蔵書目録

明治・大正・昭和:楽器・音譜目録、来日音楽家、音楽教育家、来日舞踊家、軍内対立、医学教育、清国留学生、林彪、北京之春 

『思出』(日本女子大学卒業アルバム)(1918)

2018年09月27日 | 女子教育 日女、津田梅子
  

 思出 二五七八〔大正七年:一九一八年〕

    

 〔題字等:下はその一部〕

 ・自念自動 
 ・卒業の歌

 〔写真〕

 ・行啓記念
 ・卒業式
 ・正門〔上の写真:左から1枚目〕
 ・講堂
 ・講堂〔同2枚目〕
 ・櫻楓館〔同3枚目〕
 ・家政館
 ・香雪化学館
 ・晩香村〔同4枚目〕
 ・夏期寮
 ・英文科授業、師範家政科物理実験〔同五枚目〕
 ・家政科体操、師範家政科割烹

     
 ・成瀬仁蔵、麻生正蔵
  〔以下、名前の読める者〕
 ・松浦政泰、塘茂太郎、渡辺英一、渡辺鎌吉
 ・川野健作、中村進午、長井長儀
 ・近藤耕蔵、後藤牧太、阿部次郎、武島又次郎、岸本能武太
 ・三宅秀、白浜徴、白井規矩郎、島田重祐
 ・犬飼すみ、井上秀子〔上の写真:左から1枚目〕、手塚かね子
 ・Tano Jodai〔上代タノ〕、●、●、E.G.Philipps、R.H.Clake〔同2枚目〕
  〔以下は、生徒の写真、その中で留学生と思われる者〕
 ・程孝福〔同3枚目〕
 ・張來淺〔同4枚目〕

写真 江木本店 東京神田
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『日本女子大学校一覧』(1902)

2018年09月20日 | 女子教育 日女、津田梅子
    

 日本女子大学校一覧

 〔図面:上の写真の左から二枚目は、その一部〕

  日本女子大学校  東京市小石川区高田豊川町十八番地  
  敷地 五千五百二十坪五合 
建物 八百二十三坪八合九勺
建物内訳 
   イ 大学部(一部分)  二階建 一一六坪三九
   ロ 高等女学校     同   二五一 五〇
   ハ 理化教室      平屋   四七 二五
   ニ 寮舎        二階建 一〇八 〇〇
   ホ 同         同   一四四 〇〇
   ヘ 教師館       同    二五 七五
   ト 同         同    二五 七五
   チ 同         同    二五 七五
   リ 割烹假教室     平屋   一五 〇〇
   ヌ 物置        同    一二 〇〇
   ル 浴室        同    一八 〇〇
   ヲ 湯呑所       同     九 〇〇
   ワ 便所        同     八 〇〇
   カ 同         同     八 〇〇
   ヨ 門衛所       同     四 五〇
   タ 供待所       同     五 〇〇       

