり共鳴して呉れるやうでもありましたし、卒業式の時にも演奏して時の文部大臣牧野男爵から美讃 さんび された記念もありますので、其作曲を択んだものです。愈 いよい よ演奏台に起つて、自分の芸術を社会へ発表しますと漸次芸術に対する自信を覚えました。世の中も亦歓迎して下さるので、帝都を初舞台に、各地の演奏にも出張したものです。京都の母校竹間小学校では、同窓の閨秀画家村上松園〔上村松園〕女史や日本画家山元春挙先生と一緒に旺 さか んな歓迎会を催されました。妾は身体が纎弱 かよわ くありました為め、此小学校の四年生で退 ひ いて終つたのです。夫 それ から暫時 しばらく 、郷里の大津市の宅でぶらゝ遊び乍 なが ら、生田流の師匠古川良齋先生に就いて琴と三味線の稽古をしたものです。其纎弱い妾が、昔の夢を残した母校で歓迎会を催ほされたり多くの聴衆を前に、独奏をしました時は、いろゝな意味で万感交々 こもごも 到ると云ふ涙ぐましい心になつたものです。』

 

 (演奏中の久野女史)

 女史は熱を帯びた瞳を天井へ凝乎 ぢつ とそゝいで、幼なかつた時の夢を追はれるやうでした 天井には電燈がぽつかり、紅 くれない の花笠を染めて居ました。纎弱かつた女史が、今日の地位を得られる迄には、非凡な努力を続けられたものです。音楽を志す人の為めに、女史の努力された実験を女史の物語の儘 まま に綴つて、参考にしませう。

 ▽幸田女史に囑目され

 ピアニスト久野久子女史が上京されたのは妙齢十八の秋で、都大路の街路樹がうそ寒い風に慄 ふる えて居る頃でした。上京の目的は、音楽学校へ入学される為めであつたのです。併し女史は初めから音楽学校へ入学する準備をして居られたのです。少女時代体質が優れませんでしたから、学校は尋常四年の頃から全く遠ざかつて居られました。然うして、琴や三味線を古川先生に習つて居らしたものです。
 其頃から、琴は先輩の御弟子達に擢 ぬき んでゝ巧みでありました。先生は可愛盛りの乙女を秘蔵弟子として、前途を嘱望されて居ました。『良齋先生の後継 あととり は久子はんやつて』御弟子達も然う言つて幼い久子さんを羨望したものです。処が久子さんの兄さんは、琴や三味線の師匠を妹に有 も つことは喜ばれませんでした。親類やお父さんを説いて、音楽教師にすることに決められたのです。順序として東京音楽学校へ入学せねばならぬのですが、久子さんは漸 ようや く尋常四年の課程を卒 を へられた許 ばか りでした。音楽学校の師範科は女学校卒業程度の学力が要 い りますので女学校四年程度で入学出来る予科から進まれることになりました。尋常四年生の学科より修めて居ない久子さんは、兄さんに督励されて毎日、英語や漢文の勉強を初められたのです。
 『漢文の先生の丁髷 ちよんまげ 姿を未だ忘れません』久子女史は、当時を想ひ起して斯う語られるのでした。夫でも何うにか、予科へ入学は出来ましたが、不自然に勉めた久子さんの学力では、予科の講義も完全に理解出来なかつたものでした。夫 それ で修業の時にも平均五十二点の得点で尾 びり から二番目と云ふ危い瀬戸際から漸 やつ と進級されたのです。修業式が済むと夏休暇 なつやすみ でしたから、久子さんのお父さんは、愛娘の為めに、三百円出してピアノを求めて下さいました。休暇の間にうんと勉強する決心であつた久子さんは、呪はしい病魔の手に酷 さい なまれて、帰省早々病床の人になられたのです。
 病気は肋膜炎で、久子さんの病床生活は七十日余り続きました。幸ひ健康を恢復することが出来たので、帰省後百日目に漸く上京されたのです。学校は勿論始まつて居ました。成績の好くない久子さんは、唯さへ解らない講義を、後から聴く為めに一層難解でした。併し久子さんは夫が為めに落膽するやうな弱い女性ではありませんでした。苦しいゝ努力の日を続けられたが、何うも他の同級生と並行することが出来ないのです。
 唯だ幸田先生だけが特別に久子さんに矚望されて、熱心に指導されたのです。
 『貴女 あなた には強い力が潜んで居ます、其力が自然に発動するまで努力せねばなりません。』
 久子さんは幸田先生の鞭撻に、力を得て蛍雪に苦 くるし まれるのでしたが、『潜んで居る力が何んな力であるか、自分には解らなかつたのです。
 久子さんの努力の効果は着々顕はれました、然うして本科の一学期を卒 を へる時は第三位を占めることが出来たのです。此 この 好成績は幸田先生は勿論、他の先生達も眼を睜 みは つて驚かれたものです。久子さんの成績は夫からぐんゝ進歩して第二期が二番、卒業期には首位の栄誉を荷はれたのです。卒業式の時、臨席の牧野文相は久子さんの独奏を恍惚として聴かれたものです。処が学校を出るとすぐ、久子さんは再び病気に襲はれたのです。それは左の人指 ひとさしゆび が腐蝕する病気でした。蛍雪三年、尾から首位を得る迄、毎日ピアノを弾き疲れた指の痛みが嵩 かう じたからです。

