蔵書目録

明治・大正・昭和:楽器・音譜目録、来日音楽家、音楽教育家、来日舞踊家、軍内対立、医学教育、清国留学生、林彪、北京之春 

『第三十四期 卒業記念』 陸軍士官学校 (1922.7)

2012年10月05日 | 軍事留学生 陸軍士官学校
 第三十四期 卒業記念 陸軍士官学校本科 大正十一年  〔一九二二年〕  七月

        

 ・垂直写真  〔上左〕  陸軍航空学校下志津分校調製
   乙式一型(サルムソン) 高度千五百米 写真機仏製五十糎焦点距離 大正十一年五月二十九日午後一時三十分撮影 偵察者 藤井騎兵大尉 操縦者 山中歩兵軍曹

 ・斜写真  〔上中〕  陸軍航空学校下志津分校調製
   乙式一型(サルムソン) 高度千五百米 写真機独製二十五糎焦点距離 大正十一年五月二十九日午後一時十分撮影 偵察者 藤井騎兵大尉 操縦者 山中歩兵軍曹
  
 ・地上写真  〔上右〕  大正十一年六月三十日午前十一時三十分撮影

 ・〔皇后陛下の行啓※〕 4葉

    
 
 
 ・〔上左の写真:左は邦久王殿下、右は雍仁親王殿下〕
 
 ・〔上右の写真:上中央は秋山好古〕

 

 ・高等官職員 1葉〔上の写真:112名の集合写真〕 

  前列左から:教授 星野幹、教授 田村寛貞、教授 秋山精一、教授 上田富輔、教授 矢崎鎮四郎、教師 ブルガコフ、教師 グゼル、歩大佐 田所浪吉、教師 ガヴアルダ、教授 池田立基、教授文博 加藤玄智、教授 新城和一、教授 毛利由一、助教 稲垣壽、教授 池田良榮。
  2列目左から8番目:教授 内田榮造〔内田百間〕

 ・判任官職員 1葉〔 86名の集合写真 人名付〕、剣道 1葉、乗馬 1葉、台から跳躍 1葉

 

 ・〔102名の集合写真 人名付 :最前列中央は「歩三 雍仁親王殿下」、右上の枠内は「騎二七 西田税」〕 1葉 〔上〕

 ・〔94名の集合写真 人名付〕 1葉
 ・〔98名の集合写真 人名付〕 1葉
 ・〔91名の集合写真 人名付〕 1葉
 ・〔第十三期支那学生隊の生徒と教官 人名付〕 1葉、〔運動会〕 2葉、〔神社・本館・松・池など〕 5葉
 ・〔演習風景など〕 5葉
 ・〔同上〕 5葉
 ・〔同上〕 4葉
 ・〔同上〕 5葉
 ・〔同上〕 5葉
 ・〔同上〕 4葉
 ・〔同上〕 7葉
 ・〔士官学校生活〕 4葉

 ※ 『時事画報』 大正十一年七月号 に次の写真と記事がある。

 皇后陛下士官学校に行啓

 

 皇子淳宮殿下並に良子女王殿下の御兄君邦久王殿下の御修学の御模様を親しく御台覧あらせらる可く皇后陛下は五月卅日士官学校に行啓遊ばされた。同校庭では森田大尉三年式機関銃に付き邦久王殿下に質問申上ぐれば殿下には御明瞭な御答弁あり、次で皇子殿下御学習の教室に於て陛下には教官の問に答へ給ふ淳宮の御活発な御達弁に御微笑あり、更に工兵科騎兵科砲兵科の実習御覧ありていと御満足に思召され午後四時御還啓に相成った。写真は同校庭に説明をきき給ふ陛下

 H.M.Empress visited the Military Academy on the 30th of May. She inspected Prince Atsu, her Second son, in his learning as the Academy.
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『第二十八期 卒業記念』 陸軍士官学校 (1916.5)

2012年09月22日 | 軍事留学生 陸軍士官学校
 表紙には、「陸軍士官学校 卒業記念 第二十八期生徒並第十一期支那学生」とある。紺色ハードカバー、横綴じ。縦19.3センチ、横27センチ、45頁。奥付には、「大正五年 〔一九一六年〕 五月二十日発行 編纂兼印刷者 斎木徳蔵 発行所 赤誠堂出版部」とある。

      

