先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

年表1920年(読書メモ)

2021年07月16日 09時27分26秒 | 1920年の労働運動

写真・1920年2月26日大阪朝日新聞

読書メモ「日本労働年鑑」、ようやく1920年第2集に挑戦です。1920年を年表にまとめてみました。それにしてもすごい、最初に「森戸事件」、これ学術会議問題の菅政府の本性・本質と同じ。そしてご存じ官営八幡製鉄所の大ストライキ。こちらの資料や本はたくさんありますが、なんと浅原健三著「溶鉱炉の火は消えたり」を国会図書館デジタルコレクションで無料で読めることを発見。この本買うと大変高額です。今からワクワクしています。
 
読書メモの目的は、とにかく当時の闘った先輩労働者の闘争現場の感覚に少しでも近づくこと、知ることが第一です。偉そうな解釈やまとめはできるだけしないように心がけます。どうなることやら。

年表1920年(読書メモ)
参照
「社会・労働運動大年表Ⅰ」大原社研
「日本の労働組合100年」 旬報社
「植民地朝鮮と日本」趙景達 岩波新書
「日本労働組合物語 大正」大河内一男・松尾洋 筑摩書房

年表 1920年

1月、森戸事件裁判で「朝憲紊乱罪」の解釈変更
 東京帝国大学助教授森戸辰男の論文「クロポトキンの社会思想の研究」に、上杉愼吉東京帝大極右教授らが大学当局・政府・検事総長に対して森戸排斥運動を起こし、森戸と編集者大内兵衛を「新聞紙法違反」で起訴させた。学生らは学問の自由の侵害だと激しい抗議運動を起こした。経済学370人、法学部1千人が抗議の大会を開いた。弁護人に片山哲ら、特別弁護人に安倍磯雄・吉野作造・高野岩三郎らが参加した。しかし、朝憲紊乱罪(ちょうけん‐びんらん ... 政府の転覆など、国家の基本的統治組織を不法に破壊すること。)で森戸は禁固3ヶ月、大内は禁固1ヵ月執行猶予1年の刑に処せられた。この時の検事総長は大逆事件の時の司法処理を担当した平沼騏一郎であった。森戸と大内は失職した。この事件以来「朝憲紊乱罪」の解釈が、「不法な行動」ではなく「思想・表現」だけでも「朝憲紊乱罪」に該当することとなり、その後の思想運動弾圧に大きな影響を与えた。

2月、八幡製鉄所スト「溶鉱炉の火は消えたり」
 2月1日の6名の解雇をきっかけに、2月5日から8日八幡製鉄所2万5千人労働者第1次大ストライキ、2月24日から第2次ストライキに突入。要求は、「賃上げと労働時間短縮」であった。1901年創設いらい初めて八幡製鉄所の溶鉱炉の火は消えたのだ。この争議は浅原健三の「日本労友会」と「友愛会八幡支部」の指導で行われた。浅原は1919年に労友会を6千人で組織し、友愛会は19年秋の川崎造船所争議を闘った木村錠吉が友愛会九州出張所主任としていた。3月2日無条件就労、敗北。しかし、3月27日製鉄所側は賃上げと労働時間短縮を発表した。解雇者300人、投獄73人という大きな犠牲を払いながら、八幡製鉄所ストは大きな勝利を手にしたのだ。のちに浅原健三著「溶鉱炉の火は消えたり」はベストセラーとなり多くの労働者が読んだ。この八幡製鉄所2万5千人労働者大ストライキが、全国の労働運動に与えた影響は計り知れない。

国立国会図書館デジタルコレクション『溶鉱炉の火は消えたり 八幡製鉄所の大罷工記録』浅原健三
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179793

2月、シベリア出兵駐兵を続ける
 ソビエト政府から日本に国交回復を提議されるも、日本政府はシベリア出兵を引き続き続け駐兵を決定。3月11日、パルチザンと日本軍戦闘、日本軍敗れ多数が殺される(尼港事件)。

2月、普通選挙促進促進大会に3万人
 2月11日立権労働党参政権獲得民衆大会開催、普通選挙期成同盟会が上野公園で普通選挙促進促進大会に3万人参集。2月14日普選運動の「全国普通選挙聯合会」が設立される。関西では「普通選挙期成関西労働聯盟」が中心となり演説会や市中デモ等積極的に取り組んだ。

3月、戦後恐慌
 第1次世界大戦は日本経済に未曾有の活況をもたらしたが、大戦が終了し西欧諸国が復興すると、景気は一転し、1920年3月から恐慌が始まった。3月15日、東京株式市場で株価が大暴落した。大量な解雇で、労働市場は売り手市場から買い手市場に変わり、労働運動は守勢へ転じた。争議件数、スト参加人数は、ともに減少した。しかし、労働組合側は団体交渉権獲得をめざし運動を進めた。

