トラウトマン工作、頓挫

1937年12月7日の日記に、外務省東亜局長石射猪太郎は次のように書いていた。

陸海外集まって独逸を通じ提示すべき講和条件を協議し成案を得、大乗的の軌道にまづ乗って居る案である。

ところが、翌日自体事態は急転する。

陸軍大臣午後外務大臣を来訪、昨日四相会議に於いて独逸の斡旋を利用して日支直接交渉の新条件を独に提示すべき事と申合せたるを覆し、一応独の斡旋を断り度しと申出る。近衛首相も其の意向なりと云う。広田大臣はそれも可也と賛成す。アキレ果てたる大臣共である。不統制なる陸軍は部内で独利用論と、其反対論と対立した果てに右の様になったのだ。又三相集る。馬鹿くさくなった。もう行きつく処まで行って目が覚めるより外致方なし。日本は本当に国難にぶっつからねば救われないのであろう。

南京での戦況が有利に展開しているのをみて条件の吊りあげをはかったわけである。なお堀場一雄(当時参謀本部戦争指導班員)の証言によれば、閣議では「広田外相先づ発言し、犠牲を多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なり、との結論に達し」たとのことで、石射の証言とは広田外相の役割がかなり異なる。

同じ日、ミニー・ヴォートリンたちは避難民受け入れの訓練を行なっていた。遠く無錫からも避難民が南京へやって来ていることがわかる。上海派遣軍と第十軍の進撃コースをみればわかるように日本軍は南京を完全に包囲する作戦を立てていた。そのため進撃コースにあたる地域の住民はしばしば南京方面に避難したのである。

やはり12月8日の、上海派遣軍参謀長飯沼守の日記より。

殿下より、意図して軍隊を動かさざること、仮令方面軍より何と言わるるとも後に戦史的に見て正当と判断せらるる如く行動することを申渡さる。例えば南京攻撃の統制線の如き墨守するに及ばす、追撃は必ず揚子江の線に向て為さざるべからざるが如し、右第一課長に伝う。

殿下とは上海派遣軍司令官朝香宮のこと。
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コメント
 
 
 
Unknown (pippo)
2006-12-08 12:31:32
蛇足ですが、石射の「外交官の一生」の方は、上記四相会議を11月7日のように記していますが、こちらのほうが誤植のようです。(中公文庫版p232)
 
 
 
Unknown (siepzig)
2006-12-09 01:05:58
日記の記述でも「四相会議」は7日となっています。堀場一雄の『支那事変戦争指導史』は未読で通史書からの孫引きなのですが、石射が8日の日記に記しているのが閣議のことだと推定したわけです。
 
 
 
Unknown (pippo)
2006-12-09 02:02:34
いえ、12月を11月にした誤植です。
 
 
 
失礼しました (siepzig)
2006-12-09 09:38:22
>いえ、12月を11月にした誤植です。

まさか一月もずれてるとは、ということで「7日」の法に目が行ってしまいました。11月7日ならまだ苦戦中ですから、明らかに誤植ですね。
 
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