 〔写真〕

 ・校舎〔左から三枚目〕 ・校舎 ・理科教室 ・寮舎〔左から四枚目〕 ・花園 ・日本女子大学校職員生徒 ・附属高等女学校職員生徒

 日本女子大学校一覧 

 ◎方針 本校教育上の方針は、女子を、人として、婦人として国民としての、三方面より教育するに在り。
 ◎人としての教育 第一、本校が、之を器械視せず芸人視せず、単に眼前実用の学芸のみを授けずして、人間として当然具備すべき心身上の能力を啓発開展し、如何なる境遇に処し如何なる職業に従ふも、欠くべからざる人格を養はしむるは、是れ人としての本分を尽さしめんとすればなり。
 ◎婦人としての教育 第二、婦人には婦人として特別に修むべき徳あり、磨くべき知あり、備ふべき芸あるが故に凡て此等の婦人に必要なる智徳芸能を授け以て賢母たり良妻たらしむるは、是れ女子として尽すべき天職を全うせしめんが為なり。
 ◎国民としての教育 第三に、国民たるの観念を与え、社会の一員たることを自覚せしめ、以て日本婦人としての徳性を備へしむるは、是れ国家社会に対し、国民としての女子の義務を尽さしめんとすればなり。本校は如上の主義実行の方法として第一
 ◎開発主義 の教育を施し、生徒をして自ら研究し工夫し動作する習慣を養はしめ、漫に他人を模倣し教師に依頼するの弊に陥ることなく、徒に博識多能ならんよりは寧ろ事物の真相関係を弁知し、芸術の原則妙理を会得するに必要なる智力を練磨し、他日卒業の後に於て万般の事物に接して永く効力を有し応用自在ならんことを期す。殊に徳育に於ては自奮自脩、他の指揮を待たず、進んで各自の職を尽すの良習を養成せしめんとす。
 ◎特性の発育 第二は、生徒各自の特性に適合する教育を施すに在り。才に適不適あり、即ち必修撰修両科を併置して、学科科目選択の自由を与えへ。体質に強と弱とあり、即ち室内に戸外に、種々の装置を備へて、各々自適の運動を撰はしむ。徳性又其習慣気質を異にする所あり、即ち又適宜の訓戒奨励を与へて、其品格の陶冶を計るなり。尚此外に
 ◎本校の特色 とせんとする所のもの一あり。即ち万事に於て、本校は一方には官公立学校の長所を採り、一方には私立学校の短所を棄て、形式に流れす又不規律に陥らず、善く形式と精神とを調和融合せしめんことを期する是なり。
 ◎創業の発端 本校創立の発表は、正に明治二十九年に在り。時の総理大臣伊藤侯西園寺侯大隈伯内海男北畠男等、主として熱心なる賛意を表せられ、殊に大和の土倉庄三郎氏と大阪の広岡浅子は、募金費を担任して、大に力を假されたり。此際
 ◎発起人
 ◎創立委員 翌年四月に開かれたる発起人会の結果として、
         伊藤徳三    男爵 岩崎彌之助
         磯野小右衛門     稲垣満次郎
   侯爵    蜂須賀茂韶      原六郎
         濱岡光哲       土倉庄三郎
   伯爵    大隈重信       大三輪長兵衛
         大倉喜八郎   子爵 岡部長職
         川崎芳太郎      嘉納治五郎
         高崎親章       田中源太郎
         田中市兵衛      田村太兵衛
         辻新次        成瀬仁蔵
   子爵    長岡護美       村山龍平
   男爵    内海忠勝       野崎武吉郎
         久保田譲       山本達雄
         薮田勘兵衛      前川槇臧
   公爵    近衛篤麿       兒島惟謙
         淺野総一郎   子爵 秋元興朝
   侯爵    西園寺公望   男爵 北畠治房
         菊池侃ニ       三井高保
         三井三郎助   男爵 澁澤榮一
         廣岡信五郎   伯爵 土方久元
   工学博士  平賀義美       森村市左衛門
         住友吉左衛門
 の諸氏創立委員となられ、委員長には近衛公を推せしも、公は職務多端の故を以て大隈伯に譲られ伯即ち之に当られ、
 ◎会計監督
 ◎教務委員
 ◎賛助員
 ◎資金の募集