3月、ドイツのカップ一揆
 3月13日極右義勇軍をベルリンに進軍させ極右政府を樹立しようしたが失敗したドイツ反革命一揆。労働者側はゼネストに決起したが、結局労働者政府は成らなかった。ルール地方では<赤軍>を結成して武装蜂起したが、国防軍に鎮圧された。

3月、新婦人協会発会式
 3月28日平塚らいてうが市川房江、奥むねおらの協力を得て我が国初の全国的、市民的婦人団体。男女の機会均等、婦人・母・子供の権利の擁護をかかげた。

4月、東京市電大ストライキ
 4月25日日本交通労組東京市電が5日間の全線スト突入。組合の要求は「労働者の人格を尊重、8時間労働制、歩合制廃止」等であった。当局は組合との交渉は拒否し続けたが、9時間勤務の実施などで争議は収束した。

5月、フランスゼネスト
 ロシア革命に鼓舞されたフランス労働者は1917年の組合数6万5千人から20年の35万人と激増させ、2月鉄道ストは全国に波及し、5月には「産業国有化」を要求してゼネストに突入したが、政府・資本は大量なスト破りを雇い、一方でスト参加者の大量解雇などの弾圧で敗北した。

5月、第1回メーデー
 5月2日、印刷工組合信友会の提唱により上野公園で1万人労働者により第1回メーデーが挙行された。「治安警察法第17条の撤廃、恐慌による失業防止、最低賃金制設定」の3大要求が決議され、また「8時間労働制、東京市電争議支援、シベリア撤兵」などの緊急動議をすべて可決した。集会終了後、検束者の即時釈放を要求するデモ隊と警官が衝突した。第1回メーデーの費用は幸徳秋水の印税を堺利彦が保管しており、その一部が使用された。

5月、労働組合同盟会創立
 5月16日、友愛会・信友会・日本交通労組・啓明会などの東京を中心とする9組合よりなる地域的戦線統一体、東京市電争議支援・第一回メーデーなどの共同闘争の発展を背景に生まれた。未組織労働者の組織化・既成組合の提携を目的とした。また失業反対闘争・争議支援などを行ったが、21年足尾銅山争議をめぐって友愛会と信友会が対立し友愛会らは脱退・分裂した。その後の同盟会はサンディカリズムの拠点として、日本労働総同盟に反対する勢力の中心となった。

5月、日中民主主義運動の提携
 吉野作造の尽力で中国教授・学生一行が来日、新人会と交流。同志社大・京大・三高学生と懇談会。

5月、大原社研「日本労働年鑑」発刊

6月、「尼港事件・普選決行・内閣打倒」大演説会開催
 6月20日全国普選連合会は「尼港事件・普選決行・内閣打倒」の大演説会を開催した。1万数千人が参加した。

7月、公開労働講座
 7月10日、友愛会大阪連合会で初めての公開労働講座が開催された。300人の聴衆が集まり、講師は賀川豊彦でテーマは「剰余価値論」について2時間余講演した。 11月、東京においても友愛会は「東京労働講習所」を開設した。3カ月一期として授業は週1で夜3時間であった。講師は安部磯雄(経済学論)、佐野学(国家学)、堀江帰一(経済学各論)等であった。

7月、富士瓦斯紡押上工場スト
 7月14日、友愛会婦人部の中核組織があった富士瓦斯紡押上工場で、7月13日会社は突然組合幹部3名を解雇してきた。そのため翌日から女性1600名を中心にした2千余名の労働者が「団結権承認」をかかげて一斉にストに突入し、会社側の猛烈な切り崩しのなかで寄宿舎の女性労働者ら争議団は固く結束し、21日会社側から「労働者の結合団結の自由を認める」の譲歩を勝ち取り争議は解決したから見えたが、23日会社は突如有力な女性幹部の解雇を発表してきたため、争議が再発した。しかし、一旦緩んだ団結と猛烈な切り崩しにより争議は惨敗した。

7月、シベリア撤兵
 7月15日、シベリア派遣軍、停戦の議定書に調印。8月9月と日本軍のシベリア撤兵が行われた。

7月、コミンテルン第2回大会開催
 37ヶ国67組織の代表の労働者国際大会。

8月、イタリア工場占拠
 大戦後の経済危機に労働組合は急速に拡大し、ストライキは尖鋭化した。ミラノやトリノの金属労働者は資本側の工場閉鎖攻撃に先手をうつために工場を占拠、労働者管理を試みた。全国に拡大したこの闘いは一ヶ月続いた。

9月、東京各新聞社印刷労働者争議
 9月23日新聞印刷工組合正進会は、賃上げと8時間2部制を要求した。報知新聞ら8社の印刷労働者は連携して決起。しかし、満朝報を除く全社は強硬に拒絶し続けるだけでなく、100人の解雇者と報知の5人が逮捕され、10月5日敗北を表明した。