 △再び病院のベツドに

 幸福に満ちた首位の卒業生久野久子女史の前途には又も暗影があらはれて、いたましい病院生活が再び繰返されました。医師も一時は元の儘 まま の指にはなるまいと宣告したこともあつたのです。ピアニストが指を失ふことは蟹が手を挘 も がれるに似た悲惨な事実です、折角苦しい努力を続けて、漸 やつ と学校を出て間もなく、此辛い境地に陥つた久子さんはしみゞ自分の拙い運命を喞 かこ ちました。
 久しい病院生活が続いた或る日の朝『肉が出来た、既 も う大丈夫です。』と白衣を着けた医師が、喜悦に満ちた声を出したのです。久子さんの指は斯うして、漸次 だんだん に肉を着けて来ました。
 『あの時だけは白衣を着た医師 せんせい が、救ひの女神のやうに尊く思はれました』と久子さんは当時を想ひ起して、微笑 ほゝえ まれました。無事に退院した久子さんは、再生した元気で更にゝ今までより以上の努力を続けられたのです。学校を出ても幸田先生の指導で、ロイテル師やケーベル師の薫陶を受け乍 なが ら、学校の大管絃楽 オーケストラ にも加はつて、ピアノの修業をなすつたのです。
 
 △女史の愛読書

 書棚には、音楽史なども見えましたが、その中にはルーソーの『懺悔録』や杜翁 とをう の翻訳物なども見えました。殊にドストエフスキーのものは熟読されたもので『虐げられし人々』は今も尚愛読されるものの1つださうです。
 『黒煙の底に真紅の焔が燃えて居るやうな露西亜の小説が好きです。而もトルストイよりもドストヱフスキーに共鳴されるやうです。杜翁は感情を理性で抑圧したやうな人ですが、ドストヱフスキーは理性を感情の大熔爐に溶 い れて居るやうに思はれます。偉大な感情の尊厳がドストヱフスキーの作には潜んでゐるやうです。妾は感情の尊さをドストヱフスキーから痛切に感ずることを得ました。』
 俯目勝 ふしめがち に語り続けられた女史の瞳は輝やかに再び天井の花笠へ注がれました。
 中庭に接した磨硝子 すりがらす へはもう正午 ひる に近い陽 ひ が静かにゝ這 は つて居ました。

 上の写真と文は、大正八年〔一九一九年〕四月一日発行の『淑女画報』第八巻 第四号 に掲載されたものである。上の写真は、口絵に、下の写真は、文中にあるもの。
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「音楽一夕話」「呪いの葉書」  成瀬無極

