575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

9月句会近づく。 遅足

2017年09月16日 | Weblog
今回の題詠は「秋の声」です。
秋になると空気も澄んで、物音がさやかに聞こえます。

  打ち寄する渚に秋の声すなり  田原砂子

  水音を秋の声とし奥信濃   鈴木真砂女

風やせせらぎなど自然の音だけにかぎりません。
人間のたてる物音・・・

  かづら橋渡る悲鳴も秋の声  松倉ゆずる

  衣擦れといふあえかなる秋の声  山崎冨美子

また、具体的な音ばかりでなく、
心の中に響いて来る秋の気配をも指します。
次は心の耳で聞いた秋の声。

  流れ去る年の音かも秋の声  相馬遷子

  セザンヌの筆の余白に秋の声  岡田 貞峰

句会ではどんな秋の声が聴かれるのでしょうか?
楽しみです。

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映画    麗

2017年09月14日 | Weblog
福山雅治主演の映画「三度目の殺人」を見てきました。
ベネチア映画祭での受賞は逃しましたが、ましゃファンの私としては(ましゃロスから立ち直りました)やはり見ておこうと。
一言でいうととても難しい内容です。

福山雅治演じるのは勝利にこだわる弁護士。強盗殺人の前科をもつ男(役所広司)が再び強盗殺人の容疑で逮捕され、その弁護を担当します。なんとか量刑を軽くしようと真相にせまるうちに本当に男は殺人を犯したのか?という疑問にかられます。事件の真相は?
男の本心は何か?

見終わったあと、役所広司は二度目の殺人をしたのか?
「三度目の殺人」の意味とは?と確認したくなる内容です。
刑務所の面会室でガラス一枚はさんで福山と役所が対峙するシーンが見所だと思います。

弁護士も検事も裁判長も「司法」という同じ舟に乗っているという台詞が心に残りました。
是枝監督はこの映画を通して、人が人を裁くことの難しさを訴えているのだと思いました。

ちょっと難しいけど、ぜひ皆さんも映画館でこの法廷心理サスペンスの謎解きをしてみて下さい。

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父、竹中皆二の短歌から 〜山川登美子〜 ① 竹中敬一

2017年09月13日 | Weblog

 ああ時は過ぐ生誕百年目の三人 登美子・廉太郎・河上肇 (昭和54年)

 小浜城かたへの川を眺め居て山川登美子をおもふ何故 (昭和42年)

父は滝廉太郎 作曲の「荒城の月」をよく歌っていたし、マルクス経済学者・河上肇
の思想にかぶれていた時期がありました。
薄幸の歌人、山川登美子の生家は、我が家から1里 (約3、3キロ) ほど離れた小浜の
竹原地区にあり、私はいつもその生家近くの道を徒歩で旧制中学へ通っていました。
そんなわけで、山川登美子が明治時代の明星派の歌人で、与謝野鉄幹をめぐって
晶子のライバルとして、悲恋の末、29歳という若さで亡くなったことは知っていました。

父が以前に、登美子について何か調べていたことを思い出し、父が創刊した短歌誌
「風」を見てみたところ、昭和37年第11号に「山川登美子ノート」と題する話が
載っていました。
「私が登美子の歌に親しむようになったのは、昭和24・5年の頃、山川登美子の幼少の
友であった故 土田数雄氏 (退役海軍大佐で、小浜町長をしたことがある)という人の
来訪を受け、二冊の未刊の原稿を示された事に始まる。その原稿は山川登美子の死後、
病床の下から発見されたといふノートを基として編んだものであった。」

山川登美子と土田数雄との関係について調べた人がいます。私の高校時代の同級生で
母校、若狭高校の教諭だった四方吉郎君 (故人)で、自著「若狭余禄」(平成15年、
洛西書院)の中で次のように述べています。

土田数雄は登美子より4歳年下。彼女と同じ旧士族の出身でお互い家が近く、土田は
幼い頃、登美子の家へはよく出入りしていたようです。
土田は70歳近くになって、才女で美人だった登美子のことが忘れられず、登美子の
研究を思いたったそうです。
土田は「恋衣」などに発表された登美子の歌の他に、未発表の作品があるのではと思い、
登美子の末弟で、当時、茨城県に住んでいた山川亨蔵に、遺品の有無を問合せました。

亨蔵は登美子より八歳 年下。プロレタリア文学運動に参加するなど共産党員として活躍。
妻の実家に身を寄せていました。明治42年、登美子が肺結核で亡くなった時、遺族は
登美子の遺品をすべて焼却しようとしましたが、亨蔵は病床に隠されていた三冊の
ノートなどの遺品を拾い上げ、手元に保管していました。
土田数雄は、三冊のノートを借り受けました。そこには、びっしり登美子の歌が書き
込まれていました。

