日中戦争スタディーズ

2006年12月1日本格運営開始。私たちは日中戦争についてどれだけ語ってきただろうか?

補遺 (3)

2007-01-31 23:32:56 | メモ
保阪著の『検証・昭和史の焦点』(文藝春秋)の第七章、「トラウトマン工作、内幕のドラマ」において紹介されている逸話。著者はトラウトマン工作を中国側がどのように捉えていたか、という関心をもって当時蒋介石政府の政務担当責任者であった陳立夫に対し、1990年にインタビューを行なった。
陳によれば、蒋介石と打合せのうえで「根本の思想を大胆に変えなさい」と日本に伝えるよう、トラウトマンに述べたというのである。「根本の思想」を変えるとはどういうことか? インタビューによれば日独中が大同団結し、三国が共に「人類の敵である赤と白の帝国主義と戦う」べし、というのである(白の帝国主義とはイギリスを指す。ソ連への駐留とイギリスの占領は行なわない)。陳の提案はリッペントロップに伝えられたが、ヒトラーがどう考えたかは分からない、という。

著者が「こうした事情はいまも史料では裏付けられていない」と評しているように、にわかには信じがたい構想であるし、いずれにしても日本側に提案されたわけではない。重要なのは、仮にそのような構想が提案されたとして「そういう戦略を日本のあの当時の指導者は理解する能力も度量もなかったであろう」という著者の評価である。いったい日中戦争の終結と戦後処理についてどのような構想を当時の指導者は持っていたのだろうか。「満蒙」、ついで華北の資源が日本の生命線と主張しながら独力で経済開発を行なう資力もなく、蒋介石を屈服させたところで傀儡政府に民心を引きつける理念と実がなければいずれ再び抗日運動の盛り上がりに直面するのは明白であろう。


補遺 (2)

2007-01-30 23:59:11 | メモ
吉田裕著『日本の軍隊』(岩波新書)は赤松啓介の研究を援用しつつ次のように指摘している(62ページ以降)。日露戦争後の兵事行政の大きな課題の一つは性病の予防だった。『陸軍省統計年報』のデータでは1909年において徴兵検査を受けたもののうち性病患者の割合は1,000あたり23.48人、すなわちおよそ40人に1人は性病患者だった。このため政府は「夜這い」の風習の撲滅を図り、1935年には同10.76人(およそ100人に1人)にまで減少した。ところがその反動として、一種の通過儀礼であった徴兵検査を期に初の買春体験を行なうという習慣が生まれ、徴兵検査から入営までの間に性病に感染するケースはむしろ増えたというのである。1個中隊に数人は性病患者がいたことになる。
アジア歴史資料センターで閲覧できる資料中、「第1次交代帰還兵中方面軍隷下衛生機関に残置せる人員に関する件」(レファレンスコード=C04120605400)によれば歩兵第107聯隊で18人、歩兵第69聯隊で8人、歩兵第109聯隊で12人、師団衛生隊で8人が、帰還せずに現地の衛生機関に残留している。より軽症の患者、あるいは発症に至っていない保菌者はさらにいた可能性があるが、ともかくおよそ1万人中46人が性病のため入院を必要としていたわけである。慰安所の注意書きに「サック(コンドーム)使用」の一項があるのは軍隊内での性病の蔓延を予防するためだったのであるが、時代は下って1942年に作成された「大東亜戦争関係将兵の性病処置に関する件」(レファレンスコード=C01000419000)にも「出動地に於ける性病豫防の徹底をし以て戰力の減退と病毒の國内搬入に依る民族の將來に及ぼす悪影響とを防止せんが爲左の通り定められたるに付依命通牒す」とあり、軍として無視できない状態だったことがわかる。


補遺 (1)

