私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

法隆寺領鵤荘めぐり 前編

2015-01-28 15:27:51 | 歴史探索
 1月28日(水)  天気:曇り+雪ちらつく  室温:15.1℃

 きょう カフェ・エルミタージュへ行った ついでに 太子町の ”法隆寺領 播磨国 鵤荘” の
国道179号線より南を 巡ってきました。 以前 歴史資料館で もらったパンフレットを 参
考に 檀特山、大谷投げ石、東南三宝荒神社、北向き地蔵、太子感動岩、矢田部牓示石、
清光寺、徳道上人堂、民俗資料館、北向き地蔵、西国街道、茶屋垣内地蔵  ついでに
帰り道の 石海神社、宮本武蔵生誕地、福地の忠魂碑、糸の井 などを 巡ってきました。
 自転車で 走り回ったのですが きょうは 風は 大したことは ありませんでしたが 風が
冷たく 雪もちらつき サイクリング日和では ありませんでした。  鵤荘の残りの遺産も
お天気のいいときに 廻りたいと 思っています。

 きょうは 檀特山には 登りません。 檀特山は 1月7日の ”檀特山 と 徳道上人生地”
ページを見てください。  下の写真は そのとき 撮ったものです。
 檀特山は 聖徳太子信仰の山です。 聖徳太子が 山頂から 石を投げ 落ちた内側が 鵤荘に
なったという 「投げ石」 の伝承を伝えています。 弥生時代の遺跡も 存在し 『播磨国風土記』
に 「大見山」、 「鵤荘絵図」 に 「行道岡」、 『峯相記』 に 「壇特ヵ峰」 と 出ています。


 カフェ・エルミタージュを出て 北へ行き 檀特山の麓の賃貸住宅・レオパレスへ行きます。
この前 来たので 場所は 分かっています。 ここに 聖徳太子の「大谷の投げ石」 があります。
投げ石は 「牓示石」 で 現在 太子町にある7個の内の1個です。 「松ヶ下」 と 「大谷」 の
二つは 投げ石 と言われています。 
 「牓示石」 は 「聖徳太子の投げ石(はじきいし)」 とも呼ばれます。 聖徳太子が 檀特山の
上から 石を投げたとも 法隆寺に 施入された土地の境に 石を埋めたとも言われてます。
 牓示とは 境界の標識のことです。 南北朝時代に 描かれた 「鵤荘絵図」 にも 12ヵ所の
牓示が描かれています。 現在 鵤荘周辺には 11ヶ所の 「太子の投げ石」 が知られてい
ますが そのうち 4ヶ所が 兵庫県の史跡に指定されています。 鵤荘と聖徳太子との関わり
を知る上で 重要な遺跡です。 重要な遺跡なら 賃貸住宅の中に 置かないで 置き場所を
考えてほしいものです。 ただ ここは 姫路市で 他の牓示石の管理は 太子町なので・・・。

 北へ行き 新幹線の高架下を潜ると 右に 東南三宝荒神社があります。 ここは 東南小字
栗原。 荒神山を守護する神社です。 鵤荘と 弘山荘の境界に位置しています。  永徳2年
(1382) 頃の状況を 描いたといわれる 「弘山荘絵図」 には この地が 「荒神山」 と記されて
います。 また 戦国時代 この神社では 荒神山を守る荒神講が 営まれていました。

 荒神社の下に 「北向き地蔵」 があります。 いわれは 分かりませんが なんでも 願い事を
よく聞いてくれるそうです。 宝くじが 当たりますよーにと 頼んでおけばよかった・・・。
ネットで 調べると 北向き地蔵は
 ・・・六道を自らの足で行脚して 救われない衆生、親より先に世を去った 幼い子供魂を 救って
 旅を続けるのですよ。 そーゆー存在なので ヘアスタイルを気にしたり アクセサリーで
 着飾っている暇もない、と。 常に、民衆とともにいるのが お地蔵さんです。
 六道ってのは 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道のことで、人間は 死んだら
 このうちのどこか 地獄から天国までの6段階のどっかに 行くわけですが
 どっちにしろ この六道の中を グルグル輪廻しているのが 我々人間です。
 そして お地蔵さんも また 我々に寄り添い、救ってくれる、と。
 なので 常に 民衆とともにあることから あえて 人の下座、つまり
 北向きに配されているのが 北向き地蔵です。 ・・・・・