10月、大阪松島遊廓娼妓、公休日要求闘争

10月、賀川豊彦「死線を超えて」発売。105万部のベストセラー

10月2日、警視庁特高課に「労働係」を新設

10月、日本労働総同盟友愛会に改称
 10月3日、友愛会第8周年大会で、会名の頭から「大」を削り、「日本労働総同盟友愛会」と改称(翌年大会では「友愛会」も削除することも決議)。組織的にも労働組合としての中央委員会、中央委員といる体制を整えた。議論では「工事法」等への方針を巡っては関東のサンディカリズムのゼネラルストライキ、直接行動主義、議会主義の否定の主張が、関西の賀川豊彦らの議会主義、階級闘争否認説を圧倒して、友愛会の戦闘化が進んだが、のちの組織分裂のきざしがみえた。

10月、全日本鉱夫総聯合会の設立
 10月20日、前年に結成された大日本鉱山労働同盟と全国坑夫組合、友愛会鉱山部の3組合(3200人)が合同。当初、合同反対者が会社から買収されていたことが発覚し失脚。加藤勘十や麻生久らが指導。足尾銅山を最大の拠点として主に関東以北の鉱山・炭坑を組織し、夕張・足尾・尾小屋・別子などで激しい争議を繰り広げた。25年日本鉱夫組合と改称。麻生との関係で総同盟分裂では中間派の拠点組合となり、多くの活動家を生んだ。

10月23日、蜂須賀農場小作争議
 北海道の蜂須賀侯爵の巨大農場で小作料値下げを要求して小作農民が立ち上がった。以後1933年に至るまで、警察の逮捕など激しい弾圧を跳ね返し、児童の同盟休校など農民は激しく闘った。21年2月には百数十人の農民が事務所を襲撃し破壊、8人が検束された。茨木・長野・大阪・徳島・鳥取等々、全国各地で小作争議が起きる。

11月、香焼炭鉱争議
 11月に争議が勃発した長崎港外の孤島香焼炭鉱では、友愛会の青年労働者今村等はも360名を工友会に組織して、坑夫総聯合に加盟し、不当解雇に反対した友愛会の演説会を開催。組合工友会をつぶさんとする会社は、ならず者・暴力団を雇いこの演説会を襲撃。工友会は11月29日ストライキに突入し、30日事務所を襲撃。暴力団・警官と日本刀引き抜いた労働者との乱闘となり、長崎県警察部の警官が大量動員され、120余人一網打尽の検挙があり、起訴された者は70余人にのぼった(「日本労働組合物語大正」)。

12月9日、日本社会主義同盟創立
 8月に堺利彦・山川均・大杉栄らが発起人となり準備会が結成され、1千名を超える加盟者を得た。12月9日200名の懇談会を急遽結成大会に切り替えた。労働運動と社会主義運動が結合した画期的出来事であった。翌10日の同盟成立報告演説会は解散を命じられ、堺・大杉ら50余名が検束された。社会主義者が1つの組織にまとまった画期的な運動であった。

12月、三越呉服店洋服部争議
 12月19日東京三越呉服店洋服部の数十名の労働者が賃上げなどを要求した。21日、三越側は工場閉鎖を発表した。労働者は東京洋服技工組合に加盟し支部を結成した。歳末大売出しのま最中の12月26日から店内デモが始まった。翌年元旦の午前1時妥結が成立した。

<この年>
*1920年の朝鮮
 前年1919年の3.1闘争朝鮮人民の決起に憲兵隊・軍隊による苛酷な弾圧は、死者7509名、負傷者1万5961名、逮捕者4万6948名()と『韓国独立運動の血史』1920年)の犠牲者を生んだ。と同時に今までの日本の武断政治の限界があきらかになり、「一視同仁に基づく内地延長主義」をスローガンとする「文化政治」へと転換された。これは、朝鮮支配をする上において、朝鮮人の協力を得ていこうという政治の方向性を意味する。内地延長主義は、やがて朝鮮を「内地」同様の姿に変え、朝鮮人を日本人と全く同じにすることによって、朝鮮を永久支配しようとする目論見をもつものであった。これは朝鮮民族抹殺を意図するものであった・・・・まぎれもない帝国主義者の議論である。
 官吏や教員の帯剣制服が廃止され、憲兵警察制度から普通警察へと移行した。朝鮮人の巡査補は巡査に昇格させ、笞刑令も廃止された。しかし、警察官署は1861ヵ所から2761ヵ所に増加し、日本軍隊も20年21年とそれぞれ2400人を増強させている。尾行・不審尋問・予備拘束など大警戒網は朝鮮人を威嚇するには十分であった。(『植民地朝鮮と日本』趙景達 岩波新書)

*朝鮮総督府、第一期朝鮮産米増殖計画を開始

*東京、大阪で家賃が急騰した。

*多くの企業で工場委員会制設立の動き
 労働組合の団体交渉権をあくまで拒否する資本側は特に大企業において、労資の形ばかりの交渉機関として「工場委員会制設立の動き」が起き、労働組合の動きを後退させた。



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