 ・正門 〔上左から1枚目〕
 ・本部 〔2枚目〕
 ・校長陸軍少将與倉喜平 〔3枚目〕
 ・本部職員
 ・経理衛生部職員
 ・戦術軍制学教官
 ・兵器学教官
 ・築城交通地形学教官
 ・馬術教官部職員
 ・外国語学教官 〔下の写真。各列共、左から順に役職・氏名。その中には、内田榮造 〔内田百間〕 や田村寛貞などもいる。〕

    

  後列:陸軍助教 稲垣壽 嘱託 昇直隆 陸軍教授 秋元正四 同 池田立基 同 黒川越太郎 同 宇佐美右之 同 池田良榮
  中列:陸軍教授 秋田玄務 同 折竹錫 同 内田榮造 同 秋山精一 嘱託 新城和一 同 村岡典嗣 陸軍教授 田村寛貞
  前列:陸軍教授 星野幹 陸軍教授文学博士 加藤玄智 傭教師 ウヲルター 陸軍教授 柴田孫太郎 同 上田富輔 同 矢崎鎭四郎 

 ・野営演習(其一)(生徒隊長陸軍歩兵大佐大野豐四)
 ・野営演習(其二)
 ・野営演習(其三)
 ・中隊職員及び区隊毎の写真 〔多数〕
 ・第十一期支那学生隊 〔下の写真。前列は、関係教員。二列目、右から3人目が「何応欽」〕

  

 なお、第十一期支那学生は十九名で、『中華民国留学生 日本陸軍士官学校(在学)名簿』には、「大正三年十二月入学 大正五年五月卒業 本邦第二十八期生相当」とある。
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「陸軍大学校卒業者名簿 其一」 (1922.11)

2012年09月05日 | 軍事留学生 陸軍士官学校
 

「陸軍大学校卒業者名簿 其一 大正十一年 〔一九二二年〕 十一月一日調」とある。縦47センチ・横65センチ、片面刷り、1枚。
「第一期 (明治十八年 〔一八八五年〕 十名)」から「第二十三期 (明治四十四年 〔一九一一年〕 五十二名)」までの名簿である。(上の写真は、絵葉書のもの)

 下は、その抜粋である。

 

 現在者ハ死亡当事ノ官等、事故、卒業当時ノ官等、氏名、族称 

 第一期 (明治 十八年  十名)

  中将  病死  歩大尉  東條英教  東京、士  
  大将  ※   騎中尉  秋山好古  愛媛、士 ※鉛筆書き、「予備」
  中将  後備  歩中尉  長岡外史  山口、士  

 第二期 (明治十九年  九名)

 第三期 (明治二十年  七名)

 第四期 (明治二十一年  十三名)

  
  大将  ※   歩中尉  大井成元  山口、華  ※鉛筆書き、「予備」

 第五期 (明治二十二年  十名)

 
  
  大将  病死  歩中尉  明石元二郎 福岡、華
  大将  ※   歩中尉   立花小一郎 福岡、士  ※鉛筆書き、「予備」 

 第六期 (明治二十三年 十二名)

  
  
  大将  病死  歩中尉  宇都宮太郎  佐賀、士

 第七期 (明治二十四年 九名)
       

 第八期 (明治二十五年 十七名)

  
  大将      歩中尉  田中義一   山口、華  
  大将      歩中尉  山梨半造   東京

 第九期 (明治二十六年 十四名)

 第十期 (明治二十九年 十七名)

 第十一期(明治三十年 十四名)

 第十二期(明治三十一年 十七名)

  中将      歩大尉  白川義則  愛媛、士

 第十三期(明治三十二年 四十一名)

  中将      歩中尉  武藤信義  東京

 第十四期(明治三十三年 三十九名)

  中将      砲大尉  坂西利八郎 東京、士
  中将      歩大尉  宇垣一成  岡山

 第十五期(明治三十四年 四十名)

 第十六期(明治三十五年 四十四名)

  中将      歩大尉  邦彦王   皇族

 第十七期(明治三十六年 四十五名)

  少将      歩大尉  南次郎   大分、士
  少将      歩中尉  渡邊錠太郎 愛知
  少将      歩中尉  林銑十郎  石川、士

 第十八期(明治三十九年 三十四名)

  歩大佐     歩大尉  松井石根  愛知

 第十九期(明治四十年 三十三名)

  少将      砲大尉   阿部信行  石川、士
  少将      歩大尉   本庄繁   兵庫
  少将      歩大尉   眞崎甚三郎 佐賀
  歩大佐     歩大尉  荒木貞夫  東京、士

 第二十期(明治四十一年 三十八名)