 お地蔵さんの前を 山に向かって 東へ行きます。 新幹線が 一陣の騒音と共に
走り去って 行きました。

 坂道を 自転車を押して上がると 住宅に突き当たりました。 右は 登山口で 案内図に
登山口の前に 「太子の感動岩」 が描かれていますが 前は 住宅で 岩はありません。
左の山道を 100mほど 登ってみましたが 見当たりません。
 誰かに聞きたいのですが 誰もいません・・。 住宅内の路地を探していると 荒れたヤブに
埋もれそうな岩があります。 どうやら これが 「太子の感動岩」 のようで 表示はありませ
ん。 この辺りの人は 「聖徳太子の涙石」 と呼んでいる。 かっては この岩から 水が湧き
出ていたそうです。 聖徳太子の説法に 感動して 山の上から 転がり落ちてきたとも 言わ
れるそうです。

 新幹線の高架下へ戻り 西へ行き 「矢田部の牓示石」 を見に行きます。 牓示石については
「大谷牓示石」 のところで 説明したとおりです。 現在 7カ所に残っている 牓示石の中で ここが
一番 丁寧に 守られているようです。 石積み上に 祠まであります。
 ここは 聖徳太子が 推古天皇から賜ったという 法隆寺領 播磨国 鵤荘 の故地である。 現在
県文化財4ヵ所、 参考地5ヶ所が知られ・・・・。

 徳道上人出生地へ行く手前に 清光寺があったので 寄ります。 徳道上人の草庵があったので
しょうか・・。 檀特山清光寺は 浄土真宗のお寺で 親鸞上人の銅像があります。 本堂の向拝の
象の木鼻、龍の蟇股も なかなか立派です。
 清光寺に 徳道上人の産湯の井戸があるようですが 本堂の右手前に 屋根のない井戸は 産湯
の井戸ではない・・・。 徳道上人の産湯の井戸は お寺の奥の庭にあり 公開されていないそうです。


 清光寺の角を曲がると 徳道上人出生地のお堂があります。 徳道上人は 斉明天皇656
年 この地・矢田部で 出生。 年若くして 父母とわかれ 出家入道して 徳道上人となる。
各地を巡錫して 多くの寺を建立されたが 中でも 大和国・長谷寺は 有名。 神亀年中(727
~728年) この地に住む。 六地蔵を 始めたとありましたが 確か 西国33ヶ所めぐりを 始め
たのは 徳道上人だと思いますが・・・。 一時 廃れていたが 花山法皇が 再興した?
 白い梅の花が 咲き始めていました。  ・・・ 梅一輪 一輪ほどの 暖かさ ・・・

 新幹線の高架下を 西へ行き 立岡山の下で 右折して 西中学の横を 北へ行きます。
太子山に突き当たると 歴史資料館(旧尾野家住宅)です。 D51を見ながら 太子山公
園を通り 北へ行きます。 

 太子山の上には 聖徳太子の 「和を以て貴しと為す」の石碑がありますが 今回は パス。
太子山公園の裾を回わり 北に出ると 東西に走る道にでます。 昔の西国街道です。 電信
柱の傍に 道標があり 上の三文字が読みにくかったのですが 調べると 「斑鳩道路元標」
だそうです。  西国街道は この ”ページ” を 参考にしました。
 西国街道を 西へ行きます。 100mほど行くと 右に 石燈籠(常夜燈?)があります。
右は 天保ですが 左は 寛政と 刻まれているそうです。 左の山側に 大師堂があり その
右に 北向き地蔵(地蔵菩薩)がありました。 大師とは 弘法大師のこと?

