575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

若狭の海幸山幸物語 ⑨~塩づくりを伝えた翁 (おきな)~竹中敬一

2018年04月20日 | Weblog

兄、海幸彦から借りた釣り針を失って、山幸彦が浜辺で途方に暮れているところへ
一人の翁が現れ、竜宮へと導くというシーン。若狭彦姫神社に伝わる「秘密縁起」では、
翁のことを「浦人」とも言っています。
「古事記」では、翁のことを「塩椎神(しほつちのかみ)」、「日本書紀」では、
「塩土老翁(しほつつのをじ)」又は「塩筒老翁(しほつつのをじ)」となっています。
これらの記述を総合すると、翁は漁の経験が豊かで、海や気象のことにも詳しい老人と
云うだけではなく、製塩方法など当時の最新技術を伝えた渡来人か、その渡来人から
教えを受けた浦人だと、思われます。

浦人を特定するとすれば、私は内外海(うちとみ)半島の先端、泊浦の高橋氏らだと
思っています。内外海半島の浦々には、古墳時代からの製塩跡が見つかっています。
阿納(あの)地区では規模が大きく、奈良・平安時代には製塩が生業の中心として
行われていたようです。

古代の製塩方法について、若狭歴史民俗資料館発行の冊子によれば、まず、海水を
濃縮するため、海藻を天日に干して、塩の結晶をつけた上で、海水をかけます。
この後、この濃縮した海水を土器で煮詰めたようです。
製塩跡からは、沢山の塩づくり用の土器が出土しています。奈良時代から平安時代に
かけて、若狭の国は税として、塩や海産物を朝廷に納めるよう義務付けられていました。

奈良時代の平城京跡から出土した荷札(木簡)の中に、若狭の国からの「調塩」の文字が
見られますが、それらを見ると、海岸沿いの漁村だけではなく 、農家にも塩を献上する
義務があり、若狭の国中の人が塩を調達するのに大変だったようです。


写真は福井県小浜市の内外海(うちとみ)半島に14ヶ村 点在する集落の一つ、阿納(あの)地区。
縄文、弥生時代から奈良、平安時代のかけての塩浜遺跡が見られます。
内外海半島の浦々では時として 、怖ろしいほど深い青色の海原が見られます。





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