  歩大佐     歩大尉  川島義之  愛媛、士

 第二十一期(明治四十二年 五十五名)

  歩大佐     歩大尉  香椎浩平  福岡、士
  歩中佐     歩大尉  古荘幹郎  熊本、士
  騎中佐     騎大尉  建川美次  新潟

 第二十二期(明治四十三年 五十一名)

  少将  薨去  騎大尉  恒久王   皇族
  歩大佐     歩大尉  杉山元   福岡
  砲大佐     砲大尉  畑俊六   東京、士
  歩大佐     歩大尉  小磯國昭  山形、士                                       

 第二十三期(明治四十四年 五十二名)

  歩中佐     歩中尉  梅津美次郎 大分
  歩少佐     歩中尉  永田鐵山  東京、士
  歩少佐     歩中尉  小畑敏四郎 東京、華

 
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『士華』 第一号 東京陸軍士官学校 中華民国同学 (1930.3)

2012年02月29日 | 軍事留学生 陸軍士官学校
 表紙には、「昭和五年 中華民国十九年 〔一九三〇年〕 三月発行 士華 第一号 東京陸軍士官学校 中華民国同学」とある。22センチ、目次3頁、予告1頁、口絵写真6頁、序・文38編・詩110首・附録等170頁。文・詩は、卒業生・在学生・退校生らが漢文または日文で執筆している。

 口絵 ・陸軍大臣 陸軍大将 宇垣一成閣下
    ・教育総監 陸軍大将 武藤信義閣下
    ・前校長  陸軍中将 林仙之閣下   、前幹事 陸軍中将 厚東篤太郎閣下
    ・校長   陸軍少将 坂本政右衛門閣下、幹事  陸軍少将 清水喜重閣下
    ・中華民国学生隊職員教官及学生一同写真
    ・陸軍士官学校東通用門(中華学生の多く出入りするところ)、金子学生隊長、中華民国学生隊本部及学生舎(最前方は本部後方は第一中隊更に遠く後方に見ゆるは第二中隊学生舎也)

     

    ・中華民国学生自習室の状態、中華民国学生バスケツトボール競技、中華民国学生寝室の装置

 序文                         陸軍士官学校幹事 陸軍少将   清水喜重

  古来日華両国の武将いして陣中に雅懐を展べしもの一世に傳誦せられ、或は幾千年の後尚人を感動せしむること少なからず。東洋独特の風尚として吾人の欣慰に堪へざる所なり。茲に本校中華民国学生諸子、業余暢叙に成れる詞藻を輯め、題して「士華」といふ。寔に先縦に耻ちず。以て東洋の名将、後ありと謂はしむるに足らんか。一言以て序となす。
      昭和五年一月 
                陸軍士官学校幹事 陸軍少将 清水喜重

 巻頭文   予が愛弟たる中華民国学生に與ふ 中華民国学生隊長        金子定一
 国史概論ー(抄記)                  法学博士     文学士    大川周明
 陸軍士官学校中華民国学生隊々歌及譜(譜は士官学校校歌に同じ)〔歌詞は、其八まで〕

  別來歳月易遷延、河山無恙否、             新亭林酒感銅X〔「馬」に「宅」〕、見風景依舊
  三萬里國防未固、一狂強梁X〔上が「敍」で下が「土」〕、四千年 國飄飄、         寂寞神明宵
  太平洋濁波排空、驚風雲正X〔「馬」に「衆」〕、
  好男兒投筆従戎、肯落他人後、

  〔其二以下、省略〕 
     
 附録

 ・大日本帝国陸軍士官学校入学希望者心得

  第一條 中華民国学生(将校ヲ含ム以下単ニ学生ト称ス)ニシテ日本帝国陸軍士官学校生徒トシテ入学セントスルモノハ左ノ條件ヲ具備スル者ニシテ本心得ニ異議ナキモノタルヲ要ス
   (一)日本帝国ノ中学校卒業者ト同等若クハ夫レ以上ノ学力ヲ有シ日本語ニ熟達シアルコト
   (二)志操堅確身体強健ナルコト
   (三)中華民国中央政府又ハ督辨、省長若クハ之ト同等以上ノ地位イ在ル民国地方官憲等ヨリ派遣セラレタル者又ハ之ニ準スル者ナルコト
   (四)後條述フル所ノ学費ヲ前納スルコト
  第二條 前條第三項ノ派遣者(之ニ準スルモノヲ含ム以下同シ)
   (一)派遣セル学生カ第一條ノ資格ヲ具フルコトヲ保證スルコト
      但シ日本語修得ノ程度ニ関シテハ部隊配属マテニ約一ケ年若クハ夫以上日本語ヲ専修シタルモノタルコト又ハ専修セシムヘキコトヲ保證スルコト
   (二)学生ノ入隊ヨリ学校卒業ニ至ルマテ其ノ身上竝学費ニ付キ保證スルコト
  〔中略〕
  第七條 日本帝国陸軍士官学校ニ入校ヲ許可セラレタルモノハ毎年四月上旬夫々日本帝国軍隊ニ配属シ隊附勤務ニ服セシメ同年十月同校本科(修業年限約一年十ヶ月トス)ニ進学セシム
  〔中略〕
      附記

