映画少年

映画と音楽を愛し 教育の未来を想う 少年のつぶやき

旅の思い出 沖縄(後半の前半)

2017-08-30 04:20:12 | 日記
後半は、観光地としての沖縄を紹介する。

沖縄といえば「海」
これまでの人生で最も美しいと思った海は、渡嘉敷(とかしき)島の海である。


渡嘉敷島は、那覇から約32㎞、慶良間(けらま)諸島の中では、一番大きな島である。
現在ではダイビングの名所であり観光地として賑わっているが、前編で紹介した沖縄戦の激戦地でもある。
1945年3月27日の米軍上陸後、チビチリガマ同様「捕まれば男は戦車でひき殺され、女は辱めに遭う」という中国戦線帰りの兵士の言葉に動揺した住民の約半数にあたる368名が集団自決した。
当時の国際法では、抵抗せずに投降する者を攻撃してないけないという決まりがあり基本的に米軍はそれを守っていた。しかし、中国戦線で略奪と殺戮をくり返した日本軍関係者は、同じことをされると思ったのだろう。何の罪もなく、しかも抵抗する術もない住民はそれを信じるしかなかった・・・。
観光地を紹介したつもりが、戦争の歴史になってしまった。沖縄とはそんな場所である。

こうした沖縄に想いを寄せた作家がいる。児童文学者の灰谷健次郎氏(故人)である。灰谷氏については、少年にも特別な想いがあるのでいずれ紹介したい。
実は、関西を拠点に活動をしていた灰谷氏は、1990年にこの渡嘉敷島に居を移して作家活動に専念することになる。当時、灰谷氏が住んでいた家が現在も綺麗なまま残されている。


あくまでも想像だが、西側の海に面したリビングからこんな夕日を見ることができたのだろう。

(イメージ写真)

後半の前半は、渡加敷島だけで終わってしまった。後半の後半では、美ら海水族館を紹介したい。





旅の思い出 沖縄(前半)

2017-08-28 21:46:03 | 日記
沖縄は、おそらく10回近くは行っている。
1945年3月26日~6月23日、沖縄では、国内で唯一の地上戦が行われ、多くの死者・行方不明者を出した。
沖縄県民死者・行方不明者122,228人(内民間人死者94,000人)
県外出身死者・行方不明者65,908人
アメリカ軍死者・行方不明者14,006人
イギリス軍死者・行方不明者82人

1983年7月27日、少年は、那覇空港に降り立った。突き刺さるような日差しに戸惑いながら少年は「沖縄平和の旅」の一員として沖縄の地を巡った。

そこは、アメリカ軍の砲弾から逃れるために住民が逃げ込んだ洞窟(豪=ガマ)、女学生による従軍看護婦「ひめゆり学徒隊」最期の地である「沖縄陸軍病院第三外科豪跡」、そしてジェット機の爆音が轟く「嘉手納基地」、さらに普天間第二小学校と隣り合わせにある「普天間基地」など、戦争の過去と現在が混在する地であった。そしてそれは、34年経った今でも変わらない。
記憶に残る場所をいくつか紹介する。

チビチリガマ

アメリカ軍の上陸を知った住民139人が逃げ込んだ。ガマの入口まで来たアメリカ兵が投降を呼びかけたが、元日本兵の「出て行けば殺される」という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。その後、自決する者が続出し、元日本兵が火を付けると、炎と煙がガマ内に充満した。煙で苦しむよりはアメリカ兵に撃たれて楽に死のうと考えた者はガマの外に出たことで助かり、収容所に移送された。(死者82名、その半分は子ども)

シムクガマ

アメリカ兵が、「出てこい」と呼びかけるが、チビチリガマ同様、ガマを出る者はいなかった。自決するべきという意志が村民の間で広まっていき、少年たちが竹槍を持ってアメリカ兵へ突撃しようと動き出したとき、もとハワイ移民であった住民が少年たちを止め、アメリカ兵と対話したところ、手向かいしない限り殺さないのでガマを出るように伝えられたため、村民たちを説得した。その結果、シムクガマからは1000名あまりの村民が自決することなく脱出した。

沖縄陸軍病院第三外科豪跡(ひめゆりの塔)


ひめゆり学徒隊は何度も映画化された

「ひめゆりの塔」(1953年)今井正監督 出演:津島恵子、岡田英次、香川京子、渡辺美佐子

沖縄は米軍に占領されていたため沖縄ロケは出来ず、撮影所の野外セットと千葉県銚子市の海岸でのロケで撮影された。

なお、女学生の安富良子役で出演した渡辺美佐子さんとは、先日福岡市で催された原爆詩「夏の雲は忘れない」の朗読会でお会いした。80歳を過ぎてもお元気で、先日紹介した「深夜食堂」に博多から出てきたおばあちゃんの役で出ておられたし、少し前になるが深田恭子主演で現代の貧困をテーマにしたNHKドラマ「サイレントプア」にも独居老人の役で出演され存在感を示されていた。


中央の女学生が渡辺さんではないかと思うが・・・


「サイレント・プア」渡辺さんの写真は見つからなかった。


「深夜食堂」での一場面


現在の渡辺さん。84歳には見えない。


(1982年作品)


(1995年作品)

