シャンソン歌手リリ・レイLILI LEY 七月の思い出 我が留学記
七月は この七年間 私にとっては
NHKホール でシャンソンの祭典
パリ祭に出演するという 思い入れの深い 月ですが
7月14日は フランス革命記念日で
日本国内でだけ その 革命記念日を パリ祭と 呼んだりします。
パリ中が 軍事パレード や 軍用機の旋回
など 夜は花火で
人が老若男女 わんさか 繰り出して盛り上がります。
私が 生まれて初めて ヨーロッパ ベルギー
フランス語圏に留学したのは
1984年 7月11日 29才
ベルギー大使館から 学生ビザを 貰い
初めての 海外 しかも お一人様
ベルギーは オランダから1831年
7月21日に独立した
フランス語圏
パリから 北300キロの 地
ロータリー 財団奨学生として 留学したわけです。
あの頃は 北回りのサベナ エアラインというベルギーの
飛行機会社の 便で
たしか アンカレッジ経由 20時間近く 掛かる時代でした。
首都 ブリュッセルは
東京と比べると とても寒く感じ
夏の太陽が 燦々で日が暮れなくて
夜10時まで明るくて
驚いて しまいました。
現在のような情報社会でもなく
携帯電話もFAXも無くて
全てが
当たって砕けろ ・・・出たとこ勝負・・・・
まずは 自分で 何でもやるしかない・・・
フランス語しか 通じない・・・
そして 私は 毎日 ビックリ仰天の留学人生を
29才 七月に 開始したのです。
まるで
私の 独立記念日 革命記念日みたいなものです。
ブリュッセルの 留学生受け入れホスト ロータリー家族
レダエリ氏一家が
私を 誘ってくださって
7月21日の 独立記念日の
国民が 花火や軍事パレードを楽しむ祭日に
レストランで ムール貝と フリッツと ダームブロンシュ
ベルギービールを ご馳走になり
天にも昇る 美味しさに
「あー ベルギーは 文化国だわー 食事が美味しい国は
文化があるもの」と
本能で感じたものです。
夜 王宮公園の花火を 見た時は もう夜11時半頃で
夜10時過ぎないと 暗くならず
夏の花火は 日本の開始時間とは 違うし
群衆の 多さにも
仰天したものです。
しかも 寒くて 寒くて・・・
30年前は ベルギーの七月は 寒かったです。
八月になると 更に寒くなり
日本の12月の様な 寒い日もありました。
生まれて初めて
フランス パリに 行ったのは その年の10月か 11月
秋でした。
国境があり ユーロではなかったから
ベルギーフランから フランス フランに
両替して
オーバーを 着て 行き
寒くて ブーツを パリのランバンで 買いました。
まだ 記念に とってあります。
パリで 初めて買った ブーツ。29才の 思い出です。
留学した あの頃の 好奇心満載な私
元気溌剌な私 欲しいモノは 何でも購入しちゃう散財型は
相変わらず 同じですが
数多の一人行動で 失敗も多かったけれど
お蔭様で
日本人と日本語を 話さないので
フランス語が 早く上手になりました。
27才で フランス語開始して
ラッキーにも フランス語の奨学試験に 付け焼刃集中勉強で
(数時間寝る時間以外 三か月間 丸一日 ずーっと フランス語漬けで
勉強した 記憶があります。)
たった三か月の フランス語オタク勉強経験ですが
受かってしまったものの
やはり
とてもとても 難しいフランス語の発音ですから
なかなか
綺麗には 発音できるものでもなく
留学してから
ホストファミリーのレダエリさんの
奥さんジュリエンヌには
留学後 ずーっと
フランス語発音では 叱られっ放しでした。
ジュリエンヌは 典型的なピアノの先生だから
怖くて
それはそれは 諦めない 厳しい人でした。
びくびく 会話したものです。
それも 今となれば 有難いわ。
七月になると あー 私の 記念の月なんだなー
と 思いが深く 運命を感じます。
こうして 昔を振り返ると ラッキーガールだったかも。
無事に 還暦まで 人生の苦楽を楽しみましたから
何にも後悔は ないし
今 現在が超幸福なので
私の過去で 苦労と思った事は
苦労では無かったのかもー
あの時代に苦労と思ったことは
全て 人生における試練という経験に
過ぎなかったのかもしれないわー
と
思えるようになっちゃいました。
七月バンザーイ 革命記念日 独立記念日 バンザーイ