  日本語ノ理解不充分ナルトキハ所期ノ修業目的ヲ達シ得ス故ニ留学生ハ成ルヘク速ニ渡日セシメ日本語ヲ専修セシムルト共ニ日本ノ食、住、習慣ニモ慣レシムルヲ有利トス
  〔以下省略〕  

 ・陸軍士官学校の概況                中華第一中隊区隊長坂井中尉 〔下は、その抜粋〕

  一、教育綱領

 曹操の言に曰く「生子当如孫仲謀」又唐句に「男子須為執金吾」といふのがある、けれどもこれは一片の賛辞、羨望語であつて皮相観に過ぎぬ。
 抑も将校は国家の干城国民の保障であつて一意奉公生を捨て義を採り国を憂ひ民を愛するの至情は寐寤の間にも之を去らず超然として俗塵の表に立ち学術に精通し勤務に勵精し其の品位高尚言語簡潔で而も確固不抜の精神を具備し上級のものは能く部下の信服を得、下級の者は能く上長の命令を格守し同僚に対しては友誼を厚うし恭敬を致し以て軍人たるの名誉を発揚することを本然とするのである。
 故に本校教育綱領としては特に左の件に留意して学徒を教養してゐる。
 一、尊王愛国の心情(中華民国学生にあつては其本国を愛するの精神)を養成すること、
 二、軍人たるの志操と元気とを養成すること、
 三、健全なる身体を養成すること、
 四、文化に資するの知識を養成すること、

  二、沿革の概要

 明治元年(民国紀元前四十四年) 始めて兵学寮を京都に設く
 同 四年(同四十年)      兵学寮を東京に移す
 同 七年(同三十七年)     兵学寮を士官学校と改称し東京市牛込区市ヶ谷(現在の位置)に校舎を新築す
 同 八年(同三十六年)     第一期士官生徒入校
 同十一年(同三十三年)     開校式を挙ぐ
  二十年(同二十四年)     士官生徒の制度を廃し士官候補生制度を採用す
                 陸軍幼年学校を分立せらる、
  二十一年(同二十三年)    第一期士官候補生入校す
  三十三年(同十一年)     始めて清国学生四十名入校す
 大正六年(国民六年)      准尉候補学生第一期入校す
 同 九年(同 九年)      准尉候補者制度を廃し陸軍中央幼年学校を本校に合併し予科及本科の制を設く
 同十二年(同十二年)      関東大震災のため校舎の大部倒潰し現に復旧中にして本年迄に本科及予科生徒舎、生徒集会所及食堂を完成す
                 全部の復旧は昭和八年に完成の予定なり
 同十四年(同十四年)      現制度の採用す其の概要は左の如し

   校長 - 幹事 {本科生徒隊 予科生徒隊 学生部 中華民国学生隊 馬術部 教授部

     