 手前に 小さいお地蔵さんが 並んでいるので 分かり難いですが 左足を立てた半跏坐像
で 人々を救いに行くため 立ち上がろうとしています。 西国街道を 西へ 進むと 太子町
新庁舎建設工事をしています。 さらに 西へ行くと 「式内阿宗神社」 の道標があり 横には
「従是北八丁廣山村鎮座」 とあり 地図を見ると 北約1.5kmの 現在のたつの市誉田町
広山の永久橋の西に 阿宗神社があるので これを 示しているようです。 

 西国街道を さらに西へ走り 林田川の土手が見える辺りまで来ると 右に 茶屋垣内地
蔵がありました。 西国街道を 行き来する旅人の安全を 見守ったのでしょうか。
 林田川の土手に上がると ここは見晴しがいい。 北は 以前の国道2号線の誉鳩橋の
奥に 龍野の新竜アルプスが見えます。 林田川は 渡しがあったのでしょう。 目の前は
林田川と 揖保川に 挟まれた中洲(揖保町) のようなところですが いろいろありそうなの
で 機会があれば 揖保川の正条の渡し辺りまでを 散策してみたい・・・。

 土手道を 南へ行くと 新幹線が走っています。 新幹線の高架下を 東へ戻り 適当に 南へ
行くと 蓮光寺の前に出ました。 真宗大谷派の蓮光寺・山門は 播州・龍野藩五万三千石
脇坂家の城門の一つ 錣坂(しころざか)門です。 元和三年(1617) から 寛永三年(1626)
の間に建造され 明治初期に 移築されました。 今でも 簡素、重厚、風雪に耐えた藩門の
佇まいを 窺わせます。

 600mほど南に 石海神社があります。 何10年か前に 太子町に住んでいたことがあるので
来たこともあるので かすかに 土地勘は 残っています。 神社の前に ”宮本武蔵生誕之地” の
石碑があります。 説明板に 剣聖・宮本武蔵は 自筆の五輪書の序文に 時寛永二十年十月上
旬のころ 生国播磨の武士 新免武蔵守 藤原の玄信 年つもって 六十 とあり また 平野庸修
が 宝暦年間に 書いた 『播磨鑑』 には 宮本武蔵 揖東郡 鵤荘 宮本村ノ産せ とある。
 これらの記述から 当宮本は 武蔵生誕地と 考えられるが・・・・・。

 石海神社に お参りします。 ここの狛犬も 古そうですが 年代が分かりません。
唐破風の下にある鷲の彫り物は 珍しい。 屋根の下にあるので 懸魚(げぎょ)という
のでしょうか。 拝殿には 絵馬がたくさんありました。
 福地の石海小学校の前まで戻ると 公民館の前に 大きな忠魂碑があり 先端は 大砲
の砲弾です。 播磨の戦争遺跡で 訪れました。

 網干駅の近くまで戻り せっかくなので 「糸の井」に寄りました。 この前来ましたが。
糸井のみなと銀行の信号で 東へ曲がり 100mほど 行くと 右に 「糸の井」 があります。
「糸の井」 は 鎌倉時代中頃に この辺りに 浄土宗を広めた 朝日山大日寺の顕実上人の
硯水と伝えられる。 「播磨名水十水」の一つ。  顕実上人の歌碑があります。
 いろいろの 木の葉流るる 糸の井は ゆききの人の しるしとぞきく

 次回 鵤荘めぐり・後編は 国道179号線より北、太子竜野バイパスより 南を廻ります。
また いつか 林田川より西の西国街道も 歩いてみたいし・・・。
 。。。。。。。  。。  。。  。。。。。。  。。  。。  。。。。。。  。。  。。  。。。。。。  。。  。。  。。。。。。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エルミタージュで 手作り小物展 | トップ | 姫路市小学生 立体彫塑展 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史探索」カテゴリの最新記事