経緯が長くなりましたが、父の話に戻すと、父が土田氏から見せてもらった「二冊の
未刊の原稿」には、土田氏が三冊のノートから抄出した登美子の未発表の歌が書かれて
いました。
父の回想によると、土田氏の手書きの原稿には誤字や漢字と仮名の使い分けも間違って
いたりして、読みにくいようでしたが、その中から登美子の歌 二十首を妙出し、登美子
の簡単な履歴を付けて、30部程ガリ版で刷って知人に進呈しました。
これが、登美子の歌が広く世に出るきっかけともなりました。    (つづく)

                 

写真は、父が創刊した短歌誌「風」の山川登美子に関する話(昭和37年)を再録した
「若狭人物叢書」(昭和46年 刊 )と山川登美子


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じゃがいもの一荷を解けば土匂ふ  亜子

2017年09月12日 | Weblog
北海道の知人から毎年送られてくる荷物。
ああ、あれだ!と荷を解いてゆけば・・・土の匂いが。
その北の大地を詠んだのは結宇さん。

  馬鈴薯や畝に忘らる北大地

収穫の終わった畝。
忘れられたようにジャガイモが。
その風景が忘れられなかったとのこと。

ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈。
スペイン人によってヨーロッパへ。
やがて、庶民に欠かせない食料になりました。
ところが、そのジャガイモが原因で、19世紀のアイルランドに悲劇が。
ジャガイモの疫病により次々に枯死、食糧難に。
餓死した人は100万人を越えたと言われています。

この飢饉を逃れてアメリカ合衆国などへの移民も。
この時、アメリカへ渡った移民の中には、
ケネディ家の先祖も含まれていたそうです。   遅足


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盆提灯掲げて休め鵜飼舟   結宇

2017年09月11日 | Weblog
長良川の鵜飼いは5月から10月までのロングラン。
お休みは、年一回。増水などで中止になる日を除いて毎夜行います。
年一回の中秋の名月にお休みになるのは、月が明るすぎると
篝火の効果がうすれるためといわれていますが、
他の満月の時には催されるので、いわば伝統的な公休。

作者は、お盆には鵜舟に盆提灯をかかげて休みなさい、と
呼びかけています。
これは昔から「お盆には殺生をない」という風習があったため。
私も子供の頃、親から「お盆には釣りをしない」と言われてきました。
仏教の五戒のひとつ「不殺生戒」……
生き物を故意に殺してはならないという期間であり、
お盆の時期に精進料理を食べたりするのも同じ理由です。
そういえばお盆でもオイシイ肉料理を食べていますね。 

                       遅足




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馬鈴薯にも顔あり土の意気地あり   郁子

2017年09月10日 | Weblog
じゃがいもの顔。と言われてどんな顔を連想されますか?
ごつごつした土の顔。男爵でしょうか。それともメークイーン。
男爵を思い浮かべたのは、やはり名前のせいでしょうか。
土の意気地あり、という表現が擬人法の効果を生んでいます。
じゃがいもを作っている農民の面魂まで浮かんできます。

男爵は、明治末に輸入されましたが、名前が不明だったことから
輸入した「川田男爵」にちなんで「男爵薯」と呼ばれるように。
メークインの名は、中世の春の村祭り(メーデー)の際、
村の娘の中から選ばれる女王にちなんだものとのこと。

メークインは、戦前はそれほど注目されませんでしたが
戦後になって徐々に人気が出て、関西方面で好まれたそうです。
関西出身の麗子さん、じゃがいもといえばメークインを思い浮かべるそうです。

上五の「にも」の「も」はない方が良いかもしれませんね。遅足
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馬鈴薯の小さきありて遠山郷  能登

2017年09月09日 | Weblog
20~30年前、まだ、観光客の少ない遠山郷下栗の里に行ったことがあります。
その時、貧しい山村の急斜面の畑で、住民の命を繋いできた馬鈴薯のあまりの小ささに、
茫然としてしまいました。そんなよそ者の思いとは別に、村はきれいでした。
作者のコメントです。

信州・遠山郷下栗の里は私もかなり前に行ったことがあります。
しらびそ高原からの帰り。南アルプスから伸びる尾根にそって南へ。
下栗の里は、麓に向かって拓かれた土地。
まるで谷底へむかって落ちていくような地形です。
お隣の家は上か、下です。水田はもちろんありません。
畑も急斜面で雨が降ったら土が流れてしまいそう。
「天空の里」と呼ばれるほどの絶景でした。