2007-01-29 23:05:06 | 日記より
38年1月分の日記史料より、落穂拾い的に。 石射猪太郎の日記。

一月二十八日

○谷〔正之〕公使北支より帰京、満州事変と今度の事変を比較して悲観論。森島〔守人〕のアホにもこまる。彼を北支にやったのが悪いのだが。
○米領事「アリソン」南京にて我兵に殴らる。其軍の公表に曰く、お前が悪くて殴られたのだが遺憾だと。之で外国の感情がよくなる筈があるか。
○鈴木一馬〔陸軍〕中将来訪、年末から北支に行って来た話。兵士の花柳病を患〔憂〕いて居た。
○上海で梁鴻志の談。中支政権は誰も出る者は容易にあるまいと。

「花柳病」とは性感染症のこと。また梁鴻志は38年3月に「成立」した中華民国維新政府の行政院長となった人物である。

捕虜となった日本軍将兵 (4)

2007-01-28 12:23:17 | メモ
捕虜となることを恥とする旧日本軍の体質は日中戦争・太平洋戦争期に突如できあがったわけではなく、日露戦争において捕虜となった将校に対して行政処分(免官など)が下された事例が存在するが、同時に「捕虜となることは不名誉ではない」と論陣を張る知識人も存在したうえ、後のように自決を事実上強要されることもなかった。捕虜の帰還が美談として報道される事例もあったとのことである。軍としては安易に捕虜となることを認めても、また帰還捕虜を厳しく罰しすぎても将兵の戦意に悪影響が出るというジレンマに直面していたのではないかと推察される。そもそも旧日本軍には捕虜となることそれ自体を禁じる軍律はなく(後の「戦陣訓」にしても、捕虜となって帰還した将兵を罰する法的根拠にはならない)、軍法会議にかけるとすれば「敵前逃亡」罪などに問うしかないが、重傷を負って退却できなかったために捕虜となったようなケースで軍法会議にかけることには、さすがにためらいがあったものと思われる。
捕虜となることを許さない不文律が決定的に支配的なものとなるきっかけとなったとされるのが、1932年の第一次上海事変における 空閑(くが)昇少佐の事例である。第9師団第7聯隊、第2大隊の大隊長であった 空閑少佐が、2月20日の晩に中国軍陣地に夜襲をかけて猛烈な反撃にあい孤立、重傷を負った 空閑少佐を残して部下が撤退(22日晩)したため中国軍の捕虜となったケースである。手厚い治療を受けた 空閑少佐は3月16日、捕虜交換で帰還した。
上述したように、このようなケースで罪を問う法的根拠はなかったが、軍内部では「自決すべし」とする声が主流になりつつあった。秦郁彦によれば特に厳しかったのが陸士同期生たちの声であったという。東京日々新聞石橋恒喜記者の回想によれば、当時参謀本部庶務課に在籍していた牟田口廉也中佐(当時)は「われわれ同期生で相談のうえ」、潔く自決せよという電報を 空閑少佐に送ったと語った、とのことである。また民間でも、留守宅に怒鳴り込んだり石を投げ込むなどの動きがあり、捕虜となることを恥とする風潮が一般社会にも浸透していたことがわかる。
結局、 空閑少佐は3月28日にピストル自殺を遂げるが、それが報道されると世論はこれを美談として受け止める。しかしあくまで自決を前提とした美談扱いであるから、むしろ自決という「解決策」を促進する要因となった。

捕虜となることを忌避するメンタリティは必ずしも旧日本軍だけに固有のものではなかったが、旧日本軍において際立っていたことはたしかである。捕虜となった自軍将兵への態度は得てして自軍が捕らえた捕虜への態度に反映しやすい。特に国際法についての教育が欠如していた日中戦争、太平洋戦争期において、こうした捕虜観が連合国の捕虜に対する虐待の土壌となったであろうことは想像に難くない。捕虜となることをタブーとする風潮が、結果的にB級戦犯として多くの将兵・軍属が罪に問われる原因をつくったと言えよう。また、特に太平洋戦線において軍事的に意味のない死者を増やしたことも忘れてはならないだろう。

捕虜となった日本軍将兵 (3)