 ・中華民国学生隊の現況               中華第二中隊区隊長新藤中尉 〔下は、その一部〕

   ○
 過くる明治三十三年に当士官学校に於て清国学生約四十名の教育を開始したのが当校中華民国学生隊の濫觴である、当時既に業に東亜の為め高遠なる企図の実際運動に着手された当局の炯眼には、今更ながら敬服の外がない。
 現在我が中華民国学生隊い在籍する学生の数は二年生(第二十一期生)九十二名一年生(第二十二期生)百十八名を算し、約三十名を以て一ケ区隊を編成し之に一将校を専属の訓育者として配当し三乃至四区隊を合して之を一期隊長の統一指揮下に属する、期隊長が事務執行機関として下士数名より成る事務室を有する更に二期隊を統制するものに学生隊本部あり学生隊長は之が頭首たり副官書記をして事務を処理せしめ、戦術、築城地形、兵器其他各学部の教官と連絡し校長以下の上司の命を承けて二百余名の学生教育の任に当るのである。
   ○
 「東洋平和樹立の為に中華民国の有為なる軍人を養成す」
  学生隊の教育綱領如何と問ふ者あらば筆者は刻下にそう答へるであらう噫何と宏遠であり雄壮であり痛快なる教育ではあるまいか、果して何年の後に其の教育効果を如実に見得るや等は教育者の問ふ処ではないし、又蓋し被教育者たる学生と雖とも之を明確に予言し得る者は一人たりとも無いであらう、然しながら教へる者も教はる者も孰れの日にか必ずや此の雄大なる教育原理が赫々たる成果を齎すであらうとの確信を胸底に秘めながら、朝夕刻苦鼉勉の日を続けて居るのである。
 東亜永劫の平和確立てふ問題は現下の複雑多岐な国際関係や、乃至は之が組成分子たる各国の政治経済外交軍事の状勢を諦観する時それは決して茶飯事では無くして実に途轍もない大難事であることを痛感する、然し之を必ず実現せんことを庶幾する如上各男子の勃々たる壮心も亦偉なる哉である。
   ○
 「先づ中華民国の為めに」
 それは当隊教育者の把持する「モツトー」である、蓋し前述の教育総領より生れ出づる必然的な一過程でらねばばらぬ。
 而して此の「民国の為め」たるや、留学生をことさらに優遇し目前の感謝を求めるやうな微温的な意味は毛頭無いのであつて飽く迄其の監督は至厳に其の指導は積極的であり「スパルタ」的に徹底したものである。

 〔以下省略〕

 ・日本陸軍士官学校中華留学生追悼東北邊防軍陸軍第十七旅旅長韓光第團長張季英林選青X禦俄戦死諸将士紀實(宋人傑草)
 ・陸軍士官学校中華民国学生関係職員及課外講話講師
 ・中華民国学生に関係深き諸官
 ・明治三十三年以降歴代校長
 ・明治三十九年以降歴代中華学生隊長
 ・断雲片々                     黄襟老
 ・或る日の午後                   新藤多喜男
 ・戦場心理の一面                  照準點生

 ・陸軍士官学校入学中華民国人及前清人名簿(昭和五年 中華民国十九年 調)

    
  
 〔以下省略〕

 ・学生隊指定学生往訪日本名士
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『中華民国留学生 日本陸軍士官学校在学(姓別)名簿』 陸軍士官学校 (1934)

2011年08月26日 | 軍事留学生 陸軍士官学校
 表紙には、「中華民国留学生 日本陸軍士官学校在学(姓別)名簿」とある。奥付はないが、陸軍士官学校により、昭和九年〔一九三四年〕頃に作成されたと思われる。22センチ。
 内容は、索引2頁、「中華民国留学生 日本陸軍士官学校在学(姓別)名簿」49頁〔アイウエオ順、期別 兵科 出身地 氏名 現官、地位、主ナル経歴 現住所、備考で死亡・退校・入消の区別あり〕。また、附として、「期別名簿」18頁と「出身省別名簿」(30省)18頁がある。

 下は、「中華民国留学生 日本陸軍士官学校在学(姓別)名簿」の抜粋である。

 備考 

  名簿中氏名ノ右側ニヲ附セルモノハ死亡シタルモノ、(退校)ハ士官学校在学中退行校ヲ命セラレタルモノ、(入消)ハ隊附勤務終了シ士官学校入校ヲ取消サレタルモノヲ示ス。

 1 騎 湖北 雲夢県 呉祿貞〔呉禄貞〕  山西巡撫(明治四十四年暗殺)
 1 砲 河北 順天府 張紹曾 (昭和三年暗殺)国務総理陸軍総長歴任
 1 歩 湖北 荊州府 鉄良  前両湖総督

 2 工 湖北 武昌府 藍天蔚 (大正十年暗殺)安徽都督
 2 歩 河北 順天府 良弼  (明治四十四年暗殺)禁衛軍統領

 3 歩 浙江 杭州府 蒋方震        浙江省政府委員 上海極司非爾路
 3 騎 湖南 寶慶府 蔡鍔   (護国軍総司令(雲南起義主唱)
 3 工 湖南 長沙府 張孝準
 
 4 歩 湖北 徳安府 蒋作賓        駐日公使(前独逸公使) 東京

 5 砲 浙江 紹興府 陳儀         福建省政府主席(前国民政府軍政次官、兵工署長代部長)
                           日本陸大卒(大正八年) 福州
 5 歩 浙江 温州府 丁人俊 (李書城ノ改名)