 ◎建築委員 として、男爵岩崎彌之助久保田譲兒島惟謙三井三郎助男爵渋沢栄一住友吉左衛門の六氏は挙けられ、文部技師久留正道氏は、好意を以て設計監督の任に当られ、茲に本校々舎理科教室各一、教師館三棟、寮舎二棟、浴室一棟、門衛舎一棟、計六百七十五坪余の建物は、三十四年四月中旬を以て、三井家寄附の五千四百坪の地に建られ、直に開校式を挙くるに至りたり。
 ◎位置 目白台の中央、細川邸に隣り、樺山邸に対する処、鬱蒼たる古樫の其四方を繞くるもの、之を日本女子大学校とす。地高く、水清く、気新に境閑なり。門を入れば幾株の老桜、路の左右に並ひ、巍々たる灰白色の
 ◎校舎 両翼を張て其前に横はる、之を附属高等女学校の教室とす。大学部教室の敷地は其前方にして、其右翼に当る一部は工事正に落成せり。廊下を以て高等女学校教室の東に列るものを、理科教室とす。これは岩崎久彌男の寄附なり。両舎の間を北すれば、二個の教師館に挟まれて、二層楼の寮舎の東西に亘れるを見る。此寮舎と校舎との間に、一大
 ◎花園 あり。大隈伯の寄附に係る。円形の花壇を中心として、幾多扇形の花壇之を繞 めぐ り、其間縦横に小径を通す。異花爛熳、珍卉馥郁、花鳥月夕、其間に逍遥す、清快それ幾千ぞ。
 ◎入学者頻々
 ◎皇室の恩賜
 ◎江湖の同情
 ◎社会の注目
 ◎大学部
 ◎家政学部
 ◎国文学部
 ◎英文学部
 ◎三学部共通の学科
 ◎科外講演
 ◎高等女学校
  〔表〕日本女子大学校在学生徒数府県別調(明治丗五年五月十五日現在)
 ◎高等女学校の教員 穂積銀子は国語作文及家政を、法貴すゑ子は歴史及地理を、戸川安宅氏三輪田真佐子は国語を、川端玉章戸田玉秀両氏は毛筆画を、富田久子は唱歌及音楽を、小野鵞堂中村梅太郎両氏は習字を、濱田文子川瀬文子村井知至氏山本春子、松浦政泰氏ミセスケデー、ミス、エモルソンは英語を、成瀬仁蔵麻生正蔵両氏は修身を、倉田泰子は国語地理を、松井昇氏は用器画を、佐野とく子は英語及数学を、白井規矩郎氏は体操及音楽を、平野はま子は理科体操及英語を、川瀬文子は体操を、石原咲四手井栄吉吉田貴三子は裁縫を、夫れゝ懇篤に教授せらる。
 ◎体育 は本邦女子教育の弱点にして、又女子其者に最も欠くべからざる所のものなれば、本校は特に之に重きを置き、室内に戸外に、各種の装置を備ヘ、生徒をして各自から喜ひ勇んで之に当らしむると雖とも単に校則として体操を課するのみならず小にしては一身大にしては一家及社会の体育及衛生に関しても各自に注意するの習慣を養はしめんことを期す、今其大略を記さんには、之を教育体操園芸体操、容儀体操及遊戯お四部に大別す。尚少しく、詳記すれば、米国式あり英国式あり、仏国式即デルサートあり、又表情体操あり、英国式にはアリス式とハドソン式とあり。之に使用する機具の如きも、木環、毬唖錫、鈴傘、シムバー、プラム、扇子等其数一にして足らす。遊戯に至ては、ローンテニス(庭球)女子ベースボール、クロッケー、ホッケー、バスケットボール(籠球)、テザーボール(傘毬)、スカーフ(虹霓布晒)、其他各種の欧米の新遊戯あり。一々記するに遑あらず。 
 ◎寮舎 本校の寮舎は、善良なる家庭を理想とし、又社会との関係をも保たしむるを期す。之を七寮に分ち、(外に八九両寮あり尚目下樺山邸内に三寮の増築中なり)各寮二十六名の女生を容る。各寮一名の寮監ありて、寮生と起臥を共にし、校内在住の校長学監と共に、父母兄姉に代て、監督の任に当り、衛生及び疾病のことに関しては校医医学士高田耕安、ドクトル小此木信六郎二氏之を監督し女医前田園子は日々出張して病者を診療せらる又寮生の中より一ヶ月交代に主婦二名を撰ひ、専ら寮の経済炊事其他の家務を整理せしむ。寮の内外の酒掃、燈火の準備、配膳の用意等、皆寮生の順番に担任する所なり。本校が此の如く家族制度を採用するは、生徒をして自奮自修の精神を以て、家族同様の共同生活を営み、長幼相扶け歓苦相分ち、知らす識らすの際に、良妻賢母たるの素養を修めしめんとすればなり。
 ◎事務所
 ◎将来の計画
 ◎今後の設備
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『記念』(日本女子大学卒業アルバム)(1923.4)

