その記事には、鬼雷さんがよく神社に行くのは、
「内なる神との出会いです。」
今でも神社に良く参拝します。お願い祈願は、しません。感謝もしません。神様の前では、無想を心がけています。
住吉大社に行きますとほのぼのした気分になり、体中の気の流れが正されるような気分になります。
と書かれた下りがありましたが、私も全く同じだと思いました。
私が宗教に求めるものは、自身の心の安寧です。
ですから神社に行っても、特にお願いなどはしないで、拝んでくるだけのことが多いです。
最近は、とある事情からお願いすることもありますが、基本的には、神社に行っても、お寺に行っても、拝んでくるだけです。
自分の中にいる神様を拝んでくるのかもしれません。
前にも書きましたが、神社に行けば、鏡がおかれてあります。それは、「かがみ(鏡)」から「が=我」を抜けば「神」になるからだと聞いたことがあります。
私達は、我を抜けば、たぶん神様になれるのでしょう。
私が寺社に行くのが好きなのは、寺社が私の気持ちを穏やかにしてくれるためです。
それ以上でも、それ以下でもないと思います。
私達の気持ちを穏やかにしてくれる寺社が、戦争など起こすはずもありません。起こしているのは、寺社などではなく人間でしょう。
私が短歌を作るのも、たぶん同じだと思います。
短歌でも昔は意見の食い違いから殴り合いの喧嘩があったりしたと聞いたことがあります。
が、それは短歌が殴り合いの喧嘩をしたのではなく、したのは人間です。
これは、ポエット・Mさんが言われていましたが、短歌には魂鎮めの働きがあると思います。
歌を詠むことで心が癒やされる、その歌を読む人も、また心が癒やされるというのが、本当の歌ではないかと思います。
俳句も同様でしょう。
私は、短歌、俳句には、信仰に匹敵する力があると思っています。
そういう意味で、短歌、俳句をやっている人は、私的に一応信頼できると思っています。
★神の道かがみの道でありければ返りくるらむ悪事はなべて