2007-01-27 11:13:18 | メモ
中国戦線において捕虜となった日本軍将兵に関して有名なのが、いわゆる「反戦捕虜」の存在である(藤原彰・姫田光義編、『日中戦争下中国における日本人の反戦活動』、青木書店、などに詳しい)。
弾圧を逃れるため36年に中国に渡ったプロレタリア作家の鹿地亘が計画した捕虜の再教育・反戦工作(第一線でのビラまき、各生起での呼びかけなど)への利用は当初国民党政府にも評価されたが、国共関係の悪化(41年)にともなって在華日本人民反戦同盟は解散、反戦工作は野坂参三らが主導する反戦同盟延安支部(後、反戦同盟華北連合会、日本人民解放連盟)に引き継がれることになる。秦郁彦によれば「○○中尉はビンタをやめろ」といった、日本軍の抑圧的な体質を批判する呼びかけは日本軍兵士にも密かに歓迎されたという。

捕虜となった日本軍将兵 (2)

2007-01-26 23:22:47 | メモ
秦郁彦(『日本人捕虜』)によれば、日中戦争初期に中国軍の捕虜となった日本軍将兵は航空兵(撃墜されたり不時着して捕らえられた搭乗員)が中心で、地上兵は少なかった。第一に中国軍が軍事的に劣勢にあったこと、第二に日本軍将兵の間に捕虜となることを忌避するメンタリティが定着していたことが理由と思われるが、他方中国軍や現地の民衆が捕虜を殺害してしまうこともあったようである。
ただし、「俘虜」という用語を使用しないことを方針とした日本陸軍とは異なり、国民政府軍は公式には国際法に則った処遇をする方針を打ち出していた(37年10月制定の「俘虜処理規則」など)。また中国共産党軍の「三大規律」「八項注意」と呼ばれる軍律の一項には「捕虜を虐待しない」とするものがあり、戦争の初期においてはともかくかなり徹底していたようである。国民党軍の方も国際的な体面、共産党からの申し入れ、ソ連軍事顧問団の申し入れなどを考え捕虜優遇の方針を徹底するようになり、38年秋頃からは地上部隊の捕虜も増えていったという。
『日本人捕虜』には中国戦線で捕虜になった日本軍将兵の数についていくつかの資料が挙げられている。一部を紹介すると
  • 「中共の抗戦の全般的状況についての葉劍英八路軍参謀長の内外記者西北視察団への談話」によれば、37年9月から44年5月までに八路軍が捕虜とした日本軍将兵は計2,407人(他に新四軍が50数名)。
  • 人民革命軍事博物館によれば、37年9月から45年10月までに八路軍・新四軍あわせて6,959人。
  • 「岡村寧次大将資料」によれば、46年5月末の時点で中国側(ほとんどが国民党軍)から移管された捕虜は陸軍、海軍、民間人をあわせて1,358名。
などである。ただし、国民党軍の捕虜収容所の一部では栄養失調等による死亡率が高く、国民党軍の捕虜となった将兵の総数はさらに多い。秦郁彦によれば食糧事情そのものの悪さや収容所での横領が原因で、国民党軍としての組織的な虐待ではなかったようである。


捕虜となった日本軍将兵 (1)

2007-01-25 23:59:34 | メモ
十五年戦争期の日本軍では捕虜となることを忌避(注1) する不文律が明文化されたため、敵国の捕虜となった将兵の数は他の主要参戦国と比べて極端に少ない。戸部良一によれば(太平洋戦争期で)約3万5千人、秦郁彦は約5万人と推定している(『日本人捕虜 下』、原書房、524ページ~)。明日以降のエントリでは、中国戦線において捕虜となった日本軍将兵の処遇その他の問題をとりあげたい。

(注1) そのため敗戦にあたっては、天皇の命令により降伏するものは「俘虜となりたるものと認めず」とわざわざ声明し、降伏をスムーズに進めようとしたほどであったという(秦郁彦による)。

南京周辺の中国軍 (6)