2017年07月22日 | 女子教育 日女、津田梅子
 
 
 記念

 〔題字〕

 ・信念徹底 樟渓
 ・信念徹底、自発創生、共同奉仕

 〔写真〕

     

 ・正門〔上の写真 左から1番目〕
 ・講堂〔同2番目〕
 ・国文館、家政館、英文館
 ・桜楓館、香雪化学館
 ・子爵 渋沢栄一〔同3番目〕、故男爵 森村市左衛門〔同4番目〕、故侯爵 大隈重信〔同5番目〕

      

 ・校長 麻生正蔵先生〔上の写真 左から1番目〕、校長室
 ・塘幹事〔同2番目〕
 ・晩香村(寮舎ノ一部)〔同3番目〕
 ・記念樹
 ・卒業式〔同4番目〕
 ・故校長 成瀬先生〔同5番目〕
 ・故校長墓地(除幕式)、故校長書斎

      

 ・市村瓚次郎先生、井上秀子先生〔上の写真 左から1番目〕、犬飼すみ先生〔同2番目〕、橋本進吉先生、二階堂保則先生
 ・友枝高彦先生、茅野儀太郎先生、綿貫哲雄先生、渡邊英一先生、川野健作先生
 ・河野清丸先生、横手千代之助先生〔同3番目〕、田邊淳吉先生、高橋誠一郎先生、武島又次郎先生〔同4番目〕
 ・中村進午先生、中村孝也先生、長井長義先生、生江孝之先生、浦口文治先生
 ・アール、エチ、クラーク先生、栗山重信先生、桑木巌冀先生、山内繁雄先生、前島春三先生
 ・松木亦太郎先生、二木謙三先生、イー、ジー、フィリップス先生、藤田外次郎先生、小林澄兄先生
 ・近藤耕藏先生、寺尾元彦先生、手塚かね子先生、姉崎正治先生、淺理肇先生
 ・安藤正次先生、阿部次郎先生〔同5番目〕、岸本能武太先生、菊池清治先生、三田定則先生
 ・塩澤昌貞先生、白井規矩郎先生、上代たの子先生〔同6番目〕、森岡常藏先生


 家政学部第一部卒業生

 家政学部第二部卒業生

 師範家政学部第一部卒業生

 師範家政学部第二部卒業生

 国文学部第一部卒業生

 国文学部第二部卒業生

 英文学部第一部卒業生

 英文学部第二部卒業生

 日本女子大学第二十回卒業生姓名
 (いろは順)

 大正十二年四月

  撮影所 東京市京橋区丸屋町三番地 株式会社 江木写真店
  印刷所 株式会社 江木写真店製版部
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「日本女子大学校設立の趣旨大要」

2016年04月02日 | 女子教育 日女、津田梅子
 

 日本女子大学校設立の趣旨大要

 女子は国民の一半を組成する者にして社会国家に及す影響の深且大なる洵に世人の想像以外に在り女子教育の振否は邦家汚隆の由で岐るヽ所なりと謂ふべきなり然るに其普及発達の現状たる国家の運命を托するに足らざるものあり而かも尚之れが進歩改善を謀る者寂として聞ゆるなきは豈に明治聖世の一大恨事に非ずや是れ吾人が敢て天下の同志に訴へ茲に大阪に地を卜し日本女子大学校なるものを創設し女子教育の発達改善及普及を催進し以て国運振張の一助に供せむと欲する所以なり
 本校の執らむとせる所の女子教育上の方針は第一に女子を人として教育し第二に婦人として教育し第三に国民として教育するに在り女子教育の方法を視るに或は女子を器械視し若しくば芸人視し隨て目前実用の知識芸能のみを授け殆ど人たるの教育に注意せざるが如きものあり抑も人たるの教育とは心身の能力を開展せしめべからざる資質を修養せしむるに在り女子は其心身の構造社会の体制上より女子の尽すべき自然の天職なるものあり良妻賢母たるべきこと是れなり吾人は殊に此点に向て力を傾注せむと欲す女子も亦国家の臣民たり宜しく国民たるの観念を與へ一個国民としての能力を備へしめざるべからず本校の教育法其基礎を此三点に置かむとするもの偶然に非ざるなり
 本校の組織程度は大略左の如くせむと欲す