写真はその時に買ったパンフレットの表紙です。
きっと下栗の里が映っていると思うのですが・・・遅足


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父、竹中皆二の短歌から 〜入江〜竹中敬一

2017年09月08日 | Weblog

 入日もゆる若狭入江の奥まりの阿納尻に君住みて久しき

若山牧水の妻、喜志子先生が昭和39年、福井県小浜市阿納尻(あのじり)にある
「いるかや」を訪れられた時の歌です。

私の父、皆二は母ミツと結婚して間もなくの昭和7年、いるか地蔵脇の街道に
小さな茶店を営みながら、生涯、短歌の道に精進しました。
私は郷里を離れて久しいのですが、幼い頃の記憶でも「いるかや」は千客万来
でした。東京などからの歌友の他、画家や陶芸家が入れ替わり立ち替わり姿を見せ、
父と熱っぽく語り合っていたことが、思い出されます。
後に人間国宝となられた京都の陶芸家、故、近藤悠三先生も若い頃、よく写生に
来られ、それが縁で私の弟は悠三先生に弟子入りしました。

父は太平洋戦争中、村の役場に勤務していた時期があります。戦争中は店も閉じて
おり、役所勤めが唯一、収入の道でしたが、父はある日、突然その役場を辞めて
しまい、母を困らせたことがあります。
別に、仕事が面白くなかったいうことではありません。母から聞いた話ですが、
なんでも昇進することが判って辞めたということでした。これ以上、歌の道との
両立は難しいと判断したのでしょう。
その後、父は神職となり、晩年まで若狭湾に点在する村々の産土(うぶすな)神社を
守りました。

「いるかや」のある入江は四季折々、見飽きることはありません。
波の穏やかな時には目の前の久須夜岳(619m)の秀麗な姿が海面に浮かび出されます。
夕暮れ時など風雲が湧き出すと、さざ波が立ち入江の面(おも)が複雑に色を変えます。

 久須夜岳向ひに聳え入江にはさざ波湧けり みち潮にして

 蒼ぐろくたたふる入江に波なくて 曇り空にはかもめ飛び交ふ

 日はすでに没したれども西空の残照赤あか入江を染めぬ

 水面(みのも)にはかすかに水皺(みじわ)光りつつ入江次第に暗くなりゆく

 廃船となりつつ船は形保つ 入江の岸に半ば沈みて

父は社会現象や歌壇のことになると、激しやすく、そのままを歌にしている場合が
多いのですが、沁み沁みとした歌もあります。

 しづかにも季(とき)の移るは吹く風に日の光にもあわれあれども

 しらぎの鐘しづまりかへりて居るゆゑに その沈黙のひびきをきけや

                 

写真は、歌人、若山牧水の妻、喜志子氏が昭和38年、福井県小浜市阿納尻
(あのじり)の「いるかや」を訪れられた時の父宛の便り。

 夏なりき若狭入江の奥なりき まともの入は浪に流れ来し

 入日もゆる若狭入江の奥まりの阿納尻に君住みて久しき

 入江の奥阿納尻に永く留まりて君いるかやの小店いとなむ

 いるかやの軒に仰きける弧つ松 かの老松よいまも栄ゆる

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秋の声2  麗

2017年09月07日 | Weblog
雨あがりの今朝、庭の剪定が始まりました。
庭師さんのはさみの音が聞こえてきます。

   小気味よく庭師のはさみ秋の声

そして私はようやくアイロンをかける気力が戻って来ました。暑い夏のアイロンがけは辛いですもんね。

   丁寧にアイロンかける秋の声

だらだらと汗をかかずに家事ができるようになって嬉しいです。積読の本にも手が伸び始め。。。

友人からは手のこんだ刺繍の作品が送られてきました。
この時期、暑さから解放されて、日常生活を少しだけ丁寧に過ごす余裕が生まれてくるようです。
こんな一瞬を大切にしたいですね。

 
   さりげなく今日一日を秋の声    麗
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じゃがいもに落しバターの小昼かな   晴代

2017年09月06日 | Weblog
「小昼」こびる、あるいは、こひる、と読みます。
辞書には、朝食と昼食、または昼食と夕食との間に食べる軽い食事。
おやつ。間食、とあります。
ちょっと小腹がすいた時に、茹でたてのじゃがいもにバター落して・・・
おいしそうですね。

 じゃがいもに恋のバターをたっぷりと

という句を紹介したら「ダメ」という声。
そこでこう変えました。

 じゃがいもに怒りのバターたっぷりと

いかがでしょうか?