2007-01-24 17:48:14 | メモ
笠原十九司の「南京防衛戦と中国軍」と『南京戦史』による、中国軍各部隊の兵力推定を細部にわたって比較検証することは煩瑣であるのみならず中国語史料の利用が不可欠で当ブログのよく行ないうるところではない。ここでは特に顕著な相違が生じている(かつ、当時の中国軍において最精鋭であった)教導総隊について両者の主張を見てみることにしよう。
まず『南京戦史』は、「教導総隊については兵力判断の根拠となる史料に乏しい」と断ったうえで、「5,500~6000」と推定している(60ページ)。その根拠は「三ヶ団編成」であること、「主力が南京に残り、上海戦参加部隊も補充を受けている」こととされている。四単位編成の場合約1万人となる1個師を基準に、三単位編成であることと補充が足りかなった分とを加味しての推定かと思われる。
ところが、笠原論文では「総兵員三万以上(資料によっては三万五
)」(289ページ)と、全く異なる数字が挙げられている。その根拠は、教導総隊の「団」編成が通常の中国軍とは大きく異なり、ドイツ歩兵団編成にならって一団が歩兵連、重機関銃連、榴弾砲連など計十六個連によって編成されていたことであるという。第二次上海事変の勃発を受けて総隊は歩兵三個旅=九個団に砲兵団、騎兵団、工兵団などの直轄部隊を加えた編成に改められ、総数「約四万三〇人」に達しており、上海戦での損害をある程度補充した結果が先述した三万、ないし三万五〇〇だということになる。
「南京防衛戦と中国軍」の第七節は「『南京戦史』の誤り」と題されているが、ここで教導総隊をめぐる推定の違いがとりあげられている(309ページ以降)。ここで笠原氏は自説の根拠として当時の教導総隊高級指揮官の回想録を挙げるとともに、「傍証」として、広大な紫金山陣地をわずか6千名程度の兵力で第16師団から数日間守り切れたとは「常識的に考えられない」としている。後者は直ちに「三万」ないしそれ以上とする推定を裏付けるものではないが、『南京戦史』の推計が教導総隊固有の事情を斟酌していないものであることは確かであり、『南京戦史』を支持する論者からのこの点に関する反論が待たれる。

南京周辺の中国軍 (5)

2007-01-23 23:28:49 | メモ
南京攻略戦に参加した中国軍の将兵数に関する推定を左右する一つの要因が第23集団軍の位置づけであることについてはすでに述べた。この部隊は中国(中華人民共和国)が「(3) 広徳・泗安戦役 11月25日~30日」として認識している、日本軍の第6、第18師団および国崎支隊(いずれも第十軍)と戦った部隊である。
笠原論文はこの第23集団軍の兵員数を約6万と推定し(252頁)ているが、他方で「南京事件」「南京大虐殺」を論じるにあたっては第23集団軍をカウントせずに防衛軍総数=約15万人説を採るべきとしている(同)。地図からもわかるように第23集団軍の戦闘は空間的にも南京特別市の外で、時期的にも中支那方面軍の戦闘序列が下令される以前に展開されており、また指揮権の面でも第23集団軍は独立性を保っていた。それゆえ、「南京事件」に関して厳密にアプローチしようとする場合に同部隊を考察の対象から除外するのは妥当であろう。
とはいえ、第二次上海事変と南京事変の間の「空白」は現地で戦った、あるいは戦いにまき込まれた人々にとっては決して「空白」ではなくまぎれもない戦争であったことは忘れられてはならない。
(続く)

南京周辺の中国軍 (4)