 6 歩 山東 済南府 孫傳芳〔孫伝芳〕  遼寧司令部顧問前東南五省総司令 大連市乃木町
 6 砲 湖南 長沙府 程潜         前任国民軍第六軍長 上海
 6 歩 山西 代州 閻錫山         (前山西省主席中華民国政府主席軍事総司令) 太原
 6 砲 雲南 東川府 唐継堯 前雲南督軍
 6 歩 雲南 永昌府 李根源        国務総理、陸軍総長歴任 江蘇省蘇州蘇我十全街
 6 砲 江西 南昌府 李烈均        国民政府中央委員広東政府中央委員 上海
 
 10 騎 四川 成都府 張群         前上海市長兼兵工廠長現在湖北省政府主席 武昌

 11 歩 貴州 興應府 何應欽〔何応欽〕     南京政府委員中央訓練総監前国民革命軍第一師長
                           国民政府軍政部長北平軍事委員会分会委員長
 
 附
  期別名簿

 第一期学生 四十名(明治三十三年〔一九〇〇年〕十二月入学、明治三十四年十一月卒業、本邦第十三期相当)

  易甲鷳 呉茂節 徐方謙 陳其采 杜鐘岷 李澤均
  韋汝驄 呉錫永 章適駿 張朝基 唐在禮 陸錦
  王廷 呉紹潾 舒厚徳 張紹曾 陶●孝 劉邦驥
  許葆英 呉祿貞 蕭星恒 張鴻達 承抜 劉賡雲
  華振基 高曾介 蔣雁行 張顯仁 文華  廬静遠
  呉元澤 顧蔵  段蘭芳 鐵良  萬廷献          
  呉祖蔭 賈賓卿 單啓鵬 杜淮川 李士鋭

 〔第二期以下~第二十七期学生二十五名(昭和九年四月入校、昭和十一年六月卒業予定、本邦第四十八期生相当)省略〕

 
 附
  出身省別名簿 備考 氏名ノ上ニ記セル数字ハ在学期別ヲ示ス 〔下は、その一部。少ない省のみ記載〕           

  山東省〔44人〕 山西省〔27人〕 陝西省〔16人〕  
  甘粛省 19 魏敷濂 13 胡文斗 7包述侁
  安徽省〔94人〕 河北省〔141人〕 河南省〔39人〕 江蘇省〔106人〕 浙江省〔68人〕 湖北省〔134人〕
  湖南省〔123人〕 福建省〔54人〕 広東省〔172人〕 広西省〔15人〕  貴州省〔14人〕  四川省〔144人〕
  雲南省〔52人〕
  綏遠省 6 景斌
  間島省 22 邰中復  
  安東省 22 顧平東 20 孫紹曾 23 鮑士惠
  奉天省〔102人〕 吉林省〔7人〕 濱江省〔18人〕 錦州省〔8人〕 龍江省〔7人〕 熱河省〔6人〕
  西分省 22 韓鳳麟
  興安省 22 郭文林
  蒙古  19 韓紹宏 18 韓紹約            
 
 本名簿は、『士華』(1930.3)の附録にある期別の「陸軍士官学校入学中華民国及前清人名簿」(昭和五年調)をより充実させたものであろう。

 なお、『支那政党結社史』(竹内克己・柏田天山共著:1918)に、次の記述がある。

 第一革命を背景にし、四百余洲の大舞台に於て権謀術数極り無き袁世凱を相手に大向ふの大喝采を博せしものは国民党にして、其の国民党の大部分を占むるものは、第一革命以前、明治三十八年 〔一九〇五年 〕春日本に於て設立されたる中国同盟会なりとす。同会の創立と同時に上海、香港、新嘉波等の各地には支部開設せられ不完全ながら総合統一、克く行動を終始し、第一革命に偉功ありし事は見逃す可からざる所なり。而して同会と共に第一革命に貢献する所多かりしは在留少壮革命家中我が陸軍士官学校に入学せし人々にして、第三革命の殊勲者ともいふ可き雲南の蔡鍔を始め李烈均、呉録貞、張孝準、李根源等悉当時第三期生として士官校に学びしなり。右四人中蔡鍔と呉録貞最も名あり前者は南方に軍を養成し、後者は北方に軍を養ひ、共に革命に尽す所ありしに一つは石家荘に袁刺客の侵す所也、一つは病を得て福岡に客死す。二者の霊死して尚地下に革命を語る、痛惜に堪えず。
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