           

秩父には「小昼飯(こぢゅうはん)」といって、
農作業の合間の小腹がすいた時に食べる郷土料理があるそうです。

                      遅足

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人の輪を外れて浴衣の少女かな  立雄

2017年09月05日 | Weblog
踊りの輪を離れていった浴衣の少女を詠んだ一句。
何故、離れていくのでしょう?
また、一人でどこへ行くのでしょう?
記憶のなかに刻み込まれた夏の夜の一風景だったのでしょうか。
短編小説の始まりのような句です。

上五が「踊りの輪」ではなく「人の輪」となっています。
なにかを囲む人の輪。そこから一人浴衣の少女が外れて・・・
とも読めます。
別の物語が始まりそうです。

私の住んでいる町内では、毎年、盆踊を2夜続けて踊っていました。
しかし役員の負担が重すぎるという声が数年前からあがり、
ついに今年から一晩だけとなりました。     
                      遅足
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北米のチキンレースか夏空に鐘   智恵

2017年09月04日 | Weblog
「北米」は北アメリカではなく「北朝鮮」と「アメリカ」。
チキンレースは北朝鮮のミサイル発射と米韓合同演習。
そこまでは読み解きました。夏空に鐘は?
作者に尋ねました。

世界が注目しているトップがもたらすかもしれない核の危機迫る昨今ですが、
そのようななか、長崎広島の記念式典で平和の鐘が鳴り響きました。
長崎の鐘、とすると、季語がないので、夏の鐘、としました、とのこと。

          

昨日、北朝鮮は6度目の核実験を行いました。
チキンレースは何処まで行くのでしょうか?
戦争につながるのでしょうか?

アメリカは1994年に本気で北朝鮮への攻撃を検討しました。
しかし、この時、在韓米軍は「朝鮮戦争の再開となる。
最初の90日で米軍に52000人、韓国軍に49万人の死傷者が出て、
民間人を含むと死者は100万人」との損害見積もりを提出し、
結局、アメリカは攻撃をあきらめています。

米の軍首脳部は北朝鮮との戦争に極めて慎重。冷静に見ています。
もちろん北朝鮮も戦争になれば国家が滅亡することは熟知しています。
当面は戦争にはならないでしょう。

しかしアメリカが自国の安全保障が危機に陥ると判断した時は
危険な決断をする可能性が高くなります。
とくに北が核弾頭を実戦配備できる段階に入ると判断した時は
危機が訪れるかも・・・

戦争は多くのいのちを奪い、多数の難民を生みだします。
日本にもその影響は及ぶでしょう。
いまこそ9条を持つ日本は戦争にならないように努力すべき時だと思います。
                     
                          (遅足)

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憲法という希望あり敗戦日   亜子

2017年09月03日 | Weblog
戦争に負けた日本。都市の多くが焦土と化しました。
混乱と貧困にもかかわらず、明るい歌が街に。
国民の間には解放感があったそうです。
平和こそ大切なものという理想を掲げた憲法。
作者は、この平和憲法こそ希望の証だと詠んでいます。

父の話です。戦前はなにかというと軍人が威張っていたとのこと。
8月15日には母の実家に疎開していた2歳の私を引き取りに現われ、
玉音放送を聞いたあと、出された西瓜をまるまる一つたいらげたそうです。
これで空襲はなくなり、軍人の威張った世の中も変わるという気持ち・・・
「軍国主義」ではない新しい憲法には期待感があったと思います。
昭和21年生まれの弟には「正憲」という名をつけています。

新しい憲法は昭和21年11月3日に公布されました。
これに伴い施行の日は5月3日になったわけですが、
11月1日公布、5月1日施行。11月5日公布、5月5日施行も議論されたそうです。
しかし5月1日はメーデーで反対意見も。では5月5日の節句の日では?
男子の節句で女子の節句でなく、男女平等の新憲法に相応しくない・・・と。
結局5月3日施行。これに伴いこの日が憲法記念日となりました。

ところで、この憲法記念日を廃止しようという考えの持ち主がいます。
東京都知事の小池百合子さんです。
自民党総務会長という役職にあった2011年のこと、
4月28日を「主権回復記念日」とする議員立法提出を報告したあと、
「祝日が多すぎるというなら、借り物の憲法記念日を祝日から外す」と
述べています。

また官僚や軍人のいばる国にはなりたくありませんね。遅足
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リアルのゆくえ展  遅足