 

 本校称して大学校と云ふも其実本表に示せるが如く初等教育あり中等教育あり高等教育あり或は普通科あり専門科あり高低難易相合して一校を成すものにして唯高等教育のみを目的とするに非ず吾人の主眼とする所は下幼稚園より上大学部に至る迄首尾の系統整頓せる教育組織を一校内に設け吾人の執る所の特殊の教育主義及方法を実施し旁ら本邦女子教育改善の方法を研究実験し以て本邦女子教育界の中心たらむことを期するに在り然れども社会需要の緩急に依り先つ高等女学校に着手し順次校務の進捗に応じ上下に拡張せむと欲す大学部の程度の如きは高等女学校卒業後三年以内にて卒業するを得るに止め本邦現時の社会及女子に適合するを以て標準となし過度の高等教育に馳するが如き弊を避け徐々其実効を挙げむことを期す彼の欧米諸国に行はるヽ女子教育法を直に採りて我邦に施さむとするが如きは吾人の執らざる所にして吾人は本邦の女子に適応する所の教育を授けむと欲す雖然吾人は又泥古守旧を以て主義とする者に非ず過去に顧み現在に照らすのみならず亦大に将来に慮り以て中正適実なる進歩的女子教育を施行せむと欲す加之吾人は体育を重むじ過度の知育健康を阻害するの弊を避け個人の特性に適切なる教育を施し徳育は我邦固有の道徳に依るべきも文明諸国に於ける進歩の成蹟は之を選択取捨して補ふ所あらむとす殊に寄宿舎は家族制に依り有徳の婦人を舎監に聘し或は教員の家族を校内に住居せしめ以て生徒の管理訓育をして良家庭に在るの感あらしめん教職員選定に於ては殊に重きを人物に置き可成女子を採用せむと欲す
 吾人の目的を完成せむとするには莫大の資金を要すべきも本校基礎の鞏固を得むが為に先づ資本金参拾万円以上を募集し大凡拾万円を創立費に供し残額を基本財産となし其利息を以て本校の維持に備へ漸次資金の増加と事業の拡張とを謀らむと欲す然れども本校の設立に着手するは寄附金額十万円に達したるの暁に於てすへし而して凡て寄附金は第百十九銀行三井銀行第一銀行鴻池銀行住友銀行及加島銀行に預け確実に保管せしめ新民法実施と共に法人設立の手続を了し法律保護の下に安固を得むことを期す本校財産の管理等は評議員なるものを設けて之を処理せむと欲す評議員の資格権限出金者の待遇等は追て定むべし
 以上は日本女子大学校を設立せむとする趣旨の大要たり文略して意を尽さすと雖も幸に吾人の微意の存する所を諒せられ天下同志の翼賛を得本校設立の業を遂ぐることを得ば吾人発起人等の面白たるのみならす又多少国家に裨益する所あるべきなり

      

                         附言
 一 寄附金は東京にては会計監督渋沢栄一氏大阪にては同住友吉左衛門氏の名宛にて創立事務所に送附を乞ふ
 一 寄附金は受取次第会計監督の名を以て受領證を呈す
    但し郵便振替にて御送附の方は東京は飯田町郵便支局大阪は中の島郵便本局渡り御取組を乞ふ
 一 創立事務に関する通信等は凡て左の両所に御送附を乞ふ
     大阪西区北江戸堀一丁目三十番邸日本女子大学校創立事務所
     東京神田区一ツ橋通帝国教育会内日本女子大学校創立事務所

 