2007-01-22 22:42:37 | メモ
南京事件についての研究書・論文のみならず一般読者向けの概説書においても、しばしば読者がある程度の軍事史的な知識を有していることを前提しているかのような記述が行なわれているのを目にするが、少なからぬ現代日本人にとっては「一個師団」とあってもそれがどれほどの規模の部隊なのかよくわからない、というのが実情ではないかと思われる。
南京攻略戦をめぐる中国軍の編成が論じられる場合には「師」「旅」といったさらに馴染みのない単位が用いられている。「師」が師団に、「旅」が旅団に相当することは容易に想像がつくが、実は師団の定員は国によって(時代によって)かなり異なる。南京攻略戦に参加した日本軍の場合、一個師団は(戦時)定員約3000人の歩兵聯隊4個(2個聯隊で1個旅団をなす)を中心とした2万人を超える部隊となるが、当時の中国軍の1個師は1万人強であるとされている(笠原論文、252ページ)。ただし、中国軍の場合兵員数には兵站部隊などを数えないため、1個旅の兵員数約5000人とは別に直接戦闘にあたらない兵員が約2000人おり、それゆえ日本式に数えるならば1個師は約1万5千人となって日本の師団の規模に近づく(同、250ページ)。南京攻略戦を戦った中国軍がほぼ15個師規模だったことを考えると、この1個師あたり最大4000人の後方部隊兵員をカウントするか否かで兵力数推定に大きな違いが生まれることが分かる。
(続く)


南京周辺の中国軍 (3)

2007-01-21 17:13:22 | メモ
では、南京防衛戦に参加した中国軍の編成はどのようになっていたのか。『南京戦史』と「南京防衛戦と中国軍」(笠原十九司)の記述を比較対照してみる。

第2軍団(第41師、第48師)
第66軍(第159師、第160師)
第71軍(第87師)
第72軍(第88師)
第74軍(第51師、第58師)
第78軍(第36師団)
第83軍(第154師、第156師)
教導総隊

ここまでに関しては両者のあいだに相違はなく、各部隊の兵員数に関する推定の違いがあるだけである。それ以外の部隊について、まず『南京戦史』の記述は次のようになっている(概要)。

第103師
第112師
憲兵部隊(約第2団)
江寧要塞部隊
砲兵第8団
砲兵第10団
戦車防御砲8門、軽戦車10両
高射砲隊
城防通信営本部
特務隊

これに対して「南京防衛戦と中国軍」による残りの部隊は次の通り。

江防軍(第112師、第102師、第103師、魚雷快艇中隊、砲兵第8団、重砲兵第10団、ほか)
陸軍装甲兵団
砲兵第42団
第23集団軍(第21軍、第23軍)

後者における「江防軍」は前者における「第103師+第112師+江寧要塞部隊+砲兵第8団+砲兵第10団」にほぼ相当し、「陸軍装甲兵団」は「戦車防御砲8門、軽戦車10両」にほぼ相当すると思われる。以上から、南京周辺の中国軍の編成に関するもっとも大きな認識の違いは、第23集団軍をカウントするか否かによるものだということがわかる。笠原論文によれば、昨日のエントリで紹介した南京攻防戦の諸段階のうち「(3) 広徳・泗安戦役 11月25日~30日」を南京攻防戦のうちに位置づけるかどうかがこの違いに対応することになる。
(続く)

南京周辺の中国軍 (2)

2007-01-20 23:55:12 | メモ
南京攻略戦における中国軍の動向、という論点についてもっとも詳しく検討している文献の一つは、笠原十九司の「南京防衛戦と中国軍」である(洞富雄ほか編、『南京大虐殺の研究』、晩聲社、所収、214~328頁)。
南京事件をめぐる認識の食い違いは事件の期間や空間的範囲にまで及んでいるが、その一因はこれが第二次上海事変から南京攻略戦という、いくつかの明確な節目をもちながら同時に連続的でもある戦闘の中で起こった出来事である、ということではないかと思われる。上記笠原論文は『南京保衛戦―原国民党将領抗日戦争親歴記』によって、中国側が南京防衛戦の範囲と段階をどのように認識しているかを紹介している。
(1) 京滬杭沿線戦闘 11月9日~12月4日
(2) 常熟地区戦闘 11月15日~19日
(3) 広徳・泗安戦役 11月25日~30日
(4) 南京外囲防御戦闘 12月5日~8日
(5) 南京城郊防御戦闘 12月9日~13日
これを踏まえて、笠原論文は次のように南京攻略戦の範囲と時期を区分することを提案している。
(a) 広義の南京防衛(攻略)戦:11月19日(中支那方面軍の制令線突破を契機とする)
(b) (狭義の)南京防衛戦第一段階:11月下旬~12月3日
(c) 同第二段階:12月4日~8日
(d) 同第三段階:12月9日~12日