パリ祭 バンザーイ
現在の幸福にバンザーイ
七月は この七年間 私にとっては
NHKホール でシャンソンの祭典
パリ祭に出演するという 思い入れの深い 月ですが
7月14日は フランス革命記念日で
日本国内でだけ その 革命記念日を パリ祭と 呼んだりします。
パリ中が 軍事パレード や 軍用機の旋回
など 夜は花火で
人が老若男女 わんさか 繰り出して盛り上がります。
私が 生まれて初めて ヨーロッパ ベルギー
フランス語圏に留学したのは
1984年 7月11日 29才
ベルギー大使館から 学生ビザを 貰い
初めての 海外 しかも お一人様
ベルギーは オランダから1831年
7月21日に独立した
フランス語圏
パリから 北300キロの 地
ロータリー 財団奨学生として 留学したわけです。
あの頃は 北回りのサベナ エアラインというベルギーの
飛行機会社の 便で
たしか アンカレッジ経由 20時間近く 掛かる時代でした。
首都 ブリュッセルは
東京と比べると とても寒く感じ
夏の太陽が 燦々で日が暮れなくて
夜10時まで明るくて
驚いて しまいました。
現在のような情報社会でもなく
携帯電話もFAXも無くて
全てが
当たって砕けろ ・・・出たとこ勝負・・・・
まずは 自分で 何でもやるしかない・・・
フランス語しか 通じない・・・
そして 私は 毎日 ビックリ仰天の留学人生を
29才 七月に 開始したのです。
まるで
私の 独立記念日 革命記念日みたいなものです。
ブリュッセルの 留学生受け入れホスト ロータリー家族
レダエリ氏一家が
私を 誘ってくださって
7月21日の 独立記念日の
国民が 花火や軍事パレードを楽しむ祭日に
レストランで ムール貝と フリッツと ダームブロンシュ
ベルギービールを ご馳走になり
天にも昇る 美味しさに
「あー ベルギーは 文化国だわー 食事が美味しい国は
文化があるもの」と
本能で感じたものです。
夜 王宮公園の花火を 見た時は もう夜11時半頃で
夜10時過ぎないと 暗くならず
夏の花火は 日本の開始時間とは 違うし
群衆の 多さにも
仰天したものです。
しかも 寒くて 寒くて・・・
30年前は ベルギーの七月は 寒かったです。
八月になると 更に寒くなり
日本の12月の様な 寒い日もありました。
生まれて初めて
フランス パリに 行ったのは その年の10月か 11月
秋でした。
国境があり ユーロではなかったから
ベルギーフランから フランス フランに
両替して
オーバーを 着て 行き
寒くて ブーツを パリのランバンで 買いました。
まだ 記念に とってあります。
パリで 初めて買った ブーツ。29才の 思い出です。
留学した あの頃の 好奇心満載な私
元気溌剌な私 欲しいモノは 何でも購入しちゃう散財型は
相変わらず 同じですが
数多の一人行動で 失敗も多かったけれど
お蔭様で
日本人と日本語を 話さないので
フランス語が 早く上手になりました。
27才で フランス語開始して
ラッキーにも フランス語の奨学試験に 付け焼刃集中勉強で
(数時間寝る時間以外 三か月間 丸一日 ずーっと フランス語漬けで
勉強した 記憶があります。)
たった三か月の フランス語オタク勉強経験ですが
受かってしまったものの
やはり
とてもとても 難しいフランス語の発音ですから
なかなか
綺麗には 発音できるものでもなく
留学してから
ホストファミリーのレダエリさんの
奥さんジュリエンヌには
留学後 ずーっと
フランス語発音では 叱られっ放しでした。
ジュリエンヌは 典型的なピアノの先生だから
怖くて
それはそれは 諦めない 厳しい人でした。
びくびく 会話したものです。
それも 今となれば 有難いわ。
七月になると あー 私の 記念の月なんだなー
と 思いが深く 運命を感じます。
こうして 昔を振り返ると ラッキーガールだったかも。
無事に 還暦まで 人生の苦楽を楽しみましたから
何にも後悔は ないし
今 現在が超幸福なので
私の過去で 苦労と思った事は
苦労では無かったのかもー
あの時代に苦労と思ったことは
全て 人生における試練という経験に
過ぎなかったのかもしれないわー
と
思えるようになっちゃいました。
七月バンザーイ 革命記念日 独立記念日 バンザーイ
パリ祭 バンザーイ
現在の幸福にバンザーイ