2013年11月18日 | 久野久子 2
 三 藝檀の人々 〔下は、その一部〕

 音楽一夕話

 〔前略〕
 想へば日清・日露両役の時代から外遊の期間を経て今日に至るまで、随分多く洋楽を聴き多くの洋楽家に接して来たのだが、不思議にも音楽の上で私に深い印象を與へ内面的に影響した人々のうち非業の最期を遂げたものが三人まである。〔中略〕この従兄弟は分教場の出身だが久野久子と同期で卒業演奏会にも出演したが、私はその日初めて久野女史のベートーオヴェンを聴いて感激のあまり即夜「ピヤノ、ソロ」といふ短編小説を書き上げて上田敏・馬場孤蝶両氏監修の同人雑誌「藝苑」へ載せたところ「我れ汝ぢを呪ふ」といふドイツ文の葉書が舞ひ込んだ。(「呪ひの葉書」参照)久野久子の演奏はその後京都の府立第一高女と京大学生集会所で聴いたが、「ワルトシュタイン・ソナタ」では鍵盤が血で染まったやうに記憶する。最後に逢ったのは伯林のフィルハルモニイで、オイゲン・ダルベールの「ベートーオヴェンの夕」が催された時であった。その晩彼女は例の如く日本服で現はれ、近衛秀麿・兼常清佐氏等と賑やかに語り合ってゐたが、これが永遠の別れにならうとは恐らく彼女自身も夢想だにしなかったらう。「呪ひの葉書」の発信者も大学生時代に毒を仰いで死んでしまったのだから、つまり久野女史を中心として三人の男女が自殺したことになる。それから原千惠子は子供のときからの知り合ひだが、これも結局有島武郎に繋がる縁なので西洋音楽と自殺といふことが私の場合不気味な連想を伴ふ。
 〔後略〕