 ●日本女子大学校開校式式場内景
 
 同校開校式の記事は、詳細本誌第九十号に在り。此に掲けたるは、式の当日、本誌のために本郷茗渓なる玉翠館員が撮影したるもの。この我邦最初の女子大学校の記念として唯一の写真なり。中央に立ちて演説中なるは、渋沢会計監督にして、卓子 テーブル の傍に椅子に椅 よ らるゝは教頭麻生氏なり。写真に対ひて右の奥に立ちて、写真器械の方を眺め居らるゝは、校長成瀬仁蔵氏にして、其の前に椅子にかゝり居らるゝは、創立委員長大隈伯なり。撮影者に近き処に居らるゝは附属高等女学校生徒、演壇に近きは大学部生徒、左方の奥なるは来賓なり。当日は雨天なりしため到底撮影し難かるべしとて、其の設 もうけ もなさゞりしが、幸ひ雨晴れたれば漸にして撮影するを得たり。然れども既に式を開かれし後にて、加ふるに後方の天幕低く、為に充分の好位置を占むる能はざりしも、予想外の好写真を得たるは、撮影者の巧技に依ると云はざる可らず。尚吾人は同校に向って、この最も喜ぶべき記念の写真を撮影するの栄誉を本誌に與へられたる好意を謝す。

 上の写真は、『女子之友臨時発刊第九十二号 第四才媛詞藻』 東京 東洋社 明治三十四年六月三日発行 の口絵写真にあるもの。その説明は、同号の 雑報 口絵写真版説明 のものである。なお、同号の口絵写真には、下の写真も掲載されている。

  

 ・日本女子大学校長  成瀬仁蔵君
 ・日本女子大学校学監 麻生正蔵君
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「津田梅子女史談話」 (1901)

2016年03月19日 | 女子教育 日女、津田梅子
 

 津田梅子女史談話

    麹町区元園町なる女子英語塾は、乳臭の幼乙女 をとめ 時代より、米国に渡られ、彼国の空気を吸ひて生長せられたる、津田梅子女史の設立にかゝる、我邦に於る女子唯一の最高英語専門家塾なり。記者一日女史を此の家塾に訪ひ、昔年渡米当時の様を聞かんことを請ふ女史快諾其の間に応ぜらるゝ叮嚀詳細、為に大に得る所ありき。即左に掲ぐるところは、其の談話中の概要なり。