嘉手納基地


普天間基地


普天間第二小学校


後半は、観光地としての沖縄を紹介する。




旅の思い出 大阪

2017-08-25 22:39:55 | 日記
大阪は3回訪れている。
1回目は、1991に年にミュージカル「アニー」を観るためだ。

1991年公演のポスター

きっかけは、知人が送ってくれたメイキングビデオ。オーディションを勝ち抜いてきた子どもたちが、厳しい演出家のもとで、時には涙しながら稽古する姿に感動してぜひ公演を観たいと思ったからである。
アニー役は、現在36歳で静岡県生まれの鈴木奈央(当時11歳、現在も鈴木美紀の芸名で女優を続けている)
繰り返しビデオを観て出演する子役の名前と顔を覚えていたのでステージ上に彼女らの姿を見たとき、泣きながら稽古をしていたシーンを思い出して改めて感動が押し寄せてきた。
なお、この公演では、孤児であるアニーを養子にしたいと思っている大富豪オリバー・ウォーバックスを上條恒彦、孤児院の院長ミス・ハニガンを元宝塚歌劇団の上月晃が演じた。
1978年の日本版初演後一度中断したが、1986年の再演以来、途切れることなく現在も公演は続いており今年は32回目となる。この間、多くのアニー役を輩出し、鈴木のように現在も活躍している人も少なくない。ちなみに、アニー役ではないが1999年版でトニーを演じた子役が、10000人の応募者から選ばれた蒼井優(福岡県春日市出身)であり、彼女の女優デビューとなる。


2回目に訪れたのは2001年、開業したばかりのユニバーサル・スタジオ・ジャパンを体験するためだ。「ジョーズ」「ジュラシック・パーク・ザ・ライド」などハリウッド映画の世界を体験できることもあり、すごい人出だったことを覚えている。当時の一番人気は「E.T. アドベンチャー」(2009年5月10日で終了)二時間半並び、体験時間は10分程度。スキー場のリフトのようなものに座って場内を回ると映画のシーンが目の前に現れるという仕掛けだったように覚えている。

(C)&(R)Universal Studios. All rights reserved.

そして3回目が出張。2003年9月のことだった。時間があったので、通天閣に上ってビリケンに拝謁し、近くの店でたこ焼きを食べた。まさに大阪三昧である。




3回目の訪問から14年が経った。久しぶりに大阪に行ってみたいと思っている。なぜ今大阪か? それは、7月の東京行きの飛行機から関西空港とその先の大阪市街を見てしまい、大阪への郷愁が湧き上がってきたからである。


今度大阪に行ったときに行ってみたい場所が2か所ある。今は秘密だが、もし実現したらレポートしたい。

新シリーズ 旅の思い出(京都)

2017-08-24 04:01:46 | 日記
新シリーズ「旅の思い出」記念すべき第1回目は、京都!
初めて訪れたのは、高校の修学旅行。京都駅に着いてまず驚いたのが、京都タワー(1964年竣工)。台座となっている京都タワービルを含めた高さは131mあり、京都市内では最も高い建造物である。

驚いたのはその高さではなく構造である。展望台部分が、タワーの支柱より大きくせり出しているため、窓側に行くと足の下には支柱がなく、宙に浮いている感じになるところである。高いところが好きなくせに、なぜか高所恐怖症の少年にとって、それは許されないことであった。恐る恐る窓際に近寄ると展望台部分がその重みで傾くのではないかと思ってしまうのである。しかし、勇気を出して(笑)窓のところまで行くと、京都市内はもちろん、大阪市街を望むことができたのを覚えている。なお、2017年4月14日、京都タワービルの地下1階から地上2階に商業施設「KYOTO TOWER SANDO(京都タワーサンド)」が開業して賑わっているという。今度行った時にぜひ訪れてみたい。

もう一つ印象に残っているのが、大原三千院。少年が訪れたのは1月だったので雪景色であったが、
(イメージ)

秋の紅葉は京都一という声があるほど素晴らしいらしい。
(イメージ)

なお、京都に住む友人から聞いたところによると食事処として人気があるのが、「大原リバーサイドカフェ 来隣」


大原産の野菜を使った料理が並ぶ。健康第一少年にとってぜひ一度は行ってみたい店である。


2回目に訪れたのは、社会人になってからなので26歳ころだったろうか。嵐山のホテルに泊まって全国から集まった若者たちと研修に参加したのだが、内容はよく覚えていない。ただ、京都の魅力について語り合った記憶がある。

(嵐山温泉「花伝抄」)

京都には、三人の友人が住んでいる。一人は、京都の美大(大学院)で絵画の勉強をしているTさん。「大原リバーサイドカフェ 来隣」を教えてくれた人である。


二人目は、関西電力に勤めているO君。先日熊本であった小学校の同窓会で完璧な?関西弁を披露していた彼である。


そして三人目が、中学・高校が同じだったAさん。中学校の英語の先生をしている。

機会があったら、この友人たちにもぜひ会ってみたいものだ。

次回は「大阪」



香椎・昭和

2017-08-22 03:57:10 | 日記
深夜食堂のような店はないかなと思いながら街を歩いていたときこの店に出会った。「角打ち処・昭和」福岡市東区香椎にある立ち飲み居酒屋である。


店内は薄暗く、壁には昭和初期の旭ビール(アサヒビール)のポスターなどが所狭しと貼られ、見事に「昭和」が演出されている。


L字カウンターには、逆さに立てられた洋酒が並ぶなど、アメリカンの雰囲気も併せ持っている。


メニューをみると、おでん、ハムカツ、ちくわと魚肉ソーセージのバター焼き・・・、昭和だ。


それらをかじりながらハイボールをチビチビやる。スキンヘッドの店主は無口だが、語りかけると優しく返してくれる。6年前からJR踏切近くのこの場所で営業しているとのこと。


「いい店を見つけた。これから時々くるぞ!」と思う。

だが、そうは問屋が卸さなかった。店内の貼り紙に「今月末で閉店」の文字。「もう少し早く気が付けば・・・」そう思いながら店を後にした。