 呪の葉書

 一

 女学校の講堂で東京から入洛した久野久子のピヤノを聴く。女史の揺籃たる京都の某小学校の校長が女史の為めに自作の祝賀の詩を揮毫したのが二葉正面の壁間に掲げられてゐる。聴衆は主に男女の学生でOF会の連中らしい。夫人令嬢達が胸に造花の徽章を附けて斡旋してゐる。才色絶倫と噂されつつ一方にはまたその孤独な寂しい生活のために蔭ながら同情の涙を灑がれてゐる九條武子夫人が自づから主賓となってゐた。貴族らしい気高さと誇りを備へてゐて近づき難いやうに写真などから想像してゐたが案外に謙遜なにこやかな懐かしみのある人で、服装なども寧ろ質素に見受けられた。
 この夫人を見たのはその日が最初であったが、久野女史を演壇で見るのはこれが初めてではない。
 丁度十年前に上野で女史の卒業演奏を聴いたことがある。その時私は金釦のついた制服を着てゐた。女史はオレンジ色の羅衣 うすもの に蝦茶色の袴を穿いてゐた。
 十年振りに女史の姿を見てその演奏を聴くといふことは単なる好奇心以上に私の胸を波立たせた。名古屋から昨夜遅く入洛した女史は非常に疲労して、そのために出演の時間が少し延びた。それがまた聴衆の心を一層緊張させ期待の念を更に深くした。
 待ちに待った女史の姿が演壇に現はれた。十年の歳月は髪の黒い眼の活々した豊頬の少女から、落ち着いた、然し精悍の気が眉宇の間に漂ってゐるやうな三十恰好の小柄な婦人を作った。割れるやうな拍手が一しきり、それから聴衆は水を打ったやうに静まりかへった。女史は徐かに楽器に向ふとしばらく呼吸を整へてゐたが、やがて眠を粧ってゐた猛獣が機を見て電光のやうに獲物に飛びかかる時のやうに微妙な刹那を捉へて力ある指を鍵に触れた。この一呼吸には殆ど崇高に近いものが籠ってゐる。強大な潜勢力が表面の平静を破って迸り出る刹那である。静から動へ移る秒刻の美的過程である。白刃を敵の頭上に閃めかす刹那ばかりでなく、筆端を絹素の上に加へる瞬間にもそれがある。女史の男性的な熱情的な演奏振りは既にこの一弾に現はれてゐた。
 愈々あの恐ろしいベートオヴェンの「熱情曲」が始まるのである。
 聴いてゐる中に私の眼に涙が滲み出た。女史のエキスプレッシーヴな演奏振りと、その暗い半生と不可測な災難と、奇蹟とも言ふ可き快癒とーそれらの事柄に対する感動からでもあったろうが一方にはまた若かった自分を顧る一種の憂愁も交ってゐたに相違ない。
 金釦の制服を着てゐた私は、オレンジ色の羅衣を着た美しい痛ましい少女の心血を灑いだ演奏に熱い涙を流して家に帰って来ると直ぐ筆を執って深更まで書き続けた。感興の一端を作品として現はさうとしたのである。そしてそれを「藝苑」といふ雑誌に発表した。その中にはこんな文句があったー
 「ー実に彼女は自分で自分の楽に酔ってしまった。眼は燃えるようになり、頬は若々しい血汐で彩られ、曲のエキスプレッションにつれて眸動き、眉動き、頭動き、肩動き、腰動く、それに引き入れられて聴衆はまた彼女の動く通りに動くのである。曲が複雑に極め高調に達すると彼女は驚く可き卓抜の技量を示した。その白い手は最も敏捷に最も確実に動き、それにつれてオレンジ色の羅衣の袖長く柔軟 しなやか に飜 ひるがえ り、紅友禅の襦袢の袖口が縺 もつ れれかかる風情は美しい絵を見るやうである。その両袖を颯 さっ と靡 なび かして、身を横に、棄てるが如くに十指を右から左へ鍵盤の上に流せば、丁度河底の小石の上を一個の珠が響を成して弾丸のやうに走り下ルカと思はれて、一瞬の間に無数の音を含め、高音から低音へ移る、その疾さは、専門の大家も覚えず舌を捲き眼を瞠った。音楽の知識のあるものも無いものも一様に幽かな溜息を洩らした。ああ若い、美しい 熱心な 謙遜なーそして痛ましいその姿!満堂の男女は感極まって双眼に涙を浮べた。無骨な書生も不覚 そぞろ に胸の迫るのを感じた。まして年若い女などは竊 そっ と手布で眼を拭ってゐるものもあるーやがて長い曲も弾じ終へると人々は狂せるが如く手に持つ凡ての物を床に抛げ捨てて拍手した。掌の破れるまで、この堂が裂けるまで響けと、男も女も、老いたるも若きも、我先きに讃嘆感謝の念を弾奏者の耳に入れようとしてただその響きの高きを争ったー」
 〔中略〕
 この「ピヤノ、ソロ」と題した作を発表して四五日経つと私は一本の葉書を受け取った。差出人の名は書いていなく、しかも独逸文である。
 「汝は恐ろしい残酷な利用をした。あんまり露骨だ。誰でもすぐ記憶を喚び起こすことが出来る。残酷だ。余は汝を呪ふ。事件は極めて深刻な崇高な発展を持つ可きだった。神のやうな天才を侮辱したことになるではないか。余は汝を呪ふ。」
 〔以下省略〕

 三 〔下は、その一部〕

 「ピヤノ、ソロ」を読むと私の頬は赧らみ、私の心は委縮してしまふ。そこには不具のために恋に破れた少女が自殺の心を翻して芸術に生き、楽壇の勝利者として変心した男を見下ろす話が書いてある。何たる因襲的な構想だらう。それよりも何たる外面的な、型に嵌った、小技巧を弄した浅薄な描写であらう。筆を執った時の感激は何処に認められる。若い血潮の騒ぎは何処に聞かれる。かういふものを書いた私だ。恐らく今もかういふものを書いている私だ。O君の呪ひは深く深く私の額に刻み込まれれてゐる。どんな経験をしても、どんな感興が湧いても、それを描かうとするとき十重二十重に因襲の羇絆が私の腕に搦みつき、筆端を鈍らせ、曲げ、捩じり、掻き回してしまふ。イプセンの所謂「幽霊」がいつも想と紙との間に立つ。私の船はいつも死骸を載せてゐる。私はその臭い重荷に堪へえない。