もちろん、南京「事件」の方は13日の南京陥落以降にも及ぶことはいうまでもない。
(続く)

南京周辺の中国軍 (1)

2007-01-19 23:50:55 | メモ
南京事件の犠牲者数に関する推定に大きな開きが生じている一つの原因は、南京攻略戦に参加した中国軍将兵の数に関して論者の見解がまちまちであることである。飯沼日記や佐々木致一私記からは、当時の日本軍が南京防衛に当たった中国軍の数を10万人ほどと見積もっていたことがわかるが、偕行社の『南京戦史』は南京附近の戦場にあった中国軍地上兵力の総数を「6~7万程度」と推定している。『南京戦史』の編集者の一人でもある板倉由明は5万人説、秦郁彦は台湾の公刊戦史にもよりつつ10万人説を採用している。これに対して、笠原十九司は現地で動員された少年兵、雑兵などをあわせれば15万人に達したとしている。中華人民共和国で公刊された戦史でもやはり約15万人とされている。現地で急遽動員された人員がいること、上海方面から敗退してきた部隊があることなどが総数に関して異論が生じる理由だと思われる。


「対手とせず」声明への反応 (2)

2007-01-18 09:29:41 | 日記より
1月16日の松井大将日記より。

 此日政府は国民政府を今後対手とせざる旨の声明を発したり 其真意審かならざるも一歩吾等の主張に近づきたるは疑う余地なし 只何だか未だ政府の決意に不安あるを以て 矢張り此際当地各方面の意見を政府に進言し 今後の覚悟を鞏固ならしむると共に 今後之に応ずる謀略は勿論 作戦にも一段の進境に進むの必要を具申するの必要なるを感知し 伊藤公使、塚田〔中支那方面軍参謀長〕、原田両少将と熟議の上 右様決定し 之に応ずる当地の諸方針を至急取纏むべく命ず

「河邊虎四郎少将回想応答録」より。

(…)
 多田〔参謀本部〕次長はあとの方の考え〔=講和して長期戦を回避〕で非常に強固な意志を以て、どうしても講和に導こうと云う気持ちで動いて居られました。それに全然反対ではありませんがそれ程非常に進んだ気持ちは陸軍省には動いて居りませんでした。
 併し参謀本部、就中私等は兎に角長期戰になるということは頗る不利だと云うことを考えて居りましたから条件なんか強すぎることを言わぬで大抵の所で手を打つべきであり、之がまた東亜の大局から見て善いことだと思い之に努力致しました。(…)「一番弱いのは参謀本部だ、軍人は一番強いのが当然だのに一番弱いと云うことは怪しからん」という批難が立って居たようでありますが、多田次長は噂や批難に屈することなく真に大局的見地に於て此の際講和をすべきであると真剣に奮闘せられました。(…)

軍事の専門家としての軍人が、軍事的観点から開戦や戦線の拡大に反対することは(もし反対すべき十分な理由があるのなら)当然であるが、「勇ましいことを言った方が優位に立てる」雰囲気の中では「日本は戦勝者ではないか、だから取るものは取らなくちゃならん」という感情論が支配的になってしまう。日本軍の予想外の苦戦などを国民に正確に伝えていないことが強気の世論をつくり、政府もそのコントロールに苦慮することになってしまうわけである。
日本の講和案に付された回答期限、1月15日が過ぎた時のこと。

