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武邦彦ターフの魔術師と呼ばれた・武豊・幸四郎の父親77歳早すぎる死にビックリ””

2016-08-12 21:23:36 | 日記
 

 

キタノカチドキで菊花賞制覇時の武邦彦

172センチの長身を綺麗に折りたたんだ、しなやかなフォーム。「絹糸一本で馬を操る」とも言われた繊細なアクション。気がつくと前の馬を射程圏に入れていて、涼しい顔で抜け出してくる。詩人の寺山修司が〈子供時代に見た「手品使い」の男を思い出す〉と表現した騎手、武邦彦を、人は「ターフの魔術師」と呼んだ。若いファンには「武豊・幸四郎の父」としての方が通りがいいかもしれない。でもそのスマートで柔らかな騎乗は、さまざまな名馬の思い出とともに、今も色あせることなく記憶されている。
 武邦彦は北海道で生まれた。祖父の武彦七は日本の西洋馬術の祖として知られる函館大経の弟子で、その兄が営んでいた牧場で馬と親しみながら幼少期を過ごす。中学生の時、調教師の叔父、武平三の勧めで騎手を志して京都へ。見習いをしながら高校に通ったが、騎手試験には何度も落ち、18歳でようやく免許を取得した。
 昭和32年のデビュー後も、その才能の開花には長い時間を要した。初騎乗も、初勝利も、初重賞勝ちもアラブの障害戦。10年間ほどは完全に地味な中堅騎手だった。それでも徐々に勝利数を増やし、大レースに縁がないのは「競馬界の七不思議」だと囁かれるようになった頃、ついに転機が訪れた。デビューから16年目の昭和47年、アチーブスターによる桜花賞の勝利だ。
 当時、桜花賞史上最も速いと言われた乱ペースで他馬の脚が止まる中、8番人気の同馬でただ1頭、抜け出してきたこの勝利を契機に、「タケクニ」の時代は幕を開けた。
 

この約1か月後にはロングエースでダービーに挑み、歴史に残る大接戦となったランドプリンス、タイテエムとの「三強」対決を、大胆に仕掛けを遅らせた冷静な騎乗で勝利。

翌昭和48年の菊花賞では、負傷した嶋田功の代打でタケホープに騎乗。逃げ切り濃厚だったハイセイコーを、並んで相手の強さを出させないよう、あえて離れた大外を回る奇策でギリギリ差し切った。また昭和49年には、この年から導入されたシード(単枠指定)制度を初めて適用されたキタノカチドキで、皐月賞と菊花賞の二冠を制している。

 昭和51年ダービーではテンポイントに騎乗しているが、その年の有馬記念では今度はトウショウボーイに跨り、テンポイントを破った。トウショウボーイではその他にも翌年の宝塚記念や、当時は6月下旬に2000メートルで行われていた高松宮杯(現・高松宮記念)も勝った。関西の騎手に、関東の名馬への騎乗依頼があることは珍しい時代で、それほど関係者の評価は高かった。
 本人が「会心のレース」として挙げるのはインターグシケンで制した昭和53年菊花賞だ。結果的にレコードが出るほどのハイペースを読み、サクラショウリら他の有力馬が最後にバタバタと力尽きる中、好位置から内を突いて冷静に抜け出した。「魔術師」の、まさに真骨頂ともいえる騎乗だった。
 円熟期の約10年間がちょうど「天才」福永洋一の登場と重なり、全国2位は2度あるもののリーディングは獲っていない。しかしその存在は、間違いなく日本競馬の中心で輝いていた。
 関西所属騎手として史上初の通算1000勝を達成した武邦彦は、最終的に1163勝をあげて昭和60年、46歳で引退した。三男の豊が競馬学校の2年生になり、幸四郎が小学校に入学する春のことだった。

私も当時は大学生・・・・ハイセイコー ・ロングエース・キタノカチドキ・タケホープ・トウショウボーイなどはすべてライブで見ていましたから・・・77歳現代では・早すぎる死では?おそらく病気だとは思いますが。

今は中央競馬会の秘宝として活躍の三男豊の登場・・・馬はもちろんですが・騎手としてこれだけの素晴らしいジョッキーをまさに輩出ですね。ご冥福をお祈りしています””