 上の文は、昭和二十二年 〔一九四七年〕 四月二十五日発行の『面影草』 成瀬無極著 北隆館 の一部である。

 面影草由来 -序に代へて-

 明治大正時代から今日に至るまでおよそ四十年間に親炙した人々やその芸術を通して印象づけられた内外人の風貌を伝へ残したいといふ念願からこの書を編むことになったが、さて題を何と附けたものかと色々考へたすゑ面影草といふのを思ひついた。〔以下省略〕
 本書の内容はその一部を旧著「東山の麓より」「夢作る人」「偶然問答」「文芸百話」「人生戯場」「無極随筆」「南船北馬」「木の実を拾ふ」等から採って整理改訂し他の一部は新らたに書き下ろした。読者幸に之を諒し給へ。
  昭和十八年初夏 京都室町の寓居にて 成瀬無極識 

  流転の相  -再び序に代へて- 〔下は、その一部〕

 なほ、この機会に本書の全体に亘って校訂したことと、〔以下省略〕
  昭和二十年晩秋 遠州日坂村の旧家にて 無極識
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「久野ひさ子さんの死」・ 『月光の曲』 南部修太郎 (1925-1927)

2012年02月17日 | 久野久子 2
 久野ひさ子さんの死

 最近の婦人界の出来事で何よりも私の胸に鋭く悲しい響きを伝へたのは、墺太利 オオスタリイ のウヰン滞在中のピアニスト久野ひさ子さんの自殺であつた。私はピアノを聴くことはとりわけ好きであり、また久野さんの名を知ることも可成り以前からのことであつたが、不思議なことにその弾奏を聴いたのは僅か一度で、而もそれは今度の留学に出発前、上野の音楽学校の大ホオルで催された告別演奏会の席でであつた。その時久野さんは、今は何と言ふ曲だつたか忘れてしまつたが、とにかくベエトオブエンの難曲を三つ弾いた。が、私にとつては初めてでまだ最後のものとなつたそのたつた一度の弾奏を聴いただけで、外の音楽家の誰よりも深い印象と強い感銘とを久野さんから受けてゐたのであつた。そして、私は久野さんを日本の産んだピアニストとしては最もすぐれた、最も尊敬すべき人だと言ふ風に考へてゐたのであつた。で、新聞で突然知つたその悲惨な自殺は私をぎくりとさせた。日本人の内で惜しむべき人をまた一人喪 うしな つたなと言ふ気持ちが、私の心をすつかり暗くしてしまつた。そして、私は思はず涙ぐんだ。
 〔一段落省略〕
 途中の上野竹の台あたりには、あの大震火災の罹災者達のバラックがまだ生生しく立ち並んでゐた頃だつたから、それは昨年のニ三月時分だつたと思ふ。私は聴衆の充ち満ちた音楽学校の大ホオルの一隅の椅子に腰かけながら、初めてその弾奏を聴く久野ひさ子さんの現れを待つてゐた。グランド・ピアノの沢沢 つやつや と光る舞台の上には沢山の花輪が飾られ、通路と言はず、壁際とは言はず、その舞台の上にまでぎつしりと詰め寄せた聴衆の波、それは音楽の国独逸、墺太利へ旅立つピアニストの告別演奏会としては、如何にも盛 さかん に華やかなものであつた。
 やがて正面左手のドアが開 あ いた。劇 はげ しい拍手が突然海鳴りのやうにどよめいた。思はずはつとして、私は視線を移した。と、私の網膜に初めて映じたその人の姿は? おお、何と言ふ強く印象深い姿であつたらう? 丈 せい の低い、ずんぐりした体に地味な裾 すそ 模様のある黒地の着物を着、沢山の髪を無造作な束髪に結い上げ、如何にも無愛嬌に見える浅黒い顔、それが嘗 かつ て自動車のために傷つけられた不具の左足をびつこ引きながら、静 しづか に立ち出 い でて来て、再びどよめき渡つた聴衆の拍手にこたへるともなく軽く、幾らか無様とも見える恰好 かつかう に頭をさげると、すぐにピアノ向つて腰を降 おろ した。
