「先輩たちのたたかい」

労働相談・労働組合スタッフの個人日記です

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

1927年信州岡谷 1300名の女工の決起と全面敗北 「山一争議」

2010年04月01日 17時50分30秒 | 先輩たちのたたかい
「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家(資本家)よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」
信濃毎日新聞記事1927年9月22日




1927年信州岡谷 1300名の女工の決起と全面敗北
日本で最初の大規模な製糸女工1300名のストライキ「山一争議」

あゝ野麦峠 山本茂実著(角川文庫)を久しぶりに読んでいます。
《女工惨敗セリ》の項を先に読みました。《女工惨敗セリ》は、昭和2年(1927年)の信州岡谷の紡績会社山一林組の1300名の紡績女工の決起と壮烈な闘いとその敗北の「山一争議ストライキ」の記録を描いています。

びっくりするのは、「山一争議」がついに労働者の大敗北に終ったその翌日の信濃毎日新聞の素敵な記事です。記事は「労働争議の教訓」として次のように論じます。

「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家(資本家)よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」

なんという慰めでしょう。なんという美しい言葉でしょう。それも昭和2年という時代状況での記事です。

(この本にはないのですが、市川房江さんが、この時、岡谷で女工の福祉施設「岡谷母の家」を設定して女工の闘いの支援活動をしていたと、ある歴史年表で見つけました)。

*********************************************************
1300名の女工の決起と全面敗北
昭和2年(1927年)8月28日信州岡谷の大製糸会社「山一林組」で、日本で最初の大規模な製糸女工のストライキ「山一争議」が起きた。

28日朝6時 6名の代表が林社長に嘆願書提出
要求内容
①労働組合加入の自由を認めよ
②組合加入を理由とする不当転勤、降格の禁止
③組合員ゆえの解雇をするな
④組合員に問題がある時は組合役員に連絡を!組合役員が責任をもって導く。
⑤食事・衛生の改善
⑥福利厚生の施設を与えよ
⑦賃金の改善

林社長「外の人間(労働組合)に干渉される必要はない」と拒絶。

正午、組合、ビラ「同志のために」を自動車で岡谷周辺住民に一斉に配布し、薪炭店を借りて「争議団本部」の看板を掲げる。

午後7時、岡谷クラブで決起集会(千数百名参加)。
20数名の女工らが次々に壇上に立ち、工場側の虐待と不正をあげ、労働者は団結せよと熱弁をふるった。 「私たちは身売りされた奴隷ではない!!」 「私たちは日本産業を担う誇り高き労働者である」 「募集時の契約通りの賃金を支払ってください」 「私たちはブタではない。人間の食べ物を与えてください」 そして最後に立った17歳の女工山本きみが「この最低限の嘆願書を受け入れてくれるまでは、私たちは死んでも引き下がりません」と涙を浮かべて絶叫した時、千数百名の男工女工はみんな泣いて、つもりつもった怒りを爆発させたのである。

岡谷の町に繰り出したデモの労働歌は町々に響き渡った。

搾取のもとに姉は逝き 地下にて呪う声を聞く
いたわし父母は貧に泣く この不合理は何たるぞ
かくまで我は働けど 製糸はなおも虐げぬ 悲しみ多く女子(おなみご)や
されどわれらに正義あり


[会社側]
製紙業界経営者全体がふるえ上がる。もし山一で女工が勝利したら、おそらくすべての工場で女工は一斉に蜂起するに違いないと。
製紙業界の決議「一致団結して山一を絶対に勝たせる」「山一の争議女工を一切雇用しない」。

会社側の団体交渉拒否の声明書
「団体交渉権の確立は会社の管理権を失うことで、これは製糸業の経営を不可能ならしめ、ひいては日本産業の基礎を危殆(きたい)におちいらしむるもので、国民として許すべからざるものである」

山一林社長は大量なゴロツキと警察官を動員して総力をあげて、組合攻撃。
田舎の父母へ卑劣な手紙。
会社のビラやポスター。「一部の扇動者に騙されるな」「犬も3日養えば主の恩を忘れじ」「破壊は易く、建設はむずかし」「働け稼げ、不平不満は身を滅ぼす」。
「争議団が爆弾を投げる」とデマをばらまく
動揺させた田舎の親を大挙動員。娘を力づくで無理やり連れ帰る親たち。それを阻止しようとする女工労組との必死な攻防。

糧道攻め。警察・ゴロツキ・在郷軍人・町の右翼青年団が、竹ぶすまで炊事場、食堂、寄宿舎を占拠・ロックアウトで1000名全員を工場の外へたたき出す。雨中でふくろだたきにあう女工。多くの労組幹部は逮捕(60名)。

***************************************************************

この時の信濃毎日新聞記事(1927年9月22日)。
「白昼公然、少なくもわれら長野県において同胞の子にむかって飢餓のいたるをもっておびやかす工場主の存在するを――実に長野県の大なる恥辱でなくて何であろう。あえて問う、岡谷に人道はありや、なしや」

全国から大量の食糧の差し入れ、支援が届けられた。
しかし、9月17日。21日間、激烈に闘い抜いた争議団は、ついに解散を決めた。全面敗北だった。
最後まで「母の家」に残り、争議団解散を宣言した47名の女工たちの最後のビラ。
「ついに一時休戦のやむなきにいたりました。・・・・・しかしながら私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまではたゆまず戦いを続けます。私どもは絶望しませぬ。最後の勝利を信ずるがゆえであります。終わりに私どもを激励し援助下さった多くの人々に対し厚く感謝します。」

***************************************************************
亀戸の東洋モスリン2千名の女工が決起したのは、山一争議敗北の3年後の1930年10月です。
http://blog.goo.ne.jp/19471218/e/8fdc46d0555a7df1207cab3fd694ad6b
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 1930年東洋モスリン争議(亀... | トップ | 1930年籠城闘争・ストライキ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

先輩たちのたたかい」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事