 私共の米国へ参りましたのは、今を距 さ る三十年前のことでありまして大使岩倉(具視)さんだの、大久保(利通)さんだの、伊藤(博文)さんなどが、欧米回覧に参られる一行に加はりましたので、百何十人といふ大勢でありました。私共女生は米国公使デロング夫婦の帰国を幸に、其の保護を受けて渡米の途に就きましたことでした。一行の中には、留学生も大分あったのですが、中には女子の留学生は吉益りやう、上田貞、山川捨松(大山侯爵夫人)、永井繁(瓜生海軍少将夫人)と私の五人にして、慥 たしか この事は、黒田(時の開拓使次官清隆)さんが、北海道に女子の学校を建て度 たい 其御考へから起ったかと存じます。そして女子も男子と一緒に、海外留学を命ぜらることになったのだそうですが、十五歳を頭に、十二三の小供はかしで、私は七歳でした。尤 もっとも どういふことから、私が其の中へ加へられたかは存じませんが、兎に角其の時分には、洋行を希望するものは、今に較べると余程少数なものであったので、縦令 たとへ 当人が進みましても、親が不承知だとか、何だとかいふ故障が起ったりして、誠に稀なことでしたから、況 ま して女子の留学などいふことは、別して珍らしく、私共留学に付、前には例 ためし のないことがありましたのです。
 出立前即明治四年十二月に 皇后陛下に拝謁を仰せ付られ其時紅白の紋縮緬一匹を下し給りました。申すも畏れ多いことでありますが 皇后陛下が、其の頃から女子教育のことに、御熱心にあらせられたことは、誠に難有 ありがたき 次第でして、華族だとか、又官位のあるものならば兎に角、我々の如き只の士族どもが、拝謁仰せ付けられたといふことは、感泣感喜の外ない訳であります。
 それから又政府から辞令が下りましたが、其の文言 もんごん なども今から見ますると、余程変で珍らしく感ぜられます。たしかかういふ風でした。
   其方女子にして洋学修行の志誠に神妙のことに候追々女学御取建の儀に候へば成業帰朝の上は婦女の模範と相成候様心掛け日夜勉励可致事
       辛未十一月       太政官
 扨 さて 彼地に参るについては、一度外国の様子を知って置くが善いといふことで、其の時分には米国公使館は横浜にあったものですから、横浜へ連れて行かれて、始めて西洋館へ入ったことでした。凡てがかういふ風で、何も解らなかったのですが、それは女だけではなくて、同行の男子の方も大抵は何も解らずであったので、又服装だといっても、元より和服で、男子の方は大小の二刀をたばさんで、頭 かしら には「とんぼ」を戴 いたゞ いて居ったのであります。
 当時新橋と横浜の間の鉄道が出来上りまして、まだ旅客を一人ものせませんでしたが、岩倉公使始 はじめ 一行出発につき、特別に発車しましたが、是が日本の汽車ののり初で御座りました。愈船に乗りましたが、丁度適当な室が無いものですから、我等五人は同じ狭い部屋……尤他の室に較ぶれば大きいのでしたが、二人か三人はいれば充分の所へ、五人も入ったものですから、如何にも窮屈で、二人は腰掛の上へ、一人は普通荷物などを入れる床の上へ、私と吉益さんといふ方とは、一人寝の寝台へ眠ることに致したことでした。
 この吉益りやうさんといふ方が、一番年長 としかさ であったものですから、色々な世話を受けたのですが、皆が舟に酔って一時は随分つらく感じました。勿論語学は誰も出来ませず、世話する女中が、食事のことや其の他のことを尋ねに参りましても、何をいふやら解りません故「エース」だとか、「ノー」だとか答へる許 ばかり で、手真似でやって用を弁じます様な次第で、食事をしますのにも、食器 うつは の用ひ方を誰も知らないものですから、何でも掴んで食べたのです。黄色なものがあるものですから、何だらうといって「バタ」を匙で甞めたりしましたやうなこと、又髪は御互に結ひ合ったのです。
 廿五六日も経まして、サンフランシスコに着きましたが、見物人の夥しいことといったら実に非常なものでした。それから「ホテル」へ着きましたのですが、見るもの聞くもの、一として珍しくないものはない。殊に最異様に感じたのは「ホテル」の給仕が皆黒奴 くろんぼ であったことなんです。物珍しくもあるが、何だか恐ろしかったでした。
 何処へ参りましても大層珍しがられまして、「ホテル」へは沢山な人が尋ねて来まして、私共をいろんな所へ連れて行って、様々のものを見せて呉れ、手真似で以て何やかやの説明をして、私共を喜ばさうとせられました。私共が彼地に着きます少し以前に、大陸鉄道は出来上って居たのでして、すぐ其の鉄道に乗りましたが、大雪の為に不通となったものですから、ソールト、レーキ、シチーに暫の間滞在して居ました。