 (何と言ふ無恰好な姿の持主だらう?)
 そこに芸術家らしい気品のそなはるものがあつたにしても、私は久野さんの姿にぢつと視線を注ぎながら、思はずさう考えずにはゐられなかつた。
 日本の人と云はず外国の人と云はず、私がこれまでに接した音楽家達の舞台登場の姿と云へば、いづれも美しい感じのもので、時には堂堂たるものがあり、時には瀟洒なものがあり、時には気高いものがあつた。然し、不具のピアニスト、さう云つただけでも久野さんの姿は何と云ふ痛ましいものであつたらう?まして久野さんは美しい容貌の持主でもなく、すらりとした撫肩細腰の持主でもなかつた。そして、さう云ふすべては日本の婦人としても寧ろ見苦しいと言へるほどの姿であつた。私はいつも音楽を聴く前に感じる処の何となく朗かな、澄みきつた心の明るさもなく、妙に重苦しく抑へつけられたるやうな気持で久野さんの姿を見守つてゐた。
 充ち満ちた聴衆達は一時の劇 はげ しいどよめきから、急に水底のやうに鎮 しづまりかへつた。
 息をひそめて待つ間もなく、久野さんの指は白い鍵盤 クレフ の上を動いて、最初の高い一音が響いたかと思ふと、ベエトオヴエンの曲の弾奏が始まつた。と、その力強い熱のある弾奏振りは? おお、それは前の姿の印象とくらべると、何と云ふ立派な、素晴らしいものであつたらう?その不具の痛ましくも見苦しい姿は弾奏に際してはもう何物でもなかつた。その弾奏振 ぶり は全く熱である、力である、劇しい練習の結晶である。その体は盛 さかん に揺り動いた。その顔は生き生きと血潮をたたへた。その指先は躍るやうに活躍した。そして、やがてその頬には汗さへ流れ始めた。私はその情熱的な、ほんとの意味に芸術家的な弾奏に強く心を打たれて、まるで体を引き締められるやうな気持で身動きも忘れて耳を傾けてゐたのであつた。
 ゴドウスキイやミユンツなどの外国のすぐれたピアニスト達の弾奏を聴いてゐる私は、久野さんの手腕がそれ以上にすぐれたものだとは思はない。然し、およそ音楽家達の弾奏を聴いて、私は久野ひさ子さんの弾奏ほどに深い印象と強い感銘を與へられたことはない。さう云ふ久野さんが突然異郷の空で不幸悲惨な自殺を遂げたと言ふことは、私を驚かす以上に深く深く悲しみ悼ましめたのであつた。そして、更に二度も三度もその弾奏を聴くことを楽しんでゐたその人が生きて日本に帰る日がもうないのかと思ふと、強い愛惜 あいせき の心とともにたゞ涙を覚えるばかりである。

 この一文は、『過ぎ行く日』 大正十五年七月二十日発行 作者 南部修太郎 発行所 寶文館 に、「二つの感想 - 一四・六・八 - 」の一つとして収められたもの、原載は、『令女界』 四巻八号 大正十四年 〔一九二五年〕 八月 である。〔引用に際しては一段落省略した。〕
 なお、告別演奏会の年、演奏曲目数など、記憶違いがいくつかある。

 

 月光の曲 

 ・老楽人の死 〔下は、その一部〕

   風薫る若葉の頃であった。
   赤坂氷川町の樹深い高台にあるクライスト教授の家に、嘗てはあれほど妙やかに聞こえてゐた窓漏るピアノの音がぱったり絶えてしまってから、もう二月近かった。