2017年09月02日 | Weblog
絵画といえばゴッホやピカソ、ルノアールなど。
印象派以後の西洋絵画の人気が高く、写実的な絵は今一つです。

私は印象派より、写実的な絵が好きなんです。
いわゆるスーパー・リアリズムと呼ばれる絵です。
でも、何故好きなのか?うまく言葉で言えません。
そんな私にぴったりの展覧会が開かれています。
愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館の「リアルのゆくえ」展。
先日行ってきました。

会場入り口には、「鮭」の絵が2枚。
一枚は、日本洋画の先覚者、高橋由一の作品。
教科書にも載っているあの鮭の絵です。
もう一枚は、現代作家の磯江毅の絵。
高橋由一をオマージュする作品です。
ふたつの絵の間には100年以上の時が流れています。

会場には、絵とともに作者の言葉が紹介されていました。
私にとってリアルとは?という質問に対する答えです。

  真実の追求で永遠の生命力である。 奥谷博

  魂の世界を表すべきものである。  野田弘志

  普遍性を追うことである。     木下晋

それぞれに、なるほどという答えが書かれていました。
私がこれだ!と感心したのは、長谷川潾二郎の言葉です。

  現実とは精巧に造られた夢である。

スーパーリアリズムの持っている魅力は、
現実を描きながら、醸し出される非現実感にあります。
描かれているのは現実ではなく夢なんですね。
なんとなく胸にストンと落ちるものがありました。

長谷川潾二郎の「猫」が展示されていました。
この猫、実は未完成なんです。右の髭が描かれていません。
作者は徹底した写実派。
猫が絵と同じポーズを取らないと筆をとらないのだとか。
結果、ついに未完成のままで終わったそうです。

この展覧会は18日までです。

写真は鮭です。松本市内でみつけました。



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父、竹中皆二の短歌から 〜アウトサイダー〜竹中敬一

2017年09月01日 | Weblog
昭和38年 (1963) 父、61歳の時の歌です。

 還暦を過ぎたる我は自称して昭和隠逸(いんいつ) 列伝の中

 お目出度き皆二先生 現世とは梢梢(しょうしょう) ずれある歌を作りて

 短か歌に財そそぎゐる彼よろし 埋没に生くる我更によし

 一流になりそこねたる我友の誰彼も亦静かに生きぬ

 落魄(らくはく) に似たる静けき我が生も尚余燼燃えつつ

父は「アウトサイダー」という言葉が好きでした。
また、昇進とか、何かの賞をもらうことをひどく毛嫌いするところがありました。
私がサラリーマンになって何年かして、帰省したある日、父が私に「何か役でも
ついたか」と聞いたことがありました。
「いや、まだ何も… 」と答えると、父は「それは よかった」と云うのです。
もちろん私の性格や能力を見抜いてのことだとは思いますが…。

昭和50年、私はテレビドキュメンタリー「 木曽の四季 」で当時、文部省主催の
芸術祭で優秀賞を受賞し、その記事が中日新聞に私の顔写真入りで紹介されました。
その新聞の切り抜きを父に見せましたが、父は馬鹿にしたように、「ふん」 と
云っただけで記事を読むでもなく、一瞥しただけでした。
そんな父の態度を私は憎んだりはしていません。やはり、そうだった。想像して
いた通りだった と一人で苦笑しました。

 「自然泉」我年齢(わがとし) に既に老を歌ふ 有名には老も早く到るにや

 吾いまだ田舎の無名の歌よみ故 看破すべき是非の数数を持つ

「自然泉」は文化勲章をもらった歌人、土屋文明が63歳の時に出した歌集。
それを読んだ父は土屋文明のように有名になるのはいいが、老いも早いらしい。
それの比べて自分はお陰で、無名故に意気軒昂であるということでしょうか。
私には父が強がり云っているように思えてなりませんが…。

 敗北はわが二十代に始まりて それより凡そ半世紀経つ

この歌を取り上げて、同郷で同年輩の児童文学者、山本和夫氏は歌誌「創作」に
寄せた父への追悼文の中で、
「竹中さんは、中学 (旧制) 時代、秀才の誇りを専らにし、名古屋の八高(旧制)の
理科甲類に進学しました。…敗北というなら愚の至りです。
蓋し、竹中さんは天国で

 先生の晩年より出発し ひとり歩みつつ悔いあらなくに(牧水忌)

と、にっこりしているでしょう。羨ましい。」私も全く同感です。
父は 愛唱歌「八高寮歌」にある「路傍の花に明け暮れて はかなき夢の姿かな」を
地で行くような人生でした。

写真は晩年の父です。

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