 (…)一月十五日ですが其の日には返事が来なかったのです。上海へも之はなかったのです。然し参謀本部は期限までの時間の関係もあり、又、支那側にとっても重大な諸条件が含まれて居るのであるから今少しく時を待ってやるか或は回答の促進を図る方法を取るならば何等かの回答を取り付け得るであろう。今直ぐに支那側に和平を欲するの意図なしと断定すべきでないとして此の考えで次長は軍令部次長とも打合せ両統帥部の意見として連絡会議で主張せられましたが、政府側は最早支那側に誠意を認め得ずとし……次長から伺った話でありますが……最後の時に米内海相が次長に対し、「結局、参謀本部は支那側に誠意なしと断定せられぬのは外交当局たる外務大臣の判断と異なるものであって外務大臣の判断を基礎として国策を進めて行くべき政府と反対の意見と云うことになる。即ち参謀本部は外務大臣に対し不信任ということと同時に政府を不信任ということになる。そうすると統帥部と政府との意見が違うということで戦争指導を統帥部と手を取ってやって行けない。従って政府は辞職しなければならないということになります」と言われたのであります。次長は此の時「明治天皇は朕に辞職なしと仰せになったと聞いて居るが、此の重大時期に政府の辞職々々とあなた等がお考えになる気持ちが判らぬ」と声涙共に下った場面があったのであります。

「期限までの時間の関係」と言われているのは、
講和案のディルクセン駐日独大使への提示が37年12月22日、1月13日には中国側から条件の具体的内容についての照会があった、という事情をさしている。河辺少将は「辞職」云々をブラフだと思ったようだが、多田次長は「いやそうではないらしい――近衛は本当に嫌がって居るらしい」「何かきっかけを作って罷めたいらしいぞ何か外務大臣は罷めるように決したと私に言っていた」と語っていたとのことである。
なお、畑俊六は廣田弘毅の提示した講和案について「
陸軍に相談なく之を独大使に開示したる由なり」としているが、河辺少将によれば「吾々は知らなかった」のは事実だが「参謀本部なんかとしても考えて居ったような条件」であったと回想している。


(…)
 其の後結局回答は来ません。十五日が期限でしたが……十六日と記憶して居りますが、「蒋介石を相手にせず」と云う声明を出して居ります。(…)
 (…)結局回答は期限までに来ませず、その後も参りませず、而も逸速く「蒋介石を相手にせず」と声明せられましたから、仮令その後に来たとしても之は取り上げぬと云うことになった訳であります。



「対手とせず」声明への反応 (1)

2007-01-17 15:03:59 | 日記より
小川法務官の16日の日記より。

16日 朝曇後快晴 空気やや軟ぐ
 一日中事件の調査処理に従事す
 △ 東京日日新聞(十五日)に「浙江省の首都杭州には西湖を中心として幾十となく名刹古寺が多い 春秋彼岸の候になると全国幾十万の善男善女が黄色の頭陀袋を腕にかけこの西湖の畔の寺々を巡礼するのである 支那の仏教信者にとつては杭州は回教徒にとってのメッカ、メジナの観がある その寺の内でも護国寺、天竺寺、紫雲洞、雲林寺、法相寺、浄慈寺等は特に有名である 五百羅漢で有名な海潮寺は杭州の東側望江門外にあり銭塘江二近く遠く州湾の海鳴りが聞えるというので有名である」写真I、雲林寺、魚藍観音像 2、雲林寺境内の布袋像 3、同寺内の釈迦像 4、海潮寺の天□像 5、雲林寺の全景(金沢特派員撮影)
 今日の新聞を夕刻見る尤も昨十五日のと同時に着すとのこと詰り隔日に飛行輸送せられると

 日本愈、政府の対支問題に付き中外に声明せらるるとのこと結局蒋介石を相手とせず今後は新政府を擁立せしめ日本の指導下に置き排日抗日の潰滅を計り東洋平和を永遠に計らんとするに在るが如し 従って国民総動員を具体化し一般国民をして堅忍協かを希望するに在りと
(…)


石射猪太郎の18日の日記より。

○相手にせずとは、国交断切や否認以上強いものだと内閣発表す。右翼から文句を云われたのだろう。
(…)


明日は軍人の反応をご紹介する予定。