   ヘルマン・クライスト教授が初めて日本の土を踏んだのは、明治二十四五年の頃であった。その頃まだ三十を超えたばかりの若い教授は独逸の或る貴族の子で、既にピアノの優れた弾奏家として知られてゐたが、不幸な破綻を見せた結婚の痛手を忘れようために、また一つにはロマンティックな性格の故に異邦の風物に深い憧憬を抱いて、ただ一人はるばる海を越えわたって来たのであった。   

   藤枝は丈はさほど高い方ではなかったが、面長な顏の感じや、どっちかと云へばやさ型の身体附から、その姿は如何にもすらりとして見えた。そして、形のいい端正な鼻と、黒味勝ちに澄んだ眼と、引きしまった口元の感じそのままに、快活と云ふよりも冷静な、感情的と云ふよりも理智的な性格を持ってゐた。然し、たとへば白いコスモスの花が静けさ寂しさの内にも、どことなく人を惹きつける清楚な優しみを持ってゐるやうにその聡明な、落ち着いた人柄の中にも何となく人の心を惹くやうななつこい感じが籠ってゐた。

   綾子は麹町の番町に住む或る聞えた実業家の娘で、藤枝より一つ年下の十九だったが、同じやうに昨年の春女学校を卒業してゐた。小柄ながら肉附のいい体格、表情に富んだ濃艶な丸顔、魅力の強い大きな眼、やや厚めな鮮紅の唇、綾子はさう云ふ点で藤枝とは殆んど反対の明るく、強く、快活な容姿の持主だった。自然、正確も感情的で、勝気で、我儘で、ともすれば蓮葉 コケット な処も見えたが、一面にはすべての言行の現れ方が子供のやうにむき出しで、飾りがなくて、歓びは踊り上って歓び、悲しみに対してはまた極端に涙もろかった。そして、クライスト教授に師事しはじめたのは五年ほど前からのことであったが、その負けず嫌ひの熱情的な努力は腕前をめきめき上達させて、今は藤枝と共に教授の愛弟子の双璧となってゐた。

 ・墓参
 ・誘ひ

   二十前後の、まして前の年に女学校を卒へてしまった身には、結婚と云ふこと、或は家庭生活と云ふことが可成り差し迫った問題として時時考へられずにはゐなかった。が、藤枝は学校にある時代から、出来ることなら独身で、生涯をピアノのために捧げようと決心してゐた。それは多くのうら若い処女にあり勝ちな、甘い、感傷的な考へから来たのでは決してなかった。藤枝は全く一生を捧げても惜しくないほどにピアノをーピアノを創り出す芸術を愛してゐた。そして、そのためにこそクライスト教授の熱心な指導の前に全身を打ちこみもし、また何かと修業の煩ひになるやうに思はれる結婚や家庭生活を棄ててしまはうとも考へてゐたのであった。で、学校を卒業して間もない或る日、藤枝はその決心を初めて民子に打ち明けた。

  たとへどんなに苦しみに逢うとも、あたしはピアニストとして世の中に立って行こう。そして、この貴い芸術の修業のために一身を捧げよう。) 

 ・静心なく
 ・競争者
 ・心の影
 ・その夜の花
 ・秘めたる心
 ・侵入者
 ・二つの心
 ・哀歌
 ・誤解
 ・弱き心
 ・青葉若菜
 ・危難
 ・夕立
 ・胸病む友
 ・名残の曲

 この小説は、雑誌『令女界』に連載され、のち単行本として発行された。

 - 月光の曲 -

 昭和二年 〔一九二七年〕 七月十五日発行 定価 一円二十銭
 著作者 南部修太郎
 発行所 宝文館

 また、雑誌『令女界』には、その広告が掲載された。

 南部修太郎長編小説集 = 田中良装幀
 月光の曲 (第一編)
 淑女文庫
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