 それからシカゴへ行って洋服に着換へたのです。最サンフランシスコへ着けば、すぐ洋服に替へる筈であったのでして、其のことはデロング夫婦に頼んで置いてあったのですが、デロング夫婦は却って和服の方が善いといって、容易に買ってくれないのです。強 たっ て頼まうと思っても、言葉が通じないものですから、とうとう岩倉さんにお願い申して、漸うシカゴで買ってもらったのです。もとより洋服の着様さへ知らなかった、又品だとか恰好だとかいふやうなことも分りませぬに、それにまた気候が大層寒かったものですから、赤い「ショール」をひっかぶって旅行をしたのでありますから、あちらの人には如何にも野蛮の状態に見えましたことでせう。
 それからワシントンへ連れて行かれました。此地で大使の一行と別れて、其の時の米国臨時公使森有礼さんに、我々五人は預けられたのですが、森さんには私共が随分迷惑をかけましたので、こんな赤坊などよこしてどうするのですかといはれたこともあったさうですが、兎に角一つの家を借りて、其処へ五人のものを入れて、教師を傭ひ入れ、其処で教育しやうといふことで、一人の女教師は私共と同じ家に起臥して私共を監督することとなり、他の職員は通ふことになって教育を受けたのですが、何分教師のいふことが全く通ぜぬものですから、我々は勝手なことばかりして居るのです。それで教師が夜分になれば、早く寝ろと申して二階の寝所へ入れる。けれども我々は寝所へはいれば、おとなしくして寝なければならぬのだといふことも知らぬものですから、瓦斯燈抔 など をつけて、寝所で以て色々な遊をして、大騒をやるのです。それで何時かかういふ所へ、教師が上りて来て見付けられたこともあるのです。かういふ風にして、半ケ年程続けましたが、併しこれでは言葉も日本語を使ってるし、国ぶりの風俗を続けてゐるといふ有様で、甲斐が少いといふ所から、みんな分れ分れになりまして、私は日本公使館の書記官で、著書などもしてる一寸名の聞いたチャレス、ランマン(ダュールウヱブストルの秘書官たりし人)といふ方の宅へ世話になることとなり、「ジョジ、トウン」の小学校へ入学したのです。又其の中で二人の方は向ふへまゐりましてから、一年ばかし経った時分に、病気で帰朝しましたから、後には今の大山侯爵夫人(捨松)と、瓜生海軍少将の夫人(しげ子)と、私と三人残ったのですが、かく分れてしまひましたけれど、休暇の時には必一つ処へよって、海辺へ参ったり、又避暑に行きなどしました。
 私の世話になったランマンといふ方は、小供のない御夫婦でしたが、初めは迷惑ながら兎に角世話を願ったので、他の所を見付けるまで、暫くといふ約束であったのですけれども、段々と馳 な れるに従ひ、非常に親切にして下さいまして、とうとう永く御世話になることとなったのです。併慣れるまでは、随分双方とも困難は一通りのことではなかったので、通弁はありませず、手真似ばかりですから、ランマン夫婦もよい御迷惑でしたらうが、私も実に窮屈なことでした……それで公使館へ遊びに行くのを一番に楽 たのしみ にして居ったのですが、全権公使の吉田(清成)さんにも、色々御世話になったのです。
 彼の国の人にも、亦日本より御出の皆さんにも親切にして貰ったのでして、それに、あちらにいまだ日本人などといふものは、決して知られてゐなかった。支那と日本との区別すらつけられなかった位の状態でしたから、大変に妙に思はれ、珍しがられまして、のみならず米国人は、新奇なもの、変ったものを好く方ですから、学校へ入りましてからも珍重されまして、多くの人々からも日本は支那のどちらに当るか抔、其の他妙な質問を時々受けましたが、決して軽蔑されることはなくて、内国人同様、寧ろ同地人民よりも格別の扱 あつかひ を受けましたので、大変な同情の下にあったのでした。
 それで私はいつもかうおもひます。今日朝鮮や支那から我邦へ留学に参るものに、我邦人が其等の留学生を軽蔑することはあるまいか。又よし軽蔑しないにしても、私共が米国で受けた様な同情を以て、親切にしてやられるであらうかといふことは気遣はれます。
 それから私は、「ミシス、ヱル、アーチャル」の女学校を明治十五年に卒業して、翌十六年に帰朝しましたが、あちらへ渡ったときと同様の不便を感じまして、帰りましても、父母に挨拶一つも出来ないやうなことでしたから、習字を始めるやら、裁縫の稽古にかゝるやら、非常なものでした。
 又一昨々年向ふへ参りましたが、私が居ました時分とは、余程進歩して居て、何もかも大層相違して居ました。一昨々年は米国に居りました時、英国の貴婦人より招待をうけまして、英国に渡り、彼の国にて有名の人々に面会いたしましたが、其節ナイチンゲール嬢にも御逢ひ申して、親しく御話しを承ったことでした。(記者云其詳細ハナイチンゲール伝に記すべし)

 上の文は、『女子之友臨時発刊第九十二号 第四才媛詞藻』 東京 東洋社 明治三十四年六月三日発行 の 附録 に掲載されたもである。
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